※
「…日暮さん、日暮さん」
名前を呼ばれて、僕は過去の回想から現実世界に引き戻された。
僕が座っていたのは、救急病院の待合室だった。ここに、車で事故を起こしたタケルと、階段から転げ落ちたリュウセイが搬送されたのだ。
朝方から二名もの怪我人が運び込まれたということもあり、病院の中は心なしか騒がしかった。白衣の看護師さんたちが、パタパタと廊下を行ったり来たりしている。
「あ、ああ…」と、顔をあげて、横に立っていたお医者さんの方を見る。
治療室から出てきたお医者さんは、目元に隈を浮かべ、頬にねっとりとした汗をかきながら僕に言った。
「え、ええと、嬉々島さんと、佐藤さんのご友人でよろしいですよね?」
「はい…」
僕は瞼が少し重いのを感じながら、目の前の中年の医者に、テンプレを言った。
「その、二人の容体は?」
「はい、そのことなんですが」
お医者さんはこくっと頷いて、手短に話した。
「タケルさんの方ですが、腕を骨折しています。頭を打って脳震盪を越したようですが、命に別状はありません。順調に行けば、一週間ほどで退院できるでしょう。佐藤さんですが。階段かあ転げ落ちた拍子に、脚の骨を折っています。ええ、両足ですね。これも命に別状はありませんが…、彼の場合は、リハビリに時間がかかりそうですね」
それから、僕に聞いた。
「それで、お二人の親御さんの連絡先を知っていますか?」
「え、あ、そうか…」
しまった。と内心指を鳴らした。
バタバタとしていたせいで、二人の両親に連絡していない。こういうのは、早くしなければならない。
「さあ…、二人の親とは交流がありませんし…」
「治療費や、保険のことでお話があるのですが…、何とかなりませんかね?」
「そうですね…」
僕は傍に置いてあった、リュウセイのナップサックを引き寄せた。悪いとは思いながら、中を物色する。すると、アニメの女の子のイラストがプリントされたカバーに装着されたスマホが出てきた。
へえ、リュウセイってこんな趣味があったんだ。と感心しながら、スマホを機動させる。ロックはかかっておらず、すぐに開くことができた。電話帳のアイコンをタップして弄っていると、「母ちゃん」という名前が目に入った。
僕はお医者さんに目配せをしてから、病院の外にでた。リュウセイのスマホを使って、「母ちゃん」って人に電話をかける。
ワンコールで出た。
『もしもし? どしたの?』
酒焼けしたガラガラ声が聞こえた。
『こんな朝早くに』
「あ、どうも、おはようございます」
僕が少し気圧されながら言うと、電話の向こうの「母ちゃん」は、声が息子のものではないと気づいた。
『うん? あんた誰?』
「あ、朝早くにすみません。僕は、リュウセイ君の友達の…」
『え? リュウセイの友達?』
「あ、はい、リュウセイ君の友達の、日暮立夏と言います…」
『え? なんて?』
「だから…、リュウセイの友達の…」
『ごめん、聞こえない! なんて言ってるの? ノイズがすごくてさあ!』
「え…」
そう言われて、僕は反射的にスマホの液晶を見ていた。だからなんだって話だが。
リュウセイの母ちゃんの声ははっきりと聞こえる。
僕の近くだけ、電波が干渉されているのか?
僕は「ちょっと待ってください」と言って、病院から走って離れた。
百メートルくらい離れてスマホを耳に当てる。
「どうですか? これで聞こえますか?」
『え? なんて? ごめん! マジで聞こえないのよ!』
なんで聞こえないんだ?
そう思った次の瞬間、マイクの奥でプツンという音がして、通話が切れた。
プー、プー、プーと無機質な電子音が耳に残る。
「………」
僕は諦めてスマホをポケットに入れた。病院に戻ると、お医者さんには「まだ朝方だから出なかった」と伝えた。先生はそれで納得してくれた。
待合室で書類を書いたり、少し休んだりして時間を潰し、六時を回る頃になると、、僕は看護師さんに案内してもらってリュウセイの病室に入った。タケルの部屋には、別の友達のミチルが行ってくれている。
リュウセイはもう意識を取り戻していて、僕が入ってくるなり、「よお」と、いつも通り、気さくに手を振ってきた、僕も、いつものように「よお」と返した。
傍にあった丸椅子を引き寄せ、ベッドの横に座る。
部屋の消毒液の臭いを吸い込んで言った。
「災難だったな」
「ほんとだよ」
リュウセイの細足には、太いギプスがはめられ、天井から下がった布みたいなやつの上に乗せられていた。足を見ていると、痛みを想像して背筋がぞわぞわするので、リュウセイの涙で赤くなった顔を見る。
「ってか、お前も本当にドジだな。慌て過ぎだって。怪我人増やしてどうするんだよ」
「いやあ、それがね…」
リュウセイは力なく笑うと、ぼさぼさになった頭を掻いた。
そして、僕の顔を見る。
「なんだよ」
「いや、その…」
リュウセイはさっと目を逸らして口籠った。
「なんでも、ないよ」
「あのなあ、何か言いたいことがあるんだと? さっさと言えよ」
僕はもどかしくなって聞いた。多分、内心、何がリュウセイを転落事故に巻き込んだのかわかっていたからだ。
それでも、リュウセイは何かを言いあぐねて、口を開いたり、閉じたり、また開いたと思ったら閉じたり、開いたりを繰り返した。
僕ももどかしくなって、核心に迫ることを聞いた。
「お前…、本当に足を滑らせて落ちたのか?」
「え…」
リュウセイの丸くなった目が僕に向けられる。
それからリュウセイは、「いや、違う」と、首を横に振った。
「なあ…、リッカ。お前…、オレが部屋の外に出ていった時、まだタケルの部屋にいたよな?」
「うん、そうだな。軽く探し物をしていたんだ」
「そうだよな、うん、そうに決まっている。オレの勘違いだ。そうだな」
リュウセイはほっとしたような息を吐き、何度も自分に言い聞かせていた。
「いやね、オレが階段を降りようとしたとき…、誰かがオレの背中を突き飛ばしたんだよ」
「………」
僕は、「ああ、やっぱりか」と思って、口の中の唾を飲み込んだ。
その時のことを思い出したのか、リュウセイはまたガタガタと震え始めた。
「うん、オレの気のせいだよ。あのアパート、朝方でオレとリッカしかいなかったから…。多分、動揺していたから、変な錯覚をしただけだと思う…」
「ったく、しっかりしてくれよ」
僕はははっと笑うと、持っていたナップサックをリュウセイに渡した。
「これ、お前の荷物」
「ああ、ありがとう」
「それから、お前のスマホな」
ポケットからスマホを取り出し、リュウセイの手に握らせた。
「ごめん、親御さんに電話しようとして、勝手に開いちゃった」
「え、そうなの? 母ちゃん、出てくれた?」
「いや、電話に出るには出てくれたんだけど…、電波の干渉があったのか知らんが、声が届かなかった。怪我しているとこ悪いけど、お前が連絡してくれ」
「うん、オレの問題だからな、オレがやっとくよ」
リュウセイは笑うと、傍にいた看護師さんに一声かけてから、母親に電話をしていた。
電話に出たのか、リュウセイが「あ、母ちゃん? オレだけど!」と言う。
その瞬間、マイクの向こうから、一メートル程離れた僕にも聞こえるくらいの怒声が飛んできた。
『ちょっとッ! リュウセイッ! あんたどういうことだい!』
「あ、ご、ごめん、オレ、ぼーっとしちゃってて…」
『ああ? 何がぼーっとしてたって? 惚けんじゃ無いよ! さっきからずっと、変な電話ばっかり繰り返して!』
「え…?」
リュウセイの顔が、苦笑したまま固まった。
泣きそうな目が僕を見る。
僕は何が何だかわからなくて、椅子に座ったまま、電話の向こうの怒鳴り声を聞いていた。
『何が、シネ! よ! ほんと気分が悪いわッ! そんな卑怯な人間に育てた覚えは無いんだけど?』
「ちょっと、母ちゃん! どういうことだよ! 意味がわかんねえよ!」
彼の母親は怒り心頭で、話をまともに聞いてくれる状態ではなかった。
リュウセイは火に油を注ぐのを覚悟で、通話を一度切ると、電話帳を開いて、通話履歴を確認した。それを見た途端、リュウセイの顔が引きつる。僕の心臓も爆発しそうなくらいに跳ね上がった。
僕が最初に、彼の母親に電話をかけたのが、朝の五時半ごろ。リュウセイの病室に入ったのが、六時十分ごろ。その、約四十分の間に、彼のスマホから母親に宛てて、約五十件もの着信がされたいたのだ。
そのうち、最新の三件には、音声が記録されていた。彼の母親が『さっきからなんなの! 親を馬鹿にするのもいい加減にしなさい』という声と共に、地の底を這うような『シネシネシネ
シネシネ』という声が聞こえた。
「な、なんだよ…」
僕はそれを聞いて、流石に平静を装うことができなくなっていた。
疑われる前に、リュウセイに弁明を試みる。
「僕はやってないぞ…」
そう言って彼の顔を見た時だった。
リュウセイの涙で濡れた眼球が、グルンと回転し、充血した白目がこちらを向いた。犬のようにだらしなく開き切った口から、どろっとした唾液が落ちて、白い布団を濡らす。
その異様な姿を見た看護師さんが「きゃあっ!」と悲鳴をあげて後ずさった。
僕は「おい、リュウセイ!」と、彼の名前を呼んだ瞬間、リュウセイは無事だった両腕を上げると、自分の首を掴んだ。
あっ! と思う。
リュウセイは少し伸びた爪を、汗ばんだ首筋に突き立て、ギリギリという音が聞こえそうなくらいの力で圧迫した。爪が皮膚を押し破り、血が流れる。気道が詰まったのか、彼の喉の奥から、湿っぽい悲鳴が洩れた。
「お、おい! リュウセイ!」
我に返り、リュウセイがしようとしていることに気づいた僕は、椅子を蹴飛ばして立ち上がると、彼の腕を掴み、手前に引いた。
手が首から離れる拍子に、爪が彼の首の皮膚を切り裂く。影のように黒い血が飛び散り、僕の頬にぱたぱたっとかかった。
リュウセイの眼球が、ぐるんと回転し、透き通るような黒目が僕を見た。彼は海から上がった時のように、「ぷはあ!」と息を吐き、ベッドに背中を鎮める。肩を上下させ、病室の消毒液の臭いを肺いっぱいに吸い込んだ。
正気を取り戻したのか、彼の口から、「あ、あれ…?」と間抜けな声が洩れる。
「おい、リュウセイ…、大丈夫か…!」
僕は彼の肩を掴み、上下に揺さぶった。
その瞬間、リュウセイの顔がまた引きつった。
「うあああああああっ!」
と、悲鳴をあげて、僕の肩を突き飛ばす。
僕はよろめいて、ニ、三歩後ずさった。その拍子に、背後にあった丸椅子に躓き、盛大にすっ転んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
看護師さんが駆け寄ってきて、僕の腕を掴んだ。そして、立たせようと引っ張る。だが、彼女もまた「ひっ!」と悲鳴をあげて、すぐにその手を離してしまった。おかげで僕はまた床に腰を打ち付けた。
「いてててて…」
腰の痛みに耐えながら、自力で立ち上がる。看護師さんのことはどうでもいい。真っ青な顔で僕を見ているリュウセイを見た。
「おい、リュウセイ、どうした?」
「あ、いや…、その…」
リュウセイ酸欠の金魚のように、口をパクパクとさせていた。
その顔を見た時、僕の腹の中で、何かがパンッ! と弾けた。熱いものが喉の奥まで込み上げてきて、それは怒声となってリュウセイに浴びせられた。
「おい! はっきり言えよ!」
「………」
リュウセイの震えがぴたっと止まった。
僕はリュウセイを睨みつける。
「何を見た? そういうのには慣れている…」
「…ごめん」
リュウセイは僕から視線を外し、そして、絞り出した。
「お前の背後に、真っ黒な人影がいた」
「…日暮さん、日暮さん」
名前を呼ばれて、僕は過去の回想から現実世界に引き戻された。
僕が座っていたのは、救急病院の待合室だった。ここに、車で事故を起こしたタケルと、階段から転げ落ちたリュウセイが搬送されたのだ。
朝方から二名もの怪我人が運び込まれたということもあり、病院の中は心なしか騒がしかった。白衣の看護師さんたちが、パタパタと廊下を行ったり来たりしている。
「あ、ああ…」と、顔をあげて、横に立っていたお医者さんの方を見る。
治療室から出てきたお医者さんは、目元に隈を浮かべ、頬にねっとりとした汗をかきながら僕に言った。
「え、ええと、嬉々島さんと、佐藤さんのご友人でよろしいですよね?」
「はい…」
僕は瞼が少し重いのを感じながら、目の前の中年の医者に、テンプレを言った。
「その、二人の容体は?」
「はい、そのことなんですが」
お医者さんはこくっと頷いて、手短に話した。
「タケルさんの方ですが、腕を骨折しています。頭を打って脳震盪を越したようですが、命に別状はありません。順調に行けば、一週間ほどで退院できるでしょう。佐藤さんですが。階段かあ転げ落ちた拍子に、脚の骨を折っています。ええ、両足ですね。これも命に別状はありませんが…、彼の場合は、リハビリに時間がかかりそうですね」
それから、僕に聞いた。
「それで、お二人の親御さんの連絡先を知っていますか?」
「え、あ、そうか…」
しまった。と内心指を鳴らした。
バタバタとしていたせいで、二人の両親に連絡していない。こういうのは、早くしなければならない。
「さあ…、二人の親とは交流がありませんし…」
「治療費や、保険のことでお話があるのですが…、何とかなりませんかね?」
「そうですね…」
僕は傍に置いてあった、リュウセイのナップサックを引き寄せた。悪いとは思いながら、中を物色する。すると、アニメの女の子のイラストがプリントされたカバーに装着されたスマホが出てきた。
へえ、リュウセイってこんな趣味があったんだ。と感心しながら、スマホを機動させる。ロックはかかっておらず、すぐに開くことができた。電話帳のアイコンをタップして弄っていると、「母ちゃん」という名前が目に入った。
僕はお医者さんに目配せをしてから、病院の外にでた。リュウセイのスマホを使って、「母ちゃん」って人に電話をかける。
ワンコールで出た。
『もしもし? どしたの?』
酒焼けしたガラガラ声が聞こえた。
『こんな朝早くに』
「あ、どうも、おはようございます」
僕が少し気圧されながら言うと、電話の向こうの「母ちゃん」は、声が息子のものではないと気づいた。
『うん? あんた誰?』
「あ、朝早くにすみません。僕は、リュウセイ君の友達の…」
『え? リュウセイの友達?』
「あ、はい、リュウセイ君の友達の、日暮立夏と言います…」
『え? なんて?』
「だから…、リュウセイの友達の…」
『ごめん、聞こえない! なんて言ってるの? ノイズがすごくてさあ!』
「え…」
そう言われて、僕は反射的にスマホの液晶を見ていた。だからなんだって話だが。
リュウセイの母ちゃんの声ははっきりと聞こえる。
僕の近くだけ、電波が干渉されているのか?
僕は「ちょっと待ってください」と言って、病院から走って離れた。
百メートルくらい離れてスマホを耳に当てる。
「どうですか? これで聞こえますか?」
『え? なんて? ごめん! マジで聞こえないのよ!』
なんで聞こえないんだ?
そう思った次の瞬間、マイクの奥でプツンという音がして、通話が切れた。
プー、プー、プーと無機質な電子音が耳に残る。
「………」
僕は諦めてスマホをポケットに入れた。病院に戻ると、お医者さんには「まだ朝方だから出なかった」と伝えた。先生はそれで納得してくれた。
待合室で書類を書いたり、少し休んだりして時間を潰し、六時を回る頃になると、、僕は看護師さんに案内してもらってリュウセイの病室に入った。タケルの部屋には、別の友達のミチルが行ってくれている。
リュウセイはもう意識を取り戻していて、僕が入ってくるなり、「よお」と、いつも通り、気さくに手を振ってきた、僕も、いつものように「よお」と返した。
傍にあった丸椅子を引き寄せ、ベッドの横に座る。
部屋の消毒液の臭いを吸い込んで言った。
「災難だったな」
「ほんとだよ」
リュウセイの細足には、太いギプスがはめられ、天井から下がった布みたいなやつの上に乗せられていた。足を見ていると、痛みを想像して背筋がぞわぞわするので、リュウセイの涙で赤くなった顔を見る。
「ってか、お前も本当にドジだな。慌て過ぎだって。怪我人増やしてどうするんだよ」
「いやあ、それがね…」
リュウセイは力なく笑うと、ぼさぼさになった頭を掻いた。
そして、僕の顔を見る。
「なんだよ」
「いや、その…」
リュウセイはさっと目を逸らして口籠った。
「なんでも、ないよ」
「あのなあ、何か言いたいことがあるんだと? さっさと言えよ」
僕はもどかしくなって聞いた。多分、内心、何がリュウセイを転落事故に巻き込んだのかわかっていたからだ。
それでも、リュウセイは何かを言いあぐねて、口を開いたり、閉じたり、また開いたと思ったら閉じたり、開いたりを繰り返した。
僕ももどかしくなって、核心に迫ることを聞いた。
「お前…、本当に足を滑らせて落ちたのか?」
「え…」
リュウセイの丸くなった目が僕に向けられる。
それからリュウセイは、「いや、違う」と、首を横に振った。
「なあ…、リッカ。お前…、オレが部屋の外に出ていった時、まだタケルの部屋にいたよな?」
「うん、そうだな。軽く探し物をしていたんだ」
「そうだよな、うん、そうに決まっている。オレの勘違いだ。そうだな」
リュウセイはほっとしたような息を吐き、何度も自分に言い聞かせていた。
「いやね、オレが階段を降りようとしたとき…、誰かがオレの背中を突き飛ばしたんだよ」
「………」
僕は、「ああ、やっぱりか」と思って、口の中の唾を飲み込んだ。
その時のことを思い出したのか、リュウセイはまたガタガタと震え始めた。
「うん、オレの気のせいだよ。あのアパート、朝方でオレとリッカしかいなかったから…。多分、動揺していたから、変な錯覚をしただけだと思う…」
「ったく、しっかりしてくれよ」
僕はははっと笑うと、持っていたナップサックをリュウセイに渡した。
「これ、お前の荷物」
「ああ、ありがとう」
「それから、お前のスマホな」
ポケットからスマホを取り出し、リュウセイの手に握らせた。
「ごめん、親御さんに電話しようとして、勝手に開いちゃった」
「え、そうなの? 母ちゃん、出てくれた?」
「いや、電話に出るには出てくれたんだけど…、電波の干渉があったのか知らんが、声が届かなかった。怪我しているとこ悪いけど、お前が連絡してくれ」
「うん、オレの問題だからな、オレがやっとくよ」
リュウセイは笑うと、傍にいた看護師さんに一声かけてから、母親に電話をしていた。
電話に出たのか、リュウセイが「あ、母ちゃん? オレだけど!」と言う。
その瞬間、マイクの向こうから、一メートル程離れた僕にも聞こえるくらいの怒声が飛んできた。
『ちょっとッ! リュウセイッ! あんたどういうことだい!』
「あ、ご、ごめん、オレ、ぼーっとしちゃってて…」
『ああ? 何がぼーっとしてたって? 惚けんじゃ無いよ! さっきからずっと、変な電話ばっかり繰り返して!』
「え…?」
リュウセイの顔が、苦笑したまま固まった。
泣きそうな目が僕を見る。
僕は何が何だかわからなくて、椅子に座ったまま、電話の向こうの怒鳴り声を聞いていた。
『何が、シネ! よ! ほんと気分が悪いわッ! そんな卑怯な人間に育てた覚えは無いんだけど?』
「ちょっと、母ちゃん! どういうことだよ! 意味がわかんねえよ!」
彼の母親は怒り心頭で、話をまともに聞いてくれる状態ではなかった。
リュウセイは火に油を注ぐのを覚悟で、通話を一度切ると、電話帳を開いて、通話履歴を確認した。それを見た途端、リュウセイの顔が引きつる。僕の心臓も爆発しそうなくらいに跳ね上がった。
僕が最初に、彼の母親に電話をかけたのが、朝の五時半ごろ。リュウセイの病室に入ったのが、六時十分ごろ。その、約四十分の間に、彼のスマホから母親に宛てて、約五十件もの着信がされたいたのだ。
そのうち、最新の三件には、音声が記録されていた。彼の母親が『さっきからなんなの! 親を馬鹿にするのもいい加減にしなさい』という声と共に、地の底を這うような『シネシネシネ
シネシネ』という声が聞こえた。
「な、なんだよ…」
僕はそれを聞いて、流石に平静を装うことができなくなっていた。
疑われる前に、リュウセイに弁明を試みる。
「僕はやってないぞ…」
そう言って彼の顔を見た時だった。
リュウセイの涙で濡れた眼球が、グルンと回転し、充血した白目がこちらを向いた。犬のようにだらしなく開き切った口から、どろっとした唾液が落ちて、白い布団を濡らす。
その異様な姿を見た看護師さんが「きゃあっ!」と悲鳴をあげて後ずさった。
僕は「おい、リュウセイ!」と、彼の名前を呼んだ瞬間、リュウセイは無事だった両腕を上げると、自分の首を掴んだ。
あっ! と思う。
リュウセイは少し伸びた爪を、汗ばんだ首筋に突き立て、ギリギリという音が聞こえそうなくらいの力で圧迫した。爪が皮膚を押し破り、血が流れる。気道が詰まったのか、彼の喉の奥から、湿っぽい悲鳴が洩れた。
「お、おい! リュウセイ!」
我に返り、リュウセイがしようとしていることに気づいた僕は、椅子を蹴飛ばして立ち上がると、彼の腕を掴み、手前に引いた。
手が首から離れる拍子に、爪が彼の首の皮膚を切り裂く。影のように黒い血が飛び散り、僕の頬にぱたぱたっとかかった。
リュウセイの眼球が、ぐるんと回転し、透き通るような黒目が僕を見た。彼は海から上がった時のように、「ぷはあ!」と息を吐き、ベッドに背中を鎮める。肩を上下させ、病室の消毒液の臭いを肺いっぱいに吸い込んだ。
正気を取り戻したのか、彼の口から、「あ、あれ…?」と間抜けな声が洩れる。
「おい、リュウセイ…、大丈夫か…!」
僕は彼の肩を掴み、上下に揺さぶった。
その瞬間、リュウセイの顔がまた引きつった。
「うあああああああっ!」
と、悲鳴をあげて、僕の肩を突き飛ばす。
僕はよろめいて、ニ、三歩後ずさった。その拍子に、背後にあった丸椅子に躓き、盛大にすっ転んだ。
「だ、大丈夫ですか?」
看護師さんが駆け寄ってきて、僕の腕を掴んだ。そして、立たせようと引っ張る。だが、彼女もまた「ひっ!」と悲鳴をあげて、すぐにその手を離してしまった。おかげで僕はまた床に腰を打ち付けた。
「いてててて…」
腰の痛みに耐えながら、自力で立ち上がる。看護師さんのことはどうでもいい。真っ青な顔で僕を見ているリュウセイを見た。
「おい、リュウセイ、どうした?」
「あ、いや…、その…」
リュウセイ酸欠の金魚のように、口をパクパクとさせていた。
その顔を見た時、僕の腹の中で、何かがパンッ! と弾けた。熱いものが喉の奥まで込み上げてきて、それは怒声となってリュウセイに浴びせられた。
「おい! はっきり言えよ!」
「………」
リュウセイの震えがぴたっと止まった。
僕はリュウセイを睨みつける。
「何を見た? そういうのには慣れている…」
「…ごめん」
リュウセイは僕から視線を外し、そして、絞り出した。
「お前の背後に、真っ黒な人影がいた」