その瞬間、身体の中から、神経系を根こそぎ奪われたかのように、力が抜ける。いや、「消え失せた」。
僕は「あぐ…」と間抜けな呻き声を上げ、その場に倒れこむ。
「リッカ君…!」
千草が駆け寄ってくる。
「大丈夫…?」
「……あ」
僕は振り向きざまに、拳を振った。
骨と骨がぶつかる、ゴキッ! という生々しい感触が手の中に残る。
そして、見ると、殴り飛ばされた千草が地面を転がっていた。
「え……」
胸から上に、冷や汗をどっとかいた。
拳に、人を殴ったあとのちりちりとした感触が残っている。
自分が彼女を殴ったのだと理解した。
「あ、あ、ああ…」
僕は泣きそうな声を上げながら、地面に手をついて立ち上がった。
そのまま、千鳥足で千草の方に歩いていき、彼女の上に馬乗りになる。
千草はまだ苦痛に顔を歪めていた。
僕はその白い首を、左手で掴んでいた。
「リッカ、くん…」
「ご、ごめん…」
僕は震える声で謝ると、左手に力を込めて彼女の首を締めた。僕の指は、彼女の薄い皮と肉に食い込み、その奥の気管を圧迫する。たちまち、喉の奥からカエルのような声が洩れた。
「ごめん…、千草…、身体が…、勝手に…」
僕の背中に、あの黒い人影が張り付いていた。
人影は、まるで操り人形のように、僕の手足を動かし、目の前の彼女を地獄に引き込もうとする。
尋常ではないくらいの力がでて、みるみる彼女の首が絞まっていく。
「ごめん、千草…、くそ…、くそ、くそが…、手が…、身体が…、勝手に…」
頭に血が回らなくなって、彼女の顔が段ボールのような色になった。
背後にいる黒い影が、ぐるんと僕の方に顔を回してきて、僕を見てけたけたと笑った。どぶ川のような臭いが鼻を突く。
僕が右腕を動かすと、足元の暗闇を弄った。そして、硬いものを掴んで拾い上げる。
それは、短刀の柄だった。切っ先は折れてなくなっているが、根元の部分の刃が残っていて、まだ鋭利に輝ている。
僕はそれを逆手で持つと、千草の鼻先に突きつけた。
千草の顔が引きつる。
「リッカ君…」
「ご、ごめん…」
身体が言うことを利かない。
僕は泣く。
黒い人影が笑う。
僕は人影を罵った。
「てめえ…、千草を殺してみろよ…、ただじゃ置かねえぞ…! 一生恨むからな…、死んでも、ずっと恨むからな…!」
僕の言葉を意に介さず、悪霊はまたけたけたと笑った。
僕は「くそ…、くそ…! くそ、くそが!」と叫びながら、もった短刀を振り上げた。
千草が、「ああ、もう!」とじれったい声を絞り出す。
僕が短刀を振り下ろした。
その瞬間、千草はコートのポケットから、護符を取り出した。
それは、あの旅館で僕が鞄の中から見つけたものだった。
「いい加減に! しなさい!」
それを僕の額に押し当てた。
短刀の刃は軌道が逸れ、彼女の左肩辺りに突き刺さる。
肉が抉れる痛みに、千草は苦痛を感じながら、唱え言葉を発した。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が僕の脳天を掛けめぐる。
悪霊の劈くような悲鳴と共に、僕の身体は吹き飛び、湿気た地面を転がっていた。
「う、うう…」
額に張り付いた護符が、黒い灰となって崩れていく。
身体が自由に動くようになったはいいものの、転がった時に腹を強く打ち付けたせいで、うまく立つことができなかった。それは千草も同じで、彼女は左肩に短刀を突き刺したまま、痛みに悶えていた。
「ど、どうよ…、それは…、私が作った護符なんだから…、効くでしょうが…。いざとなったら…、使うつもりだったの…。量産はできなかったんだけど…」
顔中に脂汗をかいたまま言う。
「千草…」
彼女のもとに這っていこうとすると、目の前に黒い影が立ち塞がる。
影はけたけたと笑いまるでメトロノームのように、頭を左右に振っていた。
また腹の辺りが、観音開きになり、その中に収納されていた者たちの生首が、壊れたおもちゃのように、一斉に声を発した。
「オイデ…」「コッチニオイデ…」「タノシイヨ」「ウレシイヨ」「ミンナデワラオウ…」「オイデ…」「ココハタノシイバショダヨ…」
父さん、母さん、姉さん、カホちゃん、カホちゃんの母親…、中学の友達…、先生、高校の友達、先生、近所のおばさん…、お隣のお姉さん…、西条加奈子…。みんな黒い影の腹の中に詰まり、白目を剥いて笑っている。楽しそうに、幸せそうに…、でも、何処か悲しそうに。
「リッカ君…!」
千草の声が聞こえたかと思うと、小刀が飛んできた。
刃に千草の血がべったりとついた小刀が、黒い影の脇腹を掠めた瞬間、バチンッ! と火花がはじけるような音が響き、人影がよろめいた。
すかさず、千草がお守りやら護符やらを投げつけながら走り、僕の隣に立つ。
「大丈夫? リッカ君?」
「ぼ、僕は大丈夫だけど…」
僕は横目で千草を見た。
「ごめん、千草が…」
彼女の左肩の肉が、見るも無惨に抉られ、そこからびちゃびちゃと血液が滴っていた。
泣きそうな僕に、千草は首を横に振った。
「気にしないで…。それよりも、今はあいつ」
黒い人影が、グネグネと揺れている。まるで酔っぱらっているようだった。
「今わかったわ。あいつ、殺した人間を自分の中に取り込んで、それの力を借りてるみたい」
「力を、、借りてる?」
「うん、リッカ君のお父さんとか…、お母さんとか、学校の友達とかだね…。殺して地獄に送っているものばかり思っていたけど…、そう言うことか…」
彼女の目がすっと細くなる。
瞼の隙間の黒目の中に、白い光が宿ったような気がした。
千草は口角をにいっと上げた。
「じゃあ、そろそろ、決着と行こうか」
「決着…?」
「うん、終わりにしよう」
千草はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。僕も彼女の真似をし、肩の力を抜く。
黒い人影はニタニタと笑い、一層激しく頭を揺らす。相変わらず腹の辺りは観音開きになっていて、そこに詰め込まれた死者の生首が、譫言のように呟やいていた。
「シニタイ」「イキタイ」「カナシイ」「オイデ」「イッショニイコウ」「サヨウナラ」「コッチニオイデ…」「サビシイヨ」
僕は「あぐ…」と間抜けな呻き声を上げ、その場に倒れこむ。
「リッカ君…!」
千草が駆け寄ってくる。
「大丈夫…?」
「……あ」
僕は振り向きざまに、拳を振った。
骨と骨がぶつかる、ゴキッ! という生々しい感触が手の中に残る。
そして、見ると、殴り飛ばされた千草が地面を転がっていた。
「え……」
胸から上に、冷や汗をどっとかいた。
拳に、人を殴ったあとのちりちりとした感触が残っている。
自分が彼女を殴ったのだと理解した。
「あ、あ、ああ…」
僕は泣きそうな声を上げながら、地面に手をついて立ち上がった。
そのまま、千鳥足で千草の方に歩いていき、彼女の上に馬乗りになる。
千草はまだ苦痛に顔を歪めていた。
僕はその白い首を、左手で掴んでいた。
「リッカ、くん…」
「ご、ごめん…」
僕は震える声で謝ると、左手に力を込めて彼女の首を締めた。僕の指は、彼女の薄い皮と肉に食い込み、その奥の気管を圧迫する。たちまち、喉の奥からカエルのような声が洩れた。
「ごめん…、千草…、身体が…、勝手に…」
僕の背中に、あの黒い人影が張り付いていた。
人影は、まるで操り人形のように、僕の手足を動かし、目の前の彼女を地獄に引き込もうとする。
尋常ではないくらいの力がでて、みるみる彼女の首が絞まっていく。
「ごめん、千草…、くそ…、くそ、くそが…、手が…、身体が…、勝手に…」
頭に血が回らなくなって、彼女の顔が段ボールのような色になった。
背後にいる黒い影が、ぐるんと僕の方に顔を回してきて、僕を見てけたけたと笑った。どぶ川のような臭いが鼻を突く。
僕が右腕を動かすと、足元の暗闇を弄った。そして、硬いものを掴んで拾い上げる。
それは、短刀の柄だった。切っ先は折れてなくなっているが、根元の部分の刃が残っていて、まだ鋭利に輝ている。
僕はそれを逆手で持つと、千草の鼻先に突きつけた。
千草の顔が引きつる。
「リッカ君…」
「ご、ごめん…」
身体が言うことを利かない。
僕は泣く。
黒い人影が笑う。
僕は人影を罵った。
「てめえ…、千草を殺してみろよ…、ただじゃ置かねえぞ…! 一生恨むからな…、死んでも、ずっと恨むからな…!」
僕の言葉を意に介さず、悪霊はまたけたけたと笑った。
僕は「くそ…、くそ…! くそ、くそが!」と叫びながら、もった短刀を振り上げた。
千草が、「ああ、もう!」とじれったい声を絞り出す。
僕が短刀を振り下ろした。
その瞬間、千草はコートのポケットから、護符を取り出した。
それは、あの旅館で僕が鞄の中から見つけたものだった。
「いい加減に! しなさい!」
それを僕の額に押し当てた。
短刀の刃は軌道が逸れ、彼女の左肩辺りに突き刺さる。
肉が抉れる痛みに、千草は苦痛を感じながら、唱え言葉を発した。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が僕の脳天を掛けめぐる。
悪霊の劈くような悲鳴と共に、僕の身体は吹き飛び、湿気た地面を転がっていた。
「う、うう…」
額に張り付いた護符が、黒い灰となって崩れていく。
身体が自由に動くようになったはいいものの、転がった時に腹を強く打ち付けたせいで、うまく立つことができなかった。それは千草も同じで、彼女は左肩に短刀を突き刺したまま、痛みに悶えていた。
「ど、どうよ…、それは…、私が作った護符なんだから…、効くでしょうが…。いざとなったら…、使うつもりだったの…。量産はできなかったんだけど…」
顔中に脂汗をかいたまま言う。
「千草…」
彼女のもとに這っていこうとすると、目の前に黒い影が立ち塞がる。
影はけたけたと笑いまるでメトロノームのように、頭を左右に振っていた。
また腹の辺りが、観音開きになり、その中に収納されていた者たちの生首が、壊れたおもちゃのように、一斉に声を発した。
「オイデ…」「コッチニオイデ…」「タノシイヨ」「ウレシイヨ」「ミンナデワラオウ…」「オイデ…」「ココハタノシイバショダヨ…」
父さん、母さん、姉さん、カホちゃん、カホちゃんの母親…、中学の友達…、先生、高校の友達、先生、近所のおばさん…、お隣のお姉さん…、西条加奈子…。みんな黒い影の腹の中に詰まり、白目を剥いて笑っている。楽しそうに、幸せそうに…、でも、何処か悲しそうに。
「リッカ君…!」
千草の声が聞こえたかと思うと、小刀が飛んできた。
刃に千草の血がべったりとついた小刀が、黒い影の脇腹を掠めた瞬間、バチンッ! と火花がはじけるような音が響き、人影がよろめいた。
すかさず、千草がお守りやら護符やらを投げつけながら走り、僕の隣に立つ。
「大丈夫? リッカ君?」
「ぼ、僕は大丈夫だけど…」
僕は横目で千草を見た。
「ごめん、千草が…」
彼女の左肩の肉が、見るも無惨に抉られ、そこからびちゃびちゃと血液が滴っていた。
泣きそうな僕に、千草は首を横に振った。
「気にしないで…。それよりも、今はあいつ」
黒い人影が、グネグネと揺れている。まるで酔っぱらっているようだった。
「今わかったわ。あいつ、殺した人間を自分の中に取り込んで、それの力を借りてるみたい」
「力を、、借りてる?」
「うん、リッカ君のお父さんとか…、お母さんとか、学校の友達とかだね…。殺して地獄に送っているものばかり思っていたけど…、そう言うことか…」
彼女の目がすっと細くなる。
瞼の隙間の黒目の中に、白い光が宿ったような気がした。
千草は口角をにいっと上げた。
「じゃあ、そろそろ、決着と行こうか」
「決着…?」
「うん、終わりにしよう」
千草はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。僕も彼女の真似をし、肩の力を抜く。
黒い人影はニタニタと笑い、一層激しく頭を揺らす。相変わらず腹の辺りは観音開きになっていて、そこに詰め込まれた死者の生首が、譫言のように呟やいていた。
「シニタイ」「イキタイ」「カナシイ」「オイデ」「イッショニイコウ」「サヨウナラ」「コッチニオイデ…」「サビシイヨ」