最終話 ノブレスオブリージュ

「アイラ、君は」

 手を伸ばす。恐る恐る伸ばしたそれが、何かを掴む事はない。

 眼の前にいる彼女は、ただ大地を蹴っていた。跳んでいた。森の木々を軽々と飛び越えるその姿は、俺達の知っている者ではなかった。

「あ……」

 情けなく声を漏らす、ただその場に立ち尽くす。

 何をしていたのだろう俺は。もっといい方法があったはずだ。なんてことはない、アイラに事情を伝えて剣を貰い、ただあの気のいい魔王に渡すだけで良い。それかあの剣をただ確認するだけでも構わない。本当にそんな些細なことを、俺はするだけで良かったはずだ。

「どなたか、レーヴェン様の治療を早く!」

 傷ついたレーヴェンを抱きかかえ、セツナが叫んだ。それでようやく、本当に自分が情けない事に気づく。

「シンシア! その、彼女達で誰かいたよな回復出来そうなの」
「行きなさいレモル!」
「わかった、シンシア姉さま!」

 駆けつけるシスターが、レーヴェンに杖を当てその傷を癒やし始める。荒くなっていたレーヴェンの呼吸が徐々に落ち着いたから、少しは安心して良いのだろうか。

『おいアナザー! さっきからそっちの映像が出ないぞどうなってる!』

 耳に挟まった小さな機械から、ハイネ先生の声が響く。

「えっと……アイラって覚えてますか? 俺達と一緒に旅をしていた」
『……勇者だったか?』
「はい」

 聞こえてくる先生のため息。やはり彼女は気づいていたらしい。

『状況を説明してくれ』
「レーヴェンが彼女に切られました。回復魔法で傷は塞いでもらいましたから大丈夫だとは」
『大丈夫じゃない! 今すぐこっちに連れて来い!』

 悲痛な先生の声に、事の重大さを理解する。普通の剣で切られたとは、訳が違うという事なのだろう。

『勇者は?』
「アイラの言葉からして……そっちに向かったかと」
『だろうな……わかった、時間は何とか稼いでみる。だが稼げるのは時間だけだ。わたし達はあの剣に、絶対に勝てないんだ』

 悲痛な先生の声に胸が締め付けられる。

『だからキール……お前が勇者を倒せ。お前しかいないんだよ、その可能性が残っているのは』

 突き付けられたのは現実。唯一勝てるかもしれないのが、こんな怠け者の自分だけだという悪夢のようなひどい現実。だけど。

「やってみます。死んだらその、ごめんなさい」

 そう答える自分がいた。膝が震えて手の平は汗で湿っている。

 柄じゃないのはわかっている。強くないのは知っている。けれどその可能性があるなら、自分に少しでも力があるなら。

 持てるものの義務は、果たさなければならないんだ。



「キール様、その……」

 タマの背に乗り魔王城へと向かう途中、セツナが目を伏せ口ごもる。心配してくれているのがわからない程鈍感な自分じゃないから、その肩に震える手を乗せた。

「安心しろとか大丈夫とか言えないけどさ……出来る事はやってみるよ」
「何ですかそれ、あなたに出来ることなんて大してありもしないくせに」

 辛辣な言葉は彼女なりの強がりだ。けれど同時に事実でもある。今の俺に出来るのは、こうパンツを食ったら破壊したり解析したりなんていう碌でもない事ばかりだ。

「何暗い顔してるのよあなた達は、葬式じゃあるまいし。人前で慰め合う暇があるなら、少しは強くなる努力をしたらどうかしら?」

 まだ目を覚まさないレーヴェンに膝を貸しながら、シンシアがそんな言葉を吐く。

「強くなるって言われても」
「あるじゃないそこに、宝の山が」

 扇子で指した先にあるのは、手を縛られてうなだれている偽勇者ラシックが集めた下着が詰まった鞄がある。

「宝かどうかは人次第かと」
「何言ってるのよ、今のうちにそれ全部食べちゃいなさいって意味よアホンダラ。ちょっとぐらい有用な物があるかもしれないじゃないの」
「そうかな」
「知らないわよそんなの。けれどお気に入りのメイドによしよししてもらうより、生き残る確率が上がるってだけの話」
「そうだな」

 意を決して頬を叩く。それから鞄の中を開け、一枚のパンツをつまむ。もちろん女性用のそれだ。色は紫で特に際どいデザインという事もない、ただのレースがついただけのパンツ。

「そういや女物食べるのは初めてか」
「ちょっとキール、変態みたいな顔になってるわよ」
「悪いな生まれつきなんだ」

 それをそのまま口に放り込む。うん、なんだろうな噛めば噛むほど味わい深いとか、やった異性のパンツだみたいな喜びは全く無い。

 だってこれ、布なんだもん。布をね、ただひたすら咀嚼してるだけの話でね、食べ物なんて胃に入れば全部一緒だなんて言う人いるけどその通りだよね。

『パンツイーターシステム発動。アンコモンスキル"おばあちゃんの知恵袋"を獲得しました』

 ――めっちゃむせた。

 思わずラシックを睨む。こっちの視線に気づいたのか、疲れた顔で笑顔を向けてきた。うんまあ、その確認だけね、しておこうかなって。

「なあラシック……パンツの持ち主って確認してるの」
「してる訳あると思いますか? 持ち主を想像するのが醍醐味なのに」
「そっか」

 俺は立ち上がり、鞄の中からパンツを数枚掴んだ。

「パンツアナライザー!」

 そして叫ぶ。周りがこいつ何言ってんだみたいな顔してるがそこは気にしない。

『パンツアナライザーシステム発動、解析を終了しました。コモンスキル"おばさん"、コモンスキル"おばさん"、コモンスキル"おばさん"です。獲得できるアーツは0個です』

 なるほどね。確率論とかはわからないが、ここに詰まってるパンツを適当に掴んで解析したら全部おばさんのパンツだったと。そりゃそうかもしれないよね、人口で言えばおばさんって言われる人が一番多いかもしれないからね。でもね、でもだよ。

「せめて年齢ぐらい調べとけこの下着泥棒! 食わされるこっちの身にもお前がなるんだよ!」

 俺はラシックの口をあけ、手に持っていたパンツを全部突っ込んだ。トリプルおばさんパンツアタックをくらえ。

「ん、んんっー!」
「どうだ参ったか!」

 涙目のラシックが窒息して気絶してくれたので、勝ち誇った顔で俺は拳を突き上げた。この旅に起きる個人的な恨みが今、精算されたような気がした。

「キール様、楽しそうですね」

 なんて事をしていれば、セツナがそんな言葉を漏らした。

「……そうかな」
「鏡があったら見せてあげたいぐらいよ」

 ため息をつきながら、シンシアも茶々を入れる。けれど少しだけ笑いながら、その言葉を続けてくれた。

「まぁ、さっきよりマシな表情になったのは良いことね。やっぱりあんた、笑ってるほうが似合うわよ」
「そうかなぁ」
「そうですね、キール様は笑ってるほうが素敵です」

 口に手をあて、表情の筋肉を解す。そんな事を言われたから少し気恥ずかしいけれど、随分と心が軽くなった事はわかったから。

「じゃあ、笑顔の素敵なキール様は……アイラを止めに行かなくちゃな」

 一人でそう呟いた。こんな事を言われたから、死にたくないなと思いながら。






「先生、魔王城が見えてきました」

 目の前には魔王城、橋の上で散る火花。

『よし、水門まで全速力で突っ走れ! 医療班は待たせてある、そのままレーヴェンを治療する!』

 タマの角を叩けば、方向転換してくれる。魔王城城門前の大きな橋の下を通る川に向かって、その巨体を動かした。

「了解です……タマ気合入れろよ、ご主人様の命がかかってんだ」

 レーヴェンを見る。まだシンシアの膝の上で目を覚まさない彼女の額には、大粒の汗が流れていた。

「行けぇぇえええええ!」

 加速するタマ。開き始めた城門に向けて、矢のように全速力で突き進む。

「させない」

 だが、そう簡単な話じゃない。橋から飛び降りたアイラが、その剣を振りかぶる。思わず息を飲む。防ぐ手段を探りながら。

「どうかな」

 鉄の弾ける音が響いた。彼女の青く輝く刃を、受け止めた剣があった。その刃の色もまた、伝説のように青く輝く。

「ラシック!」

 ラシックが剣を弾けば、アイラがタマの上に着地する。彼女は剣を構え直し、ラシックに向け突進する。

「この……偽物が!」

 二度、三度。打ち合う刃が火花を散らす度、ラシックが押されていく。けれど彼は笑っていた。横眼で彼と旅していた、三人の女性を捉えながら。

「ああそうだ、僕は偽物で嘘つきなただの下着泥棒だけど」

 風が吹いた。正面を見据えるラシックが、剣を脇に構える。火が、氷が雷鳴が。剣を中心に渦を巻き、一筋の光となる。

「この剣だけは……本物だ!」

 横に、薙いだ。

 そのままアイラを吹き飛ばし、橋の上へと追い返す。気付けば俺の口からは、安堵のため息が漏れていた。

「いいのかラシック、こっちについて」
「減刑、期待してますよ」
「そこまで偉くはないんだけどな」

 肩を竦める。昨日の敵は今日の何とかという言葉があるが、それにしても早すぎるだろうと笑いながら。

「じゃあ、行ってくる」
「キール様」

 橋の上で立ち上がるアイラを睨めば、セツナが服の裾を摘んだ。振り返らない。見なくたって俺にはわかる。

「行ってらっしゃいませ」

 気がつけば、彼女の手が離れていた。だからいつものように落ち着いた顔で、お辞儀をしてくれているのだろう。

「ああ」
「行きますよ、キールさん!」

 ラシックが傍に俺を抱えて、風の魔法剣を放つ。そのまま浮かび上がった俺達はようやく橋の上についたのだけれど。

「これは……そのなんというか」

 そこにあるのは惨状だった。ラシックを追い詰めていた魔王軍の兵隊達が、そこら中に倒れている。百、いや二百人? あんな化け物みたいな連中がこのザマだ。

『全くだ、魔王軍の兵どもはもう品切れだ……作り直すにいくらかかるのやら』
「作り直すって、中に人はいないんですか?」
『まあな。こっちは人の命が高すぎるんだ』

 聞こえてきた言葉に、思わず安堵する自分がいた。彼女が倒したのがただの人形なら、それ以上に嬉しい事は無かった。

「なあアイラ、これ全部一人でやったの?」

 だから向き合う。

「そうですよ、他に誰かいるとでも?」
「いや、こんなに強いなら早く言って欲しかったなってさ。そうすれば俺はパンツなんて食わずに済んだから」

 冗談を飛ばしても、彼女は眉一つ動かさない。あの明るい笑い声が響き渡る事は無い。

「話し合いの余地はある?」
「ありません」
「アイラだって、ここの人達がどういう人かってもうわかってるだろ」

 彼女は首を横に振る。俺の言葉は届かない。

「ねえキールさん、知ってましたか? 私の故郷にはこの剣を扱える人、本当は沢山いるんですよ」

 青い刃を真っ直ぐと構えて、彼女はその口を開く。

「当然ですよね……何百年前に生きた人の子孫が条件なんですから、それこそ山のようにいて。その中で一番強い人を選ぶ方法なんて、簡単に思いつくと思いませんか?」

 言葉が出なかった。彼女の悲しそうな表情が、明確な答えだとわかってしまった。

「殺し合うんです。兄弟とか友達とか、勇者ってのはそういう屍の上で勝ち残った人の称号なんです。だから」

 そこは地獄なのだろう。一人の勇者を作るために、大勢が殺し合う彼女の故郷は。そして選ばれてしまった彼女が、生きていくこの世界も。

「誰が相手だって、どんなに優しい人がいたって……」

 彼女の剣の輝きが増していく。伝説にあるそれは、絵本のように煌めかない。ただ、彼女の頬を伝う。

「立ち止まる事なんて、許してなんてもらえない!」

 涙と同じ色をしていた。

「僕が防御します、キールさんは攻」
「思い上がるなよ、偽物!」

 ラシックが前に出て、アイラの剣を受け止める。だが鍔迫り合いなんて事は起こらない。アイラの剣から放たれた光りが、ラシックの剣を包む。

 瞬間、砂のように霧散した。支えを失った刃はラシックを斬りつけ、そのままアイラが蹴り飛ばす。魔王軍の兵隊達の山まで吹き飛ばされ、ラシックは動かなくなってしまった。

「先生、今の見てました?」
『ナノマシンだ』
「ナノ……?」

 また聞きなれない言葉を。

『相手の武器を食い尽くす小さい虫みたいなものさ』
「要するに武器は使えないと」
『そういう事』

 頬を叩く。まあ、武器なんて俺使えないんだけどね。というか武術も魔法も学んでいない俺が出来ることなんて、この冗談みたいな首輪だけで。

「なあアイラ……その今履いてるパンツなんだけど……おばあちゃんの手編みのやつか?」
「なっ!?」

 一応、大事なことなので確認する。彼女はやっと年頃の女の子らしい素っ頓狂な声を上げていた。まあ変態のする質問だよなこれ。

「こ、この期に及んでなんて事言うんですか!」
「結構重要なんだ、答えてくれ」

 どこがどう重要なのか、彼女にはわからないだろう。でも、良いんだ。これは俺の自己満足だ。理解される必要はない。

「……そうですけど」
「わかった、ありがとう」

 だから、決めた。人の思い出の品を霧散させるなんて、間違ってると思えたから。

「借りるぞラシック、パンツリベレーター発動!」

 そこで伸びてる下着泥棒から、下着を一枚拝借しよう。

『パンツリベレーターシステム発動、対象をパンツより解放します。身体能力を限定的にアップデートしました』

 拳を握り、つま先で地面を叩く。

「キールさん、私に勝つつもりなんですか?」
「その可能性、ほんの少しはあるらしくてさ……それにほら、勇者を止めるのはやっぱり」

 体中を巡る力が、彼女に勝るとは思わない。けど。

「魔王の技だと思ってさ!」

 強く地面を蹴りつける。彼女の顔面に向かって、真っ直ぐと拳を伸ばす。

 剣の腹で受け止められるが構わない。そのまま蹴りを放てたのは、魔王本人の攻撃を受けたから。ここまで計算されていたら怖いなと、心の中で笑いながら。

 ひたすら攻撃を続ける。拳、拳、足、肘、膝、拳、足。異常なその破壊力に、自分の体が悲鳴を上げているのがわかる。それでも続ける、肉弾戦はこれしか知らないからただ闇雲に体を使う。

 アイラの剣が真っ直ぐと突き出される。遅い、躱せる。なら分はこちらにある。

 頭をずらし刃を避け、彼女の脛めがけて前蹴りを放つ。衝撃が足の神経に走り、頭が痛みで支配される。靴を履いているのにこうだなんて、悪い冗談でしかなかった。

 それでもアイラが吹き飛んだ。だが致命傷には至らなかったのか、途中地面に剣を突き刺しその膝を着きはしない。

 なら、追撃をするしかない。両手を広げる、思い描くのは無数の爆発。囲むように彼女を包み、一斉にそれを起爆させる。

 轟音と爆風で橋が半壊する。上がった土煙を吹いた風が攫えば、彼女の姿が顕になる。

「何あの半透明のやつ」

 倒れている、なんて都合のいい現実は無い。むしろ青い半透明の、ガラスのような球に包まれた彼女は呼吸さえ落ち着かせている。つまり今の攻撃は全部無駄。

『ナノマシンバリアだ。遠距離攻撃は全部効かないぞ』
「何それふざけてんの!?」

 ハイネ先生の言葉に思わず反論してしまう。が、帰ってくる言葉はない。代わりに跳んできたのはアイラが放つ剣圧だった。地面を這いながら、三方向に分かれるそれを間を縫うように躱す。それが罠だった。

 読まれていた。急接近するアイラの剣が本命か。受ける、なんて格好のいい事は出来やしないから両手を交差し防ごうとする。だがその手が傷を負う事はない。体を襲ったのは衝撃だった。

 鳩尾にめり込む拳。呼吸が止まり視界が霞む。そのまま無様に膝をつけば、首筋に冷たい感触が当てられる。

「キールさん、邪魔をしないで貰えますか? あなたを殺したくありません」

 見上げれば、汗一つかいていないアイラの顔がそこにあった。対する俺は満身創痍で、正直息をするのだって辛い。けれど。

「殺すとか殺さないとか、アイラには似合わないな」

 涙が乾いた跡だけは、どうしても許せなかった。そうさせた世の中なんて抽象的な物じゃない。この期に及んで役に立たない、自分自身が許せない。

「私の……何がわかるんですか?」

 吐き捨てるように彼女が言う。だから答える。
 
「食いしん坊で、人助けが好きで、おばあちゃん子でお酒は匂いだけでダメで馬車が扱えて……俺が知ってるのはこれぐらい」

 この旅を思い出す。こんな所まで来て、こんな事までさせられたけど。

「まだ……わからないんですか? あなた方に同行していたのは、レーヴェンを通して魔王の事を探るためだって」
「それは嘘だ。あの時はまだ、そんな事知らなかったはずだ」
「記憶力いいんですね」
「こう見えてもね」

 案外覚えているんだ。ひどい道のりだったけれど、どこか楽しかった事だけは。

「なあアイラ、本当はさ……こんな事やりたくないんだろ?」
「そんな単純な話じゃありません」
「そうかなぁ」

 立ち上がって、剣を掴む。手のひらから血が吹き出す。

「少しは周りを見習って」

 世の中は単純じゃないと知った。教えられなかった歴史があって、人にはそれぞれ事情があって。救えないとか救われないとか、山程の問題が転がっている。

 けれど俺達は生きている。こんなひどい世の中を、精一杯生きている。だから、皆。

 ――揃いも揃って大馬鹿なのだ。

「馬鹿になるのも……悪くないさ!」

 握った刃を腹に突き刺す。死ぬほど痛い、というか死にそう。

「何を!」
「決まってるだろ、そんなの」

 けれど俺は笑ってみせる。そっちのほうが似合ってると褒めてくれた人がいたから。 

「馬鹿な事だよ!」

 思い描くのは爆発。喜劇のひどい落ちのような、劇伴付きの大爆発。それを刺さった剣のど真ん中、腹の前で起こしてやる。

 ああそうだ、これでいいこれがいい。大人も子供も知っている、格好いい伝説を台無しにするのは。

 いつだって無能な馬鹿の、一般人の仕事だから。






 耳に響く言葉の意味を、理解できたのは少し経ってからだった。霞む頭に動かない体。それから流れる自分の血。

『おい、生きてるかアナザー!』
「何とか」
『安心しろアナザー、あの剣は真っ二つだ』

 眼球だけ動かして、自分の腹を見る。もう輝きを失った剣が、折れて腹に刺さったまま。

「見ればわかりますよそれぐらい」
『待ってろ、今治療班を呼んでやる』

 ようやく動く首のおかげで、周囲を見回すことが出来た。アイラはうつ伏せになって倒れ込んでいたから、すこし安心できた。

 なんて事は束の間で。

「アイラ!」

 衝撃に耐えきれなかった橋が崩れ、彼女の姿が落ちていく。ろくに動かない体で這いずって、這いずって、痛みに耐えて進んでいく。覗けば彼女は左手で瓦礫に捕まり、何とかぶら下がっている。

 上半身を乗り出せば、彼女と目が合う。

「どうして……どうしてあたしなんか、助けようとするんですか? 騙してたのに、キールさんのこと、殺そうとしたのに」

 体中に激痛が走る。手を伸ばしたくても動かない。もはや体力と呼べるものは、俺の体に残っていない。

『おいアナザー動くな、傷が』

 だったら、無理矢理にでも動いてやる。

「パンツリベレーター発動……! 使うのは……俺だ!」

 途切れる息、かすれた声でそうつぶやく。体を動かす方法は、まだ俺に残っている。

『パンツリベレーターシステム発動、対象をパンツより解放し、システムエラー発生、システムエラー発生。装着者のスキルを、全消化する可能性が』
「うるさいな……だいたいパンツなんてものは」

 どいつもこいつも、下着一枚で大騒ぎだ。こんなものただの消耗品だ、無くなったときの対処法なんてただ一つしか無いじゃないか。

「また買えばいいんだよ!」
『パンツリベレーターシステム発動、対象をパンツより解放します。身体能力を限定的にアップデートしました』

 動く。体が、腕が。だったらやるべきことは一つ。

「アイラ、君は!」

 手を伸ばす。ただ真っ直ぐに。迷いもせず。

「誰よりも真面目で、強くて、勇者で! 俺が持って無いものを、山程持っているかもしれない、けど!」

 父の言葉を覚えている。母の優しさも忘れない。そして彼女の手の温もりは、まだこの体を動かしている。

「俺だって、君に無いものを持っている! 背だった俺の方が高いし、金持ちだし、あとはまあ下らない事ばかりだけど!」

 持っているんだ、俺は。勇者の使命と比べられない、ほんの小さな物かも知れない。

「だから!」

 これは義務だ。俺がキール=B=クワイエットであるために、この名前に恥じないために、課された一つだけの条件。

「この手を……掴む権利があるんだ!」

 眼の前にいる彼女は泣いていた。泣き虫なんだなと初めて知った。

「嘘つきですよ」
「ああ」
「人殺しです」
「そっか」
「使命すら果たせない……半端者です」
「それでも」

 右手を強く、強く差し出す。彼女はその右手を、恐る恐る伸ばしてくれる。

「掴んで良いんだ……君が誰でも何者でも」

 その手は涙を拭わない。ためらいがちに指先が触れ、その表情をくしゃくしゃにして。

「……はいっ!」

 掴んだ。この手を強く、力強く。それはきっと何よりも、素晴らしいことだと俺は思えた。

 けど。

「あれ」

 ずれた。思いの外重かったせいか、俺がアイラに引っ張られる。こう半分ぐらいしか出ていなかったはずの上半身があれよあれよという間に川に向かってずるずると。

「ちょ、キールさん!?」

 が、止まる。誰かが俺の足を掴む。感触でわかる、細いその腕の持ち主は、いや俺の足を平気でつかめる人間なんて、彼女ぐらいしかいないのだ。

「全く世話の焼ける人ですね」
「ああ、セツナありがとう」

 後ろから聞こえる声に、素直な礼を述べてみる。彼女は今、どんな顔をしているのだろうか。クスクスと笑うアイラを見れば、振り向けない事を呪った。

「ちょっと、わたくしもいらっしゃるんですけど……?」
「さすがシンシア、美少女の危機は救いに来るな」

 聞こえてくるのはシンシアの声。セツナの体でも掴んでいるんだろう、悪役という言葉は今の彼女に似合わない。

「残念だけど、今日の主役はわたくしじゃなくって……よっ!」

 瞬間宙に舞う俺とアイラ。そのまま尻餅をついてみれば、成る程主役はそこにいた。

「アイラ」

 まだ額に汗を残しながら、レーヴェンがそこにいた。

「レーヴェンちゃん」

 アイラは彼女と目を合わせられなかった。当然だ、罪悪感とかそういう物が彼女を蝕んでいるのだから。

 だがレーヴェンは違った。真っ直ぐと彼女に歩み寄り、小脇に抱えた水晶玉を垂直に彼女の頭に落とす。

「痛いっ!」
「わたしも痛かった」

 まぁそうだろうけどさ。

「……だからこれでおあいこ」

 それから彼女はアイラの手を、優しく両手で握りしめた。

「わかった?」
「うん……」

 涙を拭わず、アイラもまた手を重ねる。これにて一件落着なんだけど、こうね、今の俺にはね、腹に折れた剣が刺さっていてですね。

「それよりキール様の治療しなくて良いんですか?」

 よく言ったセツナ。

『あ、忘れてた。レーヴェンにやってもらえ回復魔法使えるから』

 さらっとハイネ先生がそんな事を言う。

「初耳なんだけど」
『面倒だったんだろ多分……どうせさっきの傷には使えなかったしな』

 はぁそうですか。そろそろ耳も痒くなってきたから、耳栓みたいなそれを外して捨てる。結局この姉妹に良いように使われたような、そんな気分にさせられたから。

 で、当のレーヴェンはどうなったかと言えばさっきからアイラの両手を握りしめてブンブンと振り回しているだけ。仲がいいのは良いことだけどさ。

「頼みづらい雰囲気だな」
「せめて包帯でも巻きましょうか?」
「それもあるけどさ」

 自分のパンツを犠牲にしたおかげか、出血はもう止まっていた。どういう原理だ、とかは考えない。どうせハイネ先生に聞いたところで、俺に理解できない答えが返ってくるのはわかりきっているのだから。

 まぁ、今は傷もあるけど気になる点がもう一つ。

「実は今パンツ履いてなくて……その違和感が凄いんだ」

 そう、今の俺は履いていない。いやズボンは履いてるんだけどさ、ズボン直穿きなんて事今の今までしたことが無かったもので、こう変にスースーするんだ。

「何だそんな事ですか」

 セツナは少し笑いながら、そのポケットを弄った。そして取り出す一枚のパンツ。それを俺に差し出した。

「どうぞキール様、あなたのパンツです」
「ああ、ありがとう」

 受け取ってそれを広げる。あ、これ去年ぐらいに亡くしたと思ってた俺のパンツだ。グレート黒のチェック柄のどこにでもあるトランクス。さすがセツナ用意が良いね。

「……ん? 何でセツナ俺のパンツ持ってるんだ?」

 待て、待て待て待て待て考えろ俺。

 今セツナが俺達の戦いを見て、駆けつける前にパンツを持ってきた? いやそれはない、なにせ俺の荷物は漂流したときに全部どこかに消えたからだ。というかこの無くしていたと思っていたパンツを俺が鞄に詰めている筈はない。それはおかしい。

 だから彼女は、こっちに来てからこのパンツを回収したんだ。その機会があったとすれば。

「あれ、セツナのパンツは二枚盗まれてて、一枚は女性ものの所にあってもう一枚はたしか別のとこに」

 ラシックが盗んだ下着について思い出す。クワイエット家から盗まれたパンツは全部で二枚。んで、それはセツナの部屋から取られたわけで。となるとセツナの部屋にはそもそも。

「なあセツナ、もしかして」

 その答えを聞く前に、彼女はスッと立ち上がる。そして仰々しくスカートの両端を摘んで、行儀よくお辞儀をして。

「キール様、急用が出来ましたので本日は帰らせていただきます」

 そんな事を言いだした。えーっと、なんだ。走り去るセツナを見て思考を巡らせる。この旅についてまとめるなら、きっとこうだろうなんて思いながら。

 ――うちのメイドのパンツが勇者に盗まれたと思ったら、俺のパンツがうちのメイドに盗まれていましたとさ。

 めでたしめでたし、と。





◆◆◆今回の獲得スキル◆◆◆



パッシブスキル:キール=B=クワイエット

アーツ:持つものの義務(ノブレスオブリージュ )