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 小学校の卒業式の日のことだった。
 式は何事も無く終わり、教室で担任の最期の挨拶があった。「これから中学生になるから、自覚を持った行動を…」と、感動して泣くには物足りない内容だったと思う。それも終わり、解散となると、僕は卒業証書が入った黒筒を片手に、廊下を闊歩していた。
 鼻歌交じりに、スキップでもしそうな勢いで。
 見渡すと、卒業生たちは各々、仲のいい者のところに行って、親から借りたデジカメやスマホを使って写真撮影に興じていた。僕も、在学中に馬鹿騒ぎした友人に、皮肉の一言でも言ってやろうと、彼の教室を目指した。
 その友人がいる教室に入ろうとしたとき、扉に取り付けられた小窓から中の様子が見えた。
 教室に、懐かしい姿があった。
 それは、カホちゃんだった。そう、小学校五年生の時に、事故に遭って下半身不随。右腕切断となった悲劇の少女だ。
 カホちゃんは車椅子に座っていて、周りをたくさんの友人に囲まれていた。教室の外にまで「大丈夫?」「元気で嬉しい!」「車いすって大変でしょ?」という声が聞こえた。
 カホちゃんの姿を見た時、扉にかけた手が、ぎしっと固まる。
 僕の脳裏を、あの心霊写真が過る。
 何度も、「僕のせいじゃない」って言い聞かせてきたのに、彼女と顔を合わせることがためらわれた。美味しい料理を食べていたのに、小骨が喉に引っかかったような感覚だった。
「………」
 僕は扉から手を離した。
 そして、踵を返して、教室から離れようとする。
 その瞬間、誰かが僕の名前を呼んだ。
「あっ! リッカくんだ!」
 しまった。と思った。
 聞こえなかったふりをして立ち去るような器用な芸当、当時の僕にできるはずもなく、僕は教室から出てきた女の子に腕を掴まれた。
「ちょうどよかった! リッカ君! カホちゃんだよ!」
「あ、ああ、うん…」
 僕は顔に冷や汗をかきながら振り返る。
 僕の手を掴んだのは、五年生の時に一緒のクラスだった女の子だった。あまり喋った記憶はないのに、彼女は数年来の友人のような顔をして、僕の腕を引っ張る。
 教室に引き込んだ瞬間、声高々に言った。
「カホ! リッカ君だよ!」
 教室にいた連中の視線が、一斉に僕の方を見た。
 こうなると、もう引き下がれなかったので僕は顔に力を込めて、いつも通り、一年前の通りに振舞うことを決めた。
 僕をカホちゃんの方に引っ張っていきながら、女の子が耳打ちをする。
「実はね、カホって、リッカ君のことが好きだったんだよ」
「え……」
 どうして? それ、本当? って聞く前に、女の子が僕をカホちゃんの前に押しやった。そして、「上手くやれよ!」とでも言いたげに、僕の背中をバシッ! と叩く。
 こういう、人の気持ちも汲み取らずに余計な行動をとる、恋愛で脳を犯された仕切りたがり女子は嫌いだった。
 と言っても、僕の周りには、ざっと数えても二十人もの生徒がいる。挙動不審なことをすれば、この幸せな雰囲気に水を差しかねないと思った。
「よお、カホちゃん」
 僕は片手をあげて、車椅子に座っている彼女に挨拶をした。カホちゃんも、片手を挙げて、「久しぶりね」と言ってくれる…、と思っていた。挨拶を交わした僕たちは、他愛の無い話をして、「中学でも頑張ろうぜ」なんて言い合って別れる。そうなると思っていた。いや、そうなってほしかった。
 しかし、案の定と言うべきか、やっぱりねと言うべきか…、僕の予想通り、「嫌な展開」へと転んだ。
 生徒に囲まれて、にこやかに笑っていたカホちゃんの目が、カッ! と見開かれた。眼球が小刻みに震え、半開きになった彼女の口から言葉にならない悲鳴が洩れる。
 みるみる、彼女の顔から血の気が引いていき、桜色の肌は白色に。白色の肌は青色に変わった。そして、段ボールのような色になったと思った瞬間、彼女は「来ないで!」と叫んで、傍の机の上に置いてあった花束を僕に投げつけた。
 あ…。
 バシンッ! と、僕の顔面に花束がぶつかる。衝撃で、花びらが散り、空中を乱舞した。
 僕は微動だにせず、肩で息をするカホちゃんを見つめた。
「…カホちゃん?」
「来ないで…、お願い、あっちいって!」
 彼女がパニックを起こしているということは、誰が見ても一目瞭然だった。
 カホちゃんは「来ないで」と壊れたレコードのように叫ぶと、手あたり次第、傍にあったものを僕に投げつけた。ペンケース、卒業証書、読書の本、過呼吸のものと思われる薬…、全部、僕の顔や胸の辺りにぶつかり、ワックスでつやつやになった床に落ちた。
「………カホちゃん…」
「ああ、もう! どうしてよ! なんで来るのよ!」
 叫ぶ彼女の目から、ボロボロと涙が零れていた。
 意気揚々とカホちゃんとの会話に興じていた他の生徒たちは押し黙り、叫ぶ彼女と、茫然とする僕を交互に見ていた。
 僕を教室に引き入れた女子が言った。
「ちょっと、カホ? 何やってんの? リッカくんだよ? 前に言ってたじゃん! リッカ君のこと好きだって!」
「うるさい!」
 カホちゃんは車いすの手すりに、自分の拳を叩きつけた。
「こんな男! 好きになるんじゃなかった! コイツは人間じゃない! 死神だ!」
 こいつは人間じゃない! 死神だ!
 初めて、自分の存在を否定されるようなことを言われた。しかも、僕のことを一時は好きでいてくれた女の子に。僕は怒りもせず、泣きもせず、ただその場に立ち竦んでいた。カホちゃんが怒鳴る声と、女の子の「それは流石に失礼だって!」という声が、まるで洞窟の中にいるみたいに、頭のなかでくわんくわんと反響する。
 カホちゃんの怒鳴り声を聞いて、彼女の母親らしき女性が教室に飛び込んできた。
 カホちゃんは下半身を麻痺させていながら、上体を乗り出して母親の胸に抱きつく。そして、わんわんと泣き始めた。譫言のように、「死神があ! リッカくんがあ!」と叫んでいた。
 リッカ。
 僕の名前を聞いた母親は、首が捩じ切れそうな勢いで、僕の方を振り返った。
 わなわなと震える声でいう。
「あなた…、リッカ君…?」
「…はい、そうですけど…」
 そう頷いたのが間違いだった。
 次の瞬間、獣のような呻き声を挙げた母親が迫ってきて、僕の胸の辺りをドンッ! と突いた。僕はそのまま、硬い床に背中を打ち付ける。周りの女子生徒が悲鳴を挙げた。
 母親はタイトスカートの中の黒いパンツが見えるのもお構いなしで僕の上に馬乗りになると、憎しみに歪んだ目で僕を睨みつけ、そして、顔を引っぱたいた。
 パンッ! と、快音。
「お前のせいで!」
 そう言うと、さらにもう一発。
 パンッ! と、快音。
 子供ながらに何かまずいことが起こっていると思ったのだろう。周りにいた生徒たちが駆け寄って、母親の腕を掴んだ。その小さな力に、顔を真っ赤にしていた母親の顔が固まる。
「あ……」
 母親は我に返り、振り上げた手を下ろした。そして、ゆっくりと立ち上がると、捲れ上がったタイトスカートを直す。僕に「ごめんなさい」と、弱弱しい声で言った。
 踵を返すと、まだ泣きじゃくっているカホちゃんのところに歩み寄る。
「カホちゃん、帰りましょう?」
「うん…」
 母親はカホちゃんの車椅子を押して、教室を出ていった。
 緊張の糸が切れた瞬間、今まで黙っていた生徒らが一斉に口を開く。「なんだったんだ?」「怖かったね」「何があったんだろう?」と、カホちゃんと、その母親の豹変っぷりを気にかける声が飛び交った。
 まさかこうなると思っていなかった女の子は、膝から崩れ落ち、わんわんと泣いていた。
 僕はゆっくりと身体を起こし、カホちゃんの母親に殴られた頬に触れた。ひりひりとしている。
「大丈夫か? リッカ」
 友人が僕の腕を掴み、立たせてくれた。
 カホちゃんに「死神」と呼ばれたことのショックからか、足元がおぼつかない。酔っぱらった父親のように、その場で千鳥足を踏む。
「気にすんなよ?」
 気が気でない顔をした友人が言った。
「カホちゃんの事故は、お前のせいじゃないから」
「………」
 うん。と頷くことができなかった。
 カホちゃんの号泣と、母親の暴力については、僕が周りに「先生や他の生徒には言わないでくれ」と釘を刺しておいた。まあ、意味は無いだろうな。みんな、一応その場では「わかった」と頷いてくれて、その一件はうやむやになった。
 気を取り直すために、僕は友人のところに行き、いつものように、不毛な会話をした。「中学校に入ったら何の部活に入る?」「オレ、サッカー部」「僕はバレーがいいな」「お前にバレーができんのか?」「失礼だな、僕の運動神経を舐めるなよ? そんなもん、ちょちょいのちょいだよ」って。
 そうして、話していると、さっきあったことは頭の隅に追いやることができた。喉の奥に小骨のようなものが残っていたが、苦痛を伴うことはなく、少し鬱陶しく感じる程度だった。
 そうして、「じゃあ、そろそろ帰るか」ってなった時、小学校の校舎の前に救急車が停まっていることに気が付いた。

 そこで、僕たちは知らされた。

 カホちゃんとその母親が交通事故にあって死んだことを。