これはまだ、僕と君が、互いの名前すら知らなかった時の物語。
☆
今思えば、あれは一目惚れだった。
真冬の昼下がり。
白く染まった吐息。
悴んだ指先。
雲間から覗く僅かな陽光。
それは、突然に訪れた。
小さな衝撃――その視線の先に、一人の少女。
腰のあたりまで伸びた、黒く艶やかな長い髪が印象的な彼女。
その手には、深いブルーの薔薇が大事そうに抱えられていて。
僕は思わず彼女に手を伸べた。
「ごめん、大丈夫?」
彼女と視線が合った。
「……」
何て綺麗な子なのだろう。
鼓動が高鳴るのを全身で感じながらも、平静を装い彼女に訊く。
「あの……大丈夫?」
ぼーっと地面を見ている彼女。
歳は、僕と同じくらいだろうか。ずいぶん大人っぽい印象だけど、どこかあどけなさも残っていて。
「立てる?」
「す、すみませんっ、その、つい浮かれてて……」
彼女のとっさの一言に、僕は思わず噴き出してしまった。
「う、浮かれてたって……! 君、そんなこと自分で言っちゃうんだ。あはは、面白い子だね」
「あ、あの……私、その……」
たぶん、狙って言ったわけじゃない。
本当に、思ったことがそのまま口から出てしまったんだろう。
だから余計に可笑しくて。
そして、可愛かった。
僕はふと、彼女の手に抱えられた花束に目を向けた。
「その薔薇、綺麗だね」
あまりに印象的で、思わず声に出してしまった。
「あ、これは……」
「青い薔薇なんて、初めて見た」
「こ、これは……着色薔薇なんです。白い花に専用の着色剤で色をつけた水を吸わせてあるもので」
「へぇ、そうなんだ。花、好きなの?」
「は、はい。物心ついた時からずっと」
「もしかして、その道を目指しているとか?」
「はい。まだまだ勉強中ですけど……」
「素敵な夢だね。是非叶えて欲しいな」
僕は彼女の手を取って、立たせる。
「あ、ありがとうございます」
小さな手。僕の片手に収まってしまいそうなほどの小さな手。冬の寒さのせいか、指先はひんやりとしていた。
(可愛いな)
まるで花の妖精。清楚で可憐な印象。
鼓動が高鳴る。
そして、加速していく。
手を離すと。
「それじゃ、気を付けて帰ってね」
まずい。
これ以上この場所にとどまると……。
僕の心臓の音まで、彼女に聞こえてしまいそうだ。
何とか平静を装って彼女を見送ったはいいものの――具体的に何がまずいのか。自分でもよく分からなかった。
ただ。
心臓が、やけにうるさい。
冬の寒さなんて忘れてしまうくらい、顔が熱かった。
「……何なんだ、これは」
思わず胸元を押さえる。
発作……ではない。
苦しくもない。
痛くもない。
なのに、やたらと速い鼓動が――何故か、温かい。
僕は十歳の頃に大きな手術をしてから、こんなふうに心臓を意識することはほとんどなくなっていた。
なのに、鼓動だけがやたらと速い。
振り返ると――彼女はもう、ずいぶん先を歩いていた。
腰まで伸びた黒い髪が、冬の風にさらさらとなびいている。
腕の中には、あの青い薔薇。
――綺麗だった。
薔薇が、じゃない。
「……」
いや、僕は一体何を考えてるんだ。
慌てて前を向いた。
僕は、そのまま歩き出す。
十歩くらい歩いて、また振り返った。
「…………」
もう、彼女の姿はなかった。
何となく。
ほんの少しだけ、残念に思った。
(名前、聞けばよかったかな)
そこまで考えて、すぐに我に返る。
「いや、それは流石に……」
たまたまぶつかっただけの女の子だ。
名前なんて聞いたら、それこそ変な人だと思われる。
そうだ。
これでいい。
もう会うことだって、きっとない。
そう思った。
――そのはずだった。
*
翌朝。
目を覚まして、一番最初に浮かんできたのは。
青い薔薇だった。
正確には――その薔薇を抱えていた、あの子の顔。
「…………」
枕元の時計を見る。
まだ起きるには少し早い。
もう一度目を閉じる。
出会って数分間の間に交わした、僕と彼女の微かな記憶を辿っていく。
『物心ついた時からずっと』
彼女の声が、蘇った。
『まだまだ勉強中ですけど……』
断片的ではあるが、思いのほか鮮明だった。
「……何で覚えてるんだろ」
僕は、寝返りを打つ。
名前も歳も、住んでいる場所もわからない。
また会える保証すらないのに、どこか期待してしまう。
(忘れよう)
昨日たまたま出会っただけなんだから、と自分に言い聞かせてはみるものの。
忘れようと思えば思うほど。
今度は、僕の手の中にあった小さな手の感触まで思い出してしまう。
冷たかった指先。
僕を見上げた瞳。
恥ずかしそうな顔。
そして。
『つい浮かれてて……』
「……ふっ」
思い出したら、また笑ってしまった。
「面白い子」
だけど。
すごく、可愛かった。
「…………」
僕は布団を頭まで被った。
まずい。
昨日より、だいぶまずい気がする。
*
その日の帰り道。
気がつけば僕は、昨日と同じ道を歩いていた。
別に、おかしなことではない。もともと帰り道だから。
そう自分に言い聞かせながら。
僕は、アートフラワーショップ――ロゼッタの前を通った。
ガラス越しに、店内を見た。
「……」
いない。
何を期待していたんだろう。
そもそも、あの子がこの店の人だなんて聞いていない。
花が好きだと言っていたから、買い物に来ただけかもしれない。
それなのに……もしかすると、今日もいるんじゃないかと期待してしまう。
「…………そう、だよね」
少しだけ。
本当に少しだけ。
胸の奥が沈んだ。
頭の中では、何度も彼女の影を追いかけている僕自身に、ため息が出る。
その夜だった。
僕は自室で、いつものようにハープに触れた。
室内にあるのは小型のハープで、時折浮かんだフレーズを五線譜に書き留めて、楽曲制作をしている。
透明な弦を、指先で弾く。
静寂の中で、柔らかなサウンドが空気を揺らすように響き渡る。
澄んだ音色を重ねていくうちに、僕の心も、彼女を思うたびに小さく揺れていく。そこには、何かに突き動かされるような感覚もあった。
透明な弦が、透き通った旋律を奏でながら、かすかに揺れる。
別に今、曲を作ろうと思っていたわけじゃない。
それなのに。
不意に、一つのフレーズが生まれた。
「……ん?」
もう一度弾く。
あの日の情景を思い出しながら。
僕はひとしきり、彼女の残像を追うように、透明なサウンドに思いをはせながら弦を爪弾く。
少し変えて、もう一度。
「…………」
何だろう。
この感じ。
目を閉じる。
浮かんできたのは、やはり。
青い薔薇。
黒くて長い髪。
冬の陽射し。
そして――あの子。
僕はハープから手を離し、机に置いてあった五線譜を引き寄せた。
旋律を書き留める。
その余白に、何となく。
本当に、何となく。
言葉を書いた。
――君がいて 僕がいて。
ペン先が止まる。
しばらく、その文字を見つめた。
そして、その下へ。
――世界が次第に色づいて。
「…………」
そこまで書いて、ようやく僕は気づいた。
これ。
もしかして。
「……あの子のこと?」
誰もいない部屋で呟いた声が、妙に大きく聞こえた。
名前も知らない。
どこに住んでいるのかも知らない。
もう一度会えるのかさえ分からない。
そんな彼女のことを、僕は今。
歌にしようとしている。
「…………まさか、ね」
そう言いながら。
生まれたての旋律の余白に記したその二行を、僕は消すことができなかった。
☆
今思えば、あれは一目惚れだった。
真冬の昼下がり。
白く染まった吐息。
悴んだ指先。
雲間から覗く僅かな陽光。
それは、突然に訪れた。
小さな衝撃――その視線の先に、一人の少女。
腰のあたりまで伸びた、黒く艶やかな長い髪が印象的な彼女。
その手には、深いブルーの薔薇が大事そうに抱えられていて。
僕は思わず彼女に手を伸べた。
「ごめん、大丈夫?」
彼女と視線が合った。
「……」
何て綺麗な子なのだろう。
鼓動が高鳴るのを全身で感じながらも、平静を装い彼女に訊く。
「あの……大丈夫?」
ぼーっと地面を見ている彼女。
歳は、僕と同じくらいだろうか。ずいぶん大人っぽい印象だけど、どこかあどけなさも残っていて。
「立てる?」
「す、すみませんっ、その、つい浮かれてて……」
彼女のとっさの一言に、僕は思わず噴き出してしまった。
「う、浮かれてたって……! 君、そんなこと自分で言っちゃうんだ。あはは、面白い子だね」
「あ、あの……私、その……」
たぶん、狙って言ったわけじゃない。
本当に、思ったことがそのまま口から出てしまったんだろう。
だから余計に可笑しくて。
そして、可愛かった。
僕はふと、彼女の手に抱えられた花束に目を向けた。
「その薔薇、綺麗だね」
あまりに印象的で、思わず声に出してしまった。
「あ、これは……」
「青い薔薇なんて、初めて見た」
「こ、これは……着色薔薇なんです。白い花に専用の着色剤で色をつけた水を吸わせてあるもので」
「へぇ、そうなんだ。花、好きなの?」
「は、はい。物心ついた時からずっと」
「もしかして、その道を目指しているとか?」
「はい。まだまだ勉強中ですけど……」
「素敵な夢だね。是非叶えて欲しいな」
僕は彼女の手を取って、立たせる。
「あ、ありがとうございます」
小さな手。僕の片手に収まってしまいそうなほどの小さな手。冬の寒さのせいか、指先はひんやりとしていた。
(可愛いな)
まるで花の妖精。清楚で可憐な印象。
鼓動が高鳴る。
そして、加速していく。
手を離すと。
「それじゃ、気を付けて帰ってね」
まずい。
これ以上この場所にとどまると……。
僕の心臓の音まで、彼女に聞こえてしまいそうだ。
何とか平静を装って彼女を見送ったはいいものの――具体的に何がまずいのか。自分でもよく分からなかった。
ただ。
心臓が、やけにうるさい。
冬の寒さなんて忘れてしまうくらい、顔が熱かった。
「……何なんだ、これは」
思わず胸元を押さえる。
発作……ではない。
苦しくもない。
痛くもない。
なのに、やたらと速い鼓動が――何故か、温かい。
僕は十歳の頃に大きな手術をしてから、こんなふうに心臓を意識することはほとんどなくなっていた。
なのに、鼓動だけがやたらと速い。
振り返ると――彼女はもう、ずいぶん先を歩いていた。
腰まで伸びた黒い髪が、冬の風にさらさらとなびいている。
腕の中には、あの青い薔薇。
――綺麗だった。
薔薇が、じゃない。
「……」
いや、僕は一体何を考えてるんだ。
慌てて前を向いた。
僕は、そのまま歩き出す。
十歩くらい歩いて、また振り返った。
「…………」
もう、彼女の姿はなかった。
何となく。
ほんの少しだけ、残念に思った。
(名前、聞けばよかったかな)
そこまで考えて、すぐに我に返る。
「いや、それは流石に……」
たまたまぶつかっただけの女の子だ。
名前なんて聞いたら、それこそ変な人だと思われる。
そうだ。
これでいい。
もう会うことだって、きっとない。
そう思った。
――そのはずだった。
*
翌朝。
目を覚まして、一番最初に浮かんできたのは。
青い薔薇だった。
正確には――その薔薇を抱えていた、あの子の顔。
「…………」
枕元の時計を見る。
まだ起きるには少し早い。
もう一度目を閉じる。
出会って数分間の間に交わした、僕と彼女の微かな記憶を辿っていく。
『物心ついた時からずっと』
彼女の声が、蘇った。
『まだまだ勉強中ですけど……』
断片的ではあるが、思いのほか鮮明だった。
「……何で覚えてるんだろ」
僕は、寝返りを打つ。
名前も歳も、住んでいる場所もわからない。
また会える保証すらないのに、どこか期待してしまう。
(忘れよう)
昨日たまたま出会っただけなんだから、と自分に言い聞かせてはみるものの。
忘れようと思えば思うほど。
今度は、僕の手の中にあった小さな手の感触まで思い出してしまう。
冷たかった指先。
僕を見上げた瞳。
恥ずかしそうな顔。
そして。
『つい浮かれてて……』
「……ふっ」
思い出したら、また笑ってしまった。
「面白い子」
だけど。
すごく、可愛かった。
「…………」
僕は布団を頭まで被った。
まずい。
昨日より、だいぶまずい気がする。
*
その日の帰り道。
気がつけば僕は、昨日と同じ道を歩いていた。
別に、おかしなことではない。もともと帰り道だから。
そう自分に言い聞かせながら。
僕は、アートフラワーショップ――ロゼッタの前を通った。
ガラス越しに、店内を見た。
「……」
いない。
何を期待していたんだろう。
そもそも、あの子がこの店の人だなんて聞いていない。
花が好きだと言っていたから、買い物に来ただけかもしれない。
それなのに……もしかすると、今日もいるんじゃないかと期待してしまう。
「…………そう、だよね」
少しだけ。
本当に少しだけ。
胸の奥が沈んだ。
頭の中では、何度も彼女の影を追いかけている僕自身に、ため息が出る。
その夜だった。
僕は自室で、いつものようにハープに触れた。
室内にあるのは小型のハープで、時折浮かんだフレーズを五線譜に書き留めて、楽曲制作をしている。
透明な弦を、指先で弾く。
静寂の中で、柔らかなサウンドが空気を揺らすように響き渡る。
澄んだ音色を重ねていくうちに、僕の心も、彼女を思うたびに小さく揺れていく。そこには、何かに突き動かされるような感覚もあった。
透明な弦が、透き通った旋律を奏でながら、かすかに揺れる。
別に今、曲を作ろうと思っていたわけじゃない。
それなのに。
不意に、一つのフレーズが生まれた。
「……ん?」
もう一度弾く。
あの日の情景を思い出しながら。
僕はひとしきり、彼女の残像を追うように、透明なサウンドに思いをはせながら弦を爪弾く。
少し変えて、もう一度。
「…………」
何だろう。
この感じ。
目を閉じる。
浮かんできたのは、やはり。
青い薔薇。
黒くて長い髪。
冬の陽射し。
そして――あの子。
僕はハープから手を離し、机に置いてあった五線譜を引き寄せた。
旋律を書き留める。
その余白に、何となく。
本当に、何となく。
言葉を書いた。
――君がいて 僕がいて。
ペン先が止まる。
しばらく、その文字を見つめた。
そして、その下へ。
――世界が次第に色づいて。
「…………」
そこまで書いて、ようやく僕は気づいた。
これ。
もしかして。
「……あの子のこと?」
誰もいない部屋で呟いた声が、妙に大きく聞こえた。
名前も知らない。
どこに住んでいるのかも知らない。
もう一度会えるのかさえ分からない。
そんな彼女のことを、僕は今。
歌にしようとしている。
「…………まさか、ね」
そう言いながら。
生まれたての旋律の余白に記したその二行を、僕は消すことができなかった。



