【雨の世界】
陽一がカルタヘーナ王国の城に案内されるまでに、さらにいくつかの説明が行われた。
彼らの話によれば、この世界は十年前から“異常気象”に見舞われているという。始まりは突然だった。しとしとと小雨が降り続いたかと思えば、それがいつまで経っても止まない。しかも年月を重ねるごとに雨は激しくなり、今では一年三百六十五日、まるで恨みを晴らすように空が泣きじゃくっている有様だという。
大地は常に水気を帯び、作物はうまく育たない。穀物は腐り、果樹は実らず、人々は飢えや病に苦しんでいた。しかも、雨が続くことでモンスターの勢力が増しているらしい。深い沼地や水場が彼らの棲み処となり、多種多様なモンスターが人々の居住区へと迫りつつあった。
その対策として、カルタヘーナ王国では「冒険者」と呼ばれる戦士たちを組織し、モンスター討伐にあたらせているという。
「……あなたには“魔力”を感じます。いや、感じられたのです、最初は」
陽一を案内した召喚士の男が眉をひそめて言う。
陽一にとっては、魔力と言われてもピンとこない。ファンタジー小説の中の概念でしかなかったからだ。けれど、その世界では当たり前のように通用する“力”なのだという。
「本来、この世界にも魔力を持つ人間は十万人に一人の割合で存在します。だが、モンスターの被害が年々拡大する今、その数は全く足りない。さらに、魔力を持つ者の中から優れた冒険者が生まれるとは限りません。そこで王国は、別世界から“才能のある人物”を探すことを思いついたのです」
その計画の要こそが、召喚士たちが行使する「異界召喚術」。儀式を行い、魔力の反応がある世界の人間を引き寄せる。そして、この世界で冒険者として活躍してもらう――それが国の方針だった。
「太陽王の再来……というのは?」
「ふむ、太陽王というのは伝説の英雄で、千年前に現れた魔人を倒した存在です。災厄を振り払ったその力は、勇者や聖者を超え、まさしく“太陽をも操る”ほどのチカラだったと伝わります。詳しくは王にご説明を受けるかもしれませんが……いずれにしろ、あなたには我々が確認した限り、何らかの強大な魔力が潜んでいるはず。その力こそ、雨を止められる光明になると期待されたのです」
陽一はそれを聞いても半信半疑だった。しかし、とにかく元の世界に帰る方法がわからない以上、この世界でしばらく暮らさなければならないのだろうか。複雑な心境になりながらも、どうにか前を向き、話を受け止める。
城内に通されると、豪奢な広間で、恐らく王族の一部なのだろう豪華なドレスを纏った女性や、将軍らしき甲冑姿の男たちが陽一を値踏みするように見つめてくる。あまりいい気分ではなかったが、無視できるような状況でもない。
「彼が新たに召喚された者ですか? また随分と線が細そうですが……」
「まあ、魔力特性の判定をしてからでしょう。彼がどんなスキルを発現するか……ね」
どこか嘲笑の混じった視線。陽一の心には、まるで会社で上司に品定めされているときの嫌な感覚がよみがえった。だが、彼らにしてみれば、それだけ余裕がないのだろう。すでに何人も召喚を繰り返しているが、成功事例は数少ないとも言っていた。
ほどなくして、部屋の奥へと案内された陽一の目の前に、さまざまな武器類が並べられた。
剣、槍、弓、ロッド、杖……多種多様な装備がずらりと並ぶ。その一つを手にすると、それに応じて各人の特性スキルが発現するという仕組みだと説明を受けた。
「たとえば“炎+魔法”の特性を持つ者がロッドを取れば火炎魔法を使える、“雷+剣術”の特性を持つ者が剣を持てば雷の剣技を発動できる、という具合です」
「なるほど。でも、もし何も起きなかったら……?」
「その場合、何の才能もないということになる」
この瞬間、陽一は不安と期待が混ざった複雑な感情を覚えた。
もしかしたら、これまでの“晴れ男”が活かせる特性があるかもしれない。晴天を呼ぶ剣士とか、空を操る魔法使いとか――現実味があるかはわからないが、せめて自分の不思議な運命を肯定できる活路になるならば。
だが、その願いはあっさりと裏切られることになる。
まずは剣を握ってみるが、何の変化もない。光が走る、風が吹き上がるなどの分かりやすい兆しがあるはずなのに、まるで無反応。
次に槍、弓、斧、短剣、ハンマー……と一つずつ試すが、同じく不発。最後には金色に輝く王家の宝剣や、細身の魔法杖なども握らせてもらったが、何も起こらない。
何十種類、いや百種類に近い武器や装備を手に取ったが、どれも陽一とはまるで縁がないらしい。
神殿の奥に保管されていた骨董品のような武器まで試させられ、召喚士たちも必死の形相になったが、結局はすべて無反応に終わった。
結果は「役立たず」。――それが王城にいる面々の率直な評価だった。
「何ということだ……魔力があると感じて召喚したはずが、まったく発現しないとは……」
「ただの異世界人か。これでは何の戦力にもならぬ……」
冷たい囁きが部屋を満たす。
実際、いくら希望を抱いたところで、才能が発揮できないのだから仕方がない。陽一としても傷つきはしたが、周囲から浴びせられる失望の眼差しの前では何も言い返せなかった。
そのまま陽一は、城の奥から放り出されるように外へ出された。ひと月分ほどの生活費だけ支給されて、追放に近い扱いとだった。
唐突に召喚され、混乱の中で無能扱いされた陽一は、苛立ちと哀しみに打ちひしがれていた。
人生の中でこれほどまでに惨めに扱われたのは初めてかもしれない。少なくとも会社員時代は晴れ男という強み(?)もあったし、周囲はそれなりに優しかった。けれども今は「使えない」と言わんばかりに、さっさと消えろという空気を突きつけられている。
「勝手に呼んでおいて、そりゃないだろ……」
腹立たしさを噛みしめながら、陽一は王都の町はずれに取り残された。
夕刻にもかかわらず相変わらずの雨は降り続き、土の道はぬかるんでいた。傘もないし、まともな宿も当てがない。このまま途方に暮れていると、モンスターに襲われる危険すらあるという。
こうして陽一のこの世界での生活が、最悪の形で始まったのだった。
【海辺の町へ】
王都での扱いに嫌気が差した陽一は、そこから逃げるようにして旅立つことを決めた。行くあてもなく、少ない所持金をやりくりして、とにかく遠くへ。
出来るだけ穏やかな場所で、ひっそりと暮らすしかない――そう考えた末に辿り着いたのが、南方の海辺の町“マイヨルカ”だった。
地図によれば、港町としてそれなりに発展しており、魚介類の貿易などで生計を立てる人々が集まる地域らしい。ただ、この長雨のせいで海運もままならず、町は活気を失いつつあるという噂もあった。
王都からマイヨルカへ向かう馬車は、ぼろぼろの木造車両に数人の乗客がいるだけだった。狭い車内は湿気に満ち、床には雨水が溜まり、座っていても衣服がじっとりと濡れて気持ち悪い。そんな状態で半日以上揺られるのはかなり苦痛だったが、他に選択肢はない。
陽一の隣に座った初老の男性が、揺れる馬車の中で話しかけてきた。
「随分と気の滅入る天気だろう? だが、もうこの世界ではずっとこんなもんだ」
「……やっぱり、そうなんですか。十年も雨続きって、信じられないですね」
「まったくだ。わしも若い頃は、夏の浜辺で泳いだもんだよ。今は雨と嵐で海は荒れる一方。この先どうなることやら……」
ぎこちなく会話を続ける中で、その男性はふと口をつぐんだ後、陽一の方に顔を寄せるように声を潜めてきた。
「ところで、あんた……ただの旅人ってわけでもなさそうだ。ひょっとして冒険者か?」
「え? いや、まあ、そんなところ……」
陽一は少し言葉に詰まる。王都では冒険者として正式な認定をもらっていないので、本来は“冒険者”ではない。
しかし、似たような状況の者だと誤解されても無理はない。男性は陽一の戸惑いを感じ取ったのか、一人で得心したように頷いた。
「噂じゃ、王国は“太陽王”を探して別世界から人を召喚してるそうじゃないか。まさかあんたも……いや、まさかな」
「……“太陽王”っていうのはどんな人だったんですか?」
「あんたが知らないとは……いや、そうか。外国から来たのか。太陽王っていうのは千年前の伝説の勇者だよ。世界を覆った『魔人』を倒し、大陸に光を取り戻した偉大なる英雄だ。そりゃもう、神話みたいなもんさ」
ここで話を止めればいいものを、陽一は何気なく興味を惹かれてしまった。せっかく教えてくれるならばと続きの言葉を促してしまう。
「でも、なんで今になって太陽王なんです?」
「その伝説によれば、太陽王は“雨を払う光の力”を持っていたと言われてるんだ。もしかしたら、その力を再び得られれば、この世界を救えるんじゃないかって期待もあるんだろうよ。もちろん伝説だがな」
もし本当に“太陽を操る”ような力が自分に備わっていたら、こんな悲惨な思いはしていないだろう―――だが、剣や槍を手にしても何のスキルも発現しなかったのだから、それ以前の問題……陽一は改めて暗い気分になった。
それでも気になったのは、その伝説の名――“太陽王”――が、彼自身のあだ名「晴れ男」とどこか重なって聞こえたからだろうか。
馬車の旅は砂利道を抜け、さらにぬかるんだ道を進み、やがて高低差のある地帯を越えていく。道中で行き交う旅人の姿はまばらだったが、武装した集団もちらほら見かけた。彼らはきっと本物の冒険者なのだろう。胸当てを光らせ、腰には剣や斧を帯び、見るからに屈強そうだ。その姿は王都で見た冒険者候補たちと被り、陽一は劣等感を感じながらその姿を見つめた。
―――そうして数日間の道中を経て、ようやくマイヨルカの町へ到着したのは、生憎の大雨が降りしきる朝だった。
馬車から降りると、粘度の高い雨水が町の通りを流れている。建物の屋根もレンガ造りの壁も、長雨に苛まれた傷跡で暗く湿っていた。
「ここが……マイヨルカ、か」
港町という言葉から想像していたのは、海辺の開放感と活気ある市場だった。
しかし、現実は殺風景で、空気がよどんだ小さな町だった。早朝とはいえ、外にいる人影はほとんどなく、港に向かう坂道の奥に波止場らしき施設が朧気に見えるだけ。そこからは磯の香りというより、海藻や魚の腐ったような臭いが漂ってくる。きっと、漁がまともにできず、流通も麻痺して廃棄される魚介ばかりが増えているのだろう。
観光地どころか、想像以上に荒んだ雰囲気が漂うマイヨルカの町。その雨の町並みを見つめながら、陽一は思わず深いため息をついた。
【出会い】
マイヨルカの町でひっそりと暮らそう―――陽一はそう決心してはいたが、当面の問題としては宿探しと資金調達が必要だった。
だが、王都で追放される際に渡されたのはほんのわずかな小銭。まともな旅館に泊まれるほどの金額ではない。仕方なく、町はずれの安宿に数日だけ滞在し、仕事を探すことにする。
「すみません、ここらで雇い口はありませんか?」
「あるわけないでしょ。こんな町、雨ばっかで仕事なんかないわよ」
宿の女将の冷たい言葉が突き刺さる。少なくとも、港の漁師たちは暗い顔ばかりだし、貿易商たちも船を出せず苦境に立たされていると聞く。観光業も壊滅的。町全体が停滞しているようだ。苦しい状況はどこも同じなのだろうと思うと、気が滅入るばかりだ。
とはいえ、動かなければ始まらない。とにかく外に出て情報を仕入れようと考えた陽一は、その日の昼過ぎ、町の外れにある小さな雑貨屋に寄った。その帰り道――遠くの路地から、かすかに甲高い悲鳴が聞こえてきた。わずかに聞き取れる言葉は「……助け……」だった。
陽一は思わず息を呑んで耳を澄ます。
周囲の雨音にかき消されそうだが、確かに誰かが助けを求めている。居ても立ってもいられなくなった彼は、傘代わりにしていたボロ布を放り出し、声のする方向へ走り出した。
細い路地を抜け、町の郊外へと続く小道へ出ると、そこには黒装束の男たち数名が馬車を取り囲んでいる姿があった。道の真ん中で立ち尽くす若い女性が、彼らに脅されている。
「あんた、それ以上声を出すんじゃねえ!」
「きゃあ!助けて!」
女性は片腕を掴まれ、今にも無理やり馬車に押し込まれそうだった。黒装束の男たちのうち一人が小型のナイフを持ち上げ、彼女を脅している。明らかに盗賊、あるいは人攫いの類だろう。
陽一は驚きつつも、放っておくわけにもいかないと、勇気を振り絞った。
「や、やめろ! 何をしてるんだ!」
突然背後から叫び声を浴びせられた男たちは、一斉にこちらを振り向いた。確かに数は多いが、武器を見る限り寄せ集めの盗賊で、統率も取れていないようだ。
陽一は恐怖を感じながらも、臆病風に吹かれる自分を懸命に叱咤した。見殺しにするわけにはいかない。
「てめえ、なんだあ? 冒険者か?」
「ち、違う! でも、関係ないだろ!」
その言葉を聞いた盗賊たちは、陽一を嘲笑うように顔を見合わせる。
「なんだそりゃ? ただの町人かよ? いい度胸だなぁ」 「金もなさそうだし、こいつも攫っちまうか?」
そう言って二人の男がナイフを構えながら陽一に近づいてくる。陽一の頭は真っ白だ。格闘経験など一切ない。会社員時代にせいぜいやったケンカといえば、学生時代にクラスメイトと軽く揉めた程度。
だが、逃げるわけにもいかない。女性は恐怖に震えている。彼女を放置して逃げ出したら、一生の後悔になる――。
そう思った矢先、何かが閃いたように頭をよぎった。そうだ、奇跡的に晴れを呼ぶ“運の良さ”が、自分を助けてくれるかもしれない。根拠のない考えだったが、他にすがるものは何もない。
「う、うおおおおっ!」
陽一は気合を入れて飛び出し、無謀にも男に体当たりした。
予想外の反撃に盗賊の一人がバランスを崩し、その隙に陽一はもう一人を蹴り飛ばした。無我夢中で身体を動かす。思い切り腕を振り回すうちに、ナイフを握った手を叩き落とすことに成功。すると地面に落ちたナイフが泥に埋まり、男たちは慌てて拾おうとするが、なかなか見つからない。
「くそ、こいつ、意外とやるな!」 「おい、魔法をぶっ放してやれ!」
盗賊の一人が呪文らしきものを唱え始める。陽一は激しく動揺した。
魔法なんて使われたらひとたまりもない。ところが、意外なことに、呪文の出だしは不発に終わったようだ。何かがうまくいかなかったのか、その男は「あれ?」と戸惑った声を出している。
「あ、あれ? なんだ、魔力が乱れてる?」
「なにやってんだよ!」
盗賊の仲間が焦りだし、その間隙を突くように陽一は女性の手を取り、急いで逆方向に逃げ出した。相手たちは魔法が使えない混乱から立ち直るのに手間取っている。何とか距離を取ることができそうだ。
「逃げるぞ、こっち!」
陽一は町の方へと戻る道を選んだ。幸い盗賊たちは呪文を使おうとしても上手く発動できないようで、追っては来るものの距離が大きくは詰まらない。雨で足場が悪いのもお互いさまだからだ。
全力疾走でしばらく走った後、陽一と女性は町の方へ隠れるようにして逃げ込んだ。人通りのある場所にたどり着けば、さすがに盗賊たちもこれ以上追ってこなかった。陽一は息を切らしながら、ようやく立ち止まる。
「だ、大丈夫ですか……!?」
「は、はい……ありがとうございます……」
女性はまだ恐怖に捕らわれた様子で肩を震わせている。年の頃は二十歳前後か。明るい茶髪を雨に濡らし、大きな瞳が涙に潤んでいた。
ドレスというよりは軽装だったが、その生地は上質そうで、身分の低い者ではないようだった。
「助けていただいて、本当に感謝します。でも……命の危険がありますのに、どうして?」
「そ、そんなこと、目の前で人が襲われてたら……放っておけないでしょ」
陽一は肩で息をしながら答えた。女性は目を丸くして、やがて安堵の表情を浮かべる。
「あなた、ひょっとして冒険者の方ですか?」
「いや、えっと……まあ、一応そう思われるかもしれないけど……」
実際はスキルを発現できなかった“偽”冒険者であるなんて言いにくい。
しかし、女性は陽一に対し、ますます興味を持ったようだ。
「そうですか……うちの町は今、冒険者さんを求めているんです。よろしければ、改めてお礼をしたいのですが、いかがでしょう?」
こうして陽一は、盗賊に襲われそうになっていた女性――名を“メル”と名乗る――を救った縁で、彼女の家に案内されることになる。
まさかこの出会いによって、さらなるピンチに巻き込まれることになろうとは、その時点では陽一は微塵も思っていなかった。
【依頼】
メルに連れられて訪れたのは、海辺の崖際に立つ立派な建物だった。白壁の大きな邸宅で、周囲にはいくつか蔵のような付属施設が隣接している。門に入ると、使用人らしき人々がこちらを出迎えるが、皆メルの顔を見るや否や駆け寄ってきて、心配そうに声をかける。
「メルお嬢様、大丈夫でしたか!?」「どちらに行かれたのかと思えば、こんな大雨の中……」
彼らの口ぶりから察するに、メルはこの家の“お嬢様”らしい。使用人の一人が目を剥いて陽一を睨みつけたが、メルが間に入って説明したおかげで、どうにか危険人物扱いは免れた。
やがて屋敷の奥へと通されると、そこには恰幅のいい中年の男が立っていた。分厚いヒゲと、威厳を漂わせるスーツ姿――メルの父であり、この町の町長だという。名をウェルナー・ドゥラトーレ。町長は陽一の顔をしげしげと見つめ、「ふむ」と低い声をあげる。
「ヨウイチ殿、貴方がメルを助けてくれたそうだな。心から感謝する。ありがとう」
「あ、いえ、たまたま通りかかっただけです」
陽一としては礼を言われるよりも、今後どうすればいいのかが気がかりだった。ところが町長は、さらに厳粛な顔つきになり、陽一を真っ直ぐに見据えてくる。
「ところで、ヨウイチ殿は冒険者だな?」
「え、ええと、まぁ……」
真っ向から否定するのもどうかと思い、曖昧に濁す。すると、これがいけなかった。町長は勝手に勘違いしてしまったのだろう。
「それは都合がいい。実は我が町の港に、どうにも手がつけられない怪物が出てきて困っているんだ。名を“クラーケン”と言って、荒れ狂う海をさらに脅かす巨大なイカかタコのような魔物でな……」
聞けば、そのクラーケンは数週間前に嵐と共に突然港に現れ、船をいくつも破壊し、人々に甚大な被害をもたらしたという。攻撃力だけでなく、海中深く潜む能力と高い知能を持ち、陸からはまったく手が出せない。さらに悪いことに、船団を出して大々的に討伐しようとすると、海流を操るのか突風を呼ぶのか、謎の嵐が発生して船は転覆する。そんな脅威を前に、次々と犠牲が増え、討伐を試みた冒険者もいたが、全員行方不明になったらしい。
そして今回、クラーケンは暴れるだけでは飽き足らず、若い娘を生贄として差し出すよう要求してきたというのだ。
「私だってそんな要求は飲みたくはなかった。しかしあの化け物を刺激すれば、本当にこの町は全滅しかねない。なので――ーやむを得ず、我が娘メルを生贄にすることにしたのだ」
その話を聞いて、陽一は心底震え上がった。
人身御供なんて、まるで古代の儀式のようだ。しかし、町長は諦めきったような嘆息をもらし、沈痛な面持ちで言葉を続ける。
「私が町長として決断せざるを得なかった。クラーケンとの約束の日は……明日だ。もし我々が差し出さなかった場合、クラーケンは怒り狂って港のみならず、町全体を襲うだろう……」
その言葉を聞きながら陽一は、メルの横顔を盗み見る。
彼女は唇を噛みしめながら、抗うこともなくうつむいていた。助けてくれたお礼云々と言っていたが、実のところ、この家に戻るのが怖かったのではないだろうか。あまりにもかわいそうな話だ。
「だが、もし……ヨウイチ殿であれば、奴を退治できるかもしれん。……どうだ、頼まれてくれないか?」
町長の問いかけに、陽一は一瞬言葉を失う。
とてもじゃないが、クラーケンなどという凶悪な怪物と戦えるはずがない。そもそもスキルも武器もない。ただの“外れ召喚者”に何ができるというのか。
「す、すみません。僕には到底無理です……」
そう言おうとした瞬間、メルがこちらを見つめて、表情に一縷の希望を浮かべたように見えた。
彼女は信じたいのだ。陽一が自分を救えるヒーローであると。――だが、それは大きな誤解だ。彼はあくまで偶然盗賊を撃退(というか盗賊から逃走)できただけのただの素人に過ぎない。
そのことを説明しようとした矢先、町長は一方的に言葉を重ねる。
「よし、では早速、報酬の話を――。このクラーケンを倒してくれれば、かなりの額をお支払いする。いや、それだけじゃない。町が誇る宝物だって提供を惜しまん。どうか力を貸してくれ!」
「ちょ、ちょっと待って……!」
言葉を挟もうとするが、町長は完全に興奮状態で、聞く耳を持たない。メルの表情も切実そのものだ。こんな重責を背負わされても困る。そもそも自分はまともに剣すら振れないのだ。
しかし、あまりに必死な二人を前にして、陽一は“いや、無理です”と言い切れない。その瞬間、状況は完全に彼にとって不利になった。かくして、彼は半ば強引にクラーケン退治を請け負う羽目になったのである。
その後、町長からは“明日まで英気を養ってくれ”と言われ、邸宅の一室を与えられた。
町の騎士たちからも“協力する”などと言われたが、彼らも内心は「どうせ無理だろう」という諦念があるように感じられる。
そんな中、メルだけは健気に「ご迷惑でしょうけれど、どうかよろしくお願いします」と頭を下げてきたのがやるせなかった。
【真夜中】
その夜、激しい雨風が叩きつける中、陽一は宿泊用に用意された部屋で眠れずにいた。
気が付けば深夜を回っている。窓から外を見ると、暗い空に一筋の稲光が閃き、その光に合わせるように巨大な波が崖を打つ。自然の脅威を思い知らされるようだ。
クラーケンなんて、まともに戦えるはずもない。戦えば死ぬ可能性が高い。ならば逃げるしかない――そう心に決めた陽一は、町長たちが寝静まるのを見計らって屋敷を出ることにした。
真夜中ということもあり、屋敷の外には見張りもいない。雨の音が周囲の物音をかき消してくれる。やはりこれしかないのだ。自分の命を守るためには、ここを離れるしか……。
しかし、そっと門から出ようとした瞬間、暗がりからメルの姿が現れた。まさかの鉢合わせに、陽一は息を呑む。
「……逃げようとしてたんですね」
メルは寂しげに微笑んでいた。雨に濡れた肩を震わせながら、しかし、その瞳には怨みや怒りは宿っていない。むしろ同情の色が浮かんでいるようにさえ見える。
「すみません。僕、実は冒険者じゃないんです。スキルもないし、クラーケンなんて無理なんです。だから……」
「はい。わかっています。あなたが私を助けてくださったとき、実は剣の扱いに慣れていないように見えたから……薄々気付いていました」
メルは小さく溜め息をつき、陽一の前に進んでから一礼した。
「私のために、無理に残る必要はないと思います。だから、どうぞここを離れてください。町の人には私から、それらしく説明しておきますから……」
その言葉に陽一は戸惑う。てっきり引き留められると思っていたのに、メルは自分を逃がそうとしている。彼女自身が、明日、生贄としてクラーケンに差し出されるというのに……。
「ど、どうして……? あなたは怖くないんですか? クラーケンに連れていかれるのに……」
「……怖いですよ。でも、私が生贄になることで町が―――大好きなこの町が救われるなら、それでいいって思ってしまうんです。私一人の犠牲で済むなら……」
雨音が闇夜を包む中、メルの声が寂しく響く。
陽一はその儚げな姿に胸を締めつけられた。まだ若い彼女の命を、誰かのための犠牲にするなんてあってはならない―――それに、ほんの少しの時間だったが、彼女と話をしたり、彼女の笑顔を見たりして、せめてこの人は助かってほしいという気持ちが芽生えていた。
何より、彼女は自分を気遣ってくれようとしている。それはあまりにも尊い行為だった。
人は普通、恐怖から誰かを引き摺り込もうとしたり、守ってもらおうとしがちだ。なのに、メルは陽一が出会って間もない他人であるにもかかわらず、ただ純粋に「逃げていい」と言うのだ。
「あなた、本当にそれでいいんですか……?」
「仕方ありません。わたしにはこれくらいしか……」
その言葉に、陽一の中で何かが弾けた。彼は会社員としての日々を思い出す。自分はずっと大きな流れに身を任せて生きてきた。与えられた仕事をこなし、無難にこなすだけで未来が平穏に流れていくと信じていた。だが、今は違う世界だ。彼女が目の前で死地に赴こうとしているのを、ただ傍観するだけでいいのか?
「……わかった。だったら、戦ってみよう」
自分でも意外な言葉だった。まさかこんな宣言をするとは思わなかった。けれど、メルの瞳は驚きに見開かれ、すぐに涙ぐむように揺れた。
「え……?」
「だって、見殺しにはできない。あなたが犠牲になるなんて、そんなの……納得いかないです。僕はスキルがないし、強くもないけど……最後の最後まで、足掻いてみる。せめてあなたを逃がすくらいは……できるかもしれないし」
本当は無謀もいいところだ。だが、不思議と後悔はなかった。もしここで逃げ出したら、きっと一生メルの悲しげな顔が頭にこびりついて離れなくなるだろう。ならば、自分の手で行けるところまで行ってみる。自分は太陽王じゃないが、何か奇跡を起こせるかもしれないじゃないか――そんな、ほんの一縷の期待が心を奮い立たせる。
メルは小さく頷き、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとうございます……! 無茶はしないでくださいね。わたしのために、あなたが死んでしまったら……」
雨に混じって、メルの涙が頬を伝う。
陽一は彼女の肩に手を置き、静かに微笑んだ。そして、決意を新たにした。
その夜、陽一はまともに寝つけず、部屋に戻ると何をするでもなく窓を見つめていた。
すると不意に、子供の頃の記憶が頭をよぎる。遠足前夜、雨の予報だったにもかかわらず、彼は父親と一緒に“てるてる坊主”を作った。その翌朝、空は嘘のように晴れ渡った。そんなささやかな思い出だ。
「てるてる坊主、か……」
ふと思い立った陽一は、手元にある布切れと紐を使って簡単な人形を作ってみた。首の部分をきゅっと結んで、黒ペン代わりにインクで顔を描く。少し歪んではいるが、紛れもなく“てるてる坊主”だ。こんなものにどれだけの効果があるのか分からない。しかし、子供の頃から自分の“晴れ”を呼ぶ力に寄り添ってきた象徴のような気もする。
「これで、明日が少しでも晴れたらいいんだけどな……」
もちろん、この世界では十年間ずっと雨が降っている。たかが人形ひとつで晴れるわけがない。そう思いつつも、何もしないよりはマシだ――そう自分に言い聞かせ、陽一はてるてる坊主を壁にかけて、そして床に伏した。
明日、クラーケンと対峙しなければならない。
恐怖は消えないが、メルの存在を思うと、不思議と逃げ出す気持ちは萎えていた。
【奇跡の朝】
翌朝、陽一は眩しさで目を覚ました。
―――朝日? そんなもの、この世界で見たことがない。ずっと雨と曇天が支配してきたはずだ。寝ぼけているのかと目をこすり、部屋の窓を開け放つと……そこには信じられない光景が広がっていた。
そこにあったのは、突き抜けるような青い空と、燦然ときらめく太陽。
白い雲が所々に浮かび、海は水平線のはるか彼方まで見通せた。海面を照らす強烈な陽射しが乱反射して、キラキラと輝いている。町の人々も皆、外に出て青空を見上げている。歓声や驚きの声があちこちで沸き起こっているのが聞こえた。
「な、なんだこれは……?」
陽一も言葉を失った。けれど、その奇跡のような天気変化を見て、彼は子供の頃の感覚を強烈に思い出した。「晴れ男」。まさかこの世界に来てまで、しかも十年間雨が続いた世界を一夜にして晴天にするなどということがあり得るのか。
そのとき、ふいに部屋の隅に吊るしていた“てるてる坊主”がポトリと落ちた。よく見ると、その布がふわりと浮かんで、人の形をした淡い光を帯びた何かに姿を変えるではないか。陽一は驚きのあまり尻もちをつきそうになる。
「……おはようございます、ヨウイチ様」
その声は鈴の音のように透き通っていた。小さな妖精のような存在――背中には小さな羽根があり、てるてる坊主の顔がまるで愛嬌のある小さな男の子のようになっている。
「えっ? な、なんだ君は……!?」
「わたしは“光の妖精”です。あなたが作った“てるてる坊主”がきっかけで、この世界に顕現しました」
柔らかな光の粒が周囲に舞い、その存在を明確に示す。陽一の胸は高鳴った。こんなファンタジーな展開が目の前で起こっている。そして彼――妖精が続ける言葉には、さらに驚くべき事実が含まれていた。
「あなたのこの世界でのスキル、それは『晴れ男』と呼ばれるものです。昨日までの装備判定では何も起こらなかったのは、あなたが普通の“魔力”ではなく、“理力”という別の力を持っていたからなのです」
聞き慣れない単語に、陽一は戸惑う。
「理力」――妖精曰く、それはこの世界の魔力とは別系統のエネルギーで、魔術を相殺する性質を持つともいう。だから盗賊が魔法を使おうとしたときに失敗したのは、陽一の近くにいるだけで魔力が打ち消されていたからだったのだ。
「そして、この“理力”を導き出すきっかけになったのが、あなたの“晴れ男”としての意志。“晴れを願うてるてる坊主”こそが媒介となり、いまこうしてわたしが顕現しました」
まさかの展開に、陽一は頭が混乱している。だが、窓の外には実際に快晴が広がり、そして眼前には光の妖精が存在する。これは夢なんかではない。
「スキル『晴れ男』……具体的には、どんな効果なんだ?」陽一は尋ねた。
「大きく三つあります。まず第一に、てるてる坊主を中心に約三十キロメートルの半径で天候を操作できます。具体的には、今のように強制的に快晴にすることが可能です」
確かに、いま町から見える空は一面の晴れだ。周囲の海もキラキラと反射しているが、遠目に見ると、三十キロメートル外のエリアではまだ雨雲が停滞しているようにも見える。不自然な円形の晴れ間が、まるで巨大なドームのように町を覆っているのだ。
「第二に、わたしと一体化することで、あなたの身体能力や魔力ならぬ理力が最大レベルまで強化されます。たとえ剣術や魔法の経験がなくとも、あなたは最高の戦闘能力を発揮できるでしょう」
これはとんでもないチート性能だ。普通ならば長年の修行や才能が求められるはずの力を、一瞬で身につけられるというのか。陽一は半信半疑だったが、妖精が言うには“理力”は非常に特殊で、魔力を打ち消すばかりか、自身の身体能力も高める性質があるという。
「そして第三に、その理力は魔力と相反するため、敵の呪文や魔力攻撃を大幅に無効化できるのです。つまり、魔法を主とするモンスター相手なら、圧倒的に有利になるでしょう」
たった一晩で、陽一は“最強クラス”のスキルを獲得してしまった。
それを聞かされても、最初は呆然とするしかない。しかしすぐに頭に浮かんだのは――クラーケンのことだ。あの化け物がどれほど魔法的な力を持つかは分からないが、少なくとも海を荒らし天候を乱すような何かを操れる可能性は高い。ならば、この“理力”は対抗策となり得るかもしれない。
「これは……本当に夢じゃないんだよな?」 「はい。あなたが選ばれし“太陽王の素質”を持つ方なのかもしれません。わたしもあなたと共に戦います」
光の妖精はニコリと微笑む。陽一の胸に熱い感情がこみ上げてきた。ここにきて、ようやく本当に“戦えるかもしれない”という気持ちが芽生える。逃げ腰だった昨日の自分が嘘のようだ。十年前から降り続ける雨を止める力――まさか自分がその糸口を握る存在になろうとは……。
そうして、陽一は心を決めた。まずはクラーケンを倒し、メルを救う。そしてこの町に光を取り戻す。
それが、突然この世界に召喚され、途方に暮れていた男に与えられた新たな使命なのだと理解した。
【クラーケン】
町はどこもかしも大騒ぎだった。
十年もの間、雨が止むことは一度もなかったと聞く。それが一晩にして雲が消え、太陽が顔を出したのだから、騒がない方がおかしい。人々は戸惑い、歓喜し、畏怖の念を抱く者もいた。
そして町長の屋敷はさらに大混乱に陥っていた。何しろ、今日がクラーケンに生贄を差し出す期日なのだ。ところが一転、空が晴れ渡り、海も静かに穏やかになっている。
クラーケンが来ないに越したことはないが、彼らは確実に来ると睨んでいる。この突拍子もない天候の変化に、クラーケンがどう反応するかは不明だ。
「ヨウイチ殿、これは一体……!?」
「いえ、その、俺にもよく……」
町長から詰め寄られた陽一は、スキルのことを隠すことに決めていた。なぜなら、あまりに規格外の力ゆえに騒動を起こしかねないし、無用な欲に狙われる可能性が高い。だからこそ、陽一は「たまたまだ」と誤魔化すしかなかった。
しかし、町長はそんな説明に納得できるはずもなく「これだけの晴天が偶然など……」と訝しんでいた。もっとも、今はそれどころではない。クラーケンとの約束が迫っており、港へ向かわねばならないのだ。
そして、陽一もメルも、町の騎士団らとともに港に集結した。時間は朝から昼へ差しかかるころ。空はさらに青みを増し、陽光はじりじりと照りつける。潮風は生ぬるく、肌にまとわりつく汗が煩わしい。
人々がざわめき、波止場の先端を遠巻きに眺めている。生贄役としてメルが連れて行かれる予定だったが、陽一は彼女の代わりに“女装”して行くと名乗り出た。少しでも時間を稼いで、クラーケンの不意を突き、討伐に持ち込む算段だ。
「俺…あ…わ、わたし、女に見えるかしら?」
「あはは……まあ、遠目ならわからないかも」
陽一はメルのドレスらしきものを無理やり借りて着込み、髪を布で隠しながらなんとも言えない奇妙な扮装をした。遠巻きに見る町の人々も、唖然と口をあんぐり開けている。こんな作戦がうまくいくのか、怪しさ満載だ。
しかし、クラーケンからすれば、波止場の先端に人影が一つ置かれていればよい。距離を詰めてきたところで陽一が攻撃態勢に入る――まあ、そんな簡単にいくか分からないが、とにかくやるしかない。
やがて波間が不自然にうねり始め、ぼこぼこと泡立ちが生じる。周囲の騎士や町の人々が「来るぞ……!」と息を呑んだ。
その瞬間、海面を切り裂くように巨大な触手が現れた。水しぶきの向こうから、まるでタコのようにもイカのようにも見える不気味な姿が姿を現す。紫がかった粘液質の身体、大きな目玉がぬらりと光る。
「うっ……で、でかい……」
陽一は思わず後ずさりそうになる。クラーケンの触手は波止場よりも長く、軽く振るえば船のマストなど折ってしまいそうだ。
振り返ると、町長が遠くで心配げに手を振っているが、陽一は返すことができない。身体が震える。このままでは気圧されて動けなくなる。
だが、触手がこちらに伸びてくる瞬間、陽一は決断した。このまま逃げれば、クラーケンは再び町を襲い、メルが生贄にされる未来が待っている。だったら、戦うしかない――。
「いける……俺にはやれる力があるんだ……!」
陽一は心の中で妖精に呼びかける。すると、胸の奥がポッと熱くなり、身体に不思議な力がみなぎるのを感じた。妖精の光が身体に溶け込むようにして浸透し、まるで全身の細胞が活性化しているかのような感覚だ。筋肉が締まり、視界が鮮明になり、思考がクリアになる――。
クラーケンの触手が波止場を叩きつけ、石畳が一部崩れる。その衝撃で周囲の騎士や町民は悲鳴を上げるが、陽一は驚くほど冷静にその攻撃を見極め、ひらりとかわす。
「なっ……!?」
町の人々が目を剥いた。あれほど巨大で素早い触手が、あっさりと避けられてしまったのだ。
陽一自身も、その反射速度に驚く。確かに妖精の言った通り、身体能力が“最大レベル”に引き上げられているかのようだ。
「おおおおぉっ!」
思わず雄叫びのようなものが出てしまう。普段なら絶対にしない行動だが、アドレナリンが全開になっているせいか恥ずかしさなど消え失せている。陽一は波止場に転がっていた長い棒を手に取り、それをまるで薙刀のように振るって触手を払いのけた。
「ぐぅるるる……! キサマ!」
クラーケンは怒り、さらに何本もの触手を繰り出してくる。だが、陽一の目にはその動きがスローモーションのように見え始めていた。ひとつひとつの動きを見極め、最適なタイミングでステップを踏む。身体が勝手に動いてくれるかのようだ。
それに加え、周囲はカンカン照りの真夏日だ。クラーケンのぬめりとした肌は日に弱いのだろうか。ときおり、動きが鈍ったようにも見える。触手が焼け付くように軋み、クラーケン自身も海に潜ろうと身をよじっている。
「チャンス……!」
陽一は勇気を奮い立たせ、さらに前へ踏み出す。しかし、その瞬間、クラーケンが波止場を破壊し、大きく跳ね上がってきた。
巨大な体躯が海面からせり出し、その口のような部位が陽一に向かって開かれる。強烈な海臭さが鼻を突き、歯のような固い殻がぎらつく。
だが、陽一は躊躇わなかった。猛然と走り込むと、そのまま棒をクラーケンの口に突き刺す形で飛び込む。もちろん、そのままでは自分もやられかねないが、不思議と怖さが湧かない。自分の身体が圧倒的な力で守られている――そんな実感があった。
「うおおおおっ!」
棒がクラーケンの口腔内を抉り、体液が飛び散る。クラーケンの絶叫が空気を震わせ、衝撃波のような風圧が波止場を揺らす。陽一は吹き飛ばされ、海面に落下しそうになるが、かろうじて瓦礫に捕まり難を逃れた。
「ぐっ……まだ……終わりじゃない……!」
体が軽い。着地に失敗しても、怪我らしい怪我もしていない。やはり“最大レベル強化”というのは伊達ではないらしい。クラーケンが暴れるたびに水飛沫が舞い、港に津波のような波が押し寄せるが、陽一はさらなる攻勢に移った。
棒が折れたため、今度は隠し持っていた剣を手に取る。強化された腕力で振り下ろせば恐ろしい破壊力になるだろう。クラーケンが今度は触手をまとめて振り上げ、叩きつけてくる。波止場が砕け散り、石片が宙を舞う中、陽一はその触手の根元へと飛び込んだ。
「これでも……喰らえっ!」
全力の一撃が、触手と胴体の境目に斬りかかる。刃が陽一の怪力を受けて深く食い込み、クラーケンの肉を断ち切った。
どす黒い液体が噴き出し、クラーケンがのたうち回るように水面へ再び落ちる。巨体が水しぶきを上げながら海に沈む様は、まさに海中の怪物そのもの。周囲の人々の悲鳴と驚嘆の声が入り混じる。
「ヨウイチ殿が……あのクラーケンを追い詰めている……!」
騎士たちや町の人々は誰もが唖然としている。陽一はそこで一旦大きく息をつき、妖精との対話で学んだ通り、体内の理力をさらに巡らせる感覚を意識した。すると、身体がさらに熱くなり、まるで光の鎧をまとったような感覚に包まれた。
クラーケンが最後の力を振り絞るかのように触手を狂乱させる。だが、陽一は怖気づくことなく、その触手をつかんだまま、水面へと飛び込んだ。一瞬、冷たい海水が全身を覆うが、不思議と呼吸を失う苦しさをあまり感じない。強化によって体力と肺活量が増しているのかもしれない。
水中でクラーケンの巨大な目と視線が交錯する。凄まじい圧力が陽一を押し潰そうとするが、その目に映るのは、むしろクラーケンの恐怖の色だ。光をまとった異世界の男に、モンスターは震えている。
強い逆流が体を巻き込もうとしても、陽一は逃さない。手にした剣をもう一度、クラーケンの目玉付近へ渾身の力で突き立てる。空気が泡立ち、水中で生々しい破裂音が響いた――。
「――うわあぁっ!」
陽一は最後の水流に飲み込まれ、気がつけば波止場の浅瀬に打ち上げられていた。全身は泥だらけで、女装の服もズタズタだ。朦朧とする意識の中で、周囲の騎士たちが慌てて駆け寄ってくるのを感じる。
「ヨウイチ殿! しっかりしろ!」 「大丈夫か!?」
そして、陽一の背後――海中からは、クラーケンの巨大な影が沈みゆくのが見えた。波間に浮かぶその触手は、すでに生気を失い、黒い液体を吐き出しながら深海へと没していく。やがて動かなくなったそれを見て、陽一は勝利を確信した。
「……やった……クラーケン……倒したぞ……」
周囲で歓声が沸き起こった。町の人々が泣きながら抱き合い、メルが走り寄ってきて、陽一の手を握りしめる。
彼女は涙まじりの笑顔で何度も何度も「ありがとう」を繰り返していた。
こうして、マイヨルカの港を脅かしていたクラーケンは、陽一の手で討伐された。
その余波か、この日の町は狂ったように沸き上がり、まるでお祭りのような大騒ぎになった。晴天という奇跡に加え、巨大モンスターの討伐という吉事が重なったのだから無理もない。
【ビーチカフェ「さんきんぐ」】
クラーケンを倒した英雄として、陽一はメルや町長のみならず、町のすべての人々から感謝された。
市場に集まる漁師や商人は、「これで安心して船を出せる」「漁も毎日できるぞ!」と口々に喜びを表す。
しかし、陽一は王国に報告して褒美を受ける気にはなれなかった。何しろ、自分を“役立たず”と蔑んで追い出した相手だ。もちろん、今さら恩を売りに行く理由もない。町長が「ぜひ王都に凱旋してほしい」と言ってきたときは、陽一はきっぱりと断った。
「今はもう、王国のために戦おうという気はないんです。すみません」
町長は少し驚いたようだが、それでも「まあ、それもよい。お前さんには大きな借りができた」と素直に言ってくれた。
さらに「何か望みはないか?」と尋ねられた陽一は、一つだけお願いをした。
「……この町に、住む家が欲しいです。あと何か仕事を」
「それだけでいいのか? もっと報酬とか、高価な宝物とかだって……」
「僕にはそんな宝より、のんびりと暮らせる環境がありがたい」
陽一はそう答える。町長は意外そうな顔をしながらも、「わかった」と頷き、ほどなく海岸沿いの一軒家を譲ってくれた。
そこはもともと物置小屋のように使われていた建物らしく、多少の改装が必要だが、立地は最高だ。窓からは青い海が望め、目の前は砂浜だ。
「ここなら、ビーチカフェができるかな……」
実は、陽一は子供の頃から海辺のカフェに憧れていた。
日本では難しいと感じていた夢だが、この世界でなら実現できるかもしれない。
しかも今後、晴天のもとで海が回復すれば、漁や観光が再び盛り上がる可能性がある。この町の人々も元気を取り戻してくれるだろうし、陽一自身も失意のまま過ごすよりは、店でも開いて生きがいを感じたい。
名付けて「ビーチカフェ さんきんぐ」。―――これは、太陽王“サン・キング”の伝説にちなんで思いついたものだ。自分が本当に太陽王なのかは分からないが、名前だけでもそう名乗ってみれば、ちょっとしたジョークになりそうだと考えたのである。
一方、メルは父である町長に「私は、しばらくヨウイチさんのお手伝いをしたい」と申し出た。もちろん町長は猛反対したが、メルの意思は固かった。
「わたしは生贄にされる運命から救ってもらった。命の恩人なんです。なのに、ここで何もしないわけにはいきません」
町長は最初こそ渋ったものの、クラーケンが倒されて町が安定するならば、無理矢理に娘を縛り付ける理由もないと渋々認めた。
加えてメル自身が「町の人に役立つ店を作りたい」という思いを持っていることもあって、結果的に陽一のカフェ開店を手伝う形となった。
こうして、陽一はメルの協力を得て、カフェの準備を始めた。
雨ざらしだった建物の床を修理し、壁を塗り直し、簡易的な厨房を作る。町の大工や漁師たちも手伝ってくれた。皆、クラーケンを倒してくれた陽一に恩返しをしたいと言って、必要な資材を安く提供してくれるのだ。その温かさに、陽一の胸はいっぱいになる。
数日後、店の内装が整い、いよいよ「さんきんぐ」はオープンを迎えた。
初日は、町中の人が次々と来店してくれて大盛況となった。陽一は次々と入るオーダーをさばくのに四苦八苦し、メルもウエイトレスとして休む暇もなく注文取りと料理の提供に店内を駆け回った、二人にとっては、何から何まで初めての経験だが、意外と楽しかった。
「みんなが喜んでくれてよかった……また来てくれるかな?」
閉店後、片付けをしながらふと漏れ出た陽一の言葉を聞いたメルは、くすりと笑う。
「きっと、そうなると思います。だって、こんなに素敵な天気なんですもの。」
「そうだね」
もっとも、この先ずっとこの町だけを晴れにしていたら、それはそれでおかしい。
妖精の説明によれば、陽一の“晴れ男”の力で晴れる範囲は約三十キロメートルまでが限界だという。町や近海が晴れになるのはいいが、外の世界との気象格差が大きくなると、他の地域から怪しまれたり、逆に孤立したりする可能性もある。だから当面は、コントロールをしながら“適度に”晴れを保つ形を考える必要があるだろう。
すぐにこの世界全体の雨を止めることは無理にしても、第一歩としては十分すぎるほどの変化だ。
実際、町の中では畑の作物が少しずつ元気を取り戻す様子も見受けられた。さすがに水浸しだった畑が短期間ですぐ完全回復するわけではないが、それでも十年ぶりの太陽に恵まれた作物は生気を宿している。漁師たちも、海があまりに濁りすぎていたためまだ本格的な操業は難しいが、嵐が消えて波が穏やかになったことに喜びをかくせないでいる。
陽一はそんな変化を目にするたび、自分がやったことにわずかながら誇りを感じた。
そして、この世界で自分の居場所を作れたことが何よりも嬉しかった。
「……さあ、明日も早いし、今日はもう休もう」
メルを家に帰したあと、陽一はカフェのカウンターに腰掛けて一人呟いた。妖精はというと、小さく光りながら彼の頭上を飛び回り「おやすみなさい」と囁いた。こうして、ビーチカフェ「さんきんぐ」の最初の夜が更けていく。
窓の外には、満点の星空。そして優しい月明かりが、今や静かな海を優しく照らしていた。
【人手不足】
――この世界において一年三百六十五日降り続いていた雨が止み、真夏の太陽が降り注ぐようになってから、早くも二か月ほどが過ぎていた。
海辺の町マイヨルカは、かつては雨と嵐に覆われた町であったが、今はピーカン照りが続く。
港の工事が進み、漁業や海運の再開を準備する者たちが少しずつ増え、ビーチにも活気が戻り始めた。酷暑というほどではないものの、十年間ほとんど直射日光を拝めなかったこの土地の人々にとっては、暑さはかなり厳しく感じられるらしい。
それでも、人々は晴れの光を求めてやってくる。近隣の町や村からも、日差しを浴びてレジャーを楽しもうという者が訪れるようになった。
マイヨルカが観光地として再生する日は、案外近いのかもしれない――そんな期待が膨らんでいる。
そして、町外れの海岸に建つビーチカフェ「さんきんぐ」も、連日のように賑わいを見せていた。
その店の主人、松山陽一(ヨウイチ)――異世界に召喚され、“晴れ男”のスキルを得た男である。
彼は日々多くの客を迎え、忙しそうに立ち回りながらも、はつらつとした表情を浮かべている。
店のカウンターには、野菜や魚介を使った料理や、トロピカルフルーツのジュース、それにアルコール類も並んでいる。
この世界では貴重とされている香辛料を調合し、さらにはヨウイチが前世で身につけた料理の知識を活かして、独特のメニューを開発したことで評判が広まりつつあった。「こんな味は初めてだ」「クセになる」「また来たい」――そう言ってリピーターになる客も多い。
晴れ渡ったビーチを見ながら楽しむ冷たいドリンクと料理。人々はこの店を「楽園」と称え、訪れるたびに笑顔を浮かべる。ヨウイチ自身も、ここが自分の居場所だと感じられるようになっていた。
一方、彼の能力の源であり、謎の存在でもある“光の妖精”は、「テリー」という愛称を与えられた。
彼は、もともとヨウイチが作ったてるてる坊主がきっかけで顕現し、ヨウイチと一体化することで驚異的な戦闘能力を引き出す守護神的な存在であるが、
今では町長の娘メルのことをすっかり気に入ってしまった。
「僕はメルのところに行ってくるね~」と言いながら、日中はほとんどメルの家や町の方を飛び回っている。
もっとも、テリーの姿は魔力を持つ人間(“冒険者”やそれに準ずる者)でなければ見えないため、普通の町人は誰もそれに気づいてはいない。
メルは、オープンの後もしばらく手伝ってくれたが、町長の仕事をサポートするほうが多忙になり、今では時おり顔を出してサポートしてくれる程度に落ち着いている。
結果としてヨウイチは仕込みから接客まで一人でこなしており、そろそろ手が回らなくなっていた。
「うーん、誰か雇わないと、まじで手が足りないぞ……」
ヨウイチは店のカウンターに並べたランチメニューを客に運びながら、ため息をつく。
もちろん、雇うにも相応の給料を支払わなくてはならないが、今の売り上げなら十分にその余裕はある。問題は、この地にはまだ職を探しに来る人が少なく、貴重な人材となり得る人は皆、再開した漁や港湾工事、あるいは他の商売に忙しいということだ。そんな中、誰か良いスタッフはいないものか――そんな期待を抱く日々が続いていた。