Over the world〜はじまりの歌を君に〜

 これはまだ、僕と君が、互いの名前すら知らなかった時の物語。



 今思えば、あれは一目惚れだった。


 真冬の昼下がり。
 白く染まった吐息。
 悴んだ指先。
 雲間から覗く僅かな陽光。

 それは、突然に訪れた。

 小さな衝撃――その視線の先に、一人の少女。

 腰のあたりまで伸びた、黒く艶やかな長い髪が印象的な彼女。

 その手には、深いブルーの薔薇が大事そうに抱えられていて。

 僕は思わず彼女に手を伸べた。
「ごめん、大丈夫?」

 彼女と視線が合った。



 何て綺麗な子なのだろう。

 鼓動が高鳴るのを全身で感じながらも、平静を装い彼女に訊く。
「あの……大丈夫?」
 ぼーっと地面を見ている彼女。

 歳は、僕と同じくらいだろうか。ずいぶん大人っぽい印象だけど、どこかあどけなさも残っていて。


「立てる?」


「す、すみませんっ、その、つい浮かれてて……」

 彼女のとっさの一言に、僕は思わず噴き出してしまった。

「う、浮かれてたって……! 君、そんなこと自分で言っちゃうんだ。あはは、面白い子だね」

「あ、あの……私、その……」

 たぶん、狙って言ったわけじゃない。
 本当に、思ったことがそのまま口から出てしまったんだろう。
 だから余計に可笑しくて。
 そして、可愛かった。



 僕はふと、彼女の手に抱えられた花束に目を向けた。

「その薔薇、綺麗だね」

 あまりに印象的すぎて、思わず声に出してしまう僕。
「あ、これは……」
「青い薔薇なんて、初めて見た」

「こ、これは……着色薔薇なんです。白い花に専用の着色剤で色をつけた水を吸わせてあるもので」
「へぇ、そうなんだ。花、好きなの?」
「は、はい。物心ついた時からずっと」
「もしかして、その道を目指しているとか?」
「はい。まだまだ勉強中ですけど……」
「素敵な夢だね。是非叶えて欲しいな」
 僕は彼女の手を取り立たせる。
 
「あ、ありがとうございます」
 
 小さな手。僕の片手に収まってしまいそうなほどの小さな手。冬の寒さのせいか、指先はひんやりとしていた。
 
(可愛いな)

 まるで花の妖精。清楚で可憐な印象。

 鼓動が高鳴る。


 そして、加速していく。


 手を離すと。

「それじゃ、気を付けて帰ってね」

 何とか平生を装って彼女を見送ったはいいものの。



 まずい。

 これ以上とどまると……。






 何がまずいのか、自分でもよく分からない。
 ただ。
 心臓が、うるさい。
 冬の寒さなんて忘れてしまうくらい、顔が熱かった。

「……何なんだ、これは」
 思わず胸元を押さえる。

 発作……ではない。

 苦しくもない。

 痛くもない。

 なのに、やたらと速い鼓動が――何故か、温かい。


 十歳の頃に大きな手術をしてから、こんなふうに心臓を意識することはほとんどなくなっていた。

 なのに、鼓動だけがやたらと速い。
 振り返ると――彼女はもう、ずいぶん先を歩いていた。
 腰まで伸びた黒い髪が、冬の風にさらさらとなびいている。
 腕の中には、あの青い薔薇。



――綺麗だった。

 薔薇が、じゃない。

「……」
 僕は何を考えてるんだ。

 慌てて前を向いた。
 そのまま歩き出す。
 十歩くらい歩いて。
 また振り返った。

「…………」
 もう、彼女の姿はなかった。

 何となく。

 ほんの少しだけ、残念に思った。
 名前、聞けばよかったかな。


 そこまで考えて、すぐに我に返る。

「いや、何で?」
 たまたまぶつかっただけの女の子だ。

 名前なんて聞いたら、それこそ変な人だと思われる。

 そうだ。
 これでいい。
 もう会うことだって、きっとない。
 そう思った。

――そのはずだった。





 翌朝。

 目を覚まして、一番最初に浮かんできたのは。


 青い薔薇だった。

 正確には――その薔薇を抱えていた、あの子の顔。


「…………」

 枕元の時計を見る。

 まだ起きるには少し早い。


 もう一度目を閉じる。



『物心ついた時からずっと』

 声まで蘇った。

『まだまだ勉強中ですけど……』

「……何で覚えてるんだろ」

 僕は、寝返りを打つ。


(忘れよう)


 昨日たまたま出会っただけなんだから。


 そう思えば思うほど。


 今度は、僕の手の中にあった小さな手の感触まで思い出してしまう。


 冷たかった指先。

 僕を見上げた瞳。

 恥ずかしそうな顔。

 そして。

『つい浮かれてて……』



「……ふっ」

 思い出したら、また笑ってしまった。

「面白い子」

 だけど。

 可愛かった。


「…………」

 僕は布団を頭まで被った。


 まずい。
 昨日より、まずい気がする。




 その日の帰り道。

 気がつけば僕は、昨日と同じ道を歩いていた。

 別に、おかしなことじゃない。もともと帰り道なんだから。


 そう自分に言い聞かせながら。

 僕は、アートフラワーショップ――ロゼッタの前を通った。
 

 ガラス越しに、店内を見た。

「……」


 いない。


 何を期待していたんだろう。


 そもそも、あの子がこの店の人だなんて聞いていない。

 花が好きだと言っていたから、買い物に来ただけかもしれない。

 それなのに。


「…………そう、だよね」

 少しだけ。

 本当に少しだけ。


 胸の奥が沈んだ。
 
 その夜だった。



 僕は自室で、いつものようにハープに触れた。

 透明な弦を、指先で弾く。

――ポロン。

 一つ。

――ポロン。

 また一つ。


 適当に音を重ねていただけだった。



 曲を作ろうなんて思っていなかった。
 
 それなのに。

 不意に、一つの旋律が生まれた。

「……ん?」



 もう一度弾く。

 少し変えて、もう一度。

「…………」



 何だろう。
 この感じ。


 目を閉じる。



 浮かんできたのは。



 青い薔薇。

 黒くて長い髪。

 冬の陽射し。


 そして――あの子。


 僕はハープから手を離し、机に置いてあった五線譜を引き寄せた。


 旋律を書き留める。


 その余白に。


 何となく。
 本当に、何となく。


 言葉を書いた。



――君がいて 僕がいて。

 ペン先が止まる。



 しばらく、その文字を見つめた。

 そして、その下へ。



――世界が次第に色づいて。




「…………」

 そこまで書いて。
 ようやく僕は気づいた。




 これ。
 もしかして。


「……あの子のこと?」



 誰もいない部屋で呟いた声が、妙に大きく聞こえた。


 名前も知らない。


 どこに住んでいるのかも知らない。

 もう一度会えるのかさえ分からない。

 そんな女の子を。



 僕は今。

 歌にしようとしている。


「…………まさかね」

 そう言いながら。



 僕は、その二行を消すことができなかった。




 それから数日――あの旋律は、ずっと僕の頭の中に居座り続けていた。

 学校へ向かう電車の中でも。

 授業を受けているときも。

 帰り道でも。

 気を抜くと、いつの間にか続きを考えている。

 そして。


 あの子のことも。




 相変わらず、名前は知らない。

 あの日以来、一度も会えていない。

 それでも僕は毎日、ロゼッタの前を通った。



 もともと帰り道なんだから。

 別に、あの子を探しているわけじゃない。


――そんな言い訳も、そろそろ苦しくなってきた。


 今日もいない。

「……はぁ」


 何でため息なんてついてるんだろう。

 会える約束なんて、していないのに。


 そもそも。

 あの子がロゼッタによく来る子なのかどうかすら分からない。


 分かっている。

 分かっているのに。



 もう一度だけ。

 あの子に会いたかった。








 その夜。

 机に向かい、途中まで書いた譜面を眺める。

――君がいて 僕がいて

――世界が次第に色づいて

「世界が、色づく……か」


 大袈裟だな。



 たった一度会っただけなのに。


 だけど。


 あの日から、確かに何かが違う。




 昨日まで何とも思わなかった街の景色。

 冬の空。

 道端の花。

 人混みの中を歩く、長い黒髪の女の子。




 何を見ても。

 気づけば、あの子の残像を目で追うようになっていた。

「…………」


 ペンを取った。


 考えるより先に、言葉が浮かんだ。



――幸せな時を刻む日も。

「幸せな時……」

 あの子は、どうしてあんなに“浮かれて”いたんだろう。

 思い出すと、また笑ってしまう。

『つい浮かれてて……』

 普通、自分から言うかな。

 でも。



 きっと何か、嬉しいことがあったんだろう。

 だったら。


 あの子が今も笑っていればいい。

 僕の知らない場所で。

 僕の知らない誰かと一緒にいたとしても、幸せでいてほしい。

 そう思った。


 そして。

 次の言葉を書こうとして――。

 ペンが止まった。

「……」


 何故だろう。

 頭に浮かんだのは、幸せとは正反対の言葉だった。




――終わり告げる鐘が響く日も。

「…………」

 書かれた文字を、じっと見つめる。




 終わり。

 どうして僕は、こんな言葉を書いたんだろう。


 まだ何も始まってすらいないのに。



 だけど、僕は知っている。


 始まったものには、いつか終わりが来る。


 楽しい時間も。

 幸せな時間も。

 人と人との関係も。



 そして――命だって。


 永遠なんて、存在しない。



 幼い頃から、それを嫌というほど感じてきた。


 明日も今日と同じように目を覚ますこと。


 大切な人と、また明日会えること。


 そんな当たり前のことだって。


 本当は、誰にも約束されていない。




「…………」


 胸元へ、そっと手を当てた。


 規則正しく脈打つ鼓動。


 あの日とは違う。


 今は静かだ。


 それでも、僕は知っている。




 この鼓動だって、永遠ではない。



 だからこそ。

 残したいと思った。

 たとえいつか終わってしまっても。

 確かにそこにあったものを、忘れたくないと思った。



――すべて君と僕がいた。



 そこまで書いて。

「……いや」

 思わず苦笑した。

「僕たち、何も始まってないのに」

 君と僕。

 そんなふうに並べて書けるような関係じゃない。

 名前すら知らないんだから。

 消しゴムを手に取った。



――すべて君と僕がいた。

「…………」

 消そうとした。

 でも、できなかった。


 あの冬の昼下がり。

 ほんの僅かな時間だったけれど。

 確かに、君と僕は同じ場所にいた。

 僕は君の手を取った。

 君は僕を見て笑った。

 僕は君の夢を聞いた。

 そして――君に夢を叶えてほしいと思った。

 たったそれだけ。

 それだけなのに。

 僕にとっては――愛しいと思える記憶になってしまった。




「……重症だな、僕」

 小さく笑って、消しゴムを置いた。

 そして続きを書く。



――愛しい記憶 永遠より永い。



 永遠なんてない。

 そう思っている僕が、

 永遠(とわ)より(なが)い、なんて……矛盾している。

 だけど。
 だからこそ、そう願ったのかもしれない。

 いつか記憶が薄れても。

 いつか僕がいなくなっても。

 あの日の出来事だけは、この歌の中に残る。

 だったら。



 歌は、僕よりもずっと遠くへ行ける。

 僕が行ったことのない街へ。

 僕の知らない誰かのもとへ。

 そして――。

 もしかしたら……君のところへも。



「…………あ」

 そこで、ようやく最後の言葉が見つかった。




――宇宙(そら)の彼方に

――いつまでも どこまでも



 ペンを走らせる。

 最後の二つの言葉だけは、迷わなかった。



――届け 響け。



「…………」

 書き終える。


 静かな部屋。


 目の前には、一枚の譜面。


 何度も書き直した跡。


 消した言葉。

 残した言葉。

 そして――名前も知らない、一人の女の子への想い。



「届け……か」

 もう一度、会いたい。



 ようやく認めた。

 僕は、あの子に会いたい。

 名前を知りたい。

 もっと話してみたい。



 あの子がどんな花を好きなのか。

 どんなことをして笑うのか。


 どんな夢を見ているのか。

 もっと知りたい。



「……そうか」

 胸の奥が、ふっと軽くなった。



 今まで分からなかったものに。

 ようやく名前がついた気がした。



「僕……あの子のこと、好きなんだ」


 口に出した途端。


 今度は急激に恥ずかしくなった。



「…………」

 両手で顔を覆う。

「一回しか会ってないのに……」

 我ながら信じられない。

 だけど。


 否定しようとすると、あの日からの自分の行動を全部説明できなくなる。



 朝起きて思い出したことも。


 ロゼッタを覗いてしまったことも。


 長い黒髪を目で追ったことも。


 もう一度会いたいと思ったことも。



 そして。

 一曲、作ってしまったことも。



「……参ったな」

 顔を上げる。

 もう一度、譜面を見る。

 まだ一つだけ、空いている場所があった。



タイトル。

「…………」



 世界が次第に色づいて。

 宇宙の彼方に。

 いつまでも。

 どこまでも。

 届け。

 響け。



 もし僕が、もう二度と君に会えなかったとしても。

 この歌だけは。

 いつか、世界を越えて。

 君のところまで。

「タイトルは――」

 ペンを走らせた。



    『Over the World』





 書き終えた文字を見つめる。

 名前も知らない君へ。

 僕から贈る、君自身さえまだ知らない歌。

「……いつか、届くといいな」


 小さく呟いた。

 そのときの僕は、本当に知らなかったんだ。


 もう一度、君に会えることも。

 君の名前を知ることも。

 君の夢を、すぐそばで応援する日が来ることも。

 そして。

 いつか君が――

 僕にとって、かけがえのない人になることも。


 ☆


 あの日。

 名前すら知らなかった君へ。

 僕は歌を作った。

 いつか、世界を越えてでも届くようにと。

 だけどあの頃の僕は、まだ知らなかった。

 僕の歌より先に、君の方が――

 

 僕の世界を変えていたことを。