第1話 別に旅立ちたくなかった朝
勇者特別支援法――その悪法に異を唱えるものなど居るはずもなかった。
中身はこうだ。世界をめぐる勇者様は諸悪の根源たる魔王の討伐に励んでいるのだから、エルガイスト国民全員が少しずつ家財を持ち寄り支援してやろうじゃないかと。つまるところ勇者に薬草やら小銭やら盗まれたところで、目を瞑ってやろうじゃないかと。
まあ税金の新しい形式みたいなものだと世間は納得せざるを得なかった。これに反対するということは、それこそ世界の命運より自分の財産を優先する器の小さな非国民だと主張するようなものだから、へそくりや帽子が勇者に盗まれてもせいぜいため息をつく程度でやり過ごしていたのだけれど。
「キール様、私のパンツが盗まれたので勇者を殺しに行きたいのですが」
――うちのメイドは違ったらしい。
「なあセツナ……とりあえず朝食用意してもらってもいい?」
メイドの衝撃的な発言から十秒ほどして、正気に戻った俺はまだ目の前のテーブルに何も置かれていないことに気づいた。いつものような格好で背筋を伸ばし行儀よく立っているセツナ。黒く伸びた艶のある髪に凛とした表情、装飾らしきものがひとつもない白と黒のメイド服は彼女によく似合っている。でも手は何一つ動いていない、仕事なんて何一つしていなかった。
「いい訳あると思いますか、私のパンツが盗まれたんですよ」
どうやら絶賛職務放棄中らしいので、とりあえず頷く俺。良い雇用主というのはいつだって従業員の話を聞くものだと父に教えられていて幸いだった。
「……とりあえず自分でコーヒー淹れるね」
「そうしてください」
窓際に置かれたティーセットを使いコーヒーを用意する。いくら貴族といえど、これぐらいの事は自分で出来ないとな。
「飲む?」
「結構です」
どうやらセツナは話し合いのテーブルに着席する気がないらしい。
「んでなにパンツ? 勇者に盗まれたの?」
席に戻りコーヒーを啜りながら、本題に入る。
「ええ、昨日うちに来た時に。挨拶すらせず家を物色して帰ったのですが」
「ああ支援法……ま、貴族の家は狙い目だろうな。何盗まれたの?」
ただでさえ普通の泥棒に入られやすい家なのに、国が認めた泥棒とあれば狙われない筈もなく。もっとも現金の類は銀行に預けているし高価なものはそんなにないので、泥棒的にはがっかりだろうが。
「今朝帳簿を確認したところ、常備薬と少し高いお酒とパンツです」
「ふーん」
一つ、単純な解決策が頭に思い浮かぶ。というかもうこれしかないだろうというアイディアが脳裏に駆け巡る。
「別に……買い直せばよくない?」
下着が盗まれて良い気持ちがしないのは当然だけど、我がクワイエット家の家計はパンツ一枚で傾く程ヤワじゃない。俺が貴族らしい遊びや付き合いをしない事もあって、並の貴族より預金には余裕があるのだ。
「良くないです! パンツですよパンツパンツパンツパンツ殺してでも取り返さないと!」
机をバンバンと叩きながら、熱弁をふるうセツナ。誰だろうこんなメイド雇ってるの俺だった休みとか増やしてあげたほうがいいのかな。
「取り返すって言っても相手は勇者だろ? 雷落としたり山ぶっこわしたりする化け物って聞いてるけど」
「殺すのは……不可能だとしても。キール様の権力を最大限使えば何とかなるのではないでしょうか? ここの領主ですし」
領主。貴族は貴族でも国王から賜った領地を代表するスーパー貴族。ちなみにここ特徴らしい特徴は無いけど生きて行く分には特に困らないことで有名な都市エルサットを擁するクワイエット領の領主は俺なんだけど。
「つまり……権力を傘にパンツ返せって俺が勇者に頼むの?」
おうおう俺様がここの領主様だぞおい勇者うちのメイドのパンツを返してくれ。史上最も言いたくないセリフがつい頭によぎってしまう。
「現実的な妥協ラインですね」
「ですね、じゃなくてさぁ」
コーヒーをもう一口。ですねじゃないよ本当どうなってるんだ彼女の頭は。
「だいたいどこにいるんだよ勇者、もう朝にはここを出てるんじゃないか? ほら、この街見る物ないし」
冷静に考えれば、この街は旅の途中に寄ることはあっても旅の目的になるような場所ではない。勇者一行が昨日街についてその足で一通り物色して、宿屋に泊まって帰るのがセオリーだろうか。
「……わかりました、今日見つからなければ諦めます。その代り」
セツナもそれはわかっていたのだろう。今日見つからなければ、という考えは俺が権力を盾にするのと同じぐらいの妥協ラインに思えた。
「どうせ大したお仕事なんてしてないんですから、今日一日付き合ってもらいますか?」
大した仕事がないというのはその通りであった。領主としての権限を放棄したわけではないが、せいぜい俺のすることは領内の頭のいい人たちが考えた案にサインするだけ。両親が立派な制度を残してくれたおかげで、俺がすることは殆ど無い。
「ま、いいけど」
コーヒーを飲み干す。今日のところは最近の領内の動向を探るということで。
「晩飯ぐらいは作ってくれよ」
せめて晩飯ぐいらいは、まともな食事にありつけますようにと願いながら。
街に出る。今日もエルサットの街は平々凡々で穏やかだ。さすが特徴がないのが特徴の街、人通りだってまばらだ。
平凡な街。学園に通っていた三年間を除いて過ごしたこの場所は、そう呼ぶにふさわしい。石造りの道も建物も、この世界じゃありふれたものだった。豪華絢爛な劇場があるわけでもない、何でも揃う商会直営の百貨店が軒を連ねるわけでもない、剣闘士が己の誇りをかけて戦うわけでもない普通の街。
「で、心当たりは?」
まあそんなことよりも、大事なのはこれからの事。
「ありませんが、旅の途中に立ち寄ったなら露店あたりに用があるかと。それか宿屋に聞いて回るのも良いですね」
「どっちも面倒臭そう」
セツナの出した案を、頭の中の地図と照らし合わせてみる。結構歩くな、うん。ここ中央の噴水公園から東に歩いて露天街に顔を出して、こう知り合いでもそうでない人にも挨拶されれば大体昼になって、そのまま北に向かう途中で食事をとって宿屋を二軒回ってから南の三軒を聞き込みする、と。
これ帰れるの夕方だね。
「他に良い案があるんですか?」
「そうだな」
頭を掻いてあたりを見回す。こういう時、学園で同級生だったシンシアあたりなら山程いる使用人にやらせるのだろうが、うちの使用人はそんなにいない。人海戦術が使えないとなると少し痛いが、世の中には別の手法があるわけで。
「専門家に任せよう」
占い有りマス。そんな紙をぶら下げている旅の占い師が、都合よく真っ黒なフードなんてかぶって真っ黒な水晶玉を覗いている。たまに旅芸人が小銭を稼ぐようなこの場所じゃ、そんなに珍しいものでもなかった。
「旅の占い師ですか? 当たるんですかねこういうの」
「絶対当たる! ……って書いてる」
まぁ当たらぬも当たらぬもなんとやらだ。料金はせいぜい18クレ、コーヒー6杯分ぐらいなら試してみてもいいだろう。
「自分の小遣いから出して下さいね」
ちなみに月の小遣いは300クレである。貴族としてどうかと思うが、案外これでどうにかなってるから恐ろしい。
「あの……探し人とか占ってもらえる?」
ともかくこのまま手をこまねいているのも嫌だったので、占い師に声をかける。長く伸びた白い髪に、褐色の肌といった出で立ちはなんだろう異国の匂いがした。占いも当たりそうだ。
「明日の天気以外ならなんでも占う」
まぁそれは別の人に聞くとして。
「じゃあさ、探して欲しい人いるんだけど……」
「誰? あなたとの関係は?」
「勇者を探してるんだ。関係は……」
関係と言われると少し困る。被害者と加害者と言われればそうなのかも知れないが、おおっぴらに言いふらしても良いようなものでも無いような気がする。
「ファン?」
「いいやまさか、ちょっと貸してるものを返して欲しくて」
「そう」
そっけない返事だったが、何かに納得したのか彼女は水晶玉に手をかざし始めた。
「なら、無料にしてあげる。どのみちわたしが占う予定だったから」
お、小遣い浮いたぞこれは嬉しい。
「ふーん、関係者?」
「……間接的には」
「そういうのもあるんだ」
それで会話が途切れる。勇者ってのはつくづく訳のわからない職業だなと思う。人のパンツを盗んだり占い師に狙われたりとどうやって生計立てているんだろうな。
「でた。この街の北の出入り口の近く……チッ、もう次の街に行く気か」
聞こえて来る舌打ち。どうやらこいつも碌でもない理由で勇者に用があるらしい。普通舌打ちするか人類の英雄に……って俺も人のこと言えないか。
「その場所なら……走る感じか」
北の出入り口、なるほどここから全力疾走して間に合うのかな。いや間に合わないんじゃない? そうだなうん間に合わない諦めようそれがいい。
「ところであなた……力は欲し」
「急ぎますよキール様」
うちのメイドは間に合う方に賭けたらしい。強引に俺の腕を引っ張り粗末な椅子から引き剥がす。いやまだ占い師さんなんか喋ってるけどさ。もういいよね、お金いらないって言ったし。
「あ、ちょっとセツナ……悪い、占い師さん! 助かったよ!」
「いっちゃった」
というわけで俺は走る。これは明日全身筋肉痛だろうなと確信しながら走り続ける。明日は一日休みにしよう。そうでも思わないとやってられないよね、こんな日ぐらいはさ。
「……あれですかね」
「さすが我がクワイエット臣民、なかなかミーハーだ」
北の出入り口、賭けに勝ったのはセツナだったらしい。出立前の勇者様らしき男は、住民達にどこで売ってるのか色紙やら、無地のシャツに何か書くものを突き出されて笑っている。
勇者。なるほど想像通りの出で立ちをしているから、街の人もすぐに気づいたのだろう。軽装の鎧に豪華な剣、青いマントに茶色の髪。それから爽やかな笑顔は、その肩書にふさわしいように思えた。
「あ、領主様」
「領主様、勇者様の激励にいらしたんですか?」
「いやいやキール様もサインほしいんでしょ多分」
俺に気づいてほんの少しだけ騒ぐ臣民達だったが、俺はそれを片手で静止して領主らしく毅然とした態度で挑む事にした。
「あー……まぁなんだ、静まりたまえ臣民諸君」
「下手くそですねそういうの」
一応ね、静かになったんだからそういう茶々を入れないでくれるかね身内一号。
「うるさいな……えーっと、あなたが勇者様ですか?」
騒ぎの中心人物に向かって、まっすぐと手を伸ばす。年は俺より下だろうか、まだ少年の面影が残る青年は笑顔を向けてくれる。人はそんなに悪くないのだろう、なんて思っていたら。
「ちょっと、何よ私達の勇者に貴族様が何か用!?」
「貴族、信用できない……だいたい悪いやつ」
「剣のサビにされたくなければ……わかるな」
突如湧いて出てきた勇者の取り巻き三人にファーストコンタクトが遮られる。気の強そうな女武道家っぽいのと、人付き合いが苦手そうな尼さんと、真面目そうな女剣士の三人だ。全員美人である、世の中は不公平だ。
「いやいやちょっと落ち着こうよ三人とも!」
勇者がそういえば、渋々各々の武器をしまう女性陣。こういう男が政治家になったらみんなすんなり言うこと聞くんだろうなと思わなくもない。顔のいい男はいつだって得なのだ。
「えーっと、勇者やらしてもらっている……ラシックといいます」
「俺はその、ここら辺の領主やらせてもらってるキール=B=クワイエットです」
ようやく握手する俺達。互いに浮かべる表情は苦笑いだが上出来だろう。ちなみに女子陣は互いに睨み合っている。三体一でも柄の悪さは負けてないぞセツナ、そこは負けて良いんだぞ別に。
「あー、その、せっかく家の近くを通ってもらって大したおもてなしも出来ず」
いえいえこちらこそ、なんて何でも無い社交辞令を互いに交わす。そしてすぐ無言になるのは、当然お連れの女性の前で君メイドのパンツ盗んだでしょなんて聞けるはずもないので。
「少し……向こうで話せません?」
とりあえず人混み離れたところを指差す。それぐらいの権力は俺にあったって良いだろうさ。
「可愛い子達に睨まれちゃってますね」
「いやその……腕が立つから選んだんです」
北の出入り口から少し離れた、誰が置いたか古びたベンチに二人で腰を掛けながら勇者ラシックと会話を始める。本当かこいつ顔で選んだんじゃないのかと疑いながら。
「あ、いやまぁそんなことより」
取り巻きの話はもう良い、そろそろ本題に入ってさっさと家でゆっくりしなきゃな。
「ここに、大した金額じゃないけど200クレあります。これをね、君の冒険に役立ててもらいたいなって」
ポケットから財布を取り出し、現金をちらつかせる。これだから貴族様はと言われかねないようなやり口だが、今回の件についてはこれが正解だろう、うん。
「え、良いんですか!? いや中々援助とかしてもらえなくて困ってて……」
200クレという金額は勇者一行にとって端金かと思われたが、意外と食いつきが良くて助かった。手を伸ばして来たので、ちらつかせたお金を遠ざける。
「交換条件」
ラシックの表情が曇る。反応があるってことは交渉の余地があるってことと変わりない。どうやら思いの外早く家に帰れそうだ。小遣いはまぁ、必要経費としてセツナからもらうとしよう。
「……何でしょうか」
「酒とか薬は別に良いんだけど……その、何ていうかな」
言って良いのかと疑問に思う。冷静に考えればパンツを盗まれた現場を見たわけでもないし、仮に盗まれたとしても別の人間かもしれないし、というかどんなパンツなのかすら知らない。
いやでも、セツナが言ったんだから本当だろう。そこを疑うなんて、今更やる事でもないか。
「パンツ返してほしいなって」
ラシックの表情が凍る。それから思い出したかのように、全身から汗を吹き出す。なんかそういう玩具みたいだな、なんて呑気な感想が思い浮かぶ。
「ええっと、キールさん……その事、他の誰かに言いましたか?」
「まさか。口の堅さには自身があるよ」
「そうですか、なら」
違和感があった。小指の先ほどのそれに気づけたのは、彼の表情を注視していたからだろう。ほんの少しだけ目の色が変わったから、本能的に後ろに下がる。
「ここで……死ねぇ!」
振り上げられたそれは、青く輝く軌跡を残す。鞘から引き抜かれた剣が、ベンチと俺の前髪を切った。
「ちょ、ちょっとま」
何やってんだこの人いま死ねって言ったよねこれ俺に言ったのかなんで俺殺されるのパンツ返してもらおうとしただけでさ。
「君が死ねば完全犯罪だ!」
いやセツナも知ってるけどとかいう屁理屈喋る前に死ぬなこれ俺何がパンツだよやっぱり買い直せば良かったじゃん200クレもあれば相当良いパンツ買えるよおかしいでしょこれで命張らなきゃならないだ。
なんて最後の瞬間にしては間抜けすぎる独白に思考を奪われていたが、勇者の剣が俺を真っ二つにしなかった。子供でも知っている勇者の証明たる青い刃の剣は、そんな簡単な事も出来なかった。
「……死ぬのはお前だ、勇者ッ!」
邪魔が入った。黒いマント黒い帽子、浅黒い肌に白い髪。鈍器のように水晶玉を振り下ろすが、かがんだラシックの剣に止められた。
「さっきの……占い師の人?」
見覚えがあった。つい先程、勇者の居場所を教えてくれた女性。でも、なんでこんな所にいるのか。皆目見当もつかない。
「君は……誰だ? どうして僕の邪魔をする?」
「伝説とか運命とかって口にして、人の家族を殺そうとするサイコパスを邪魔するのに、理由って必要なもの?」
「……魔族か」
睨み合う二人。そうかこれが因縁の対決か、あるんだなぁこういうの間近で見れると思ってなかったけど俺関係ないよね帰っていいかな?
「えっと、話がわからないんだけどパン」
「大丈夫ですかラシック様!」
「おのれ貴様ら、勇者を亡き者にしようなど……これだから貴族は!」
「ここで死ね」
パンツの話が駆けつけてきた三人娘に遮られる。どう考えても俺被害者なんだけど目が悪いのかな、恋は盲目っていうけど見えない方がマシだよねこれ。
「いやその誤解だ。俺はちょっとお願いがあって」
「ふん、人間共が雁首揃えて……2対4のつもりかもしれないけど、実質2対2だってわからせてあげる」
勝手に話を進める占い師。待てさっき魔族とか言われてたけど魔界の住人なんですかこの人どうなってるんだウチの入国審査はザルか何かかな。
「あの、俺こういう荒事とか慣れてないんですけど何勝手に頭数に入れて」
「なら1対2になって貰おう!」
襲いかかるラシック。何してんだこの人、話を聞いてる聞いてないじゃない自分の頭で全てが自己完結してる。今度こそ死ぬなかな俺、なんて思っていたら幸運な事に横槍がまた入る。セツナがラシックに向けて、銀のナイフを投げつける。
剣の柄に当たったそれが、見事刃の軌道を変えてくれた。足元に落ちる剣先、よく生きてるよね俺。
「ご無事ですか、キール様!」
「ああ、ありがとう……助かったけど」
なんで当たり前のように食器忍ばせてるんだろうそれもナイフ怖いよこの人武器じゃないよそれ。
「私のパンツを……かえせぇっ!」
「おっと!」
飛びかかり、今度はフライパンで殴りかかろうとする。今度なんかちゃんとした武器買ってあげようと思っていると、当然のように吹き飛ばされるセツナ。
「君があのパンツの持ち主か」
「だったらなんだって言うんですか」
「そうだね、敢えて言うなら」
一瞬のことだった。セツナが体勢を整え顔を上げた瞬間、ラシックの姿は消えていた。
「期待外れだ」
後ろから彼女の首元を小突く。たったそれだけのことで、彼女はいともたやすく気絶した。
「セツナ!」
「全く、どうして僕に勝てると思ったのか」
叫んでも返事は来ない。帰ってきたのはため息混じりのラシックの声。勝てる勝てないの問題じゃない、勝負にすらなっていない。かたや世界を救う命運を背負った男、かたや地方領主とメイド。戦おうとすることがそもそもの間違いだった。
「ここで死体にするのは微妙かな……あ、大丈夫三人ともちゃんと後で殺すから」
脅しなんて生易しいものじゃない。言葉にするのは単なる確認行為でやる事はもう決まっている。
――終わりだ。
助けは来ない、奇跡もない、立ち上がる気力もない。ここが人生の終着点だと気付かされる。
こんな感覚を覚えている。両親が死んだあの日、襲った絶望を覚えている。動かなかった体を、働かなかった頭を、ただ磨り減っていくだけの心を。
それでも今ここにいるのは。
彼女が、いたから。
「……あなた、力が欲しい?」
聞こえてくる悪魔の囁き、断る理由はどこにもない。何でも良かった、どうでも良かった。手段なんて考慮しない、必要なのは結果だけ。
「ああ」
頷けば悪魔が笑う。そうだ、何でも良いんだ。
彼女を、セツナを救えるなら。
「話が早くて助かる。それなら」
ポケットから取り出した黒い何かを、占い師は乱暴に俺に投げつけた。細い皮のベルトに何の衣装もないバックル。
「その首輪つけて、早く!」
首に巻く。棘のようにそれは刺さり、蛇のように締め付ける。だが、一瞬。消えた痛みに興味はない。
「つけたぞ、次はどうすればいい!?」
「これ、食べて」
もう一つ、彼女のポケットから放り投げられる。手に取って広げる。いいさなんだって食ってやる。
「……え?」
食ってやらないこともないけど、確認だけさせてほしい。
「いや、これ野郎のパンツだよね」
手のとったのはパンツ。トランクス的な奴。男物。よれてるしすれてる。あとちょっと、臭う。
「そうパパのパンツ。こっそり貰ってきた」
何言ってんだこいつ。文脈が繋がらない、理解に頭が追いつかない。えーっと、力が欲しければ占い師のパパのパンツを食べてね、と。うん、酔っ払いの戯言の方がまともだ。
「食べるの、俺が、お前の親父のパンツを!?」
「話終わったかい? そろそろ死んでもらおうかな」
「いいから、さっさとパンツ食えスットコドッコイ!」
顔を上げる。襲ってくる勇者と三人の戦士達。
手元を見る。知らない人のパンツ。
「た」
いや、でもな、これこのままだと俺死んじゃうんだよね。やってからの後悔とやらなかった後悔の天秤を、揺らしている暇はないから。
「食べれば良いんだろおおおおおおおっ!?」
騙されたと思ってと、誰かが言った。でもこれ俺騙されてる。口の中に放り込んだ布を噛む、噛みしめる涙の味だ。吞み込めるのかなんて疑問は首輪が解決してくれた。熱くなった喉がそのパンツを飲み込んだ。
『パンツイーターシステム発動』
脳内に声が木霊する、勇者の剣が眼前に迫る。俺はおかしくなったらしい、いやそりゃそうかパンツ食ったんだもんね。
ああでも不思議なのは、死ぬ瞬間って本当にゆっくり景色が流れるんだなって事か。矢のように飛んできたと思った剣先は、もはや宙を舞う鳥の羽のような速度で進む。
不意に、手を伸ばす。一矢報いたかったのか、意識がそうさせたのかわからない。
それでも。
『レジェンドスキル、"魔王"を取得しました』
俺の二本の指は、その剣を止めていた。
「え?」
「なんで……」
間抜けな声を漏らす勇者と俺。今日初めて意見が合ったように思えた。
「いやなんで、俺こんなことできて」
「何でもいい、魔法使って!」
占い師が叫ぶ。魔法。知ってるよそれ一部の天才が使える奴でしょ。
「あ、いやその」
当然俺は一部の天才なんかじゃない。生まれはともかく一般人、魔法なんて見たことない。けど、まあ本で読んだ事はある。
「こ……こうかな?」
空いている手を勇者にかざす。えいっなんて心の中で唱えた。
爆発した。空間そのものが歪み、爆ぜた。
「なにこれぇ」
眼の前の光景につい間抜けな感想を漏らす。花火だとか火薬だとか、そういう次元の問題じゃない。とにかく平々凡々な筈のこの街に似つかわしくない地獄の光景。
「くっ、なんて威力だ……!」
「めっちゃ引くわ」
こわいわこんなもん人に向けるものじゃないだろ。
「さすがパパの魔法……勇者なんて相手じゃない」
とにかく頭を巡るのは山のような疑問符。俺の体に何が起きたかとか君は誰とかここの工事いくらになるだろとか、重要度に関わらない雑事の数々。それを一瞬で理解する魔法は多分ないから、彼女に声をかけるしかない。
「あの、ちょっと説明とかもらっても」
「みんな、悔しいけど……ここは引こう」
立ち去る勇者達だったが、占い師も深追いはしなかった。そうだそれでいいこれで全部解決したぞパンツはどこかへ買いに行こう。
「まあ、初めてにしては上出来の部類」
「褒めてくれるのは嬉しいけど」
彼女は笑う。俺は笑えない。やっぱり頭が追いつかない。
「何が何だか、俺には……」
そこで記憶が途切れる。急激な疲労感が強制的に睡眠を取らせる。整備途中の頭が合理的な結論を下す。
これは夢だ。タチの悪い悪夢だと。
朝、目が覚める。あくびをしてベッドから起き上がれば、当然のように彼女がいる。
「ああ、セツナおはよう」
「おはようございますキール様」
背筋を伸ばす。寝間着のままベッドから離れ、窓際に腰をかける。
「夢を……見てたんだ」
空は青く雲は白く、街の景色はいつも通り。
「楽しい夢ですか?」
彼女の問いに俺は微笑む。
「セツナがパンツ盗まれたってキレて仕方なく勇者とかいうサイコパス野郎にお願いに行ったら訳のわからない占い師が出てきて親父のパンツ食えって言われて食ったら食ったですごい魔法使えるっていう愉快な夢だよ」
言葉にする、これはひどい。どこをどうとってもひどい。
「……寝ぼけているみたいですね」
「ああ、うんそうだね……朝食はある?」
その答えは鼻がもう知っていた。淹れたてのコーヒーの香りは、心地よくこの部屋に充満している。
「とりあえず朝のコーヒーと」
カップを受け取り少し啜る。喉に染み込む適温が心地良い。ただ少し腹が減ったから、何かつまむものでもあれば良いな。
察したのか、セツナが皿を差し出してくれた。相変わらず彼女は気が効く自慢のメイドだ。夢の中では少し違っていたけれど。
外の景色を眺めながら、それを掴んで齧る。齧っちゃったよ。俺は馬鹿かな。
「ロールパンツです」
それを皿に戻し、首筋に手をやる。もはや外す余地の消えた首輪がそこにまだあったから。
冷めない悪夢の始まりだと、間抜けな俺はようやく気付いた。
◆◆◆今回の獲得スキル◆◆◆
レジェンドスキル:魔王
アーツ:地獄の種火 地獄の篝火 地獄の業火
ミニバン ビッグバン YOUBAN
落雷 豪雷 天雷
気合ため 気力ため 生命力ため
一撃 連撃 無限連撃
回避 漫然回避 完全回避
勇者特別支援法――その悪法に異を唱えるものなど居るはずもなかった。
中身はこうだ。世界をめぐる勇者様は諸悪の根源たる魔王の討伐に励んでいるのだから、エルガイスト国民全員が少しずつ家財を持ち寄り支援してやろうじゃないかと。つまるところ勇者に薬草やら小銭やら盗まれたところで、目を瞑ってやろうじゃないかと。
まあ税金の新しい形式みたいなものだと世間は納得せざるを得なかった。これに反対するということは、それこそ世界の命運より自分の財産を優先する器の小さな非国民だと主張するようなものだから、へそくりや帽子が勇者に盗まれてもせいぜいため息をつく程度でやり過ごしていたのだけれど。
「キール様、私のパンツが盗まれたので勇者を殺しに行きたいのですが」
――うちのメイドは違ったらしい。
「なあセツナ……とりあえず朝食用意してもらってもいい?」
メイドの衝撃的な発言から十秒ほどして、正気に戻った俺はまだ目の前のテーブルに何も置かれていないことに気づいた。いつものような格好で背筋を伸ばし行儀よく立っているセツナ。黒く伸びた艶のある髪に凛とした表情、装飾らしきものがひとつもない白と黒のメイド服は彼女によく似合っている。でも手は何一つ動いていない、仕事なんて何一つしていなかった。
「いい訳あると思いますか、私のパンツが盗まれたんですよ」
どうやら絶賛職務放棄中らしいので、とりあえず頷く俺。良い雇用主というのはいつだって従業員の話を聞くものだと父に教えられていて幸いだった。
「……とりあえず自分でコーヒー淹れるね」
「そうしてください」
窓際に置かれたティーセットを使いコーヒーを用意する。いくら貴族といえど、これぐらいの事は自分で出来ないとな。
「飲む?」
「結構です」
どうやらセツナは話し合いのテーブルに着席する気がないらしい。
「んでなにパンツ? 勇者に盗まれたの?」
席に戻りコーヒーを啜りながら、本題に入る。
「ええ、昨日うちに来た時に。挨拶すらせず家を物色して帰ったのですが」
「ああ支援法……ま、貴族の家は狙い目だろうな。何盗まれたの?」
ただでさえ普通の泥棒に入られやすい家なのに、国が認めた泥棒とあれば狙われない筈もなく。もっとも現金の類は銀行に預けているし高価なものはそんなにないので、泥棒的にはがっかりだろうが。
「今朝帳簿を確認したところ、常備薬と少し高いお酒とパンツです」
「ふーん」
一つ、単純な解決策が頭に思い浮かぶ。というかもうこれしかないだろうというアイディアが脳裏に駆け巡る。
「別に……買い直せばよくない?」
下着が盗まれて良い気持ちがしないのは当然だけど、我がクワイエット家の家計はパンツ一枚で傾く程ヤワじゃない。俺が貴族らしい遊びや付き合いをしない事もあって、並の貴族より預金には余裕があるのだ。
「良くないです! パンツですよパンツパンツパンツパンツ殺してでも取り返さないと!」
机をバンバンと叩きながら、熱弁をふるうセツナ。誰だろうこんなメイド雇ってるの俺だった休みとか増やしてあげたほうがいいのかな。
「取り返すって言っても相手は勇者だろ? 雷落としたり山ぶっこわしたりする化け物って聞いてるけど」
「殺すのは……不可能だとしても。キール様の権力を最大限使えば何とかなるのではないでしょうか? ここの領主ですし」
領主。貴族は貴族でも国王から賜った領地を代表するスーパー貴族。ちなみにここ特徴らしい特徴は無いけど生きて行く分には特に困らないことで有名な都市エルサットを擁するクワイエット領の領主は俺なんだけど。
「つまり……権力を傘にパンツ返せって俺が勇者に頼むの?」
おうおう俺様がここの領主様だぞおい勇者うちのメイドのパンツを返してくれ。史上最も言いたくないセリフがつい頭によぎってしまう。
「現実的な妥協ラインですね」
「ですね、じゃなくてさぁ」
コーヒーをもう一口。ですねじゃないよ本当どうなってるんだ彼女の頭は。
「だいたいどこにいるんだよ勇者、もう朝にはここを出てるんじゃないか? ほら、この街見る物ないし」
冷静に考えれば、この街は旅の途中に寄ることはあっても旅の目的になるような場所ではない。勇者一行が昨日街についてその足で一通り物色して、宿屋に泊まって帰るのがセオリーだろうか。
「……わかりました、今日見つからなければ諦めます。その代り」
セツナもそれはわかっていたのだろう。今日見つからなければ、という考えは俺が権力を盾にするのと同じぐらいの妥協ラインに思えた。
「どうせ大したお仕事なんてしてないんですから、今日一日付き合ってもらいますか?」
大した仕事がないというのはその通りであった。領主としての権限を放棄したわけではないが、せいぜい俺のすることは領内の頭のいい人たちが考えた案にサインするだけ。両親が立派な制度を残してくれたおかげで、俺がすることは殆ど無い。
「ま、いいけど」
コーヒーを飲み干す。今日のところは最近の領内の動向を探るということで。
「晩飯ぐらいは作ってくれよ」
せめて晩飯ぐいらいは、まともな食事にありつけますようにと願いながら。
街に出る。今日もエルサットの街は平々凡々で穏やかだ。さすが特徴がないのが特徴の街、人通りだってまばらだ。
平凡な街。学園に通っていた三年間を除いて過ごしたこの場所は、そう呼ぶにふさわしい。石造りの道も建物も、この世界じゃありふれたものだった。豪華絢爛な劇場があるわけでもない、何でも揃う商会直営の百貨店が軒を連ねるわけでもない、剣闘士が己の誇りをかけて戦うわけでもない普通の街。
「で、心当たりは?」
まあそんなことよりも、大事なのはこれからの事。
「ありませんが、旅の途中に立ち寄ったなら露店あたりに用があるかと。それか宿屋に聞いて回るのも良いですね」
「どっちも面倒臭そう」
セツナの出した案を、頭の中の地図と照らし合わせてみる。結構歩くな、うん。ここ中央の噴水公園から東に歩いて露天街に顔を出して、こう知り合いでもそうでない人にも挨拶されれば大体昼になって、そのまま北に向かう途中で食事をとって宿屋を二軒回ってから南の三軒を聞き込みする、と。
これ帰れるの夕方だね。
「他に良い案があるんですか?」
「そうだな」
頭を掻いてあたりを見回す。こういう時、学園で同級生だったシンシアあたりなら山程いる使用人にやらせるのだろうが、うちの使用人はそんなにいない。人海戦術が使えないとなると少し痛いが、世の中には別の手法があるわけで。
「専門家に任せよう」
占い有りマス。そんな紙をぶら下げている旅の占い師が、都合よく真っ黒なフードなんてかぶって真っ黒な水晶玉を覗いている。たまに旅芸人が小銭を稼ぐようなこの場所じゃ、そんなに珍しいものでもなかった。
「旅の占い師ですか? 当たるんですかねこういうの」
「絶対当たる! ……って書いてる」
まぁ当たらぬも当たらぬもなんとやらだ。料金はせいぜい18クレ、コーヒー6杯分ぐらいなら試してみてもいいだろう。
「自分の小遣いから出して下さいね」
ちなみに月の小遣いは300クレである。貴族としてどうかと思うが、案外これでどうにかなってるから恐ろしい。
「あの……探し人とか占ってもらえる?」
ともかくこのまま手をこまねいているのも嫌だったので、占い師に声をかける。長く伸びた白い髪に、褐色の肌といった出で立ちはなんだろう異国の匂いがした。占いも当たりそうだ。
「明日の天気以外ならなんでも占う」
まぁそれは別の人に聞くとして。
「じゃあさ、探して欲しい人いるんだけど……」
「誰? あなたとの関係は?」
「勇者を探してるんだ。関係は……」
関係と言われると少し困る。被害者と加害者と言われればそうなのかも知れないが、おおっぴらに言いふらしても良いようなものでも無いような気がする。
「ファン?」
「いいやまさか、ちょっと貸してるものを返して欲しくて」
「そう」
そっけない返事だったが、何かに納得したのか彼女は水晶玉に手をかざし始めた。
「なら、無料にしてあげる。どのみちわたしが占う予定だったから」
お、小遣い浮いたぞこれは嬉しい。
「ふーん、関係者?」
「……間接的には」
「そういうのもあるんだ」
それで会話が途切れる。勇者ってのはつくづく訳のわからない職業だなと思う。人のパンツを盗んだり占い師に狙われたりとどうやって生計立てているんだろうな。
「でた。この街の北の出入り口の近く……チッ、もう次の街に行く気か」
聞こえて来る舌打ち。どうやらこいつも碌でもない理由で勇者に用があるらしい。普通舌打ちするか人類の英雄に……って俺も人のこと言えないか。
「その場所なら……走る感じか」
北の出入り口、なるほどここから全力疾走して間に合うのかな。いや間に合わないんじゃない? そうだなうん間に合わない諦めようそれがいい。
「ところであなた……力は欲し」
「急ぎますよキール様」
うちのメイドは間に合う方に賭けたらしい。強引に俺の腕を引っ張り粗末な椅子から引き剥がす。いやまだ占い師さんなんか喋ってるけどさ。もういいよね、お金いらないって言ったし。
「あ、ちょっとセツナ……悪い、占い師さん! 助かったよ!」
「いっちゃった」
というわけで俺は走る。これは明日全身筋肉痛だろうなと確信しながら走り続ける。明日は一日休みにしよう。そうでも思わないとやってられないよね、こんな日ぐらいはさ。
「……あれですかね」
「さすが我がクワイエット臣民、なかなかミーハーだ」
北の出入り口、賭けに勝ったのはセツナだったらしい。出立前の勇者様らしき男は、住民達にどこで売ってるのか色紙やら、無地のシャツに何か書くものを突き出されて笑っている。
勇者。なるほど想像通りの出で立ちをしているから、街の人もすぐに気づいたのだろう。軽装の鎧に豪華な剣、青いマントに茶色の髪。それから爽やかな笑顔は、その肩書にふさわしいように思えた。
「あ、領主様」
「領主様、勇者様の激励にいらしたんですか?」
「いやいやキール様もサインほしいんでしょ多分」
俺に気づいてほんの少しだけ騒ぐ臣民達だったが、俺はそれを片手で静止して領主らしく毅然とした態度で挑む事にした。
「あー……まぁなんだ、静まりたまえ臣民諸君」
「下手くそですねそういうの」
一応ね、静かになったんだからそういう茶々を入れないでくれるかね身内一号。
「うるさいな……えーっと、あなたが勇者様ですか?」
騒ぎの中心人物に向かって、まっすぐと手を伸ばす。年は俺より下だろうか、まだ少年の面影が残る青年は笑顔を向けてくれる。人はそんなに悪くないのだろう、なんて思っていたら。
「ちょっと、何よ私達の勇者に貴族様が何か用!?」
「貴族、信用できない……だいたい悪いやつ」
「剣のサビにされたくなければ……わかるな」
突如湧いて出てきた勇者の取り巻き三人にファーストコンタクトが遮られる。気の強そうな女武道家っぽいのと、人付き合いが苦手そうな尼さんと、真面目そうな女剣士の三人だ。全員美人である、世の中は不公平だ。
「いやいやちょっと落ち着こうよ三人とも!」
勇者がそういえば、渋々各々の武器をしまう女性陣。こういう男が政治家になったらみんなすんなり言うこと聞くんだろうなと思わなくもない。顔のいい男はいつだって得なのだ。
「えーっと、勇者やらしてもらっている……ラシックといいます」
「俺はその、ここら辺の領主やらせてもらってるキール=B=クワイエットです」
ようやく握手する俺達。互いに浮かべる表情は苦笑いだが上出来だろう。ちなみに女子陣は互いに睨み合っている。三体一でも柄の悪さは負けてないぞセツナ、そこは負けて良いんだぞ別に。
「あー、その、せっかく家の近くを通ってもらって大したおもてなしも出来ず」
いえいえこちらこそ、なんて何でも無い社交辞令を互いに交わす。そしてすぐ無言になるのは、当然お連れの女性の前で君メイドのパンツ盗んだでしょなんて聞けるはずもないので。
「少し……向こうで話せません?」
とりあえず人混み離れたところを指差す。それぐらいの権力は俺にあったって良いだろうさ。
「可愛い子達に睨まれちゃってますね」
「いやその……腕が立つから選んだんです」
北の出入り口から少し離れた、誰が置いたか古びたベンチに二人で腰を掛けながら勇者ラシックと会話を始める。本当かこいつ顔で選んだんじゃないのかと疑いながら。
「あ、いやまぁそんなことより」
取り巻きの話はもう良い、そろそろ本題に入ってさっさと家でゆっくりしなきゃな。
「ここに、大した金額じゃないけど200クレあります。これをね、君の冒険に役立ててもらいたいなって」
ポケットから財布を取り出し、現金をちらつかせる。これだから貴族様はと言われかねないようなやり口だが、今回の件についてはこれが正解だろう、うん。
「え、良いんですか!? いや中々援助とかしてもらえなくて困ってて……」
200クレという金額は勇者一行にとって端金かと思われたが、意外と食いつきが良くて助かった。手を伸ばして来たので、ちらつかせたお金を遠ざける。
「交換条件」
ラシックの表情が曇る。反応があるってことは交渉の余地があるってことと変わりない。どうやら思いの外早く家に帰れそうだ。小遣いはまぁ、必要経費としてセツナからもらうとしよう。
「……何でしょうか」
「酒とか薬は別に良いんだけど……その、何ていうかな」
言って良いのかと疑問に思う。冷静に考えればパンツを盗まれた現場を見たわけでもないし、仮に盗まれたとしても別の人間かもしれないし、というかどんなパンツなのかすら知らない。
いやでも、セツナが言ったんだから本当だろう。そこを疑うなんて、今更やる事でもないか。
「パンツ返してほしいなって」
ラシックの表情が凍る。それから思い出したかのように、全身から汗を吹き出す。なんかそういう玩具みたいだな、なんて呑気な感想が思い浮かぶ。
「ええっと、キールさん……その事、他の誰かに言いましたか?」
「まさか。口の堅さには自身があるよ」
「そうですか、なら」
違和感があった。小指の先ほどのそれに気づけたのは、彼の表情を注視していたからだろう。ほんの少しだけ目の色が変わったから、本能的に後ろに下がる。
「ここで……死ねぇ!」
振り上げられたそれは、青く輝く軌跡を残す。鞘から引き抜かれた剣が、ベンチと俺の前髪を切った。
「ちょ、ちょっとま」
何やってんだこの人いま死ねって言ったよねこれ俺に言ったのかなんで俺殺されるのパンツ返してもらおうとしただけでさ。
「君が死ねば完全犯罪だ!」
いやセツナも知ってるけどとかいう屁理屈喋る前に死ぬなこれ俺何がパンツだよやっぱり買い直せば良かったじゃん200クレもあれば相当良いパンツ買えるよおかしいでしょこれで命張らなきゃならないだ。
なんて最後の瞬間にしては間抜けすぎる独白に思考を奪われていたが、勇者の剣が俺を真っ二つにしなかった。子供でも知っている勇者の証明たる青い刃の剣は、そんな簡単な事も出来なかった。
「……死ぬのはお前だ、勇者ッ!」
邪魔が入った。黒いマント黒い帽子、浅黒い肌に白い髪。鈍器のように水晶玉を振り下ろすが、かがんだラシックの剣に止められた。
「さっきの……占い師の人?」
見覚えがあった。つい先程、勇者の居場所を教えてくれた女性。でも、なんでこんな所にいるのか。皆目見当もつかない。
「君は……誰だ? どうして僕の邪魔をする?」
「伝説とか運命とかって口にして、人の家族を殺そうとするサイコパスを邪魔するのに、理由って必要なもの?」
「……魔族か」
睨み合う二人。そうかこれが因縁の対決か、あるんだなぁこういうの間近で見れると思ってなかったけど俺関係ないよね帰っていいかな?
「えっと、話がわからないんだけどパン」
「大丈夫ですかラシック様!」
「おのれ貴様ら、勇者を亡き者にしようなど……これだから貴族は!」
「ここで死ね」
パンツの話が駆けつけてきた三人娘に遮られる。どう考えても俺被害者なんだけど目が悪いのかな、恋は盲目っていうけど見えない方がマシだよねこれ。
「いやその誤解だ。俺はちょっとお願いがあって」
「ふん、人間共が雁首揃えて……2対4のつもりかもしれないけど、実質2対2だってわからせてあげる」
勝手に話を進める占い師。待てさっき魔族とか言われてたけど魔界の住人なんですかこの人どうなってるんだウチの入国審査はザルか何かかな。
「あの、俺こういう荒事とか慣れてないんですけど何勝手に頭数に入れて」
「なら1対2になって貰おう!」
襲いかかるラシック。何してんだこの人、話を聞いてる聞いてないじゃない自分の頭で全てが自己完結してる。今度こそ死ぬなかな俺、なんて思っていたら幸運な事に横槍がまた入る。セツナがラシックに向けて、銀のナイフを投げつける。
剣の柄に当たったそれが、見事刃の軌道を変えてくれた。足元に落ちる剣先、よく生きてるよね俺。
「ご無事ですか、キール様!」
「ああ、ありがとう……助かったけど」
なんで当たり前のように食器忍ばせてるんだろうそれもナイフ怖いよこの人武器じゃないよそれ。
「私のパンツを……かえせぇっ!」
「おっと!」
飛びかかり、今度はフライパンで殴りかかろうとする。今度なんかちゃんとした武器買ってあげようと思っていると、当然のように吹き飛ばされるセツナ。
「君があのパンツの持ち主か」
「だったらなんだって言うんですか」
「そうだね、敢えて言うなら」
一瞬のことだった。セツナが体勢を整え顔を上げた瞬間、ラシックの姿は消えていた。
「期待外れだ」
後ろから彼女の首元を小突く。たったそれだけのことで、彼女はいともたやすく気絶した。
「セツナ!」
「全く、どうして僕に勝てると思ったのか」
叫んでも返事は来ない。帰ってきたのはため息混じりのラシックの声。勝てる勝てないの問題じゃない、勝負にすらなっていない。かたや世界を救う命運を背負った男、かたや地方領主とメイド。戦おうとすることがそもそもの間違いだった。
「ここで死体にするのは微妙かな……あ、大丈夫三人ともちゃんと後で殺すから」
脅しなんて生易しいものじゃない。言葉にするのは単なる確認行為でやる事はもう決まっている。
――終わりだ。
助けは来ない、奇跡もない、立ち上がる気力もない。ここが人生の終着点だと気付かされる。
こんな感覚を覚えている。両親が死んだあの日、襲った絶望を覚えている。動かなかった体を、働かなかった頭を、ただ磨り減っていくだけの心を。
それでも今ここにいるのは。
彼女が、いたから。
「……あなた、力が欲しい?」
聞こえてくる悪魔の囁き、断る理由はどこにもない。何でも良かった、どうでも良かった。手段なんて考慮しない、必要なのは結果だけ。
「ああ」
頷けば悪魔が笑う。そうだ、何でも良いんだ。
彼女を、セツナを救えるなら。
「話が早くて助かる。それなら」
ポケットから取り出した黒い何かを、占い師は乱暴に俺に投げつけた。細い皮のベルトに何の衣装もないバックル。
「その首輪つけて、早く!」
首に巻く。棘のようにそれは刺さり、蛇のように締め付ける。だが、一瞬。消えた痛みに興味はない。
「つけたぞ、次はどうすればいい!?」
「これ、食べて」
もう一つ、彼女のポケットから放り投げられる。手に取って広げる。いいさなんだって食ってやる。
「……え?」
食ってやらないこともないけど、確認だけさせてほしい。
「いや、これ野郎のパンツだよね」
手のとったのはパンツ。トランクス的な奴。男物。よれてるしすれてる。あとちょっと、臭う。
「そうパパのパンツ。こっそり貰ってきた」
何言ってんだこいつ。文脈が繋がらない、理解に頭が追いつかない。えーっと、力が欲しければ占い師のパパのパンツを食べてね、と。うん、酔っ払いの戯言の方がまともだ。
「食べるの、俺が、お前の親父のパンツを!?」
「話終わったかい? そろそろ死んでもらおうかな」
「いいから、さっさとパンツ食えスットコドッコイ!」
顔を上げる。襲ってくる勇者と三人の戦士達。
手元を見る。知らない人のパンツ。
「た」
いや、でもな、これこのままだと俺死んじゃうんだよね。やってからの後悔とやらなかった後悔の天秤を、揺らしている暇はないから。
「食べれば良いんだろおおおおおおおっ!?」
騙されたと思ってと、誰かが言った。でもこれ俺騙されてる。口の中に放り込んだ布を噛む、噛みしめる涙の味だ。吞み込めるのかなんて疑問は首輪が解決してくれた。熱くなった喉がそのパンツを飲み込んだ。
『パンツイーターシステム発動』
脳内に声が木霊する、勇者の剣が眼前に迫る。俺はおかしくなったらしい、いやそりゃそうかパンツ食ったんだもんね。
ああでも不思議なのは、死ぬ瞬間って本当にゆっくり景色が流れるんだなって事か。矢のように飛んできたと思った剣先は、もはや宙を舞う鳥の羽のような速度で進む。
不意に、手を伸ばす。一矢報いたかったのか、意識がそうさせたのかわからない。
それでも。
『レジェンドスキル、"魔王"を取得しました』
俺の二本の指は、その剣を止めていた。
「え?」
「なんで……」
間抜けな声を漏らす勇者と俺。今日初めて意見が合ったように思えた。
「いやなんで、俺こんなことできて」
「何でもいい、魔法使って!」
占い師が叫ぶ。魔法。知ってるよそれ一部の天才が使える奴でしょ。
「あ、いやその」
当然俺は一部の天才なんかじゃない。生まれはともかく一般人、魔法なんて見たことない。けど、まあ本で読んだ事はある。
「こ……こうかな?」
空いている手を勇者にかざす。えいっなんて心の中で唱えた。
爆発した。空間そのものが歪み、爆ぜた。
「なにこれぇ」
眼の前の光景につい間抜けな感想を漏らす。花火だとか火薬だとか、そういう次元の問題じゃない。とにかく平々凡々な筈のこの街に似つかわしくない地獄の光景。
「くっ、なんて威力だ……!」
「めっちゃ引くわ」
こわいわこんなもん人に向けるものじゃないだろ。
「さすがパパの魔法……勇者なんて相手じゃない」
とにかく頭を巡るのは山のような疑問符。俺の体に何が起きたかとか君は誰とかここの工事いくらになるだろとか、重要度に関わらない雑事の数々。それを一瞬で理解する魔法は多分ないから、彼女に声をかけるしかない。
「あの、ちょっと説明とかもらっても」
「みんな、悔しいけど……ここは引こう」
立ち去る勇者達だったが、占い師も深追いはしなかった。そうだそれでいいこれで全部解決したぞパンツはどこかへ買いに行こう。
「まあ、初めてにしては上出来の部類」
「褒めてくれるのは嬉しいけど」
彼女は笑う。俺は笑えない。やっぱり頭が追いつかない。
「何が何だか、俺には……」
そこで記憶が途切れる。急激な疲労感が強制的に睡眠を取らせる。整備途中の頭が合理的な結論を下す。
これは夢だ。タチの悪い悪夢だと。
朝、目が覚める。あくびをしてベッドから起き上がれば、当然のように彼女がいる。
「ああ、セツナおはよう」
「おはようございますキール様」
背筋を伸ばす。寝間着のままベッドから離れ、窓際に腰をかける。
「夢を……見てたんだ」
空は青く雲は白く、街の景色はいつも通り。
「楽しい夢ですか?」
彼女の問いに俺は微笑む。
「セツナがパンツ盗まれたってキレて仕方なく勇者とかいうサイコパス野郎にお願いに行ったら訳のわからない占い師が出てきて親父のパンツ食えって言われて食ったら食ったですごい魔法使えるっていう愉快な夢だよ」
言葉にする、これはひどい。どこをどうとってもひどい。
「……寝ぼけているみたいですね」
「ああ、うんそうだね……朝食はある?」
その答えは鼻がもう知っていた。淹れたてのコーヒーの香りは、心地よくこの部屋に充満している。
「とりあえず朝のコーヒーと」
カップを受け取り少し啜る。喉に染み込む適温が心地良い。ただ少し腹が減ったから、何かつまむものでもあれば良いな。
察したのか、セツナが皿を差し出してくれた。相変わらず彼女は気が効く自慢のメイドだ。夢の中では少し違っていたけれど。
外の景色を眺めながら、それを掴んで齧る。齧っちゃったよ。俺は馬鹿かな。
「ロールパンツです」
それを皿に戻し、首筋に手をやる。もはや外す余地の消えた首輪がそこにまだあったから。
冷めない悪夢の始まりだと、間抜けな俺はようやく気付いた。
◆◆◆今回の獲得スキル◆◆◆
レジェンドスキル:魔王
アーツ:地獄の種火 地獄の篝火 地獄の業火
ミニバン ビッグバン YOUBAN
落雷 豪雷 天雷
気合ため 気力ため 生命力ため
一撃 連撃 無限連撃
回避 漫然回避 完全回避