相変わらず揺れのひどい車内でエースとフェレスは並んで座った。
エースは運転する御者に聞えないようフェレスに話しかける。
「さっきの天秤の話、確か『リブラ――……」
「『リブラストレア』ね。確かに『リブラストレア』は神器のうちの一つよ。……ただ、城内にある天秤はおそらく模造品ね。それにしても、いつの間に作ったのかしら……」
フェレスはエースに質問されることを分かっていたようで、スラスラと話し出した。
「どうして模造品だと言い切れる?」
「そもそも神器はすべてハサルシャム様が所持しているからよ。アンタに渡した虫眼鏡『マナグラスコープ』は私がハサルシャム様から直接預かった本物だけど、この世界にある神器と呼ばれるものは偽物なのよ」
「……僕はこの世界についてよく知らないが、そんな簡単に模造品なんて作れるのか?」
「簡単には無理よ。文献に残った情報をもとに再現したり、ハサルシャム様自身が人類のためにヒントを与えたりすることもあるわ。ただそれでも所詮は人間が造ったもの。本物の神器よりは格は下がるわ。
前にノドルの時計塔についても話したでしょ。あれも神器の伝説を元に再現した模造品になるわ」
「じゃあ天秤も本来の神器の力とは違うってことか」
「違うでしょうね。本物の『リブラストレア』が持つ力は世界の事象をすべて把握したうえで対象の相手の言葉の真偽を図る。でも模造品のほうはおそらく、質問に対する相手の認知によって真偽を図っているんじゃないかしら。ちょっと複雑なんだけど、アンタならこの説明で分かるでしょ」
フェレスの話は抽象的だが、おおよその予想がついていたエースにはフェレスの予想通り理解をしていた。
「要するに偽物なら勘違いや深い洗脳をされている場合は嘘をついていても天秤は動かないってことだろ」
「そうゆうこと」
二人は会話がひと段落着いたところで馬車はバウンティセントラルに到着した。エースは御者に領収書を貰うと馬車から降りる。
「ちなみにもしも僕が最高裁判官とやらに『どうやってこの国に密入国した』と聞かれた場合、僕は『密入国はしていない』と答えるしかないよな」
エースは続けてフェレスに質問をする。
「まあ、アンタはハサルシャム様の力によってここに来たのだから入国の方法は答えられるわけないわね」
「そうだ。だがその場合、天秤はどう動くんだ?」
「偽物なら動くことはないでしょうね。なんだったら『どうやってこの国に来た』という質問にも動かないはずよ。アンタは連れてこられたのだから、知らないことは答えられないもの」
「じゃあ本物ならどうなるんだ?」
「そうね……。多分動くんじゃないかしら。経緯はどうあれ、アンタがこの国にいるということはどこかから来たことは確かだもの」
「だがそれだと僕も真実を教えられないし相手も真実を知ることができないだろ」
フェレスは首を横に振る。
「そもそも本物は人を裁くために使われていないのよ。世界の真理を知るためのあくまで指針なんだから」
「なるほど……」
こんな会話をしている間に二人はバウンティセントラルの窓口までたどり着いた。いつも通りサングラスをかけたスキンヘッドの管理人が小さな四方形の窓から顔をのぞかせている。
「管理人、今日は頼みたいことがあって来た」
すると管理人は無言で大きなファイルをカウンターの上に置いた。困惑する二人に対し、管理人はファイルを顎でしゃくった。
フェレスが手を伸ばしてファイルを開くと、中身はフィールドのこれまでの経歴や受注した依頼内容がまとめてあった。
「……お前さんが無事でよかったよ」
管理人はエースに向かってそう告げると、コーヒーを片手にそっぽを向いた。
「協力感謝する」
エースはファイルを受け取り、近くの座席へと歩き出す。後に続くフェレスはエースに疑問を投げかけた。
「ちょっと、あの男いったい何者?」
「ただの管理人だよ。こういう粋な計らいが好きな」
椅子に座るとエースはページを一枚ずつ捲っていく。フェレスは隣からそれをのぞき込むが、背中に刺さる視線に気づいて振り向いた。
そこにはバウンティセントラルに加盟している多くの人たちが噂話をしながら二人を見ていた。
(いや、私じゃない……。エースだ)
フェレスは天使であることが周りにばれたら厄介なことになるため、外に出るときは周りの視線に常に気を払っている。そのため周囲の視線がフェレスではなくエースにのみ注がれていることにすぐに気づけた。
(でもどうして……)
フェレスはエースがブレイクダークのメンバー相手に大立ち回りをしたことは知らないため、エースが噂話される理由が分からなかった。エースに直接聞こうにも、本人は視線には全く気にせず一心にページを捲っていた。
まるで流し読みでもしているかのようにパラパラとページをめくり、目線は高速で文字を追っている。資料は200ページ以上あったが、エースはそれを10分足らずですべて読み終わった。
「大体は理解した」
そういうと資料を一度閉じる。フェレスは周りの視線も気になったが、それよりも事件のことを優先して尋ねる。
「じゃあフィールドの魔法についても書いていたの?」
「いや、やはりフィールドの魔法に関する情報はほとんど隠されていた。そもそも彼はソロで活動することが多かったようだから情報源が少ない」
フェレスはため息をついた。
「収穫はなしってことね」
「そういうわけでもない」
エースはファイルを開き、フィールドが過去に受けたとある依頼内容のページを開いた。
「見ろ。この依頼でフィールドは山賊のアジトを壊滅させている。アジトは山奥の小さな村だが、後に応援に来た衛兵はこう語っている。『現場にたどり着いた時には村全体に火の手が回っていました。その中心に勇者フィールドがたっていたのですが、火は彼を避けるように彼の周りだけ燃えていなかったのです。我々は彼を助けるために火を消そうとしました。しかし驚いたことに、勇者フィールドは平然と火の海を歩いて戻ってきたのです。彼の身体は全く燃えていませんでした。彼の服も、まったく燃えていません』」
フェレスは唖然として言葉も出なかった。エースはさらに別のページを開いた。
「このページには南極探検隊を苦しめてきた海洋の巨獣を討伐した依頼だ。その巨獣は船を凍らせるほどの冷気を放つようだが、フィールドはいとも簡単にその巨獣を仕留めたらしい。同行した乗組員によると、巨獣の口から放たれた圧縮された冷気が船の機能を完全に凍らせたようだが、その中でもフィールドは平然としていたそうだ」
「要するに……最強の盾?」
フェレスは以前にエースと話した魔法で作る最強の剣と盾の話を思い出した。
「でもそんなのあり得ない……!」
そこまで言い切るが、フェレスの顔はすぐに曇る。
「いや……条件や決定的な弱点を用意すれば可能かしら? もしもマナが完全制御型なら統制の取れたシステムモデルを作れるはずだけど……だとしたら考えられるのは、やはりドット環タイプかランドルト環タイプね」
ブツブツと専門用語らしきものを使うフェレスにエースは声をかけた。フェレスは我に返る。
「せめて分かる言葉で話してくれ」
「あ、ごめん。そうね……フィールドが疑似的とはいえ最強の盾を持っていたことはあり得る話よ。ソロでこれだけの依頼をこなすなんて、攻撃力よりも防御力のほうが必要になるもの」
「それと面白いうわさ話も乗ってあった。フィールドは討伐・賞金首の依頼はすべて受諾しているそうだが、一つだけ断った依頼があるそうだ。それがパレスを勇者まで上がらせた天界龍の討伐らしい」
「天界龍? たしかパレスが勇者になったのって、フィールドよりも前の話よね」
「そうだな」
フェレスは険しい顔を作る。
「ねえ……本当にフィールドって死んでいるのかしら」
「死体は僕が確認した」
「でも黒焦げだったんでしょ。ちょっと前に解決した事件覚えてる? あの借金取りから逃げるために自分の――」
コツリ。
騒がしい人ごみの中で石畳を歩く革靴の音が鳴り響く。コツリ、コツリと一歩ずつ軽快な音で重々しく、真っ黒な毛皮のコートを着て目標へとまっすぐ突き進んでいた。
睨みつけるだけで人を傷つけそうな鋭い視線は、バウンティセントラルの真ん中で胡乱げな表情で金髪の少女と話しているエースを見据える。
(間合い……!)
瞬間、コートを翻して左足で大きく飛躍した。右足、左足と三段跳びをきめると弧を描くような蹴りがエースの顔面に向けられる。
瞬時、背中に殺気を感じてエースは振り返った。既にその長い足はエースを仕留める射程距離内に入っている。
(まずい!)
避けようとすればフェレスに蹴りが当たってしまう。エースは蹴りを左手の甲で防ぎ、右腕で支えながら衝撃を抑える。
「ぐっ!」
歯を食いしばって蹴りに耐える。相手は右足を引いて空中を華麗に一回転してみせると、鋭い目つきでエースを睨みつけた。
その相手の顔に、エースは見覚えがある。
「ドラグマ……」
名前を呼ばれても、ドラグマは平然としている。まるで初対面で、敵と相対している顔だ。
「ちょっと、コイツなんなの!」
驚きと焦りを隠せないフェレスにエースは右手を突き出した。
「君は下がって――」
「俺の名は……」
エースの言葉をさえぎってドラグマが一歩前に踏み出した。
「俺の名は、ブレイクダークのドラグマ! エース、お前に決闘を申し込む」
「決闘? 急に何を言いだす?」
ドラグマは無言で大きく飛躍した。今度は一度でエースの頭上まで移動する。既に右足を高く上げ、踵落としの構えを取っていた。
(骨は折れていないが、左手は痺れが止まらない……)
エースは横に飛びのき、踵落としを回避する。一方ドラグマは踵落としを外したにもかかわらず華麗に着地をしていた。そして依然としてエースを睨む。
「その左手、さっきの蹴りで負傷しているのか」
その問いに答えることはなく、エースは左手を身体で隠した。
「……さっきのは半ば不意打ちのようなものだ。お前とは対等に戦うつもりだからな」
フェレスは左手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「左手は使わない。そうでなくては決闘の意味がないだろ」
(舐められている……わけじゃないようだな)
エースは左手をだらりと下げたまま右手を前に構える。それはドラグマとの決闘を受け入れた証だった。
ドラグマは初めて歯を見せて笑うと、すぐさま行動に移した。
(まずは……!)
下段蹴り。左足を軸に地面を這うようにして右足を振り払う。それに対してエースは後方に飛びのいて躱す。だがそれはドラグマの予想の範囲内。ドラグマはすぐさま右足を軸に変え、左足で回し蹴りを放った。
エースは上体をそらし、ドラグマの左足はエースの服を掠るだけにとどまった。
「踏み込みが甘かったか……」
ドラグマは右足で石畳をトントンと叩きながら呟いた。
「……恐るべき身体裁きだな」
対峙しても相手の重心が見当たらないなどエースにとって初めての体験だった。ドラグマは常に身体の重心を移動させ、エースの飛びぬけた観察眼をもってしても捉えることができない。
(これだと柔道も合気も通用しそうにないか)
一息入れ、ドラグマは再び一歩を踏み出す。それと同時にエースも正面切って走り出した。
突然のエースの攻撃態勢に不意を突かれ、ドラグマは迎え撃つための突きの蹴りを放つ。長い右足がエースの顔面に向かって伸びる。
エースはその右足を横から右手で押し出し、軌道をずらした。エースの右手はドラグマの右足に引っ張られて肘が曲がる。
(コイツ……俺の蹴りを利用して!)
そのまま全体重を乗せ、右の肘鉄がドラグマの顎に直撃した。
ドラグマは身体をのけぞり、思わず後ずさる。口内を歯で切ったのか口元からは血が出ていた。
エースの反撃にいつの間にか周りを囲んでいたギャラリーが沸き立つ。
「……どうもここにいる人たちは血気が盛んだな」
「……そのほうが好都合だ」
ドラグマは血を拭いながら答える。
「それにしても、あの体勢から肘鉄を食らっても倒れないか。君は僕が出会ってきた中で一番体術がうまいよ」
「体術など俺の実力の氷山の一角にすぎない……」
ドラグマは赤い髪を掻き上げ、エースを睥睨する。
「もう少し白兵戦を楽しみたかったが、悪いが長引くといろいろと面倒だからな。とっととお前を叩きのめして終わらせる」
その言葉とともにドラグマは腰を深く下げる。右手だけを地面につけ、クラウチングスタートのように膝を曲げた。そして目は、やはりエースを見据える。
「いくぞ」
合図とともにドラグマは駆け出す。
だがエースには駆け出してからの軌道を見ることはできなかった。風がなびく音と背後で地面を擦る、足のブレーキ音だけが鳴っていた。
振り返ると、ドラグマが再びクラウチングスタートの構えを取っている。
「……早すぎたか」
ドラグマは悔しそうに呟く。
(一瞬にして……!)
エースの驚きが終わる前に、ドラグマはまたしても超スピードで視界から消える。エースは反射的に再び後ろを振り返るが、そこには誰もいなかった。
「こっちだ」
声がしたのは真上からだった。
見上げるとドラグマが蝙蝠のように天井に両足だけで張り付いている。しかし服も髪の毛も逆立ってはいない。
ドラグマはその天井から飛び降りると、隙だらけのエースの顔に膝蹴りを入れた。
「ッ!」
ドラグマの足を掴んで反撃しようとするも、ドラグマはエースを踏み台にして再び天井へと戻った。そして今度は天井から壁に飛び移り、そこでも両足だけで壁に張り付いていた。
(どうなっている……!)
ドラグマはエースに蹴りを入れ、再び壁や天井に戻る。エースはドラグマが壁に貼り付ける理由を考えようとしても、とめどなく繰り出されるドラグマの攻撃に冷静さを欠いていた。
執拗なまでのヒットエンドランはエースの精神と身体をボロボロにしていった。何度も脳を揺らされ、今にも膝から崩れ落ちそうになる。
「そろそろ音を上げたらどうだ!」
エースの真上からドラグマの踵落としが降ってくる。
「『レイラヴ』!」
突如現れた空気の層がエースの周りを囲い、ドラグマの攻撃から守った。
呪文を唱えたフェレスはエースの元へと駆け寄った。
「もういいでしょ! 勝負は十分についたはずよ!」
フェレスはドラグマを強く睨みつける。ドラグマはフェレスを見ると、鼻で笑った。
「……こんな小さなガキに救われるとは、お前もたいしたことないな。このブレイクダークのドラグマには、手も足も出なかったというわけか」
そう言い捨てるとエースの横を抜けてバウンティセントラルから出て行った。
周りを囲んでいたギャラリーも話をしながらエースには興味もなさそうに散っていった。
「ちょっと、大丈夫?」
フェレスはエースの顔を両手で抑えて傷を確かめる。
「目立った傷はなさそうね。ホラ、口を開けてみなさい」
意識を半分失いかけているエースは正直に口を大きく開ける。
「歯は……大丈夫みたいね。口の中がいくつか切れているみたいだから、あとで治癒魔法をかけてあげるわ」
「……助かる」
かろうじて口はきけるようだが、足下はおぼつかない。
フェレスは小さな体でエースを支えて近くの椅子に座らせた。
「『エタエルク』……はダメね。ちょっと待ってなさい。今すぐ冷やすもの持ってきてあげるから」
今は誰もエースを見ていないとはいえ、大衆の面前で想像を使うわけにはいかない。フェレスは席を立つ。
「……ほらよ」
フェレスの目の前にいつの間にか立っていたサングラスの管理人がおしぼりを手渡した。そして大きな背中を見せたまま去って行く。
「あ、ありがとう」
よく冷やされているおしぼりでエースの傷口を拭った。
「……アンタって意外と人望あるじゃない」
エースが正気を取り戻し、家に帰れるようになった頃には日が沈みかけていた。フェレスは人がいなくなった瞬間を見計らってエースに治癒魔法を掛け、エースの顔に目立つような傷跡はなくなった。
フェレスはエースを支えながら夜道を歩く。
「これじゃあクリスタも帰ってるでしょうね」
クリスタはどこか寂しそうに言った。
「……クリスタが料理を作っているか分からないし、露店で何か買っていくか」
「そうね」
二人は近くの露店でサラダとパスタを買う。店主はフェレスにだけフライドポテトをおまけで渡し、フェレスは無邪気に喜ぶ演技で見事10歳児を最後まで貫き通した。
リーアとウルクの時の演技を考えると、あながち本当に無邪気に喜んでいたのかもしれない。
エースはフェレスの支えなしで歩き、フェレスは貰ったポテトを食べながら帰路につく。大通りから外れ、人が少なくなってようやくフェレスは質問をすることにした。
「それで、あの男はいったい誰なの?」
「名乗っていただろ。ブレイクダークのドラグマだよ。彼とは事件解決に協力してもらった」
「だったらどうしてアンタにいきなりケンカを売ってくるのよ」
「彼は彼なりに考えていることがあるんじゃないか?」
エースの返答にフェレスははぐらかされていると直感で感じ取った。相変わらず素っ気ない態度にフェレスは頬を膨らませる。
「そう膨れるなよ。僕だって思うところはあるが、まだ仮説の状態なのに我が物顔で語るのは気が引けるんだ」
「……なら我が物顔で言わなけりゃいいじゃない」
フェレスのボヤキはエースには届いておらず、そのままクリスタの店に着いた。店内は明かりがついておらず、やはりクリスタは帰ったようだった。
「僕は先にシャワーを浴びさせてもらうよ」
コートを脱ぐと、夕食のサラダとパスタをフェレスに渡す。
「腹が減っているようなら先に食べても構わない」
「ええ、そうするわ」
エースは脱衣所に入ると血と埃で汚れた服を脱いで冷たい水を頭からかぶった。
何日かぶりのシャワーだが、どうも長く浴びる気にはならない。体表の毛穴が水でぬれて息苦しささえ感じていた。こうして鏡に映る自分の姿を見ると、エースは違和感のようなものすらも感じる。
しかしそれは今に始まったことではない。この世界に来てからずっと感じていた不調和だ。
(それに、あの夢……)
エースは目覚める直前まで見ていた夢のことを思い出す。
(やっぱり、病院だったよな……)
しっかりとは覚えていないが、点滴や心電図のようなものが視界に写った気がしていた。
エースは顔についた傷跡を確認したのち、汗だけを流すと浴室から出た。
(早く出てしまったが、することもあるからちょうどいい)
バスローブを着て重い足取りで階段を上る。半分ほど登ったところで二階から誰かの話し声が聞こえてきた。片方はフェレスだと分かるが、もう一人は聞き覚えがなかった。
反射的に足音を消し、ゆっくりと階段を上る。そして顔を少しだけ階段からのぞかせた。
『……なぜ報告が遅れたのかしら』
その声はエースにとって初めて聞く声だったが、何故か自然と声を聞くだけで背筋が凍る感覚に陥る。
その威厳のある女性の声はしているのだが、二階にはフェレスの姿しかない。そのフェレスは机の上に置いた箱のようなものと向かい合っていた。
「も、申し訳ありませんハサルシャム様。エースはまったく夜に全く寝ないし、かと思えば倒れたりして開放とかいろいろと忙しく……」
フェレスは慌ただしく箱に向かって話し続ける。どうやら箱は通信機のようなもののようだ。
エースはハサルシャムと自分の名前が呼ばれたことに警戒を強め、階段で息を潜めて話を盗み聞きする、。
『エース? 誰の話をしているの?』
「あ、そうでした……。エースではなくコムロ・ハジメです。こちらの世界ではエースという名で生活していくと本人が言っていたので……」
『そう、エース……エースね。いいんじゃない。こちらの世界に順応しようとしているのは素晴らしいことだわ』
フェレスはなおもたどたどしく話を続ける。
「エースはこちらの世界でも探偵を続けることを選択しました。現在もスカル街で起きた事件を調査中です」
『随分と適応能力が高いわね。それで、貴女の目から見て気になるようなことはあったかしら?』
「いいえ、特には……? ただ、普段は全く寝ないのに急に寝てしまう病気のようなものがあるようです」
『ああ、それは彼のもともとの体質よ。その特質が彼の頭脳を特別にしているのだなものろうし、むしろある方が正常に機能しているということよ』
「正常に機能?」
『貴女は気にしなくていいのよ、フェレス。貴女はただ観察するだけでいいの。もしそれもできないようなら、私は本当に貴女の羽根を捥ぐことになるわ』
媒体越しでも伝わってくる威圧感にフェレスは息をのむ。
「は、ハイ……心得ています」
『頼んだわよ。前の人間は失敗して行方が分からなくなってしまったもの。彼もコムロハジメと同じで特殊体質、特別な才能にあふれていたのだけどね。残念なことに理性が崩壊していたわ。そんなことが二度と起こらないように、貴女にはしっかりと監視をしてもらう必要があるのよ』
「はい、もう二度と目を外すような真似はしません!」
『二度と? ひょっとして一度は監視を解くようなことをしたのかしら?』
「……いえ、そんなことは、していません。言葉の、綾です」
『そうよね。貴女は天使だもの。人間の女の子と仲良くなったり、人間の食事で喜ぶような俗物じゃないものね』
「……!」
フェレスは思わず言葉を失った。
「も、申し訳ありません……」
『……貴女を監視役に任命したこと、後悔させないでね』
「はい……」
会話は途切れ、フェレスは深いため息が部屋に響いた。
エースはゆっくりと階段を降り、次は足音を立てて二階へと上がる。
「上がったぞ」
フェレスはベッドに腰を下ろしていて、机の上には当然箱のようなものは置いていなかった。代わりに二人分の夕食が手つかずのまま並べられていた。
「なんだ、先に食べなかったのか」
「ええ。さっきポテトを食べたからあまりお腹は空いていないの」
「そうか」
(食べる時間がなかったとはさすがに言わないか)
さっきのハサルシャムとの会話のようにうっかり口を滑らすか期待したが、さすがにそこまで間抜けではないようだ。
「……なら、少しだけ君の力を借りてもいいか?」
「私の?」
「そう。君の創造能力だ」
エースはフェレスを連れて一階のクリスタの店に降りた。
首を傾げるフェレスを横目にエースは必要な素材を陳列棚から運び出す。
「重合体を作るのは素材が多くて大変だが、この店には何でもあるな」
フェレスにとっては全く聞いたこともないような液体、個体がそろっている。エースは細かく作り方の手順を教える。
「……ねえ、それってどうしても今する必要があるの?」
不服そうにフェレスはエースを見上げる。
「難しそうなら君は休んでいても構わない。僕は一人で外へ行って素材を売っている店を探してくるよ」
あえて一人という言葉を強調するとフェレスは顔を青ざめる。
「分かったわ。私が作ってあげるからアンタはここにいなさい」
ハサルシャムに言われたことを思い出してエースの単独行動だけは絶対に防ぐ必要があった。エースに聞かれていたとは思ってもいないため、利用されていることには気づくはずもない。
「なら頼んだよ」
承諾はしたもののフェレスは面倒くさそうに、エースの手順を聞きながら『エタエルク』と唱え続けた。
およそ一時間がたち、ようやくそれは完成した。エースは完成品を手のひらサイズの小箱に入れる。隣では満身創痍のフェレスが「あーーー」と大きく伸びをしながら奇声のようなものを発していた。
「よくやった。これで君の友人のクリスタも喜ぶはずだ」
「だから、友人じゃないって……」
その声はどこか落ち込んでいる。
「そういえば、君はクリスタのメガネを直せたのか?」
「……無理だったわ」
フェレスは店の奥に入り、戸棚の中からボロボロのメガネを持ってきた。
「私の力だとコレが限界。本当にバカみたいよね。何でも創り出すことができる能力を持っているのに、モノを直すことはできないなんて……」
エースは意気消沈しているフェレスを見て、笑い飛ばした。
「ようやく分かったか。君たち天使は結局のところ大した存在じゃないってことに」
フェレスは自虐こそしたが、こうして面と向かってバカにされるのは我慢ならなかった。
「ちょっと! その言い方は悪意あるんじゃない?!」
「だが事実だろ。天使であろうと君にだってできないことはある。夜になると寝るし、お腹がすけば食事を取る。美味しい食事なら喜ぶし、自分を慕ってくれる人を好きにだってなるさ」
エースは優しげな表情を向ける。
「人間とか天使とか関係ないだろ。どっちも豊かな感情を持っていることにかわりないんだからな」
フェレスは壊れたメガネに手を伸ばす。小さな指先でひび割れをなぞった。
「……そんなこと、アンタに言われなくても分かってるわよ。まったく……どうでもいい講釈に耳を貸しちゃったじゃない」
さっきまでの消沈ぶりはどこにいったのやら、フェレスは腰に手を当て胸を張ってそう言った。
「そうか……」
エースは優しげな表情から一変し、悪意を持ったビジネススマイルになる。
「ちなみに、もう一つだけ創ってほしいものがあるんだが」
「えぇ!?」
フェレスは信じられないものを見たようにエースを見つめる。しかしエースに諭された手前、断るわけにも行かなかった。
「分かったわよ……。それで? 今度は何を作るの? またさっきみたいに誰かへの贈り物かしら?」
「いや、今度のは贈り物というより、送るためのものかな」
エースに言われるがまま創造を何度も使ったフェレスは糸が切れたように眠ってしまった。力を使いすぎたこともあるのだろうが、いつもよりも夜更かししたこともあるだろう。
エースは眠ったフェレスを抱え、二階のベッドに横たわらせた。スヤスヤと寝息を立てているフェレスの頬を指で突くが起きる気配は全くない。
「おい、フェレス」
「……ん」
名前を呼び掛けても寝苦しそうに体をよじるだけでやはり起きる気配はない。エースは颯爽とタンスやベッドの下を探り出す。フェレスが普段来ているローブをひっくり返してまで調べる。
(見当たらないな……)
エースが探しているのはフェレスがハサルシャムと喋っていた箱のようなもの。神器に近いものなのだろうが、そう簡単に隠せるものではない。フェレスの着ている服もポケットなどなく、露出度の多いほとんど肌着のような服だ。隠せるようなスペースはない。
「……そうなると、やはり創造か」
フェレスの創造なら物質をゼロから作るだけでなく、ゼロへと消すことだってできる。必要な時だけ通信機を作って話していたのだろう。
エースは跪き、再びフェレスの寝顔を見る。目を閉じていても長く整った睫毛に薄い唇。全身の肌もきめ細かく真っ白だ。普通の子供でもここまで綺麗な肌はしていないだろう。
ゆっくりと、フェレスの肌に手を伸ばした。タンクトップの肩から這うように手をなぞる。産毛といった体毛は一切なく、シミもホクロもない。程よい質感で少し力を入れれば吸い付くように柔らかい。
エースはそのまま腕を撫で、手首まで手を伸ばした。そして二本指で脈を測る。トクントクンと正常に脈は動いていた。
(食事は摂り、トイレにも行き、睡眠もする。この身体も人間そのものだ)
しかしフェレスは普通の人間には使えない『創造』という能力を使うことができ、そのときだけ背中から翼が生えてくる。フェレスが天使だということは疑いの用のない事実だ。
(完璧な……いや完璧すぎる身体)
まだ十歳ほどの身体だが、すでに大人の女性に近づいている。あと数年もすればすれ違う誰もが振り返るような美女に変わることだろう。だがそれは、あまりにも均整がとれた完璧なものだ。
「フェレス……」
エースは寝ている少女に呼びかける。
「僕は君が何者で、何が目的であっても構わない。君が僕の相棒になりたいというのなら、僕はそれを歓迎する」
心なしか、フェレスは寝ながら笑みを浮かべた。それを見てエースは立ち上がり階段へと向かう。
「たとえ君が敵であっても、君はすでに僕のカードだからな」
エースは運転する御者に聞えないようフェレスに話しかける。
「さっきの天秤の話、確か『リブラ――……」
「『リブラストレア』ね。確かに『リブラストレア』は神器のうちの一つよ。……ただ、城内にある天秤はおそらく模造品ね。それにしても、いつの間に作ったのかしら……」
フェレスはエースに質問されることを分かっていたようで、スラスラと話し出した。
「どうして模造品だと言い切れる?」
「そもそも神器はすべてハサルシャム様が所持しているからよ。アンタに渡した虫眼鏡『マナグラスコープ』は私がハサルシャム様から直接預かった本物だけど、この世界にある神器と呼ばれるものは偽物なのよ」
「……僕はこの世界についてよく知らないが、そんな簡単に模造品なんて作れるのか?」
「簡単には無理よ。文献に残った情報をもとに再現したり、ハサルシャム様自身が人類のためにヒントを与えたりすることもあるわ。ただそれでも所詮は人間が造ったもの。本物の神器よりは格は下がるわ。
前にノドルの時計塔についても話したでしょ。あれも神器の伝説を元に再現した模造品になるわ」
「じゃあ天秤も本来の神器の力とは違うってことか」
「違うでしょうね。本物の『リブラストレア』が持つ力は世界の事象をすべて把握したうえで対象の相手の言葉の真偽を図る。でも模造品のほうはおそらく、質問に対する相手の認知によって真偽を図っているんじゃないかしら。ちょっと複雑なんだけど、アンタならこの説明で分かるでしょ」
フェレスの話は抽象的だが、おおよその予想がついていたエースにはフェレスの予想通り理解をしていた。
「要するに偽物なら勘違いや深い洗脳をされている場合は嘘をついていても天秤は動かないってことだろ」
「そうゆうこと」
二人は会話がひと段落着いたところで馬車はバウンティセントラルに到着した。エースは御者に領収書を貰うと馬車から降りる。
「ちなみにもしも僕が最高裁判官とやらに『どうやってこの国に密入国した』と聞かれた場合、僕は『密入国はしていない』と答えるしかないよな」
エースは続けてフェレスに質問をする。
「まあ、アンタはハサルシャム様の力によってここに来たのだから入国の方法は答えられるわけないわね」
「そうだ。だがその場合、天秤はどう動くんだ?」
「偽物なら動くことはないでしょうね。なんだったら『どうやってこの国に来た』という質問にも動かないはずよ。アンタは連れてこられたのだから、知らないことは答えられないもの」
「じゃあ本物ならどうなるんだ?」
「そうね……。多分動くんじゃないかしら。経緯はどうあれ、アンタがこの国にいるということはどこかから来たことは確かだもの」
「だがそれだと僕も真実を教えられないし相手も真実を知ることができないだろ」
フェレスは首を横に振る。
「そもそも本物は人を裁くために使われていないのよ。世界の真理を知るためのあくまで指針なんだから」
「なるほど……」
こんな会話をしている間に二人はバウンティセントラルの窓口までたどり着いた。いつも通りサングラスをかけたスキンヘッドの管理人が小さな四方形の窓から顔をのぞかせている。
「管理人、今日は頼みたいことがあって来た」
すると管理人は無言で大きなファイルをカウンターの上に置いた。困惑する二人に対し、管理人はファイルを顎でしゃくった。
フェレスが手を伸ばしてファイルを開くと、中身はフィールドのこれまでの経歴や受注した依頼内容がまとめてあった。
「……お前さんが無事でよかったよ」
管理人はエースに向かってそう告げると、コーヒーを片手にそっぽを向いた。
「協力感謝する」
エースはファイルを受け取り、近くの座席へと歩き出す。後に続くフェレスはエースに疑問を投げかけた。
「ちょっと、あの男いったい何者?」
「ただの管理人だよ。こういう粋な計らいが好きな」
椅子に座るとエースはページを一枚ずつ捲っていく。フェレスは隣からそれをのぞき込むが、背中に刺さる視線に気づいて振り向いた。
そこにはバウンティセントラルに加盟している多くの人たちが噂話をしながら二人を見ていた。
(いや、私じゃない……。エースだ)
フェレスは天使であることが周りにばれたら厄介なことになるため、外に出るときは周りの視線に常に気を払っている。そのため周囲の視線がフェレスではなくエースにのみ注がれていることにすぐに気づけた。
(でもどうして……)
フェレスはエースがブレイクダークのメンバー相手に大立ち回りをしたことは知らないため、エースが噂話される理由が分からなかった。エースに直接聞こうにも、本人は視線には全く気にせず一心にページを捲っていた。
まるで流し読みでもしているかのようにパラパラとページをめくり、目線は高速で文字を追っている。資料は200ページ以上あったが、エースはそれを10分足らずですべて読み終わった。
「大体は理解した」
そういうと資料を一度閉じる。フェレスは周りの視線も気になったが、それよりも事件のことを優先して尋ねる。
「じゃあフィールドの魔法についても書いていたの?」
「いや、やはりフィールドの魔法に関する情報はほとんど隠されていた。そもそも彼はソロで活動することが多かったようだから情報源が少ない」
フェレスはため息をついた。
「収穫はなしってことね」
「そういうわけでもない」
エースはファイルを開き、フィールドが過去に受けたとある依頼内容のページを開いた。
「見ろ。この依頼でフィールドは山賊のアジトを壊滅させている。アジトは山奥の小さな村だが、後に応援に来た衛兵はこう語っている。『現場にたどり着いた時には村全体に火の手が回っていました。その中心に勇者フィールドがたっていたのですが、火は彼を避けるように彼の周りだけ燃えていなかったのです。我々は彼を助けるために火を消そうとしました。しかし驚いたことに、勇者フィールドは平然と火の海を歩いて戻ってきたのです。彼の身体は全く燃えていませんでした。彼の服も、まったく燃えていません』」
フェレスは唖然として言葉も出なかった。エースはさらに別のページを開いた。
「このページには南極探検隊を苦しめてきた海洋の巨獣を討伐した依頼だ。その巨獣は船を凍らせるほどの冷気を放つようだが、フィールドはいとも簡単にその巨獣を仕留めたらしい。同行した乗組員によると、巨獣の口から放たれた圧縮された冷気が船の機能を完全に凍らせたようだが、その中でもフィールドは平然としていたそうだ」
「要するに……最強の盾?」
フェレスは以前にエースと話した魔法で作る最強の剣と盾の話を思い出した。
「でもそんなのあり得ない……!」
そこまで言い切るが、フェレスの顔はすぐに曇る。
「いや……条件や決定的な弱点を用意すれば可能かしら? もしもマナが完全制御型なら統制の取れたシステムモデルを作れるはずだけど……だとしたら考えられるのは、やはりドット環タイプかランドルト環タイプね」
ブツブツと専門用語らしきものを使うフェレスにエースは声をかけた。フェレスは我に返る。
「せめて分かる言葉で話してくれ」
「あ、ごめん。そうね……フィールドが疑似的とはいえ最強の盾を持っていたことはあり得る話よ。ソロでこれだけの依頼をこなすなんて、攻撃力よりも防御力のほうが必要になるもの」
「それと面白いうわさ話も乗ってあった。フィールドは討伐・賞金首の依頼はすべて受諾しているそうだが、一つだけ断った依頼があるそうだ。それがパレスを勇者まで上がらせた天界龍の討伐らしい」
「天界龍? たしかパレスが勇者になったのって、フィールドよりも前の話よね」
「そうだな」
フェレスは険しい顔を作る。
「ねえ……本当にフィールドって死んでいるのかしら」
「死体は僕が確認した」
「でも黒焦げだったんでしょ。ちょっと前に解決した事件覚えてる? あの借金取りから逃げるために自分の――」
コツリ。
騒がしい人ごみの中で石畳を歩く革靴の音が鳴り響く。コツリ、コツリと一歩ずつ軽快な音で重々しく、真っ黒な毛皮のコートを着て目標へとまっすぐ突き進んでいた。
睨みつけるだけで人を傷つけそうな鋭い視線は、バウンティセントラルの真ん中で胡乱げな表情で金髪の少女と話しているエースを見据える。
(間合い……!)
瞬間、コートを翻して左足で大きく飛躍した。右足、左足と三段跳びをきめると弧を描くような蹴りがエースの顔面に向けられる。
瞬時、背中に殺気を感じてエースは振り返った。既にその長い足はエースを仕留める射程距離内に入っている。
(まずい!)
避けようとすればフェレスに蹴りが当たってしまう。エースは蹴りを左手の甲で防ぎ、右腕で支えながら衝撃を抑える。
「ぐっ!」
歯を食いしばって蹴りに耐える。相手は右足を引いて空中を華麗に一回転してみせると、鋭い目つきでエースを睨みつけた。
その相手の顔に、エースは見覚えがある。
「ドラグマ……」
名前を呼ばれても、ドラグマは平然としている。まるで初対面で、敵と相対している顔だ。
「ちょっと、コイツなんなの!」
驚きと焦りを隠せないフェレスにエースは右手を突き出した。
「君は下がって――」
「俺の名は……」
エースの言葉をさえぎってドラグマが一歩前に踏み出した。
「俺の名は、ブレイクダークのドラグマ! エース、お前に決闘を申し込む」
「決闘? 急に何を言いだす?」
ドラグマは無言で大きく飛躍した。今度は一度でエースの頭上まで移動する。既に右足を高く上げ、踵落としの構えを取っていた。
(骨は折れていないが、左手は痺れが止まらない……)
エースは横に飛びのき、踵落としを回避する。一方ドラグマは踵落としを外したにもかかわらず華麗に着地をしていた。そして依然としてエースを睨む。
「その左手、さっきの蹴りで負傷しているのか」
その問いに答えることはなく、エースは左手を身体で隠した。
「……さっきのは半ば不意打ちのようなものだ。お前とは対等に戦うつもりだからな」
フェレスは左手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「左手は使わない。そうでなくては決闘の意味がないだろ」
(舐められている……わけじゃないようだな)
エースは左手をだらりと下げたまま右手を前に構える。それはドラグマとの決闘を受け入れた証だった。
ドラグマは初めて歯を見せて笑うと、すぐさま行動に移した。
(まずは……!)
下段蹴り。左足を軸に地面を這うようにして右足を振り払う。それに対してエースは後方に飛びのいて躱す。だがそれはドラグマの予想の範囲内。ドラグマはすぐさま右足を軸に変え、左足で回し蹴りを放った。
エースは上体をそらし、ドラグマの左足はエースの服を掠るだけにとどまった。
「踏み込みが甘かったか……」
ドラグマは右足で石畳をトントンと叩きながら呟いた。
「……恐るべき身体裁きだな」
対峙しても相手の重心が見当たらないなどエースにとって初めての体験だった。ドラグマは常に身体の重心を移動させ、エースの飛びぬけた観察眼をもってしても捉えることができない。
(これだと柔道も合気も通用しそうにないか)
一息入れ、ドラグマは再び一歩を踏み出す。それと同時にエースも正面切って走り出した。
突然のエースの攻撃態勢に不意を突かれ、ドラグマは迎え撃つための突きの蹴りを放つ。長い右足がエースの顔面に向かって伸びる。
エースはその右足を横から右手で押し出し、軌道をずらした。エースの右手はドラグマの右足に引っ張られて肘が曲がる。
(コイツ……俺の蹴りを利用して!)
そのまま全体重を乗せ、右の肘鉄がドラグマの顎に直撃した。
ドラグマは身体をのけぞり、思わず後ずさる。口内を歯で切ったのか口元からは血が出ていた。
エースの反撃にいつの間にか周りを囲んでいたギャラリーが沸き立つ。
「……どうもここにいる人たちは血気が盛んだな」
「……そのほうが好都合だ」
ドラグマは血を拭いながら答える。
「それにしても、あの体勢から肘鉄を食らっても倒れないか。君は僕が出会ってきた中で一番体術がうまいよ」
「体術など俺の実力の氷山の一角にすぎない……」
ドラグマは赤い髪を掻き上げ、エースを睥睨する。
「もう少し白兵戦を楽しみたかったが、悪いが長引くといろいろと面倒だからな。とっととお前を叩きのめして終わらせる」
その言葉とともにドラグマは腰を深く下げる。右手だけを地面につけ、クラウチングスタートのように膝を曲げた。そして目は、やはりエースを見据える。
「いくぞ」
合図とともにドラグマは駆け出す。
だがエースには駆け出してからの軌道を見ることはできなかった。風がなびく音と背後で地面を擦る、足のブレーキ音だけが鳴っていた。
振り返ると、ドラグマが再びクラウチングスタートの構えを取っている。
「……早すぎたか」
ドラグマは悔しそうに呟く。
(一瞬にして……!)
エースの驚きが終わる前に、ドラグマはまたしても超スピードで視界から消える。エースは反射的に再び後ろを振り返るが、そこには誰もいなかった。
「こっちだ」
声がしたのは真上からだった。
見上げるとドラグマが蝙蝠のように天井に両足だけで張り付いている。しかし服も髪の毛も逆立ってはいない。
ドラグマはその天井から飛び降りると、隙だらけのエースの顔に膝蹴りを入れた。
「ッ!」
ドラグマの足を掴んで反撃しようとするも、ドラグマはエースを踏み台にして再び天井へと戻った。そして今度は天井から壁に飛び移り、そこでも両足だけで壁に張り付いていた。
(どうなっている……!)
ドラグマはエースに蹴りを入れ、再び壁や天井に戻る。エースはドラグマが壁に貼り付ける理由を考えようとしても、とめどなく繰り出されるドラグマの攻撃に冷静さを欠いていた。
執拗なまでのヒットエンドランはエースの精神と身体をボロボロにしていった。何度も脳を揺らされ、今にも膝から崩れ落ちそうになる。
「そろそろ音を上げたらどうだ!」
エースの真上からドラグマの踵落としが降ってくる。
「『レイラヴ』!」
突如現れた空気の層がエースの周りを囲い、ドラグマの攻撃から守った。
呪文を唱えたフェレスはエースの元へと駆け寄った。
「もういいでしょ! 勝負は十分についたはずよ!」
フェレスはドラグマを強く睨みつける。ドラグマはフェレスを見ると、鼻で笑った。
「……こんな小さなガキに救われるとは、お前もたいしたことないな。このブレイクダークのドラグマには、手も足も出なかったというわけか」
そう言い捨てるとエースの横を抜けてバウンティセントラルから出て行った。
周りを囲んでいたギャラリーも話をしながらエースには興味もなさそうに散っていった。
「ちょっと、大丈夫?」
フェレスはエースの顔を両手で抑えて傷を確かめる。
「目立った傷はなさそうね。ホラ、口を開けてみなさい」
意識を半分失いかけているエースは正直に口を大きく開ける。
「歯は……大丈夫みたいね。口の中がいくつか切れているみたいだから、あとで治癒魔法をかけてあげるわ」
「……助かる」
かろうじて口はきけるようだが、足下はおぼつかない。
フェレスは小さな体でエースを支えて近くの椅子に座らせた。
「『エタエルク』……はダメね。ちょっと待ってなさい。今すぐ冷やすもの持ってきてあげるから」
今は誰もエースを見ていないとはいえ、大衆の面前で想像を使うわけにはいかない。フェレスは席を立つ。
「……ほらよ」
フェレスの目の前にいつの間にか立っていたサングラスの管理人がおしぼりを手渡した。そして大きな背中を見せたまま去って行く。
「あ、ありがとう」
よく冷やされているおしぼりでエースの傷口を拭った。
「……アンタって意外と人望あるじゃない」
エースが正気を取り戻し、家に帰れるようになった頃には日が沈みかけていた。フェレスは人がいなくなった瞬間を見計らってエースに治癒魔法を掛け、エースの顔に目立つような傷跡はなくなった。
フェレスはエースを支えながら夜道を歩く。
「これじゃあクリスタも帰ってるでしょうね」
クリスタはどこか寂しそうに言った。
「……クリスタが料理を作っているか分からないし、露店で何か買っていくか」
「そうね」
二人は近くの露店でサラダとパスタを買う。店主はフェレスにだけフライドポテトをおまけで渡し、フェレスは無邪気に喜ぶ演技で見事10歳児を最後まで貫き通した。
リーアとウルクの時の演技を考えると、あながち本当に無邪気に喜んでいたのかもしれない。
エースはフェレスの支えなしで歩き、フェレスは貰ったポテトを食べながら帰路につく。大通りから外れ、人が少なくなってようやくフェレスは質問をすることにした。
「それで、あの男はいったい誰なの?」
「名乗っていただろ。ブレイクダークのドラグマだよ。彼とは事件解決に協力してもらった」
「だったらどうしてアンタにいきなりケンカを売ってくるのよ」
「彼は彼なりに考えていることがあるんじゃないか?」
エースの返答にフェレスははぐらかされていると直感で感じ取った。相変わらず素っ気ない態度にフェレスは頬を膨らませる。
「そう膨れるなよ。僕だって思うところはあるが、まだ仮説の状態なのに我が物顔で語るのは気が引けるんだ」
「……なら我が物顔で言わなけりゃいいじゃない」
フェレスのボヤキはエースには届いておらず、そのままクリスタの店に着いた。店内は明かりがついておらず、やはりクリスタは帰ったようだった。
「僕は先にシャワーを浴びさせてもらうよ」
コートを脱ぐと、夕食のサラダとパスタをフェレスに渡す。
「腹が減っているようなら先に食べても構わない」
「ええ、そうするわ」
エースは脱衣所に入ると血と埃で汚れた服を脱いで冷たい水を頭からかぶった。
何日かぶりのシャワーだが、どうも長く浴びる気にはならない。体表の毛穴が水でぬれて息苦しささえ感じていた。こうして鏡に映る自分の姿を見ると、エースは違和感のようなものすらも感じる。
しかしそれは今に始まったことではない。この世界に来てからずっと感じていた不調和だ。
(それに、あの夢……)
エースは目覚める直前まで見ていた夢のことを思い出す。
(やっぱり、病院だったよな……)
しっかりとは覚えていないが、点滴や心電図のようなものが視界に写った気がしていた。
エースは顔についた傷跡を確認したのち、汗だけを流すと浴室から出た。
(早く出てしまったが、することもあるからちょうどいい)
バスローブを着て重い足取りで階段を上る。半分ほど登ったところで二階から誰かの話し声が聞こえてきた。片方はフェレスだと分かるが、もう一人は聞き覚えがなかった。
反射的に足音を消し、ゆっくりと階段を上る。そして顔を少しだけ階段からのぞかせた。
『……なぜ報告が遅れたのかしら』
その声はエースにとって初めて聞く声だったが、何故か自然と声を聞くだけで背筋が凍る感覚に陥る。
その威厳のある女性の声はしているのだが、二階にはフェレスの姿しかない。そのフェレスは机の上に置いた箱のようなものと向かい合っていた。
「も、申し訳ありませんハサルシャム様。エースはまったく夜に全く寝ないし、かと思えば倒れたりして開放とかいろいろと忙しく……」
フェレスは慌ただしく箱に向かって話し続ける。どうやら箱は通信機のようなもののようだ。
エースはハサルシャムと自分の名前が呼ばれたことに警戒を強め、階段で息を潜めて話を盗み聞きする、。
『エース? 誰の話をしているの?』
「あ、そうでした……。エースではなくコムロ・ハジメです。こちらの世界ではエースという名で生活していくと本人が言っていたので……」
『そう、エース……エースね。いいんじゃない。こちらの世界に順応しようとしているのは素晴らしいことだわ』
フェレスはなおもたどたどしく話を続ける。
「エースはこちらの世界でも探偵を続けることを選択しました。現在もスカル街で起きた事件を調査中です」
『随分と適応能力が高いわね。それで、貴女の目から見て気になるようなことはあったかしら?』
「いいえ、特には……? ただ、普段は全く寝ないのに急に寝てしまう病気のようなものがあるようです」
『ああ、それは彼のもともとの体質よ。その特質が彼の頭脳を特別にしているのだなものろうし、むしろある方が正常に機能しているということよ』
「正常に機能?」
『貴女は気にしなくていいのよ、フェレス。貴女はただ観察するだけでいいの。もしそれもできないようなら、私は本当に貴女の羽根を捥ぐことになるわ』
媒体越しでも伝わってくる威圧感にフェレスは息をのむ。
「は、ハイ……心得ています」
『頼んだわよ。前の人間は失敗して行方が分からなくなってしまったもの。彼もコムロハジメと同じで特殊体質、特別な才能にあふれていたのだけどね。残念なことに理性が崩壊していたわ。そんなことが二度と起こらないように、貴女にはしっかりと監視をしてもらう必要があるのよ』
「はい、もう二度と目を外すような真似はしません!」
『二度と? ひょっとして一度は監視を解くようなことをしたのかしら?』
「……いえ、そんなことは、していません。言葉の、綾です」
『そうよね。貴女は天使だもの。人間の女の子と仲良くなったり、人間の食事で喜ぶような俗物じゃないものね』
「……!」
フェレスは思わず言葉を失った。
「も、申し訳ありません……」
『……貴女を監視役に任命したこと、後悔させないでね』
「はい……」
会話は途切れ、フェレスは深いため息が部屋に響いた。
エースはゆっくりと階段を降り、次は足音を立てて二階へと上がる。
「上がったぞ」
フェレスはベッドに腰を下ろしていて、机の上には当然箱のようなものは置いていなかった。代わりに二人分の夕食が手つかずのまま並べられていた。
「なんだ、先に食べなかったのか」
「ええ。さっきポテトを食べたからあまりお腹は空いていないの」
「そうか」
(食べる時間がなかったとはさすがに言わないか)
さっきのハサルシャムとの会話のようにうっかり口を滑らすか期待したが、さすがにそこまで間抜けではないようだ。
「……なら、少しだけ君の力を借りてもいいか?」
「私の?」
「そう。君の創造能力だ」
エースはフェレスを連れて一階のクリスタの店に降りた。
首を傾げるフェレスを横目にエースは必要な素材を陳列棚から運び出す。
「重合体を作るのは素材が多くて大変だが、この店には何でもあるな」
フェレスにとっては全く聞いたこともないような液体、個体がそろっている。エースは細かく作り方の手順を教える。
「……ねえ、それってどうしても今する必要があるの?」
不服そうにフェレスはエースを見上げる。
「難しそうなら君は休んでいても構わない。僕は一人で外へ行って素材を売っている店を探してくるよ」
あえて一人という言葉を強調するとフェレスは顔を青ざめる。
「分かったわ。私が作ってあげるからアンタはここにいなさい」
ハサルシャムに言われたことを思い出してエースの単独行動だけは絶対に防ぐ必要があった。エースに聞かれていたとは思ってもいないため、利用されていることには気づくはずもない。
「なら頼んだよ」
承諾はしたもののフェレスは面倒くさそうに、エースの手順を聞きながら『エタエルク』と唱え続けた。
およそ一時間がたち、ようやくそれは完成した。エースは完成品を手のひらサイズの小箱に入れる。隣では満身創痍のフェレスが「あーーー」と大きく伸びをしながら奇声のようなものを発していた。
「よくやった。これで君の友人のクリスタも喜ぶはずだ」
「だから、友人じゃないって……」
その声はどこか落ち込んでいる。
「そういえば、君はクリスタのメガネを直せたのか?」
「……無理だったわ」
フェレスは店の奥に入り、戸棚の中からボロボロのメガネを持ってきた。
「私の力だとコレが限界。本当にバカみたいよね。何でも創り出すことができる能力を持っているのに、モノを直すことはできないなんて……」
エースは意気消沈しているフェレスを見て、笑い飛ばした。
「ようやく分かったか。君たち天使は結局のところ大した存在じゃないってことに」
フェレスは自虐こそしたが、こうして面と向かってバカにされるのは我慢ならなかった。
「ちょっと! その言い方は悪意あるんじゃない?!」
「だが事実だろ。天使であろうと君にだってできないことはある。夜になると寝るし、お腹がすけば食事を取る。美味しい食事なら喜ぶし、自分を慕ってくれる人を好きにだってなるさ」
エースは優しげな表情を向ける。
「人間とか天使とか関係ないだろ。どっちも豊かな感情を持っていることにかわりないんだからな」
フェレスは壊れたメガネに手を伸ばす。小さな指先でひび割れをなぞった。
「……そんなこと、アンタに言われなくても分かってるわよ。まったく……どうでもいい講釈に耳を貸しちゃったじゃない」
さっきまでの消沈ぶりはどこにいったのやら、フェレスは腰に手を当て胸を張ってそう言った。
「そうか……」
エースは優しげな表情から一変し、悪意を持ったビジネススマイルになる。
「ちなみに、もう一つだけ創ってほしいものがあるんだが」
「えぇ!?」
フェレスは信じられないものを見たようにエースを見つめる。しかしエースに諭された手前、断るわけにも行かなかった。
「分かったわよ……。それで? 今度は何を作るの? またさっきみたいに誰かへの贈り物かしら?」
「いや、今度のは贈り物というより、送るためのものかな」
エースに言われるがまま創造を何度も使ったフェレスは糸が切れたように眠ってしまった。力を使いすぎたこともあるのだろうが、いつもよりも夜更かししたこともあるだろう。
エースは眠ったフェレスを抱え、二階のベッドに横たわらせた。スヤスヤと寝息を立てているフェレスの頬を指で突くが起きる気配は全くない。
「おい、フェレス」
「……ん」
名前を呼び掛けても寝苦しそうに体をよじるだけでやはり起きる気配はない。エースは颯爽とタンスやベッドの下を探り出す。フェレスが普段来ているローブをひっくり返してまで調べる。
(見当たらないな……)
エースが探しているのはフェレスがハサルシャムと喋っていた箱のようなもの。神器に近いものなのだろうが、そう簡単に隠せるものではない。フェレスの着ている服もポケットなどなく、露出度の多いほとんど肌着のような服だ。隠せるようなスペースはない。
「……そうなると、やはり創造か」
フェレスの創造なら物質をゼロから作るだけでなく、ゼロへと消すことだってできる。必要な時だけ通信機を作って話していたのだろう。
エースは跪き、再びフェレスの寝顔を見る。目を閉じていても長く整った睫毛に薄い唇。全身の肌もきめ細かく真っ白だ。普通の子供でもここまで綺麗な肌はしていないだろう。
ゆっくりと、フェレスの肌に手を伸ばした。タンクトップの肩から這うように手をなぞる。産毛といった体毛は一切なく、シミもホクロもない。程よい質感で少し力を入れれば吸い付くように柔らかい。
エースはそのまま腕を撫で、手首まで手を伸ばした。そして二本指で脈を測る。トクントクンと正常に脈は動いていた。
(食事は摂り、トイレにも行き、睡眠もする。この身体も人間そのものだ)
しかしフェレスは普通の人間には使えない『創造』という能力を使うことができ、そのときだけ背中から翼が生えてくる。フェレスが天使だということは疑いの用のない事実だ。
(完璧な……いや完璧すぎる身体)
まだ十歳ほどの身体だが、すでに大人の女性に近づいている。あと数年もすればすれ違う誰もが振り返るような美女に変わることだろう。だがそれは、あまりにも均整がとれた完璧なものだ。
「フェレス……」
エースは寝ている少女に呼びかける。
「僕は君が何者で、何が目的であっても構わない。君が僕の相棒になりたいというのなら、僕はそれを歓迎する」
心なしか、フェレスは寝ながら笑みを浮かべた。それを見てエースは立ち上がり階段へと向かう。
「たとえ君が敵であっても、君はすでに僕のカードだからな」