取り返しのつかないことをしてしまった。
血塗れの包丁を急いでバックに入れ、玄関を飛び出した。
全速力で走る。
人目を気にすることを忘れるほど頭が混乱していた。
家に着くなり冷蔵庫を開け、大切にとっといておいた最後の缶ビールを勢いよく飲んだ――

殺すつもりはなかった。
会社をクビになり、就職先も見つからず人生に絶望していた。
低賃金で朝から夜中まで働かされるアルバイト生活に嫌気がさして、遠回りして通りかかった男に難癖をつけ金をむしり取ってやろうとするとこてんぱんに殴られた。
あまりに痛くてうずくまっている俺を見る通りすがりの人々の嘲笑う顔が屈辱だった。
その帰り痛む体で長く、急な坂道を登った先にその豪邸はあった。
高い塀に囲まれ門に高そうな石に古畑と書かれた表札がかかっているその豪邸で年老いた爺さんが一人で窓を眺めながら呑気にワインを飲んでいるのを見た。
それに俺はひどい敗北感と嫉妬心を抱いた。
なんでこんな老ぼれが俺よりこんなにもいい暮らしを送っているのかと。
こんな腐った街のどこに眺める価値があるのかと。
そしてマスクをつけ、帽子を被り手袋をはめ爺さんが眠った頃を狙って家を出た。
古畑と書いた表札を確認して裏に回って塀を登った。
早る鼓動を堪え息を潜めた。
バレずに侵入できたのはいいものの、なかなか金目のものが見つからなかった。
2階にベッドがあることは外から見えたので2階には行きたくなかった。
必死に探すと台所で宝石がついた豪華な包丁があった。
そして最後にとリビングのテーブルの引き出しを開けたときだった。
突然横の方から音がして見るとスライド式のドアが開いた。
ただでさえ早かった鼓動がさらに早まった。全身から冷や汗が出て気づくと呼吸も忘れていた。
パジャマ姿の爺さんは俺を見るなり尻餅をついた。
想定外のことに俺はパニックになって動けなかった。
すると、爺さんが悲鳴をあげたので思わず包丁で刺してしまった。

人を殺してしまうとは。
今になって殴られたところが痛んだ。
喉が渇き、缶ビールを口元に運ぶがもうすでに空になっていた――

一睡もできずに朝になった。
目を瞑るとあの光景が蘇る。
恐らく三、四時間だというのに驚くほど長い夜だった。
カラカラの喉を潤すためコップに水を入れ、恐る恐るニュースをつけた。
「今日の特集はX市連続殺人事件についてです」
こんな関係のないものでも殺人と聞くと反応してしまう。
X市連続殺人事件とはこれまで四人が殺害されて、どれも手口は似ているが一つも証拠がなく今警察が血眼になって捜査している事件だ。
しかしその後のニュースを見てもまだあの爺さんに関するニュースは無かった。
自首も考えた。
しかしたしか強盗殺人は罪が重かったはずだ。
独り暮らしだししばらく発見されないだろうと自分に言い聞かせ、アルバイトに行くための準備をはじめた。
家を出て、鍵を閉めていると隣に住んでいる佐藤さんも出てきた。
「あ、おはようございます」
佐藤さんは俺がこのマンションに越す前から住んでいる。引っ越してきた時から親しくしてくれるご近所さんだ。
「おはようございます、ちょうどよかった。少し待っててください」そう言って佐藤さんは家の中に入っていった。
そしてお土産ですとゾウの背中にお釈迦様が座っている置物を渡してきた。
この週末日帰りでタイに行ってきたらしい。
佐藤さんは短期間の旅行に行っては絶妙なセンスのお土産を買ってきてくれる。
いろいろな気持ちが重なって内心素直に喜べなかったが、「ありがとうございます」と恐らくぎこちなかったであろう笑顔で返してバイトに向かった。

バイト中はあの悪夢について考える間を与えないほど忙しなく手を動かした。
こんなに忙しく働いたことなどなかったので何も考えることができないほど疲れた。でもそれがとても幸せに感じた。
家に帰ると、いつもの習慣で無意識のうちにテレビをつけてしまった。
「X市で資産家の古畑裕司さんが殺害されました。」
突如として聞こえたそのアナウンサーの重々しい言葉で疲れを忘れた。
「警察は現場の特徴から、X市連続殺人事件と同一犯であることも視野に入れて捜査しています。」
しばらく理解ができなかった。
X市連続殺人事件の犯人に罪をなすりつけられるかとも考えた。
しかしその犯人は4件とも証拠を一切残していない。俺如きの素人の殺人の証拠などいくらでも見つかるだろう。
自首するべきか、いやこれで連続殺人犯にされては最悪だ。
居ても立っても居られず、人目を気にしながらあの豪邸に向かった。
人集りができていた。
たくさんの野次馬をかぎ分け、豪邸の門を見て絶望した。
立ち入り禁止と書かれたテープがそこら中に張り巡らされ、たくさんの警官が右往左往していた。
終わりだ、おもわず現場から後退りした。
人混みから離れ道の隅にある電柱にもたれしゃがみ込んだ。
しばらく茫然と足元を見ていると、電灯の光のなかに近づいて来る一つの影があった。
警察だろうか。
捕まるのか、まるで実感が湧かない。
だが俺は取り返しのつかない罪を犯したのだ、そう観念して顔を上げた。
しかしそこに立っていたのは警官ではなかった。
服が明らかにパジャマなのだ。
しかもどこかで見たことのあるパジャマだった。
誰だ?そう思い目を凝らすと全身に凍えるような戦慄が走った。
あの殺したはずの爺さんだった。
俺は反射的に全速力で駆け出した。
「なんで?なんであの爺さんが生きてる?」
意味がわからなかった。
走りながら後ろを振り向こうとすると、石に躓いて転んだ。
勢いよく転がり、足に激痛が走った。
なんとか四つん這いになると電灯に照らされたアスファルトの上に後ろから伸びる影があった。
「うわぁー!」
恐怖で痛みを感じなかった。
ずっと後ろに気配を感じる。
酸欠で胸が苦しく痛むのを無視して全力で走った。
マンションの階段を駆け上がり、部屋を開けようと鍵を差し込もうとするが恐怖で手が震えて何度やっても差し込めない。
「くそっ!」
苛立ちと恐怖に包まれた。
あいつがくる。
咄嗟に隣の佐藤さんの部屋のドアを開け、逃げ込んだ。
急いで鍵とチェーンをかけると、佐藤さんが
「どうしたんですか?」
と出てきた。
そして俺を見ると
「今朝も怪我してましたよね?とにかくあがってください」
と慌てた様子で言った。

「そのお爺さんが?」
「しかもX市連続殺人事件って四人が殺されてて、それぞれの家から何か一つ物が盗まれてるってやつじゃないですか」
俺が全てを喋ると佐藤さんは驚きながらも受け入れてくれた。
「そうです。俺はあの爺さんを殺して包丁を盗みました。でもそれだけなんです」
「わかりました、信じます。とりあえずお茶入れますね」
そう言って佐藤は立ち上がった。
玄関を見た。ここまでは追ってこないようだ。
一安心して部屋を見渡した。
何もなかった。
十二畳のリビングにあるのはこの小さなテーブルと床に直置きされたテレビだけだった。
「味気ない部屋でしょう。」
佐藤さんご湯気を帯びたお茶を一つテーブルに置き、座りながら言った。
「ハーブティーです。味は少し癖がありますがが落ち着きますよ。」
正直熱すぎて味のわからないハーブティーをちびちびとすすっているとこれからどうしようかという漠然とした不安が襲ってきた。
だんだんと落ち着かなくなっていき、次々とハーブティーを飲むうちにあっという間になくなってしまった。
「入れますね」
そう言って佐藤さんは席を立った。
「すいません……」
申し訳なく思い、手伝おうとコップを持ち席を立った時だった。
視界がいきなり回転した。
思わず壁にもたれかかった。
すると台所から笑い声が聞こえた。
台所の人影を見た途端恐怖で体が硬直した。
コップの破裂音が部屋中に響いた。
そこに立っていたのは佐藤さんではなく爺さんだった。
「うぁー!」
部屋から飛び出し、階段で逃げようとすると下の階段から人が上がってくる音が聞こえた。
殺されてしまう。
死に物狂いで階段を駆け上がった。
薄暗い階段に自分の足音と息遣いが反響する。
とうとう屋上に着いてしまった。
ドアを開け、勢いで縁まで行くと広く広がる街の夜景が恐ろしいほど綺麗に見えた。
冷たい突風が吹き、ドアが勢いよく大きな音を立てて閉まった。
鼓動が速くなる。
ゆっくりと振り返る。
振り返った途端、胸を押され美しい街に突き落とされた。

「続いてのニュースです。X市連続殺人事件の犯人と思われる男性が今朝死体で発見されました。男の部屋からは被害者の盗品が全て見つかったとのことです。防犯カメラにも男性が一人で飛び降りるところが写っており、自殺で間違いないと見られています。」