奇妙なことにこの街には時計のようなものはまったくなく、90分も体感で計るしかない。そのため90分ギリギリよりも余裕を持って行動すべきだ。
そう判断したハジメは店を出ると、すぐに路地裏の中でも特に狭い通路へと入っていった。
数十秒後、ハジメを追うようにフードを深くかぶった小さな子どもが狭い通路へとやってきた。コソコソと足音を立て、物陰から路地裏をのぞき込む。
「あれ?」
子どもはキョトンとした顔で路地裏を見渡した。通路の奥には建物が立っており、完全に行き止まりになっている。しかし先ほど入ったはずのハジメの姿がなかったのだ。子供は路地裏の中に入り、抜け道がないか確かめる。
「僕に用でもあるのか?」
声がして振り返ると、そこにはいつのまにかハジメが後ろで仁王立ちをしていた。
「えっと……何のことでしょうか」
子どもは目をそらして誤魔化そうとするが、ハジメにはすべてお見通しだった。
「君はずっと僕を尾行していただろう。しかも、僕が留置所から出てきたときからずっとだ。だから僕はこうして路地裏に入り、壁を登ってまでして君を追い詰めたんだよ」
ハジメは子供に詰め寄る。
「こんな無一文の男を小さな子供が追いかけるなんて相当深い理由がないとありえない。だが考えるまでもないだろ。この世界に来たばかりの僕を追いかける理由など、僕がこの世界に来たことしかない」
子どもは踵を返して一気に駆けだした。行き止まりの方へ向かって走り出したが、ハジメは万全を期してフードを掴む。しかし子供は上着を脱ぎ捨てた。
金髪の長い髪が翻り、白色の瞳がハジメを見据えた。おそらく女の子だろう。見た目は10歳過ぎくらいだが、体のラインや肉の付き方がやや女性的だ。しかし、男か女かを気にするよりも注視すべき点があった。
背中から生えた純白の羽根。
あまりに美しい黄金比を作った羽根にハジメは思わず見入ってしまった。そのため、少女は手のひらをハジメの顔に向けたことに反応が遅れてしまう。
「『エタエルク』……!」
呪文と共に手のひらに電撃が溜まる。
ハジメは少女の手のひら越しに鋭い眼光と目が合う。その瞳には覚悟が宿っていた。ハジメは直感で電撃が放たれること、そしてそれを避けられないことを感じ取っていた。
次の瞬間、少女の瞳が大きく見開かれ、同時にマナを溜めていた右手を閉じた。
「……バレたら仕方ないわね」
観念したのか、ハジメにはもう敵意を向けていないようだった。
右手で髪の毛を払いのけると、左手は腰に当ててキリッとした表情を作る。いわゆるドヤ顔というやつだ。
「人間ごときが私の正体に気付くなんて大したものよ、褒めてあげる」
「君の正体に気付いたわけではない。労いの言葉をくれるくらいなら君の名前を教えたらどうだ?」
少女は苦虫を嚙み潰したような表情でそっぽを向く。
「……分かったわよ」
渋々といった様子で、少女は自分の胸に手を当てた。
「私の名前はフェレス。大地の創造主にして人類の母であるハサルシャム様に使いし天使よ」
名乗ったのはいいが、ハジメには頭をひねるような自己紹介だった。
「創造主に天使? この世界では魔法以外に神性なものまで存在しているのか」
「そんなわけないでしょ。この世界でも神様は多くの人から宗教の偶像として認識されているわ。私がそこら辺の人間に天使だと名乗っても誰一人信じる人はいないでしょうね」
「だが実際に君がここにいるということは、神とやらは存在しているということでいいんだな?」
「そうね。私が言いたいのはあくまで人間の考えと世界の真理に乖離があるということ。この世界で魔法が常識になっているように、どの世界でも常識が真実とは限らないのよ」
ハジメはフェレスのつま先から頭までを舐めまわすように見渡す。翼のために大きく背中の開いたワンピースのような服を着ており、ノースリーブで肩も露出している。
「質問だが、君はいくつだ?」
「年齢のこと? そもそも人間世界での時の経ち方とは違うのよね……。私が生まれたのが大体グリム童話と同じくらいって言ったらわかるかしら」
「……大体300歳か」
そのとき、ハジメはふと疑問を感じた。だがその疑問を口にするより先にフェレスが言葉を紡ぐ。
「アンタが聞きたいのってそんなこと? もっと聞きたいことあるでしょ」
「答えてくれるのか?」
「当り前よ。私は天使なんだから、人間の疑問に答えるくらい当然の義務よ」
「なら魔法を使うプロセスを教えてくれ」
「無理ね」
当然の義務はどこに行ったのやら、フェレスは即答した。
「魔法はそんな簡単に説明できるものじゃないのよ。……っていうかなんで魔法についてなのよ。アンタがここに来た理由とかここの世界観とかもっと聞きたいことあるでしょ!」
「世界観はともかく、どうせ理由は君も知らないんだろ」
ハジメの発言にフェレスは言葉が詰まる。
「……鎌を掛けたつもりだったんだが、まさか本当に知らないのか」
「え、気づいてなかったの?」
フェレスは悲壮感に溢れた表情をする。
「君はハサルシャムという神の使いだと言った。神が天使よりも上位の存在なら、僕がこの世界に来たのは君の独断ではなくハサルシャムの意も介しているだろ。だが君の様子を見る限り、君はただの下請けみたいに見えたから鎌を掛けてみたんだよ」
「その通りだけど、アンタに言われると癪ね……。ええ、私は天使の中でも立場は下の方よ」
「なら、僕がここにいる理由を知るには君ではなくハサルシャムに直接聞くとするよ」
開きなおったフェレスだったが、このエースの発言には牙をむいて反論する。
「アンタがハサルシャム様に謁見するような機会は一生訪れないわ! そもそもこの世界に連れてこられたことだってただの気まぐれのようなものよ。深い理由はないでしょうしね」
「ということは、やはり君にはまったく話を聞かされていないのか。信頼されていないんだな」
今度は頭に青筋を立てながらフェレスはハジメを睨みつけた。
「信頼されてるにきまってるでしょ! 今だってわざわざ私を人間界に堕天させてまでアンタの監視を任されているのよ!」
「……」
数秒の間を空け、フェレスは自分の失態に気付いたようだ。
「いや、堕天っていうのは違くて……監視っていうのもホラ、言葉の綾というかね……?」
「……捨てられたならそう言ってくれよ」
「捨てられてない! 私はハサルシャム様に厄介払いなんてされてない!」
思い当たる節があるのか、フェレスは涙目になりながら首を横に振った。
怒ったり泣いたり感情は人間と同じように、何なら平均よりも豊かな感情表現をするようだ。
フェレスも別に捨てられたわけではなく、堕天しなければそもそも人間界に降りてくることができなかったのだ。
「ところで、君は人間界で泊まるような場所はあるのか?」
「う……」
分かりやすく目をそらして言葉に詰まる。
「この地域は治安が悪い。かといって森の方へ行けば魔獣の群れがいるらしい。いくら天使でも一人で生きていくのは厳しいだろうな?」
「うう……」
魔獣の件は今適当に作った嘘だが、フェレスは信じているようだった。
さらにハジメは追い打ちをかける。
「監視対象にも気づかれて、使命を全うできないような天使は使い捨てられるだけだな……」
「ううう……」
小刻みに身体を震えさせて涙を必死にこらえている。この姿だけ見れば、外見に応じた幼い少女のようだ。
「……分かったわよ。アンタに手を貸して上げる」
「……じゃあ、まずは君の魔法とこの世界について聞かせてもらおうか」
フェレスも落ち着き、二人は改めて会話を始める。その頃には既に陽がオレンジ色に染まっており、クリスタとの約束の時間までもう少しだ。
「私の能力は『創造』。一見飛べそうに見えるこの羽根は人間界ではただの飾り。飛ぶことはできないわ。普段はこの羽根は隠すことができるけど、『創造』を使うときは羽根を広げる必要があるから誰にも見られないように注意しなくちゃいけないの。天使の存在に気付かれると色々厄介だからね」
「ちなみに、その『創造』っていうのはどんな魔法なんだ?」
「正しく言うと魔法じゃないわ」
フェレスは地面の小石を拾い上げた。
「『フィルク』」
呪文と共にフェレスの手の中にある小石は徐々に大きくなった。
「これは魔法。マナを用いて石を巨大化させているの。いわゆる1を5にする行為。マナの扱いに長ければ1を100にでも1000にでも、100を1にすることだってできるわ」
石を地面に投げ捨てると、元の小石に戻っていた。
続いてフェレスは手の平を上に向ける。
「『エタエルク』」
手の平にマナが集まり、何もなかった空間から光り輝く金の延べ棒へと変わった。
「こうして何もない場所から物質を創り出すのが『創造』よ。0から生み出すことができるのは天界人にしかできない力なの」
「これは本物なのか?」
「ええ、もちろん」
ハジメはフェレスから金の延べ棒を受け取る。重量や表面を確認して、純金であることを確認した。
「それは確かにこの世界に実在する金よ。魔法で作られた物質とは違い、創り出した私が近くにいなくてもその金は存在し続けることができるの。ただ、――」
フェレスは金の延べ棒をハジメから返してもらい、「エテレド」とそう呟いた。
すると金の延べ棒は粒子となって消えていく。
「私ならこのように100あるものを0にすることだってできる。これは私が『創造』で創り出したものに限らず、すでにあるものでも消滅させることができるわ」
「……どんな物質でも消すことができるのか」
「全部じゃないわ。私でも創ることができるのは生命の宿っていないものだけ。それもどういう構成で作られているかを把握していないと創造はできないわ」
生命というものがどの範囲までの存在を示しているのかは分からないが、人間や動物のことを示唆していることは間違いない。
「生物を創れないのは何か理由があるのか?」
「単純に構成物が複雑っていうこともあるけど、この世界に理に反することだからね。生命を作るっていうのは正規の繁殖で増やすか、神様しかできない奇跡のようなものよ。私みたいな天使には生命を作る権利がないの」
「神様か……」
ハジメは顎に手を当ててフェレスから目線を外す。
(気になることはあるが、今は目の前の課題を優先するべきか)
ポケットから紙切れを取り出す。クリスタに提示されたテストの内容だ。それをフェレスに見せた。
「ここに書かれているものはなんだ? 文字は読めるが、意味までは分からないんだ」
「ちょっと借りるわね」
フェレスは中身を読む。そして頬を引きつらせて面倒くさそうな表情を浮かべる。
「サジ・エディゾイド・ノブラック。それとディウキル・ニレシルゴルティンね」
そして深いため息をつく。
「さっきは外から様子を伺っていたけど、あの店主もとんでもないものを要求するわね。ニレシルゴルティンを扱っている魔法使いなんて歴史上から見ても数人程度よ」
「希少なのか?」
「希少も希少。どんなものなのかも全く分かっていないわ」
ハジメは紙を返してもらい、その中身をじっと見つめる。目は紙を見ているが、その思考は遥か遠くまで及んでいる。
店の中にあった瓶に張られていた文字やクリスタ、フェレスとの会話が何度も頭の中で反芻されている。
「……なんか、アンタがこの世界に連れてこられた意味がなんとなく分かったわ」
フェレスの言葉でハジメは我に返った。しかし、フェレスの言葉の意図は分からない。
ハジメが首をかしげているのを見て、フェレスは深いため息をつく。
「アンタの世界のことは少しだけ知っているけど、正直言って私は良い世界だとは思わないわ。科学は一人の天才によって皆に恩恵が与えられるけど、魔法は自分とその家族にしか恩恵が与えられないのよ。確かに閉鎖的だとは思うけど、要するに魔法は個人の幸せを得るために努力するのよ。でも、科学は皆の幸せを追求するでしょ」
「一概に肯定はできないが、まあ君の言うとおりではある。僕たちの世界で優先されるのは個人よりも社会全体の幸せだ」
「……ハサルシャム様に聞いたわ。前の世界では周りの人や家族にも嫌われていたんでしょ。でもそれじゃあ仕方が無いわよ。アンタみたいに才能を無駄遣いして自分のためだけに生きる人間なんて、周りから忌み嫌われて当然だもの」
ハジメは少し黙った後、首を小さく振った。
「それは違う。僕は何も自分のためだけに才能を使っているわけじゃない。まあ8割くらいは自分のためだ。……だが、自分のために使うなら僕は探偵なんて目指していないよ」
ハジメは続ける。
「僕は謎を解くことで誰かが救われると信じている。それに君が科学の世界を良い世界ではないというのは間違っているよ。少なくとも皆のために才能を遺憾なく使った人は正しいことをしたんだ」
「……意外と正論を叩きつけるわね」
フェレスは壁にもたれかかり、三角座りをした。
「要するにアンタはノドルの時計塔ってことね」
「ノドルの時計塔?」
「多分もう少しで鳴るわよ」
フェレスは指を立て、沈黙が流れる。
その沈黙を破るように街中全体に大きな鐘の音が鳴り響いた。
「これ、鐘の音だったのか」
ハジメは何度かこの音を聞いたが、これが鐘の音だとは気づいてなかった。
「城内の中央に巨大な時計塔があるのよ。時計は1時間ごとに鐘が鳴るようになっていて、時計がないこの世界ではあの時計塔は人々に時間を教える重要なものなのよ」
「どおりでこの世界に来てから時計がないわけだ」
「あの時計を作ったのは一人の天才だったのよ。とある魔法使いがすべてのマナを使って向こう1000年動くだけの大時計を作ったの。それ以来ノドルの時計塔は四季によって日照時間が変わっても正確に時間を教えてくれる国民たちの支えになったのよ」
「……この世界でも他人のために才能を使った人間がいたってことか」
フェレスは砂を払いながら立ち上がった。
「私はハサルシャム様がアンタを適した世界に連れてきたのかと思ったけど、アンタはそれでも変わらない生き方をするのね」
「そうだな……。他人からの嫌悪は僕の行動を変える要因にはならない。どこであっても僕のすることは変わらないよ」
ハジメは大きく息を吸った。
「だが、確かにこの世界で別の生き方をしてみるのは悪くない。苗字持ちは目立つからいっそのこと改名でもしてみるか」
フェレスは呆れて肩をすくめた。しかし、その口元はかすかに笑っている。
「分かったわよ。私も監視を命令されているし、出来る限りのサポートはしてあげる。ホラ、もう一度紙を見せなさい。私がその言葉の意味を詳しく教えてあげるから」
「その必要はない」
ハジメはきっぱりと断った。
「必要ないって……それじゃあ何をもっていけばいいか分からないじゃない」
「雑談で時間を使ってしまったからな。早くあの店に戻ろう。道すがら君に頼みたいこともある」
「でも……」
「それと、――」
ハジメは手に持っていたフェレスの上着を投げ返した。
「僕が店で嗅いでいた液体『エトーザ』の正式名称はディウキル・エイノマ、だろ?」
「どうして分かったの……?」
フェレスの問いかけにハジメは口角を上げて笑った。
扉の鈴の音が鳴ると、人の姿を確認せずにクリスタはカウンターの下に逃げ込んだ。のぞき込むようにカウンターの下から恐る恐る顔を出した。
扉の前にはハジメと見覚えのない少女が並んで立っていた。
「その子は……?」
「フェレスだ。まあ、僕の妹のようなものだと思ってくれ」
足元のフェレスは妹扱いされたことに不服でハジメを睨みつけるが、ハジメはその反抗に全く取り合わない。
「言われた通りの物を持ってきたぞ」
クリスタはゆっくりとカウンターの下に潜ると、代わりにクリスタ人形をカウンターの上に出した。
「本当かしら? 言っておくけど、私を騙そうなんてノドル国を攻め落とすほど不可能よ!」
ハジメはノドル国の国防力など知らないが、クリスタが人形を介して話を始めることは予想済みだ。
フェレスにアイコンタクトを送ると、フェレスは店の棚に忍び足で近づく。液体の入ったラベルを一つ一つ確認し、その中の一つに手を伸ばした。
クリスタにバレないようにハジメは話を始める。
「ところで、クリスタ。君はどうしてこんなまどろっこしいテストを出したんだ」
「何のこと?」
「君は僕が魔法薬に詳しくないことに気付き、陽が沈むまでという制限を掛けてまで無理難題なテストを出した。だが僕がここに住むことを本当に拒みたいのなら、初めから君は断っても良かったじゃないか」
「……別にただの気まぐれよ」
クリスタ人形は手をバタバタと動かして反論する。
「私ははっきりと断るのが嫌だから遠回しに拒否しただけ。変な深読みは止めてくれないかしら」
その言葉に対し、ハジメは「違うだろ」と反論した。そして手に持っていた羊皮紙をカウンターに置く。
「確かにこの二つは入手が困難な代物だが、絶対に手に入らないというようなものではない。僕が魔法液に詳しくないと分かっていたなら架空の名前を書いてもバレなかったんじゃないのか。蓬莱の珠の枝や火鼠の皮衣とか燕の子安貝とか色々あっただろう」
「ホウライ……ヒネズミ……コヤス? 一体何の話をしているのよ」
クリスタはハジメのたとえにピンと来ていないようだが、ハジメはそのまま会話を続ける。
「もしこのテストを通ったら君はさらに難易度の高い要求をしてまで僕を拒否してくるかとも考えたが、君はそうはしないはずだ。なぜなら、君は心のどこかで孤独を埋めてくれる存在を探していたから」
クリスタ人形を操る右手が力なく下がり、クリスタ人形は命がなくなったように俯く。
「君は、寂しかったんだろ。人形じゃない誰かと話がしたかったんじゃないのか」
クリスタは右手を下げ、クリスタ人形を胸に抱いた。人形に縫い付けられた青いボタンの瞳はクリスタの目をじっと見つめている。
「……違う」
再びカウンターの上にクリスタ人形が現れ、丸い腕を突き出しながら大きく口を開いた。
「そんなわけない……! 寂しくなかったことはないけど、この子以外の誰かと話したくなったことなんて一度もない……! それに今、あなたの狙いが分かったわ!」
クリスタはカウンターの下で、さらにハジメとは逆方向を見ながらハッキリという。
「あなたは私の心を惑わせてこのテストをクリアしようとしている……。私を友達のいない可哀想な女だってバカにして、『だったら俺が友達になってやるよ』とか壁ドン顎クイしながら白馬の王子様のフリで私に取り入ろうとしているんでしょ!」
「いや、別にそこまでは……」
「残念ね、この詐欺師! このテストを通ってもあなたに追加のテストを出す必要なんて無いわ。あなたは知らないだろうけどその二つのうち一つは伝説級の魔法薬。私ですら持っていない超貴重品だもの!」
その言葉を聞き、ハジメは破顔した。
「……言質はとったぞ。君はいま、追加のテストは出さないとはっきり口にしたな」
「え?」
予想外のハジメの反応にクリスタは困惑する。そしてクリスタの足元に白い煙のようなひんやりとしたものが漂いはじめ、困惑はさらに増えた。
「不安点はこれだけだった。もし君が提示したテストを通過しても、さらに難易度を上げたテストを出される可能性があったからな。だから言質を取るために色々と君を不快にさせてしまったことは謝るよ」
クリスタは恐る恐る立ち上がる。店の真ん中に立つハジメを見ると、その姿は真っ白な煙に覆われていた。
「君が提示した一つ目、サジ・エディゾイド・ノブラック。噛みそうになるから僕の国の言葉に置き直させてもらうと、二酸化炭素だ。もっとも、これはドライアイスだけどな」
ハジメは扉を開け、カランコロンと鈴の音を鳴らしながらドライアイスの煙を外に逃がした。
「ウソ……。あなた、魔法薬に詳しくないんじゃなかったの……?」
「確かに、”魔法薬”は詳しくないな。この世界の自然節理が僕の知っているものと
違っていれば、解くことはできなかったはずだ」
ハジメの両手には小瓶と小さな綿が握られている。
「そしてこれが伝説級と名高いディウキル・ニレシルゴルティン。僕たちの世界ではニトログリセリンと呼んでいる」
綿を机に置き、そこに小瓶の中の液体を一滴たらした。綿は一瞬にして激しい炎を作り出す。
「『エタエルク』!」
ハジメの後ろに隠れていたフェレスが手をかざすと、マナが水となって鎮火させた。
「……以上だ。君が指定したサジ・エディゾイド・ノブラックとディウキル・ニレシルゴルティン。これでテストは合格かな?」
クリスタは唖然としてしばらく呆けていたが、我に返ると
「分かったわ……」
と言い店の奥へと入っていった。
戻ってくると手には何もついていない鍵を持っている。
「約束だから……」
「ああ。ありがとう」
ハジメは鍵を受け取った。
「うぅ……」
鍵を渡したクリスタの手は震えており、目にはうっすらと涙が溢れている。
「この……」
クリスタは人形を手に付けると、ハジメに向かって突き出した。
「宿無し嘘つきやろう!」
捨て台詞を吐くと、クリスタはすぐに店から逃げるように出て行った。
「……あれじゃあ子供じゃない」
フェレスは呆れながらクリスタの後ろ姿を見つめた。
「フェレスが言えた義理じゃないけどな」
ハジメはフェレスの頭を軽く撫でると、店の鍵を閉めた。フェレスは撫でられた箇所を抑えながらハジメを睨み付ける。
「ひとまず、宿は確保したな」
フェレスが不満げに見上げているが、そんなことは気にせずに二階への階段を上っていく。
二階は埃まみれだが、かなり人が住むには十分すぎるほどの広さだった。
フェレスは長年開いていなかった窓を力尽くで開けると、壁を背にして両手を突き出す。
「『エタエルク』」
風を創造し、小さなつむじ風となって部屋中の埃をかき集めて窓の外へと放り捨てた。
「それにしても、アンタどうして魔法薬が分かったの?」
ベッドやらクローゼットやら部屋のレイアウトを変えているハジメに問いかける。
「何のことだ?」
「アンタの世界とこっちの世界では名前が違うのに、どうしてエディゾイド・ノブラックとニレシルゴルティンをアンタの世界の名前で答えられたのよって聞いてるの!」
「それだよ」
ハジメはフェレスの顔を指さした。
「君は今も、路地裏でも『ディウキル・ニレシルゴルティン』ではなく『ニレシルゴルティン』とだけ言った。これは前者が正式名称で、後者が通称ということだ」
「だったら何になるの?」
「サジとディウキルの部分はあくまで付属。重要なのはそれ以外の言葉ということになる。そして、気になったのは『Bounty Central』に『Crystal Magic』、それとスキンヘッドの管理人に渡された署名書だ。この世界では僕が読める英語が共通言語として使用されている。だが、『ニレシルゴルティン』のように固有名詞は僕も知らないものだ」
ハジメは自虐的に乾いた笑みを浮かべる。
「『ニレシルゴルティン』。口に出すだけでは分からないが、クリスタが紙に書いて渡してくれたおかげで分かりやすくなったよ」
ハジメはフェレスに羊皮紙を渡す。羊皮紙には『DIUQIL・NIRECYLGORTIN』と書かれている。
「実に単純だよ。これを逆から読めば、ニトログリセリン・液体となる。同じ要領でもう一つも二酸化炭素・気体だ」
フェレスは頷いた。
「だから『ディウキル・エイノマ』という単語にも気づけたのね」
「そうだ。窒素・液体となっているが、窒素の液体はアンモニアだからな。ちなみに魔法もすべて逆から読んだ呪文になっている」
初めて出会った少女の氷魔法や、カバリが使っていた体を縮める魔法。口頭ではあったが、そのすべてが逆から読めば「frozen」「shrink」となる。
「なるほどね……だから店の中に並んだ薬品の名前もすべて分かったんだ」
「まあな」
ハジメは椅子に深く座った。
「もう夜だ。君はもう寝るといい」
フェレスは一つしかないベッドを見る。
「……何、レディーファーストでも気取っているつもりなの?」
「悪いが僕は男女平等主義だ。そうじゃなくて、僕は体質的にちゃんと眠らなくてもいいんだよ」
「体質? まあ、そういうことならお言葉に甘えさせてもらうわ」
フェレスはベッドに寝転がり、毛布を被る。
天使とはいえ、堕天しているフェレスは身体の仕組みも人間に近くなっている。それにマナを大量に消費したため、疲労はかなり溜まっていた。
「……言っておくけど、寝ている私にちょっとでも触ったらすぐにロリコン認定で街に悪評を流すわよ」
「天使に似合わないリアルな報復だな。安心しろよ、僕は君の体なんかで欲情するほど飢えていない」
「それならいいんだけど……」
フェレスはそう言うと、ハジメに背を向けて目を閉じる。警戒していた割にはかなり早い段階ですやすやと寝息を立てて寝静まっていた。その姿は天使というよりも普通の人間の女の子だ。
しかし紛れもなく、フェレスの天使である奇跡の力をハジメは利用した。
ドライアイスもニトログリセリンもフェレスは触れたことがないため『創造』で創り出すことはできなかった。そこでハジメはクリスタの部屋にある薬品の中から元素を探し出し、それをフェレスに触れさせることで『創造』で作れるように指示した。
しかも元素を創り出せるだけではドライアイスは用意できない。
そのため、フェレスにはもう一つの指示をした。圧縮から冷却、脱水まですべてを『創造』でやってのけ、その場でドライアイスとニトログリセリンを化合したのだ。
一方ハジメがしていたのはクリスタの注意を引くこととクリスタを騙して言質を取ること。フェレスはローブの下で天使の羽根を生やしながらずっとマナを消費していたのだ。
ハジメは手を横にかざす。
「エタエルク」「エゾルフ」「トセラ」
この一日で聞いた魔法を片っ端から唱えていくが、その手からは何も出ることがなかった。
「……誰でも使えるんじゃないのかよ」
ストレインに文句を垂れながらも、ハジメは心のどこかで自分が魔法を使えないことを察していた。
(そもそも僕はマナすら感じ取ることができない)
ハジメはゆっくりと目を閉じる。眠ることはできないが、こうして目を閉じることで心と頭を落ち着けることができた。
静寂の中、ハジメはこの一日の出来事を振り返る。
訳の分からない世界に来て、その世界には魔法があり、ハジメをこの世界に送ったのは神様と天使だという。ひょんなことから衛兵の力になり、この世界でも探偵として生きていくことになった。
「あの狭い部屋でダラダラと過ごしていた日々とは、まったく違うな」
いつもは退屈だった眠らない夜も今では一日を振り返るためのいい時間だ。
ハジメはこの世界に居心地の良さを感じていた。
次の日、日の出と共に『Crystal Magic』の扉がゆっくりと開かれ、クリスタが恐る恐る店の中に入った。
「随分と早起きなんだな」
「ひゃあ!」
いきなり現れた半裸のハジメにクリスタは飛び上がるように驚き、すぐにカウンターに逃げ込んだ。
「そんなに驚かなくても良いだろ。シャワーを少し借りたんだよ」
ハジメは階段の隣に備え付けられているバスルームを指さした。
クリスタはカウンターから顔を覗かせ、水の滴るハジメの顔と鍛えられた上半身の筋肉を見てすぐにカウンターの下に戻った。
そして代わりのクリスタ人形が登場する。
「別に驚いたわけじゃないわよ! いいから服を着なさい! そんなカッコ……みすぼらしい姿で店をうろつかれたら私だって困るのよ!」
「それは悪かった」
ハジメは薄着のシャツを着る。
「ところで勝手にシャワーを借りてしまったが、大丈夫だったか?」
「……勝手にこの家に居候している時点でシャワーくらいどうってことないでしょ」
「勝手に居候って……僕はちゃんとテストには通ったぞ」
「それは……」
正論にクリスタは言葉を詰まらせる。やがて開き直ったのか、クリスタ人形はやれやれという風に肩をすくめた。
「もう、分かったわよ……。その代わり、しっかり店の手伝いはして貰うわよ。それと、絶対に問題ごとは起こさないように!」
「百も承知だ」
「あと……」
クリスタの声が少しだけ小さくなる。
「あなたの名前、聞いていなかったわね」
「……そうだったな。僕の名前は――」
クリスタと話した後、ハジメはバウンティセントラルに朝一番で足を運んだ。
店の中はブレイクダークのメンバーたちが飲んだくれて寝ており、窓口にはスキンヘッドの管理人が手作りと思われるサンドイッチの朝食を食べていた。
管理人はハジメに気付くと、契約書を取り出す。
「来たか」
ハジメは男から契約書を受け取ると、スラスラと空欄を埋めていった。
「これでいいだろ」
男に渡す。
「……この一晩で、本当に宿を見つけてくるとはな」
「まあな。だが彼らの力は借りていない」
ハジメは大きなイビキを立てているブレイクダークの男たちに目を向ける。
「……そうか」
管理人は笑いこそしなかったが、満足げな表情を浮かべた。
「お前の名前は登録しておく。名前、『エース』でよかったか?」
「ああ。僕の名前はエースだ」
この日よりハジメ改めエースはこの謎多き世界で正式に探偵として働き始めることになった。
そう判断したハジメは店を出ると、すぐに路地裏の中でも特に狭い通路へと入っていった。
数十秒後、ハジメを追うようにフードを深くかぶった小さな子どもが狭い通路へとやってきた。コソコソと足音を立て、物陰から路地裏をのぞき込む。
「あれ?」
子どもはキョトンとした顔で路地裏を見渡した。通路の奥には建物が立っており、完全に行き止まりになっている。しかし先ほど入ったはずのハジメの姿がなかったのだ。子供は路地裏の中に入り、抜け道がないか確かめる。
「僕に用でもあるのか?」
声がして振り返ると、そこにはいつのまにかハジメが後ろで仁王立ちをしていた。
「えっと……何のことでしょうか」
子どもは目をそらして誤魔化そうとするが、ハジメにはすべてお見通しだった。
「君はずっと僕を尾行していただろう。しかも、僕が留置所から出てきたときからずっとだ。だから僕はこうして路地裏に入り、壁を登ってまでして君を追い詰めたんだよ」
ハジメは子供に詰め寄る。
「こんな無一文の男を小さな子供が追いかけるなんて相当深い理由がないとありえない。だが考えるまでもないだろ。この世界に来たばかりの僕を追いかける理由など、僕がこの世界に来たことしかない」
子どもは踵を返して一気に駆けだした。行き止まりの方へ向かって走り出したが、ハジメは万全を期してフードを掴む。しかし子供は上着を脱ぎ捨てた。
金髪の長い髪が翻り、白色の瞳がハジメを見据えた。おそらく女の子だろう。見た目は10歳過ぎくらいだが、体のラインや肉の付き方がやや女性的だ。しかし、男か女かを気にするよりも注視すべき点があった。
背中から生えた純白の羽根。
あまりに美しい黄金比を作った羽根にハジメは思わず見入ってしまった。そのため、少女は手のひらをハジメの顔に向けたことに反応が遅れてしまう。
「『エタエルク』……!」
呪文と共に手のひらに電撃が溜まる。
ハジメは少女の手のひら越しに鋭い眼光と目が合う。その瞳には覚悟が宿っていた。ハジメは直感で電撃が放たれること、そしてそれを避けられないことを感じ取っていた。
次の瞬間、少女の瞳が大きく見開かれ、同時にマナを溜めていた右手を閉じた。
「……バレたら仕方ないわね」
観念したのか、ハジメにはもう敵意を向けていないようだった。
右手で髪の毛を払いのけると、左手は腰に当ててキリッとした表情を作る。いわゆるドヤ顔というやつだ。
「人間ごときが私の正体に気付くなんて大したものよ、褒めてあげる」
「君の正体に気付いたわけではない。労いの言葉をくれるくらいなら君の名前を教えたらどうだ?」
少女は苦虫を嚙み潰したような表情でそっぽを向く。
「……分かったわよ」
渋々といった様子で、少女は自分の胸に手を当てた。
「私の名前はフェレス。大地の創造主にして人類の母であるハサルシャム様に使いし天使よ」
名乗ったのはいいが、ハジメには頭をひねるような自己紹介だった。
「創造主に天使? この世界では魔法以外に神性なものまで存在しているのか」
「そんなわけないでしょ。この世界でも神様は多くの人から宗教の偶像として認識されているわ。私がそこら辺の人間に天使だと名乗っても誰一人信じる人はいないでしょうね」
「だが実際に君がここにいるということは、神とやらは存在しているということでいいんだな?」
「そうね。私が言いたいのはあくまで人間の考えと世界の真理に乖離があるということ。この世界で魔法が常識になっているように、どの世界でも常識が真実とは限らないのよ」
ハジメはフェレスのつま先から頭までを舐めまわすように見渡す。翼のために大きく背中の開いたワンピースのような服を着ており、ノースリーブで肩も露出している。
「質問だが、君はいくつだ?」
「年齢のこと? そもそも人間世界での時の経ち方とは違うのよね……。私が生まれたのが大体グリム童話と同じくらいって言ったらわかるかしら」
「……大体300歳か」
そのとき、ハジメはふと疑問を感じた。だがその疑問を口にするより先にフェレスが言葉を紡ぐ。
「アンタが聞きたいのってそんなこと? もっと聞きたいことあるでしょ」
「答えてくれるのか?」
「当り前よ。私は天使なんだから、人間の疑問に答えるくらい当然の義務よ」
「なら魔法を使うプロセスを教えてくれ」
「無理ね」
当然の義務はどこに行ったのやら、フェレスは即答した。
「魔法はそんな簡単に説明できるものじゃないのよ。……っていうかなんで魔法についてなのよ。アンタがここに来た理由とかここの世界観とかもっと聞きたいことあるでしょ!」
「世界観はともかく、どうせ理由は君も知らないんだろ」
ハジメの発言にフェレスは言葉が詰まる。
「……鎌を掛けたつもりだったんだが、まさか本当に知らないのか」
「え、気づいてなかったの?」
フェレスは悲壮感に溢れた表情をする。
「君はハサルシャムという神の使いだと言った。神が天使よりも上位の存在なら、僕がこの世界に来たのは君の独断ではなくハサルシャムの意も介しているだろ。だが君の様子を見る限り、君はただの下請けみたいに見えたから鎌を掛けてみたんだよ」
「その通りだけど、アンタに言われると癪ね……。ええ、私は天使の中でも立場は下の方よ」
「なら、僕がここにいる理由を知るには君ではなくハサルシャムに直接聞くとするよ」
開きなおったフェレスだったが、このエースの発言には牙をむいて反論する。
「アンタがハサルシャム様に謁見するような機会は一生訪れないわ! そもそもこの世界に連れてこられたことだってただの気まぐれのようなものよ。深い理由はないでしょうしね」
「ということは、やはり君にはまったく話を聞かされていないのか。信頼されていないんだな」
今度は頭に青筋を立てながらフェレスはハジメを睨みつけた。
「信頼されてるにきまってるでしょ! 今だってわざわざ私を人間界に堕天させてまでアンタの監視を任されているのよ!」
「……」
数秒の間を空け、フェレスは自分の失態に気付いたようだ。
「いや、堕天っていうのは違くて……監視っていうのもホラ、言葉の綾というかね……?」
「……捨てられたならそう言ってくれよ」
「捨てられてない! 私はハサルシャム様に厄介払いなんてされてない!」
思い当たる節があるのか、フェレスは涙目になりながら首を横に振った。
怒ったり泣いたり感情は人間と同じように、何なら平均よりも豊かな感情表現をするようだ。
フェレスも別に捨てられたわけではなく、堕天しなければそもそも人間界に降りてくることができなかったのだ。
「ところで、君は人間界で泊まるような場所はあるのか?」
「う……」
分かりやすく目をそらして言葉に詰まる。
「この地域は治安が悪い。かといって森の方へ行けば魔獣の群れがいるらしい。いくら天使でも一人で生きていくのは厳しいだろうな?」
「うう……」
魔獣の件は今適当に作った嘘だが、フェレスは信じているようだった。
さらにハジメは追い打ちをかける。
「監視対象にも気づかれて、使命を全うできないような天使は使い捨てられるだけだな……」
「ううう……」
小刻みに身体を震えさせて涙を必死にこらえている。この姿だけ見れば、外見に応じた幼い少女のようだ。
「……分かったわよ。アンタに手を貸して上げる」
「……じゃあ、まずは君の魔法とこの世界について聞かせてもらおうか」
フェレスも落ち着き、二人は改めて会話を始める。その頃には既に陽がオレンジ色に染まっており、クリスタとの約束の時間までもう少しだ。
「私の能力は『創造』。一見飛べそうに見えるこの羽根は人間界ではただの飾り。飛ぶことはできないわ。普段はこの羽根は隠すことができるけど、『創造』を使うときは羽根を広げる必要があるから誰にも見られないように注意しなくちゃいけないの。天使の存在に気付かれると色々厄介だからね」
「ちなみに、その『創造』っていうのはどんな魔法なんだ?」
「正しく言うと魔法じゃないわ」
フェレスは地面の小石を拾い上げた。
「『フィルク』」
呪文と共にフェレスの手の中にある小石は徐々に大きくなった。
「これは魔法。マナを用いて石を巨大化させているの。いわゆる1を5にする行為。マナの扱いに長ければ1を100にでも1000にでも、100を1にすることだってできるわ」
石を地面に投げ捨てると、元の小石に戻っていた。
続いてフェレスは手の平を上に向ける。
「『エタエルク』」
手の平にマナが集まり、何もなかった空間から光り輝く金の延べ棒へと変わった。
「こうして何もない場所から物質を創り出すのが『創造』よ。0から生み出すことができるのは天界人にしかできない力なの」
「これは本物なのか?」
「ええ、もちろん」
ハジメはフェレスから金の延べ棒を受け取る。重量や表面を確認して、純金であることを確認した。
「それは確かにこの世界に実在する金よ。魔法で作られた物質とは違い、創り出した私が近くにいなくてもその金は存在し続けることができるの。ただ、――」
フェレスは金の延べ棒をハジメから返してもらい、「エテレド」とそう呟いた。
すると金の延べ棒は粒子となって消えていく。
「私ならこのように100あるものを0にすることだってできる。これは私が『創造』で創り出したものに限らず、すでにあるものでも消滅させることができるわ」
「……どんな物質でも消すことができるのか」
「全部じゃないわ。私でも創ることができるのは生命の宿っていないものだけ。それもどういう構成で作られているかを把握していないと創造はできないわ」
生命というものがどの範囲までの存在を示しているのかは分からないが、人間や動物のことを示唆していることは間違いない。
「生物を創れないのは何か理由があるのか?」
「単純に構成物が複雑っていうこともあるけど、この世界に理に反することだからね。生命を作るっていうのは正規の繁殖で増やすか、神様しかできない奇跡のようなものよ。私みたいな天使には生命を作る権利がないの」
「神様か……」
ハジメは顎に手を当ててフェレスから目線を外す。
(気になることはあるが、今は目の前の課題を優先するべきか)
ポケットから紙切れを取り出す。クリスタに提示されたテストの内容だ。それをフェレスに見せた。
「ここに書かれているものはなんだ? 文字は読めるが、意味までは分からないんだ」
「ちょっと借りるわね」
フェレスは中身を読む。そして頬を引きつらせて面倒くさそうな表情を浮かべる。
「サジ・エディゾイド・ノブラック。それとディウキル・ニレシルゴルティンね」
そして深いため息をつく。
「さっきは外から様子を伺っていたけど、あの店主もとんでもないものを要求するわね。ニレシルゴルティンを扱っている魔法使いなんて歴史上から見ても数人程度よ」
「希少なのか?」
「希少も希少。どんなものなのかも全く分かっていないわ」
ハジメは紙を返してもらい、その中身をじっと見つめる。目は紙を見ているが、その思考は遥か遠くまで及んでいる。
店の中にあった瓶に張られていた文字やクリスタ、フェレスとの会話が何度も頭の中で反芻されている。
「……なんか、アンタがこの世界に連れてこられた意味がなんとなく分かったわ」
フェレスの言葉でハジメは我に返った。しかし、フェレスの言葉の意図は分からない。
ハジメが首をかしげているのを見て、フェレスは深いため息をつく。
「アンタの世界のことは少しだけ知っているけど、正直言って私は良い世界だとは思わないわ。科学は一人の天才によって皆に恩恵が与えられるけど、魔法は自分とその家族にしか恩恵が与えられないのよ。確かに閉鎖的だとは思うけど、要するに魔法は個人の幸せを得るために努力するのよ。でも、科学は皆の幸せを追求するでしょ」
「一概に肯定はできないが、まあ君の言うとおりではある。僕たちの世界で優先されるのは個人よりも社会全体の幸せだ」
「……ハサルシャム様に聞いたわ。前の世界では周りの人や家族にも嫌われていたんでしょ。でもそれじゃあ仕方が無いわよ。アンタみたいに才能を無駄遣いして自分のためだけに生きる人間なんて、周りから忌み嫌われて当然だもの」
ハジメは少し黙った後、首を小さく振った。
「それは違う。僕は何も自分のためだけに才能を使っているわけじゃない。まあ8割くらいは自分のためだ。……だが、自分のために使うなら僕は探偵なんて目指していないよ」
ハジメは続ける。
「僕は謎を解くことで誰かが救われると信じている。それに君が科学の世界を良い世界ではないというのは間違っているよ。少なくとも皆のために才能を遺憾なく使った人は正しいことをしたんだ」
「……意外と正論を叩きつけるわね」
フェレスは壁にもたれかかり、三角座りをした。
「要するにアンタはノドルの時計塔ってことね」
「ノドルの時計塔?」
「多分もう少しで鳴るわよ」
フェレスは指を立て、沈黙が流れる。
その沈黙を破るように街中全体に大きな鐘の音が鳴り響いた。
「これ、鐘の音だったのか」
ハジメは何度かこの音を聞いたが、これが鐘の音だとは気づいてなかった。
「城内の中央に巨大な時計塔があるのよ。時計は1時間ごとに鐘が鳴るようになっていて、時計がないこの世界ではあの時計塔は人々に時間を教える重要なものなのよ」
「どおりでこの世界に来てから時計がないわけだ」
「あの時計を作ったのは一人の天才だったのよ。とある魔法使いがすべてのマナを使って向こう1000年動くだけの大時計を作ったの。それ以来ノドルの時計塔は四季によって日照時間が変わっても正確に時間を教えてくれる国民たちの支えになったのよ」
「……この世界でも他人のために才能を使った人間がいたってことか」
フェレスは砂を払いながら立ち上がった。
「私はハサルシャム様がアンタを適した世界に連れてきたのかと思ったけど、アンタはそれでも変わらない生き方をするのね」
「そうだな……。他人からの嫌悪は僕の行動を変える要因にはならない。どこであっても僕のすることは変わらないよ」
ハジメは大きく息を吸った。
「だが、確かにこの世界で別の生き方をしてみるのは悪くない。苗字持ちは目立つからいっそのこと改名でもしてみるか」
フェレスは呆れて肩をすくめた。しかし、その口元はかすかに笑っている。
「分かったわよ。私も監視を命令されているし、出来る限りのサポートはしてあげる。ホラ、もう一度紙を見せなさい。私がその言葉の意味を詳しく教えてあげるから」
「その必要はない」
ハジメはきっぱりと断った。
「必要ないって……それじゃあ何をもっていけばいいか分からないじゃない」
「雑談で時間を使ってしまったからな。早くあの店に戻ろう。道すがら君に頼みたいこともある」
「でも……」
「それと、――」
ハジメは手に持っていたフェレスの上着を投げ返した。
「僕が店で嗅いでいた液体『エトーザ』の正式名称はディウキル・エイノマ、だろ?」
「どうして分かったの……?」
フェレスの問いかけにハジメは口角を上げて笑った。
扉の鈴の音が鳴ると、人の姿を確認せずにクリスタはカウンターの下に逃げ込んだ。のぞき込むようにカウンターの下から恐る恐る顔を出した。
扉の前にはハジメと見覚えのない少女が並んで立っていた。
「その子は……?」
「フェレスだ。まあ、僕の妹のようなものだと思ってくれ」
足元のフェレスは妹扱いされたことに不服でハジメを睨みつけるが、ハジメはその反抗に全く取り合わない。
「言われた通りの物を持ってきたぞ」
クリスタはゆっくりとカウンターの下に潜ると、代わりにクリスタ人形をカウンターの上に出した。
「本当かしら? 言っておくけど、私を騙そうなんてノドル国を攻め落とすほど不可能よ!」
ハジメはノドル国の国防力など知らないが、クリスタが人形を介して話を始めることは予想済みだ。
フェレスにアイコンタクトを送ると、フェレスは店の棚に忍び足で近づく。液体の入ったラベルを一つ一つ確認し、その中の一つに手を伸ばした。
クリスタにバレないようにハジメは話を始める。
「ところで、クリスタ。君はどうしてこんなまどろっこしいテストを出したんだ」
「何のこと?」
「君は僕が魔法薬に詳しくないことに気付き、陽が沈むまでという制限を掛けてまで無理難題なテストを出した。だが僕がここに住むことを本当に拒みたいのなら、初めから君は断っても良かったじゃないか」
「……別にただの気まぐれよ」
クリスタ人形は手をバタバタと動かして反論する。
「私ははっきりと断るのが嫌だから遠回しに拒否しただけ。変な深読みは止めてくれないかしら」
その言葉に対し、ハジメは「違うだろ」と反論した。そして手に持っていた羊皮紙をカウンターに置く。
「確かにこの二つは入手が困難な代物だが、絶対に手に入らないというようなものではない。僕が魔法液に詳しくないと分かっていたなら架空の名前を書いてもバレなかったんじゃないのか。蓬莱の珠の枝や火鼠の皮衣とか燕の子安貝とか色々あっただろう」
「ホウライ……ヒネズミ……コヤス? 一体何の話をしているのよ」
クリスタはハジメのたとえにピンと来ていないようだが、ハジメはそのまま会話を続ける。
「もしこのテストを通ったら君はさらに難易度の高い要求をしてまで僕を拒否してくるかとも考えたが、君はそうはしないはずだ。なぜなら、君は心のどこかで孤独を埋めてくれる存在を探していたから」
クリスタ人形を操る右手が力なく下がり、クリスタ人形は命がなくなったように俯く。
「君は、寂しかったんだろ。人形じゃない誰かと話がしたかったんじゃないのか」
クリスタは右手を下げ、クリスタ人形を胸に抱いた。人形に縫い付けられた青いボタンの瞳はクリスタの目をじっと見つめている。
「……違う」
再びカウンターの上にクリスタ人形が現れ、丸い腕を突き出しながら大きく口を開いた。
「そんなわけない……! 寂しくなかったことはないけど、この子以外の誰かと話したくなったことなんて一度もない……! それに今、あなたの狙いが分かったわ!」
クリスタはカウンターの下で、さらにハジメとは逆方向を見ながらハッキリという。
「あなたは私の心を惑わせてこのテストをクリアしようとしている……。私を友達のいない可哀想な女だってバカにして、『だったら俺が友達になってやるよ』とか壁ドン顎クイしながら白馬の王子様のフリで私に取り入ろうとしているんでしょ!」
「いや、別にそこまでは……」
「残念ね、この詐欺師! このテストを通ってもあなたに追加のテストを出す必要なんて無いわ。あなたは知らないだろうけどその二つのうち一つは伝説級の魔法薬。私ですら持っていない超貴重品だもの!」
その言葉を聞き、ハジメは破顔した。
「……言質はとったぞ。君はいま、追加のテストは出さないとはっきり口にしたな」
「え?」
予想外のハジメの反応にクリスタは困惑する。そしてクリスタの足元に白い煙のようなひんやりとしたものが漂いはじめ、困惑はさらに増えた。
「不安点はこれだけだった。もし君が提示したテストを通過しても、さらに難易度を上げたテストを出される可能性があったからな。だから言質を取るために色々と君を不快にさせてしまったことは謝るよ」
クリスタは恐る恐る立ち上がる。店の真ん中に立つハジメを見ると、その姿は真っ白な煙に覆われていた。
「君が提示した一つ目、サジ・エディゾイド・ノブラック。噛みそうになるから僕の国の言葉に置き直させてもらうと、二酸化炭素だ。もっとも、これはドライアイスだけどな」
ハジメは扉を開け、カランコロンと鈴の音を鳴らしながらドライアイスの煙を外に逃がした。
「ウソ……。あなた、魔法薬に詳しくないんじゃなかったの……?」
「確かに、”魔法薬”は詳しくないな。この世界の自然節理が僕の知っているものと
違っていれば、解くことはできなかったはずだ」
ハジメの両手には小瓶と小さな綿が握られている。
「そしてこれが伝説級と名高いディウキル・ニレシルゴルティン。僕たちの世界ではニトログリセリンと呼んでいる」
綿を机に置き、そこに小瓶の中の液体を一滴たらした。綿は一瞬にして激しい炎を作り出す。
「『エタエルク』!」
ハジメの後ろに隠れていたフェレスが手をかざすと、マナが水となって鎮火させた。
「……以上だ。君が指定したサジ・エディゾイド・ノブラックとディウキル・ニレシルゴルティン。これでテストは合格かな?」
クリスタは唖然としてしばらく呆けていたが、我に返ると
「分かったわ……」
と言い店の奥へと入っていった。
戻ってくると手には何もついていない鍵を持っている。
「約束だから……」
「ああ。ありがとう」
ハジメは鍵を受け取った。
「うぅ……」
鍵を渡したクリスタの手は震えており、目にはうっすらと涙が溢れている。
「この……」
クリスタは人形を手に付けると、ハジメに向かって突き出した。
「宿無し嘘つきやろう!」
捨て台詞を吐くと、クリスタはすぐに店から逃げるように出て行った。
「……あれじゃあ子供じゃない」
フェレスは呆れながらクリスタの後ろ姿を見つめた。
「フェレスが言えた義理じゃないけどな」
ハジメはフェレスの頭を軽く撫でると、店の鍵を閉めた。フェレスは撫でられた箇所を抑えながらハジメを睨み付ける。
「ひとまず、宿は確保したな」
フェレスが不満げに見上げているが、そんなことは気にせずに二階への階段を上っていく。
二階は埃まみれだが、かなり人が住むには十分すぎるほどの広さだった。
フェレスは長年開いていなかった窓を力尽くで開けると、壁を背にして両手を突き出す。
「『エタエルク』」
風を創造し、小さなつむじ風となって部屋中の埃をかき集めて窓の外へと放り捨てた。
「それにしても、アンタどうして魔法薬が分かったの?」
ベッドやらクローゼットやら部屋のレイアウトを変えているハジメに問いかける。
「何のことだ?」
「アンタの世界とこっちの世界では名前が違うのに、どうしてエディゾイド・ノブラックとニレシルゴルティンをアンタの世界の名前で答えられたのよって聞いてるの!」
「それだよ」
ハジメはフェレスの顔を指さした。
「君は今も、路地裏でも『ディウキル・ニレシルゴルティン』ではなく『ニレシルゴルティン』とだけ言った。これは前者が正式名称で、後者が通称ということだ」
「だったら何になるの?」
「サジとディウキルの部分はあくまで付属。重要なのはそれ以外の言葉ということになる。そして、気になったのは『Bounty Central』に『Crystal Magic』、それとスキンヘッドの管理人に渡された署名書だ。この世界では僕が読める英語が共通言語として使用されている。だが、『ニレシルゴルティン』のように固有名詞は僕も知らないものだ」
ハジメは自虐的に乾いた笑みを浮かべる。
「『ニレシルゴルティン』。口に出すだけでは分からないが、クリスタが紙に書いて渡してくれたおかげで分かりやすくなったよ」
ハジメはフェレスに羊皮紙を渡す。羊皮紙には『DIUQIL・NIRECYLGORTIN』と書かれている。
「実に単純だよ。これを逆から読めば、ニトログリセリン・液体となる。同じ要領でもう一つも二酸化炭素・気体だ」
フェレスは頷いた。
「だから『ディウキル・エイノマ』という単語にも気づけたのね」
「そうだ。窒素・液体となっているが、窒素の液体はアンモニアだからな。ちなみに魔法もすべて逆から読んだ呪文になっている」
初めて出会った少女の氷魔法や、カバリが使っていた体を縮める魔法。口頭ではあったが、そのすべてが逆から読めば「frozen」「shrink」となる。
「なるほどね……だから店の中に並んだ薬品の名前もすべて分かったんだ」
「まあな」
ハジメは椅子に深く座った。
「もう夜だ。君はもう寝るといい」
フェレスは一つしかないベッドを見る。
「……何、レディーファーストでも気取っているつもりなの?」
「悪いが僕は男女平等主義だ。そうじゃなくて、僕は体質的にちゃんと眠らなくてもいいんだよ」
「体質? まあ、そういうことならお言葉に甘えさせてもらうわ」
フェレスはベッドに寝転がり、毛布を被る。
天使とはいえ、堕天しているフェレスは身体の仕組みも人間に近くなっている。それにマナを大量に消費したため、疲労はかなり溜まっていた。
「……言っておくけど、寝ている私にちょっとでも触ったらすぐにロリコン認定で街に悪評を流すわよ」
「天使に似合わないリアルな報復だな。安心しろよ、僕は君の体なんかで欲情するほど飢えていない」
「それならいいんだけど……」
フェレスはそう言うと、ハジメに背を向けて目を閉じる。警戒していた割にはかなり早い段階ですやすやと寝息を立てて寝静まっていた。その姿は天使というよりも普通の人間の女の子だ。
しかし紛れもなく、フェレスの天使である奇跡の力をハジメは利用した。
ドライアイスもニトログリセリンもフェレスは触れたことがないため『創造』で創り出すことはできなかった。そこでハジメはクリスタの部屋にある薬品の中から元素を探し出し、それをフェレスに触れさせることで『創造』で作れるように指示した。
しかも元素を創り出せるだけではドライアイスは用意できない。
そのため、フェレスにはもう一つの指示をした。圧縮から冷却、脱水まですべてを『創造』でやってのけ、その場でドライアイスとニトログリセリンを化合したのだ。
一方ハジメがしていたのはクリスタの注意を引くこととクリスタを騙して言質を取ること。フェレスはローブの下で天使の羽根を生やしながらずっとマナを消費していたのだ。
ハジメは手を横にかざす。
「エタエルク」「エゾルフ」「トセラ」
この一日で聞いた魔法を片っ端から唱えていくが、その手からは何も出ることがなかった。
「……誰でも使えるんじゃないのかよ」
ストレインに文句を垂れながらも、ハジメは心のどこかで自分が魔法を使えないことを察していた。
(そもそも僕はマナすら感じ取ることができない)
ハジメはゆっくりと目を閉じる。眠ることはできないが、こうして目を閉じることで心と頭を落ち着けることができた。
静寂の中、ハジメはこの一日の出来事を振り返る。
訳の分からない世界に来て、その世界には魔法があり、ハジメをこの世界に送ったのは神様と天使だという。ひょんなことから衛兵の力になり、この世界でも探偵として生きていくことになった。
「あの狭い部屋でダラダラと過ごしていた日々とは、まったく違うな」
いつもは退屈だった眠らない夜も今では一日を振り返るためのいい時間だ。
ハジメはこの世界に居心地の良さを感じていた。
次の日、日の出と共に『Crystal Magic』の扉がゆっくりと開かれ、クリスタが恐る恐る店の中に入った。
「随分と早起きなんだな」
「ひゃあ!」
いきなり現れた半裸のハジメにクリスタは飛び上がるように驚き、すぐにカウンターに逃げ込んだ。
「そんなに驚かなくても良いだろ。シャワーを少し借りたんだよ」
ハジメは階段の隣に備え付けられているバスルームを指さした。
クリスタはカウンターから顔を覗かせ、水の滴るハジメの顔と鍛えられた上半身の筋肉を見てすぐにカウンターの下に戻った。
そして代わりのクリスタ人形が登場する。
「別に驚いたわけじゃないわよ! いいから服を着なさい! そんなカッコ……みすぼらしい姿で店をうろつかれたら私だって困るのよ!」
「それは悪かった」
ハジメは薄着のシャツを着る。
「ところで勝手にシャワーを借りてしまったが、大丈夫だったか?」
「……勝手にこの家に居候している時点でシャワーくらいどうってことないでしょ」
「勝手に居候って……僕はちゃんとテストには通ったぞ」
「それは……」
正論にクリスタは言葉を詰まらせる。やがて開き直ったのか、クリスタ人形はやれやれという風に肩をすくめた。
「もう、分かったわよ……。その代わり、しっかり店の手伝いはして貰うわよ。それと、絶対に問題ごとは起こさないように!」
「百も承知だ」
「あと……」
クリスタの声が少しだけ小さくなる。
「あなたの名前、聞いていなかったわね」
「……そうだったな。僕の名前は――」
クリスタと話した後、ハジメはバウンティセントラルに朝一番で足を運んだ。
店の中はブレイクダークのメンバーたちが飲んだくれて寝ており、窓口にはスキンヘッドの管理人が手作りと思われるサンドイッチの朝食を食べていた。
管理人はハジメに気付くと、契約書を取り出す。
「来たか」
ハジメは男から契約書を受け取ると、スラスラと空欄を埋めていった。
「これでいいだろ」
男に渡す。
「……この一晩で、本当に宿を見つけてくるとはな」
「まあな。だが彼らの力は借りていない」
ハジメは大きなイビキを立てているブレイクダークの男たちに目を向ける。
「……そうか」
管理人は笑いこそしなかったが、満足げな表情を浮かべた。
「お前の名前は登録しておく。名前、『エース』でよかったか?」
「ああ。僕の名前はエースだ」
この日よりハジメ改めエースはこの謎多き世界で正式に探偵として働き始めることになった。