三日後。
千草は病院のベッドの上で目を覚ました。
「…リッカ君?」
目を開けた途端、掠れた声で僕の名を呼び、潤んだ目で僕を見る。
僕は彼女の白い右手をぎゅっと握り締めた。
「千草…、ありがとう…」
「………」
「全て…、終わったんだ…」
あの後、彼女を病院に送り届け、少し休んだ僕は、有名な霊媒師のところを尋ねて、霊視をしてもらった。そして、僕の背後にいた「あいつ」が消え失せていることを教えてもらったのだ。僕の二十年の人生を狂わせた「あいつ」が、僕と千草の力によって祓われたのだ。
「ありがとう…、本当に…、ありがとう…」
僕は彼女の手に顔を埋め、情けなく泣いた。
千草は寝返りを打ち、左手で僕の頭を撫でた。まるで、母親のような手だった。
「そう…、良かった…」
あの日、僕たちは命を賭けて悪霊と戦った。
何度も護符を翳し、お守りを翳し、印を結び、唱え言葉を発し、今の自分たちにできること全てを試した、地獄のような一晩だった。
そして、僕たちは打ち勝った。
もちろん、代償はあった。僕の指の爪は全て剥がれていたし、脇腹に深い傷を負ったし、叩きつけられた拍子に、左腕の骨に亀裂が入っていた。僕の方はまだマシだ。ご飯を食べて眠っているだけで、治るのだから。
問題は千草の方だった。
「ああ…、そうか」
千草は自分の手の平を見つめて、頷いた。
「霊力…、尽きちゃったか…」
彼女の象徴であった、類まれない「霊力」が、全て尽きてしまったのだ。
「ごめん…」
僕は何度も謝った。
でも、千草は気にする様子も無く、僕に微笑んだ。
「気にしないで…、そもそも、霊力なんて煩わしいと思ってたし…、リッカ君を助けるために使い切ったのなら本望よ」
「でも…」
確かに、千草は自分の霊力をよく思っていなかった。霊力があったために、父親に家業を継ぐことを強制されそうになったからだ。僕も、千草が望んでいない道に進むのは嫌だった。
だけど、彼女のその力は、僕を救ってくれた。僕を自由にしてくれた。
彼女にとっては嫌な力だったかもしれないが、僕にとっては、「命の恩人」そのものなのだ。それが消え失せただなんて…、寂しくて、嫌で、たまらなかった。
「大丈夫…」
もう、何度目の「大丈夫」だろうか。
千草は霊力も何も宿っていない手で、僕の頬を撫でた。
「これで、自由だから」
※
一週間後、千草が退院した。
彼女の霊力が尽きてしまったことは彼女の父親に知らされ、人を轢き殺しそうな勢いで病院にやってきた父親は顔を真っ青にしていた。しかし、すぐに下唇を噛み締めて現実を受け入れると、「よくやった」と言って、彼女を労った。彼女は少しだけむず痒そうな顔をしていた。
「神社のことは気にするな…、好きに生きろ」
父親はそう言うと、車に乗って実家に帰っていった。
病院を出た僕たちは、電車に乗り、歩いて帰宅した。
「ねえ、千草…」
「なに?」
「千草の夢って、何? その…、普通に生きる、以外で」
「そうだなあ…」
千草は青い空を見上げて考え込み、苦笑した。
「わかんないや」
「わからないって…」
「霊力が残っていたら、神社を継いだり…、霊媒師的な仕事もできたんだろうけど…」
「うん、本当にごめん」
「だから、気にしないでよお」
脱線しかけた話をもとに戻し、彼女は続けた。
「まだ、自分が何になりたいのかわからないけど…、まあ、とりあえず好きに生きてみるよ」
「……」
「リッカ君もそうでしょ?」
彼女はいたずらっぽく言うと、僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「リッカ君に、もう『悪霊』は憑いていないの。だから、たくさんの人と触れ合えるよ? 手を繋いだり、一緒にご飯を食べたり…、お酒飲んだり…」
それから…、と言って彼女は僕の胸を小突いた。
「大学生なんだから、女の子と遊んだり、男友達と、警察呼ばれそうになるくらい馬鹿騒ぎだってできる! もう、人生楽しんだもん勝ちでしょ!」
「…、ああ、そうだな」
僕は曖昧に頷いた。
「千草も、そうするの?」
「私はそういうわちゃわちゃした雰囲気はパスパス! 今まで通り、ぼーっと生きていくとするよ。その中で、私が本当にしたいことを見つければいいもんね」
彼女は負け惜しみなのかわからないことを言うと、手のひらをパラパラと振った。
「リッカ君はリッカ君のやりたいようにやりなさいよ。私も私のやりたいようにやるからさ。お互い、人生楽しもうじゃないの」
「……」
歩いていると、分かれ道に差し掛かった。
右に曲がれば千草の住んでいるアパート。
左に曲がれば僕の住んでいるアパート。
千草は迷わず、つま先を右側に向けた。
「リッカ君の悪霊を祓うためとは言え…、迷惑を掛けたね。ずっと家にお邪魔しちゃって」
「迷惑かけている自覚はあったんだな」
「もちろん」
冷たい風が吹き付け、彼女の黒髪を揺らす。
千草は僕に手を振った。
「それじゃあ、また今度」
「うん」
僕は千草に手を振り返す。
千草が僕に背を向け、歩いていく。
その遠ざかっていく背中を見つめながら、僕は下唇を噛み締めた。
千草は霊力を失った。
僕は悪霊を失った。
これで、二人を結びつけるものは何も無い。
何も無いんだ。
僕は新しく人生を始めるだけ。
彼女も、霊力が無くなった日々を過ごしていくだけ。
でも…、それでも…。
ああ、そうだよ。僕は自由が欲しかった。悪霊に患わされない、「普通の日々」が欲しかった。人といっぱい話したかった。ご飯を食べたかった。二十歳になったんだ、お酒だって飲みたい。馬鹿騒ぎして、ご近所に怒られて…、一緒に募る話でもして…、将来を語り合ったり、相談に乗ったり、相談に乗ってもらったり…、僕は「誰か」に、支えてもらいながら、人生を歩んでいきたいんだ。
多分…、そこには、「千草」がいる。
「千草!」
僕は思わず彼女の名前を呼んでいた。
千草がびくっとして振り返る。
そして、遠くから「なあに?」と聞いてきた。
僕は言葉を発しようとしたが、緊張か、それとも冬の乾燥した大気に喉をやられたのか、うまく喋れない。
「あ、あのさあ」
声が上擦った。
何やってんだ。彼女が行ってしまうぞ? 早く、早く言えよ。
これからも、僕と一緒にいてくれ。って。
「と、取り憑かれちゃったんだ…」
「うん?」
僕の素っ頓狂な言葉に、千草は首を傾げた。
「また、何かに、取り憑かれたの?」
「あ、う、うん…」
「ごめん…、私、霊力が無いから、もう役に立てないんだよ」
「あ、ああ、それは…、わかっているんだよ。だから、その…」
顔が熱くなるをの感じた。
不意に、空から雪が降ってきて僕の頬に触れる。それは一瞬にして水に変わり、僕の煮えた頭を冷やした。
僕は唾を飲み込み言った。
「その! 恋の悪霊にさあ! 取り憑かれているんだよ!」
言った後で後悔した。
なんだよ…、「恋の悪霊」って…。臭いこと言いやがって…。気持ち悪い…。
僕は別の意味で赤面すると、深いため息をついてうなだれた。
すると、道の向こうから千草が叫んだ。
「その悪霊って! 私にも祓えるかな?」
「………」
僕は顔を上げる。
千草が持っていた荷物を放り出し、髪の毛も胸も、コートの裾も、激しく揺らしながらこちらに走ってきていた。
返事をする前に、千草が地面を蹴り、僕に飛びつく。
ガチン! と、唇と唇が重なり合っていた。
それはキス、と言うよりも「歯と歯のぶつかり合い」で、触れた傍から痺れるような感覚が脳天を駆け巡った。
冬の大気に晒されていたはずの彼女の身体は熱く、まるで燃えているようだった。そういう僕も、自分の体温が一度上昇するのを感じた。
二つの熱の塊は、お互いを求めるようにして腕を回し抱き合った。そして改めて、キスを交わす。朝霧のように目の前がぼんやりとした。一秒が、まるで一分のように思えた。
「どう?」
千草は唇を離すと、真っ赤な顔で聞いてきた。
「悪霊…、祓えた?」
「ううん」
僕は頬を真っ赤にして首を横に振る。
「全然だめだ…」
「そう…、じゃあ、一緒にいるしかないよね!」
千草が満面の笑みを浮かべる。まるで、嵐の中、不意に差し込む陽光のようだった。そこに、天使でも宿っているかのような神々しさだった。
その日、二人は、僕のアパートに一緒に帰った。そして、気が済むまでイチャイチャした。
僕はもう、誰かを不幸にすることはない。
僕はもう自由だ。
自由な翼を手に入れて何をする?
そうだな…、とりあえず、僕の隣にいてくれる美しい女性を、「幸福」にすることから始めることにした。
完
千草は病院のベッドの上で目を覚ました。
「…リッカ君?」
目を開けた途端、掠れた声で僕の名を呼び、潤んだ目で僕を見る。
僕は彼女の白い右手をぎゅっと握り締めた。
「千草…、ありがとう…」
「………」
「全て…、終わったんだ…」
あの後、彼女を病院に送り届け、少し休んだ僕は、有名な霊媒師のところを尋ねて、霊視をしてもらった。そして、僕の背後にいた「あいつ」が消え失せていることを教えてもらったのだ。僕の二十年の人生を狂わせた「あいつ」が、僕と千草の力によって祓われたのだ。
「ありがとう…、本当に…、ありがとう…」
僕は彼女の手に顔を埋め、情けなく泣いた。
千草は寝返りを打ち、左手で僕の頭を撫でた。まるで、母親のような手だった。
「そう…、良かった…」
あの日、僕たちは命を賭けて悪霊と戦った。
何度も護符を翳し、お守りを翳し、印を結び、唱え言葉を発し、今の自分たちにできること全てを試した、地獄のような一晩だった。
そして、僕たちは打ち勝った。
もちろん、代償はあった。僕の指の爪は全て剥がれていたし、脇腹に深い傷を負ったし、叩きつけられた拍子に、左腕の骨に亀裂が入っていた。僕の方はまだマシだ。ご飯を食べて眠っているだけで、治るのだから。
問題は千草の方だった。
「ああ…、そうか」
千草は自分の手の平を見つめて、頷いた。
「霊力…、尽きちゃったか…」
彼女の象徴であった、類まれない「霊力」が、全て尽きてしまったのだ。
「ごめん…」
僕は何度も謝った。
でも、千草は気にする様子も無く、僕に微笑んだ。
「気にしないで…、そもそも、霊力なんて煩わしいと思ってたし…、リッカ君を助けるために使い切ったのなら本望よ」
「でも…」
確かに、千草は自分の霊力をよく思っていなかった。霊力があったために、父親に家業を継ぐことを強制されそうになったからだ。僕も、千草が望んでいない道に進むのは嫌だった。
だけど、彼女のその力は、僕を救ってくれた。僕を自由にしてくれた。
彼女にとっては嫌な力だったかもしれないが、僕にとっては、「命の恩人」そのものなのだ。それが消え失せただなんて…、寂しくて、嫌で、たまらなかった。
「大丈夫…」
もう、何度目の「大丈夫」だろうか。
千草は霊力も何も宿っていない手で、僕の頬を撫でた。
「これで、自由だから」
※
一週間後、千草が退院した。
彼女の霊力が尽きてしまったことは彼女の父親に知らされ、人を轢き殺しそうな勢いで病院にやってきた父親は顔を真っ青にしていた。しかし、すぐに下唇を噛み締めて現実を受け入れると、「よくやった」と言って、彼女を労った。彼女は少しだけむず痒そうな顔をしていた。
「神社のことは気にするな…、好きに生きろ」
父親はそう言うと、車に乗って実家に帰っていった。
病院を出た僕たちは、電車に乗り、歩いて帰宅した。
「ねえ、千草…」
「なに?」
「千草の夢って、何? その…、普通に生きる、以外で」
「そうだなあ…」
千草は青い空を見上げて考え込み、苦笑した。
「わかんないや」
「わからないって…」
「霊力が残っていたら、神社を継いだり…、霊媒師的な仕事もできたんだろうけど…」
「うん、本当にごめん」
「だから、気にしないでよお」
脱線しかけた話をもとに戻し、彼女は続けた。
「まだ、自分が何になりたいのかわからないけど…、まあ、とりあえず好きに生きてみるよ」
「……」
「リッカ君もそうでしょ?」
彼女はいたずらっぽく言うと、僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「リッカ君に、もう『悪霊』は憑いていないの。だから、たくさんの人と触れ合えるよ? 手を繋いだり、一緒にご飯を食べたり…、お酒飲んだり…」
それから…、と言って彼女は僕の胸を小突いた。
「大学生なんだから、女の子と遊んだり、男友達と、警察呼ばれそうになるくらい馬鹿騒ぎだってできる! もう、人生楽しんだもん勝ちでしょ!」
「…、ああ、そうだな」
僕は曖昧に頷いた。
「千草も、そうするの?」
「私はそういうわちゃわちゃした雰囲気はパスパス! 今まで通り、ぼーっと生きていくとするよ。その中で、私が本当にしたいことを見つければいいもんね」
彼女は負け惜しみなのかわからないことを言うと、手のひらをパラパラと振った。
「リッカ君はリッカ君のやりたいようにやりなさいよ。私も私のやりたいようにやるからさ。お互い、人生楽しもうじゃないの」
「……」
歩いていると、分かれ道に差し掛かった。
右に曲がれば千草の住んでいるアパート。
左に曲がれば僕の住んでいるアパート。
千草は迷わず、つま先を右側に向けた。
「リッカ君の悪霊を祓うためとは言え…、迷惑を掛けたね。ずっと家にお邪魔しちゃって」
「迷惑かけている自覚はあったんだな」
「もちろん」
冷たい風が吹き付け、彼女の黒髪を揺らす。
千草は僕に手を振った。
「それじゃあ、また今度」
「うん」
僕は千草に手を振り返す。
千草が僕に背を向け、歩いていく。
その遠ざかっていく背中を見つめながら、僕は下唇を噛み締めた。
千草は霊力を失った。
僕は悪霊を失った。
これで、二人を結びつけるものは何も無い。
何も無いんだ。
僕は新しく人生を始めるだけ。
彼女も、霊力が無くなった日々を過ごしていくだけ。
でも…、それでも…。
ああ、そうだよ。僕は自由が欲しかった。悪霊に患わされない、「普通の日々」が欲しかった。人といっぱい話したかった。ご飯を食べたかった。二十歳になったんだ、お酒だって飲みたい。馬鹿騒ぎして、ご近所に怒られて…、一緒に募る話でもして…、将来を語り合ったり、相談に乗ったり、相談に乗ってもらったり…、僕は「誰か」に、支えてもらいながら、人生を歩んでいきたいんだ。
多分…、そこには、「千草」がいる。
「千草!」
僕は思わず彼女の名前を呼んでいた。
千草がびくっとして振り返る。
そして、遠くから「なあに?」と聞いてきた。
僕は言葉を発しようとしたが、緊張か、それとも冬の乾燥した大気に喉をやられたのか、うまく喋れない。
「あ、あのさあ」
声が上擦った。
何やってんだ。彼女が行ってしまうぞ? 早く、早く言えよ。
これからも、僕と一緒にいてくれ。って。
「と、取り憑かれちゃったんだ…」
「うん?」
僕の素っ頓狂な言葉に、千草は首を傾げた。
「また、何かに、取り憑かれたの?」
「あ、う、うん…」
「ごめん…、私、霊力が無いから、もう役に立てないんだよ」
「あ、ああ、それは…、わかっているんだよ。だから、その…」
顔が熱くなるをの感じた。
不意に、空から雪が降ってきて僕の頬に触れる。それは一瞬にして水に変わり、僕の煮えた頭を冷やした。
僕は唾を飲み込み言った。
「その! 恋の悪霊にさあ! 取り憑かれているんだよ!」
言った後で後悔した。
なんだよ…、「恋の悪霊」って…。臭いこと言いやがって…。気持ち悪い…。
僕は別の意味で赤面すると、深いため息をついてうなだれた。
すると、道の向こうから千草が叫んだ。
「その悪霊って! 私にも祓えるかな?」
「………」
僕は顔を上げる。
千草が持っていた荷物を放り出し、髪の毛も胸も、コートの裾も、激しく揺らしながらこちらに走ってきていた。
返事をする前に、千草が地面を蹴り、僕に飛びつく。
ガチン! と、唇と唇が重なり合っていた。
それはキス、と言うよりも「歯と歯のぶつかり合い」で、触れた傍から痺れるような感覚が脳天を駆け巡った。
冬の大気に晒されていたはずの彼女の身体は熱く、まるで燃えているようだった。そういう僕も、自分の体温が一度上昇するのを感じた。
二つの熱の塊は、お互いを求めるようにして腕を回し抱き合った。そして改めて、キスを交わす。朝霧のように目の前がぼんやりとした。一秒が、まるで一分のように思えた。
「どう?」
千草は唇を離すと、真っ赤な顔で聞いてきた。
「悪霊…、祓えた?」
「ううん」
僕は頬を真っ赤にして首を横に振る。
「全然だめだ…」
「そう…、じゃあ、一緒にいるしかないよね!」
千草が満面の笑みを浮かべる。まるで、嵐の中、不意に差し込む陽光のようだった。そこに、天使でも宿っているかのような神々しさだった。
その日、二人は、僕のアパートに一緒に帰った。そして、気が済むまでイチャイチャした。
僕はもう、誰かを不幸にすることはない。
僕はもう自由だ。
自由な翼を手に入れて何をする?
そうだな…、とりあえず、僕の隣にいてくれる美しい女性を、「幸福」にすることから始めることにした。
完