離島を離れてから二ヶ月経った。僕の残りの時間は半年だった。病状は徐々に悪化している。体力がなくなってきた。だが、ノートの項目はあと二つだった。つまり、人殺しになる時が来たのだ。美夜に連絡すると、すぐに返事がきた。まだあの離島にいるということだった。だから、僕はまた船に乗り、離島に向かった。
離島に着くと、美夜が出迎えてくれた。
「待ってたよ」
 美夜は僕の手を取り、住まいに招いてくれた。それは小さな民家だった。築数十年の家らしいが、掃除が行き届いていて綺麗だった。部屋に案内され、待っていると美夜がお茶とお菓子を持ってきてくれた。それを口にしていると、美夜は真剣な顔で訊いてきた。
「いつ、どうやって殺してくれるの?」
 僕は少し思案したが、何も思いつかなかった。
「何も考えていない。君の希望は?」
 僕が尋ね返すと、美夜は少し考える素振りをしたが、すぐに話し出した。
「日はいつでもいい。でも夜に殺して。方法はナイフで心臓を一突き」
「もしかして、あらかじめ考えてた?」
「少しだけね」
 美夜は微笑んだ。僕は初めて美夜の顔を見た気がした。悲しそうに笑う美夜を綺麗だと思った。蝉の声だけが部屋に響く。先に口を開いたのは美夜だった。
「それで、何日にする?」
 僕はしばらく考えた。美夜を殺すのはいつでもできる。だが、僕はすぐに殺す気になれなかった。
「一月後」
「遅くない?」
「僕にも準備があるんだ」
 そうは言ったが、特に準備することはなかった。ただ、なんとなく、今は殺せない気がした。美夜は少し不満そうだったが、すぐに納得した顔をした。
「殺してもらうんだから文句は言わないことにする」
「いい心がけだね」
「でも、死ぬ場所は私が決めてもいい?」
「いいよ」
「この島にある神社でお願い」
「道路横にあるあの小さな神社?」
「そう、そこ」
 島には一度住んでいたからわかる。道路の横を歩いていけば、神社の鳥居が見えて、違う世界に行ったような感覚があったのを覚えている。しかし、なぜそこなのだろう。僕が疑問を口に出す前に、美夜は話題を変えてしまった。
「夕飯食べていく?」
「じゃあ、ご馳走になるよ」
 僕がそう答えると、満足そうに美夜は台所へと消えていった。
 待っている間、僕はノートを取り出し、見ていた。ノートの項目はあと二つ。あと二つで僕の生が終わる。死期が近づいても恐怖はないままだった。僕は死ぬ瞬間、何を思うのだろう。そんなことを考えていると、夕飯の支度ができたようだった。僕を呼びにきた美夜がノートを広げている僕を見て、動きを止める。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
 真剣な顔で尋ねる美夜の目は僕の目を捉えている。僕はその目を見つめ、頷く。
「ノートの最後の項目には死、と書いてあるけど、あなた、自殺するの?」
「どうしてそう思うの」
「だって、いくら病気でも、わざわざ書くくらいだから……」
 美夜が不安そうな顔で僕を見つめる。僕たちは見つめ合った。しかし、先に視線を逸らしたのは僕だった。
「そうだよ」
「どうして……」
「生き方に選択肢があるなら、死に方にも選択肢があっていいはずだ」
 僕がそう言うと、美夜は黙った。僕はそんな美夜の横を通り抜け、台所に向かった。
 美夜の作ったカレーは美味しかった。


 それから、僕は以前来た時に住んでいた家を借りて滞在していた。僕が去ったあと借りる人がいなかったらしく、すぐに貸してもらえた。来た日から美夜には時々会いに行っている。だが、美夜から連絡のあった時だけだ。ほとんどが暇なので話し相手になってほしいとのことだ。僕もあとは覚悟を決める時間が必要なだけなので、会いにいっている。別に交流したからといって、情が湧くような性格でもなかったからだ。
 そうやって過ごしているうちに、現場を下見に行こうという話になった。神社へは美夜の家から歩いて十五分ほどだ。僕たちは蝉の声が鳴り響く中、歩いた。しばらく無言で歩いたが、上り坂が目の前に見えてきた時、美夜がポツリと呟いた。
「懐かしい」
「久しぶりに来たの?」
 僕が尋ねると、美夜は頷いた。坂の頂上を見ながら話し出す。
「私、小さい頃この島で暮らしていたの」
「初耳だな」
 今まで様々な話題を話したが、お互いの過去の話には触れなかった。それはきっと無意識だったのだろう。
「お祭りの帰り道、両親と手を繋いで帰ったことを覚えてる。毎年、そうしてたの」
 美夜のほうをチラリと見ると、悲しそうな表情だった。懐かしいと言いながら、その表情をするのには何か訳があるのだろう。僕はそれに気づかないふりをした。
「お祭りなんてあるんだね」
「多分、今年もあるよ。行ってみる?」
「君が行きたいのならお供するよ」
「じゃあ、行こう」
 それからはお祭りの話になった。規模の大きいものではないが、少しだけ花火も打ち上げられるらしい。
 上り坂を過ぎ、少し歩くと道路に面したところに鳥居が見えた。森の中にぽっかりと穴があり、そこに
神社を建てたという感じだ。鳥居をくぐってしばらく歩くと、賽銭箱と拝殿が見えた。
 美夜は賽銭箱の前に行くと、拝礼をするわけでもなく、振り返った。
「ここで殺してほしいの」
「賽銭箱の前ってこと?」
「そう」
「それは構わないけど、なぜか訊いてもいいかい?」
「神様に私が罰を受けるところを見ていてほしいから」
「罰?」
 僕は聞き返したが、美夜は答えなかった。しばらく聞こえてくるのは、蝉の鳴き声だけだった。二人並んで、賽銭箱を見つめる。
「せっかくだし、拝んでいこう」
 僕がそう言うと、美夜は驚いたようだった。そして、ニヤリと笑った。
「神様なんて信じてなさそうなのに」
「ああ、信じてないよ」
「じゃあ、どうして?」
「君が信じているようだったから」
 美夜は嬉しそうに笑った。そして僕たちは一緒に拝礼をした。僕は特に何も願わなかった。だが、美夜は何か願っているようだった。
「何を願ったの?」
「何も。ただ、私が死ぬのを見ていてくださいって頼んだだけ」
 そして、そのまま僕たちは帰った。その思いが神様に届くのだろうかと思うほど、蝉が騒がしかった。


祭りの日、僕は美夜と祭りに来ていた。屋台が並ぶ通りを並んで歩く。
「あれ、食べていい?」
 美夜が指差すほうには唐揚げの屋台があった。僕が頷くと、美夜は笑顔で買いに行く。僕はそれを見つめながら、近くの岩に座って待った。祭りは騒がしいのに、時間はゆっくり流れているような感覚だった。楽しい。そう思った。僕は最近、美夜といるのが楽しい。そして、ふと思い出したことがあり、ノートをカバンから取り出す。そこに一文字書き込んだ。ノートをカバンにしまうと、ちょうど美夜が戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 美夜は飲み物を僕に差し出した。僕はお礼を言い、それを受け取る。美夜も隣に座る。唐揚げを食べるのかと思ったが、美夜は手をつけないでいる。不思議に思っていると、花火が始まった。二人で空を見上げる。しばらく、無言で見つめていたが、何かが手に触れた。美夜の手だった。そしてそのまま、美夜は僕の手に手を重ねてきた。僕は驚いて美夜の顔を見たが、美夜は真剣な顔で花火を見ているだけだった。
 祭りが終わり、美夜を家まで送った。僕が帰ろうとすると、美夜はそれを引き止め、花火を取り出した。
「花火しない?」
「さっき見てきたばかりじゃないか」
「見ていたらしたくなったの」
 美夜がそう言うので、二人で浜辺に行った。
 花火をしていると、美夜の手が震えているのに気づいた。寒いのだろうか。だが、風があるとはいえ、寒くはない。むしろ暑いくらいだ。どうしたのか訊くと、美夜は苦笑いをした。
「緊張しているの」
「どうして?」
「あなたに私の秘密を話そうと思って。さっきは話せなかったから」
「そんなこと僕に話していいの?」
「いいの。一人で抱えて逝きたくないから」
 美夜は黙った。僕も黙って次の言葉を待った。緊張するということはよほど重大な秘密なのだろう。すると、美夜は消えそうなほど小さな声で呟いた。
「親を殺したの」
 僕は驚いて、視線を花火から美夜に移した。美夜は感情の読めない表情で自分の手元の花火を見つめている。
「母が私を殺そうとしたの。もみ合っているうちに、私が母を刺したの」
「なぜ、お母さんは君を殺そうと……?」
「……父が亡くなってから、毎日のように母に殴られていたの」
 つまり、美夜は母親から虐待を受けていたのだ。美夜は悪くない。そう思うが、言葉にできない。美夜はそれでは納得しないだろう。
「それで母を庭に埋めて、この島に逃げてきたの」
「この島を選んだのは昔住んでいたから?」
「そうだよ。私が今、住んでいる家は父が所有していたんだけど、そのままになっているのを知っていたの」
 美夜はこの島から出たら、警察に捕まってしまうかもしれない。そう考えると、島から出られないと言った美夜の言葉にも納得がいく。この島が檻のように感じた。美夜を守っているようで苦しめている。僕はどうしたらいいのだろう。
 そんなことを考えていると、花火の火が消えた。美夜は静かに泣いていた。僕はその涙を見た瞬間、何かが込み上げた。綺麗だと思った。しかし、涙を止めなければとも思った。僕は戸惑ったまま、美夜をそっと抱きしめた。
 情が湧かないなんて嘘だ。僕は美夜といる時間が楽しくなっている。美夜が泣くと僕も悲しくなる。そして、美夜が大切だと感じる。それでも、美夜は僕が殺す相手だ。美夜の秘密を聞いて、美夜が殺してほしいと言った理由がわかった。この感情は封印しなければならない。
 美夜が嗚咽まじりに話を続ける。
「だから、私も、お母さんのところに逝って、謝らないといけないの」
「うん」
「でも、死ぬのは怖くて……」
「わかってる」
 美夜は母親が好きだったのだ。どれだけ暴力を振るわれても。美夜の気持ちが今ならわかる気がした。死の恐怖はわからなかったが美夜の母親に対する気持ちは想像がつく。僕は美夜を殺せるだろうか。泣く美夜を抱きしめながら、自問自答を繰り返し続けた。