客間に入るや、扉をピタリと閉めきって鍵をかける。
「セリシア、頬を打たれたのだな!? 見せてみろ!」
 すぐにセリシアに向き直り、頤に右手をあててクイッと上を向かせる。
「っ!」
 ふたりの目線が間近に絡むと、セリシアは大仰なほど体をビクンと跳ねさて体を硬直させる。目にした俺は、顎に添えた指の力を緩めた。
 そんなに強く掴んだつもりはなかったが、もしかすると口もとの傷に響いたのかもしれない。
「すまん。傷が痛んだか?」
「い、いえ……っ。大丈夫です! 傷も大したことはありませんので、どうかお気になさらず」
 セリシアは伏し目がちに床へと視線を落とし、早口に言い募る。しかし『大丈夫』という言葉とは裏腹に、上向かせて固定したままの頬はひと目でそれと分かるくらい赤くなっているし、滲んだ血こそ拭い取られていたが口の端に走った傷口は今もしっかりと見て取れる。
「そう深くはなさそうだが、念のためこれを貼っておくといい。……どれ」
「えっ……?」
 俺は荷袋から医療キットを取り出すと、消毒液を含ませた絆創膏を取り出して、手早く彼女の頬に貼る。
 セリシアは驚いたようにパッと目線を上げて、自身の指先でツツツッと口もとに触れる。絆創膏の感触を確認した彼女は、恐縮しきりで頭を下げた。
「すみません! 私などに、畏れ多いことです!」
「やめてくれ。君にそんなふうに畏まった態度を取られると落ち着かない。先ほどは聖女やフレンネルの手前、やむなくあんな横柄な対応をしたが決して本意ではなかった。実を言うと、俺は路地裏で会う前に、小間物屋で君を見ているんだ」
「小間物屋のおじちゃんとおばちゃん、セリシアお姉ちゃんのことすっごく褒めてた! それで本物の聖女様より聖女様に相応しいって言ってたけど、私もそう思う。派手で怖いあの聖女様より、セリシアお姉ちゃんの方がずっと聖女様みたいだもの!」
 ここでチナが嬉々とした声をあげた。耳にしたセリシアはパチパチと目を瞬いて、答えに困った様子だった。
「小間物屋の夫婦から、君が手製の軟膏や湿布薬、果ては咳止めまで調薬していると聞き、一度話をしたいと思ったんだ。それで教会の下働きをしているという君を追って来たわけだが……」
 俺は一旦言葉を途切れさせると、しっかりとセリシアの目を見て再び口を開く。
「なぁセリシア、君はこの教会でずっとこんな扱いを受けているのか? 住み込みの下働きは、賃金などの労働条件で待遇が劣る傾向がある。とはいえ、殴られたり暴言を吐かれたりというのは普通じゃない。待遇改善を申し出て、それで改善が見込めなければ早急に他の働き口を探した方がいい」
「……いえ。教会には両親亡き後、引き取ってもらった恩があります。それに私はシンコですから、働き口は限られます。ここでの扱いが不当とは思いません」
「君さえよければ俺たちと一緒に来ないか。この場ではあえて俺たちの旅の目的については伏せるが、君は薬草の知識とその調薬に造詣が深い。俺たちと共に旅をしながら、その技にもっと磨きをかけていくこともできる」
「とんでもないことです。私の持つ薬剤の知識は今は亡き街の薬師から授かったものが全てで、特段秀でたものではありません。ご一緒しても、足手まといにしかなりません。それに今は、これでも街唯一の薬師を兼ねております。私がいなくなってしまっては、多少なり困る人たちも出てきます。セイ様のお気持ちだけ、ありがたくちょうだいいたします」
 固辞するセリシアを前に、これ以上同行を持ち掛けることはしなかった。
「そうか。もし、気が変わったら言ってくれ。俺たちはいつでも歓迎する。それから、ひとつ確認させてくれ。君は『街の薬師から授かったものが全て』と言ったが、君が調合した薬の効果はその薬師のものと同じか?」
「……少し、効果が強く出ているように感じます。ただ、薬効というのは患者の状態によって変わってきますから、薬がうまく利いたケースがたまたま複数件認められただけです」
「なるほど」
 彼女の弁解は俺を納得させるに足るものではなかったが、セリシアを困らせるのは本意でなく頷くにとどめた。
「もう! セリシアお姉ちゃんてば、ほんとに人がいいんだから」
 チナがぷぅっと頬を膨らませながら零した呟きに、声には出さずとも内心で同意する。
 セリシアはこれに曖昧に微笑んで、腰を屈めてチナと目線の高さを合わせた。
「チナツちゃんはいいわね。私は両親を亡くしてしまったし、もともと一人っ子で兄弟もいなかった。こんなに頼もしいお兄さんがいて、羨ましいわ」
「だったら私もセリシアお姉ちゃんと同じだよ」
「え?」
 セリシアは小さく首を傾げた。
「お兄ちゃん、本当のお兄ちゃんじゃないんだ」
「そうだったの……。『お兄ちゃん』と呼んでいたからてっきり、兄妹なんだと思っていたわ。ごめんなさい、私の勘違いだったわね」
「ううん、全然! 私、お兄ちゃんのこと兄妹とか関係なく大好きだし、兄妹に見えたなら嬉しい!」
「こう見えて、チナと出会ったのも一緒に旅を始めたのもつい最近のことなんだ。だが、なかなかどうして。これが不思議とうまくやれている」
 俺への好意を隠そうとしないチナの素直な言動は好ましく、彼女の水色の頭をクシャリと撫ながら、セリシアに補足する。
「まぁ、とてもそうは見えませんでした。てっきり、おふたりはずっと以前から一緒にいらっしゃるのだとばかり」
「俺たちは共に弾かれ者で、似たもの同士。気が合わないわけがない。そしてそれはセリシア、君にも当て嵌まる」
「おふたりが弾かれ者? それに、私にも……とは一体どういう意味でしょう?」
「君はさっき『シンコだから』と己を卑下した物言いをしていたな。だが、チナツもシンコだ。そして、俺に至ってはセイスだ」
 セリシアは信じられないというように、目を真ん丸に見開いた。
「セイスやシンコへの差別は根強く、就業や生活面でのハンディも否定しない。だが、それが全てではないことは、街の人たちとの交流する中で君とて承知しているはずだ。習得した調薬の技術や君自身の人柄によって、君は多くの人に慕われている。君はもっと、自分に自信を持っていい」
 セリシアは困惑した様子でパチパチと目を瞬かせ、俺を見上げていた。
「それから、俺たちはいつでも君を歓迎する。これだけ覚えておいてくれ」
「セリシアお姉ちゃん。私もね、お兄ちゃんに会うまでずっと『シンコの私なんて』って自分に自信がなかった。でも、今は『シンコの私だって』って思ってる。私も、いつだってセリシアお姉ちゃんを大歓迎よ!」
「セイさん、チナツちゃん、……ありがとう」
 セリシアは顔をクシャクシャにして、絞り出すように声にした。
 その後、セリシアは夕食の支度のため、慌ただしく厨房に向かっていった。
 聞けば、専属の料理人が別にいるのに、セリシアは毎食の下ごしらえや後片付けに駆り出されているらしかった。察するに、彼女のここでの生活は息つく暇もない忙しさだろう。
 セリシアが出ていくと、客間には俺とチナのふたりが残った。
「わっ! このベッド、とってもふかふか」
 チナは奥の寝台にボフンとダイブして、嬉しそうな声をあげた。
「あ、そうそう。この間のやつだけど……」
 そのままベッドの上をゴロゴロと転がっていたチナが、思い出したように声をあげた。
「こんな感じ?」
 手前の寝台脇で荷解きしていた俺が手を止めて振り返るのと、彼女がポシェットの中から土色の塊を取り出したのは同時だった。
 俺は荷解きもそっちのけでチナツに歩み寄った。
「ほぅ、早いな。もうでき……っ!? な、なんて完成度だ!!」
 チナツの手に握られた土色の塊……土製の武器を目にした瞬間、俺はその完成度の高さに度肝を抜かれた。
 俺が前世の知識をもとに、旅の始まりにチナツに手渡したのは、リボルバー式小型拳銃の設計図。孤児院でチナツが作ったライフルは威力や精度は申し分なかったが、強度が不足していた上、連射ができないため都度魔力を装填する必要があった。
 小型拳銃ならそれらを全てカバーできるが、反面、構造はライフルと段違いに複雑で、特に肝となる回転部分のチャンバーは精緻な魔力制御によって細部まで繊細に作り上げていく必要があった。
 それをまさか、この短期間で形にしてしまうとは……!
 当然、移動中の馬車内や宿、人目が無いところでチナがコツコツと作っていたのは知っていた。しかし、チナが製作途中の状態を見せることをよしとしなかったのだ。
 チナから受け取った小型拳銃を、表裏ひっくり返して検分していく。もちろん素材は土だから、スカンジウムなどの軽量で硬度に優れた素材と比べるべくもなく脆い。
 もし、本物のリボルバー式小型拳銃と同等の強度を備えたら完璧だが……いいや、そこまでは望むまい。
 実際にこの拳銃に装填するのは俺の魔力だ。強度を見ながら発射威力に折り合いをつけていけばいいだけのこと。
「チナ、完璧な仕上がりだ! これをここまで形にするのは大変だったろう。想像以上だ、ありがとう」
「ほんと!? よかった!」
 ワシャワシャとチナの頭を撫でながら労えば、チナは満面の笑みを浮かべた。
「作り方はもう覚えたから、もっと欲しかったり、改良したいところがあったら教えて。やってみる」
 チナがあっさりと続けた台詞に、俺は思わず舌を巻いた。
 魔力量だけで言えば、シンコのチナツはトレスにも劣る。実際、土魔力をぶつけ合うような状況では、彼女はひとたまりもないだろう。
 ところが、彼女は少ない魔力を繊細に注ぐことで、こんなにも強力な武器を生み出した。
 俺の次元操作にしてもそうだ。各々の属性でみれば極僅かな魔力、しかしそれらを掛け合わせて発現させることで何倍もの力を生じさせる。
 そう考えると、保有する魔力の大小は問題ではなく、むしろ弱者とされるシンコやセイスにこそ、具現の方法や掛け合わせの相乗効果といった意味では可能性が持てる。
「チナ、もしかするとお前ならできるかもしれん」
「任せて! 今度はもっと難しい物を作ればいいの?」
 チナは俺の言葉を先回りして、胸を張った。
「いいや。いずれは新しい創作も頼むが、今お前にやって欲しいのはそれではない」
「え?」
「これを、俺が力いっぱい魔力を注いでも耐えうる素材にしたい」
 コテンと首を傾げるチナに告げたのは、属に"錬金術"と呼ばれる技で、歴史上ペテンや詐欺の代名詞として語られることがほとんど。しかし俺は、チナの土・火・水・風・闇の五属性を掛け合わせて発生した魔力に、彼女だけが持つ優れた魔力制御を加えれば決して夢ではないと考えていた。
 コツさえ掴めば、彼女は間違いなく土を金に変えることができる。
「うーんと、それって固く丈夫にすればいいってことだよね……」
「その通りだ」
 案の定、呑み込みが早いチナは、すぐに俺の意図を理解する。そうして悩んだ様子ながらさっそく右手を前に翳すと、気合の入った掛け声と共に俺の両手に握られた小型拳銃目掛けて魔力を放った。
「えいっ!」
 次の瞬間、小型拳銃が俺の手の上でボンッという音を立てて爆発する。
「ウッ!!」
 俺は低く呻きをあげながら咄嗟に手を引く。
 小型拳銃は見る間に原形をなくし、サラサラとした砂になって落ちていき、足元の床に小さな山を作った。
「きゃああっ! お兄ちゃん大丈夫!?」
 チナは目の前で起こった出来事に取り乱し、泣きながら俺に縋りついた。
「ああ、大丈夫だ。反射的に放したから大事ない」
 この言葉に嘘はない。とはいえ魔力が注がれた際、小型拳銃は瞬間的にかなりの熱を持ったから、すぐに放さなかったら危なかった。危機一髪のタイミングで難を免れた俺は、内心で安堵の息をついた。
 一方で、今回の一件によってひとつ嬉しい発見もあった。熱して土の形状を変えようという意図でこのような発現の仕方になったのだろうが、チナが放ったのは火と土の混合魔力。言うなれば、彼女がしたのは魔力の足し算のようなもの。これを掛け算にすると新魔創生になる。
 たった一度で二属性の同時発動を成し遂げてしまうあたり、チナの素質は極めて高い。彼女が新魔創生を体得する日はきっとそう遠くない。
 幾度も失敗を重ねながら二年の月日をかけて次元操作体得した俺としては、舌を巻かずにはいられなかった。
「っ、よかった! よかったよ!」
 泣きじゃくって震える細い背中をトントンと抱きしめながら、シンコのチナ、そしてセリシア、このふたりとの巡り合わせに天の意志を感じずにはいられなかった。
 ……いや、天というよりは、両親の悲願といってもいいかもしれん。
 新魔創生に初めに目を付けたのは、俺の両親だった。そうして彼らは、それを体得しかけていた最中、事故によってこの世を去ったのだ。
 ただの偶然なわけがない、絶対に何者かの作意がある。両親の試みを頓挫させようとする何某かの力が働いたのだ。
 では、その力とはなにか――。教会、あるいは、そこに組する勢力か。どちらにせよ、敵は手強い。奴らに打ち勝つために、さらに情報を集め、対策を練らなければ。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。私、とんでもないことを……。一歩間違えば、お兄ちゃんに大やけどを負わせていた」
「いいや、お前が謝ることはない。むしろ、俺は感心しているんだ」
「え?」
 チナが涙に濡れた目を向ける。
「お前の能力は俺の想像を遥かに超えている。この調子なら、きっとお前はじきに成し遂げてしまうだろう」
「私、頑張る! 絶対に素材を変えてみせるから!」
「頼もしいな。ただし、ひとつだけ約束してくれ。材質変化の練習はひとりでは行わず、必ず俺に声をかけてくれ。そうすれば、仮に魔力暴走が起こっても俺が抑える」
「分かった、約束する!」
 チナは力強く頷いて答え、涙の残る目尻を手の甲で拭ってスックと立ち上がった。
「それじゃあお兄ちゃん、さっそく練習するから見てて!」
「ん? だが、肝心の小型拳銃が砂になってしまったからな」
「大丈夫よ! ……えいっ」
 俺が、元は小型拳銃だった足元の砂山を見下ろして零せば、チナが即座に砂山に向かって元気のいい掛け声をあげた。
 すると、見る間に小山は再び小型拳銃の形をとった。
 これには、さすがの俺も声を失くした。
「はい! できた……って、お兄ちゃん? どうかしたの?」
 驚きに目を丸くする俺に、チナが小首を傾げる。
「チナ、お前は凄いな。こんな精緻な仕組みを一瞬で作り上げてしまうのか」
「一度作った物ならすぐよ。もちろん初めて作る時は、ああでもないこうでもないってやり直すけどね」
「そうか。……いや、驚いた」
「えー? こんなの普通よ。へんなお兄ちゃん」
 触れもせず、緻密な構造の拳銃を一瞬にして再現してしまうチナの能力。決して『普通』ではあり得ないが、チナはなんでもないことのようにカラカラと笑った。
 そうして、ここから俺とチナは材質変化の練習を開始した。
 チナは幾度か魔力を暴走させたが、俺が難なく全てを止めた。事前の予想と気構えさえできていれば、爆発や炎上にももう驚くことはなかった。
 とはいえ、新魔創生による錬金術は、やはり一朝一夕でなせるものではない。土が色を変えたように見えても、なかなかその先に進んでいかない。
 夕食に呼ばれたので、この日の練習は終わりになった。
「全然だめね……」
「なに、落ち込むことはない。簡単にこれがなせてしまっては、今頃この世は金銀財宝で溢れていただろう。それくらい、チナが挑んでいるのは難しいことなんだ。焦らず地道にいこう」
「うん、分かった」
 肩を落とすチナを励ましながら食堂に向かい、待ち構えていた教会長と聖女イライザと夕食を共にした。
 ふたりはしきりに俺とアルバーニ様の関係、そして紋状を授かるに至った経緯を聞きたがった。他にも俺の仕事や交友関係、果ては金回りについてまで尋ねてくる始末だった。
 当然、俺がまともに答えてやる義理はない。答えられるところだけ答え、後はのらりくらりと適当に躱しながら、俺からも教会についての質問を重ねていく。特にイライザは単純な性格をしているようで、俺が能力や美貌を褒めてやれば、気をよくして饒舌に語ってくれた。
「いやいや、聖女様は実に得難いお方だ」
「まぁ。ほほほ」
「たしかに光属性の魔力は癒しと回復の効果に優れている。とはいえ、治癒まで叶えてしまうのだから、あなたは奇跡の人だ。……だが、もしかするとその奇跡は生まれつきではなく、体得したのではありませんか?」
「なぜ、そのように思われるのですか?」
 俺のこの問いには、イライザが口を開くよりも先に教会長が質問で返してきた。
「なに、アルバーニ様をはじめ人脈はわりと広い方でな。俺のところには、なにかと情報が集まってきやすい。だが、俺が聖女様のことを知ったのは、北の国との戦で負傷した兵士を治療して『癒しの力を持つ聖女』と呼ばれているのを耳にしたのが最初だ。こんなに素晴らしい能力の使い手がいたら、もっと早くに俺の耳に入っているはず。それらを鑑みるに、治癒が可能となったのは最近のことかと思ったんだが。もし、違っていたらすまない」
「さすがセイ様ですわ! 国内の要人に多くお知り合いがいるのですね。それでは隠せませんわね」
 俺の説明にイライザは喜色に声を弾ませて、教会長も納得した様子で頷いた。
「おっしゃるように、私が治癒の力を持ったのは最近のこと。生まれつき光属性の魔力は強かったのですが、さすがに傷を塞いだりはできませんでした。これが可能になったのは、デラ様の祝福を受け――」
「聖女様!!」
「っ!」
 教会長が鋭い声をあげ、イライザの言葉をピシャリと遮る。彼女はビクリと肩を跳ねさせて、慌てた様子で口を閉ざした。
「……と、とにかく! セイ様のご指摘の通り、後から身に着けましたの」
 イライザは取ってつけたように早口で答えた。
「ほう、やはりそうだったか」
「すみませんが、明日は早朝から予定が入っておりますの。そろそろ、自室に下がらせていただこうかしら」
 彼女はそれ以上の会話を避けてか、間髪入れずに申し出る。
 ……かなり警戒している。これ以上会話を続けても、なにも聞きだすことはできないだろう。
「なに、俺たちももう下がらせてもらう。馳走になった。……チナ、行くぞ」
「うん! ご馳走様でした!」
 俺は早々に席を立ち、チナを伴って食堂を後にした。
 ……イライザが口にしかけた『デラ様』というのは何者だ?
 あの口振りだと『祝福』というのによって治癒の能力が発現したかのようだ。
 頭の中で考えを巡らせながら客間に戻り、扉を閉める。
 扉が完全に閉まり切ったところで、チナが俺の袖を引いた。
「どうした?」
「お兄ちゃん、私、孤児院にいた時に『デラ様』って聞いたことがある」
「なんだって! それはいつだ? 詳しく教えてくれ」
 チナの口からその名前が飛び出したことに驚きは隠せない。
「聞いたのは、二週間くらい前よ。うちの孤児院には一人だけウノの子がいたんだけど、その子はウノの中でも比較的強い闇の魔力を持っていたみたいなの。その子の近況を確認しに、定期的に教会の人が来てた。その日は珍しく二人組でやって来ていて、院長との面会を終えて門を出た後『あの様子なら、問題なくデラ様の祝福を受ける器となれるだろう』って話しながら帰っていった」
 ……器? なるほど。ここの聖女もその器に選ばれ、デラ様の祝福によって癒しの魔力を発現させるに至ったのだ。
 デラ様というのが何者かは分からんが、後付けで魔力を付加、あるいは、増幅させることのできる存在がいる。そしてそれを可能にするのは、考えるまでもなく人の範疇を超えたなにかだ。
「あ、あとね。『闇の器が見つかってひと安心だ。これで無事に器が全て揃った』って言ってた」
「これを俺以外の誰かに話したか?」
「ううん。お兄ちゃんにしか話してないよ」
 最後の器に闇の魔力が注がれた時、いったいなにが起こる? 教会はその六名に、なにをさせようとしている?
「そうか、今後もこの件は絶対に口外してはだめだ。それから、お前がその会話を聞いていたことは、その二人に気づかれていないか?」
「それは大丈夫! たまたま通り沿いの生垣の下で遊んでて聞いたんだけど、二人は気付いた素振りすらなかったもん」
 往来に人がいないことで油断したのだろうが、子供は時に思いもよらない行動を取る。思わぬ場所にいることも、またしかり。
「はははっ。生垣の下か、それはいいところに隠れていたな」
「ふふっ。いいでしょう?」
 その後はチナとたわいもない話をしていたが、彼女が小さくあくびを噛み殺すのを目にし、早々に床についた。健やかなチナの寝息を聞きながら、俺もいつの間にか眠っていた。

 事件は、早朝に起こった。
 ――ガシャン。ガシャン。
 ……なんだ? 最初は夢うつつの中で、門戸を叩いていると思しき音を聞いた。
 幾らもせず、音は一旦止んだ。
 ――ガシャン! ガシャンッ!
「そんなっ! お待ちくださいませ! どうかお助け下さい!」
 次いであがった閉ざされた門戸を強く叩く音と悲痛な叫び声で、俺は完全に目覚めた。
 いったいなにごとだ!? 折よく客間は中庭に面し、窓からは正門が見下ろせる。俺は寝台から飛び起きると、大股で窓に向かいカーテンを開け放つ。
 なっ!? 目にした瞬間、即座にただならぬ事態を悟った。東から薄っすらと白み始めた空の下、必死に門を掴んで乞う男の着衣はところどころ焼け焦げ、剥き出しになった肌の一部が熱傷でただれているのが確認できた。
「……お兄ちゃん、なあに?」
「チナ! どうやら街で火災が発生している。俺は行くが、お前はこのまま部屋にいるんだ」
「えっ」
 瞼を擦りながら起き出してきたチナに言い置き、俺はマントを掴んで客間から駆け出した。
「何度言われても同じこと。どんなに懇願されたところで我々に火消しは出来ぬ。他をあたれ」
 玄関の扉を押し開けると、必死の形相で門の格子に縋る訪問者をフレンネルがけんもほろろに追い返そうとしているのが目に飛び込んできた。
「消火作業は街の者が協力しております! そうではなく、お願いしたいのは重傷者の治療でございます!! 現場では家内をはじめ、複数名が大やけどを負って、動かすも出来ぬ状況でございます。今回ばかりはどうか、聖女様の癒しの魔力を使っていただきたいのです!」
「しつこいぞ」
「っ、聖女様!! そちらで聞いておられるのでしょう! どうか、此度だけはお願いいたします!」
「馬鹿を言うな。聖女様は近隣領主様の腰痛の治療のために発たれるところなのだ。そのように掴んでいては門が開けられんだろうが、さっさとそこを退け!」
 驚くべきことに門と目と鼻の先の庭に、聖女イライザが乗った馬車が停車していた。車窓からは、煩わしそうにそっぽを向く彼女の横顔が見て取れた。
「聖女様! どうか――」
「あぁ、煩い」
 さらに言い募る男に、ついにイライザが口を開いた。
「汚い貧乏人に言葉を許した覚えはない。その上、私に癒しを所望するなどなんという思い上がりか。ドブを這うネズミが一匹や二匹焼け死んだからなんだというのだ? 早くそこをどけ、領主様との約束に遅れたらどうしてくれる」
 しかし、その発言は到底"聖女"が語ったとは思えない、聞くに堪えないものだった。
 男の戦慄く両手が格子から離れ、ガクリと地面に膝を突く。
 門から男が離れたタイミングでフレンネルが即座に門を開き、御者に発車を指示を出す。
「早く馬車をお出ししろ」
「ハッ!」
 御者が馬車を発進させるより一瞬早く、俺は馬車に駆け寄っていき、車窓越しのイライザに声を張った。
「聖女様!」
「あら、セイ様? 申し訳ありません、煩くして起こしてしまいましたわね。まだ朝も早いですわ。もう静かになりましたから、お部屋に戻ってお休みくださいませ」
「私からもお願いいたします。此度ばかりは領主様へは事情を説明し、街の負傷者の治療にあたっていただけませんか。重傷のやけどとなれば、薬師の手には余る。差し出がましくも、腰痛の治療とは違い、事は命に関わります。聖女様のお力がこれほど必要とされる場面はありません」
「まぁ、セイ様までなにをおっしゃっているやら。ここで治療の内容は問題になりませんわ。だって、ネズミと領主様を同じ天秤で量ることがそもそもあり得ませんでしょう。セイ様は前提からして間違っておりますわ。……あら、いけない。時間が押しておりますから、もう行かせていただきますね」
 言うが早いかイライザは御者に発車の合図を送り、あまりの言い草に言葉を失くして立ち尽くす俺の横を颯爽と走り抜けていった。
 その直後、玄関から大量の荷物を抱えたセリシアが転がるように飛び出してくる。
「ウッズおじさん! しっかりしてください」
「セリシア……」
 セリシアは男と顔見知りのようで、一直線に地面に力なく膝を突いて項垂れる男の元に向かった。
「お気持ちはわかります。しかし、今は肩を落としている場合ではありません!」
 腕をグッと取ると、セリシアはその目を真っ直ぐに見つめて叱咤する。
「大至急、負傷者の元に案内してください! こうしている間にも、患者さんはやけどで苦しんでいます。聖女様がいなくとも、今ある人手と薬でできる限りの処置をしましょう!」
 セリシアの言葉を受け、男……ウッズはハッとしたように目を見開いた。
「そうだなセリシア、あんたの言う通りだ! 火事は……負傷者はこっちだ!!」
 ウッズはスックと立ち上がり、先頭になって駆け出した。セリシアもそれに続く。
「俺も行こう! セリシア、荷物をこちらに!」
「待てセリシア、勝手は許さんぞ! ……セイ様も、どうかお戻りください!」
 セリシアが抱えた大量の荷物を取り上げると、背中に掛かるフレンネルの制止を無視して門を飛び出した。