目を開けた時、辺りはすっかり明るくなっていた。
「………」
 僕は朝露で湿気た地面の上に仰向けで横たわっていて、頭上のある木の枝で、小鳥がぴいぴいと鳴いていた。
 何十年ぶりのような息を吸い込んだ。肺に冷たい空気が流れ込んできて、胸の奥がちくっと痛む。思わず唾を飲み込むと、喉の奥で鉄の味がした。
「う…、くそ…」
 僕は身を捩り、冷たい地面に手をついて立ち上がる。手の甲に、ナイフで何度も切りつけられたような傷があった。失血は止まっているが、動かすと痛い。
 くしゃくしゃになった髪をかき上げて隣を見ると、そこに千草が倒れていた。彼女の着ていたコートはズタズタに裂かれ、そこに黒い血が浸み込んでいる。よく見れば、彼女もまた、「何か」の力によって、、身体を裂かれていた。
「ち、千草…」
 僕は彼女の方に這って行き、頬を撫でた。冷たい。だけど…、ほのかに温もりがある。
「千草…」
 僕は千草のコートをはぐると、薄い胸に耳を押し当てた。大丈夫…、どくんどくんと、脈を打っている。ちゃんと、生きている…。
「よ、かった…」
 そう安堵し、涙を流した時だった。
 現実に引き戻された僕は、勢いよく辺りを見渡した。
 僕と千草を取り囲むようにして、黒くなった護符や、びりびりに裂かれたお守りが、大量に散らばっていた。
 だが、あの「悪霊」の気配は感じない。
 やったのか?
 よくわからなかったが、怪我をした状態でここに留まるのは危険だった。
 僕はボロボロになった身体に鞭を打つと、千草の細い腕をとって背負った。
 脚に痺れるような痛みを感じながら、歯を食いしばって立ち上がる。
「はあ…、はあ…、山を…、山を降りないと…」
 朝露に湿った地面に踏み出すと、血が滲んだ靴が数センチ沈んだ。それでも、必死に歩き始める。
 身体の色々なところが傷ついていた。爪が剥がれているのはもちろん、足や腹、腕の皮膚が容赦なく裂かれていて、動かすたびに、風を浴びるたびに激痛を走らせた。
 僕は痛みに涙目になったが、彼女を背負っているということから、歯を食いしばって耐えた。決して下には降ろさなかった。
 がくがくと、亀のような歩みで山を下る。
「はあ…、はあ…、はあ…」
 千草は目を覚まさない。
 せめて…、山を出るまでは…、彼女が目を覚ますまでは、こうしていよう。彼女の体温を、存在を感じていよう。
 その一心で足を進めた。

 ねえ、千草…、僕は幸せだったんだ。
 君だけが、僕の傍にいてくれた。
 君だけが、僕を理解してくれた。
 ありがとう。の言葉じゃ足りないくらい…、ありがとう。
 
 その時、背後で気配がした。

 ふと足を止め、振り返る。
 
 そこには誰もいない。

 だけど、人と抱き合っている時のような暖かな空気が流れてきて、僕の頭の中に声が響いた。

「がんばれ」

 って。
 聞き覚えのある声だった。父さんと、母さんと、姉さんのものだった。
 それを聞いた僕は、少し涙ぐみ、笑った。
「うん、頑張るよ…」
 僕は千草を背負って歩き始める。

 空も笑っているような気がした。