もうすぐ授業が始まるというのに、私はスケッチブックを取り返して教室を出た。後ろで早紀がなにか叫んでいたが、聞こえないふりをする。
 廊下には生徒たちが談笑し、十分もない休憩時間を楽しんでいれば、次の授業に向かうために教科書を抱えている生徒もいる。

「……あ」

 気付けば、無意識に第八美術室に向かっていることに気づいた。
 今行ったところで誰もいないし、途中で芸術コースの生徒と鉢合わせになってしまう。かといってこのまま教室に戻るのも癪に障る。

「……浅野? 何してんだ?」

 うだうだ考えていると、聞き慣れた声が聞こえた。
 移動教室に向かう途中だった香椎先輩だ。生物の教科書を抱え、美術室では見られない黒縁フレームのメガネをかけている。一瞬誰かわからなかった。

「香椎、先輩……?」
「お前、授業は?」
「……ちょっと、み、道に迷って」
「はぁ?」

 我ながら下手な誤魔化し方をしたと思う。しかも相手は香椎先輩だ。通じるわけがないのに。
 しかし、香椎先輩は「ついてこい」と言って美術室の方へ歩き出した。何も聞いてこないのは先輩の優しさなのか、立ち止まっていると、先輩は振り返っては私が着いてきているかを確認する。

「先輩こそ授業は? 移動教室ですよね?」
「終わった。次の授業は教室」

 三年生の教室は三階にあるから、授業終わりに通りがかったところだろう。もうすぐ授業が始まるのに?

「でも疲れたから休んでく。お前も付き合えよ」
「え?」

 返事を返す間もなく、第八美術室についてしまった。いつものように定位置に行くと、香椎先輩が教科書とかけていたメガネを近くの机に置いて、私と向き合う。いつもの先輩だった。

「絵、なんか描いたか?」
「……ちょっとだけ」

 先輩の視線はずっとスケッチブックにあった。今も手を伸ばして見ようとしてくる。
 私はスケッチブックを渡した。凝ったものは描けないし、しっくりこないけど、香椎先輩はなにか読み取ってくれるのかと思ったから。
 パラパラと捲って、パンジーのスケッチで止まった。

 じっと見つめ、そっと触れる。

 何を感じているのかはわからないけど、沈黙の時間が続いた。先に破ったのは香椎先輩だった。

「家で描いただろ。縁側とか、ゆっくりできるところ。逆にこっちの黒板消しは教室で描いた。クラスには馴染めてなさそうだな。……いや、授業中に隠れて描いたか? ……どっちだ?」