その時、辺りの気温が三度上がった。
目の前で、黒い人影がゆらゆらと揺れている。
「千草…、ごめん」
僕は爪を剥がされた手のひらを見つめながら謝った。
「何も、できなかったんだ」
「当たり前でしょ」
千草が鼻で笑う。
「素人が印を結んで、唱え言葉を詠唱したところで、大した効果は無いの」
それから、千草は黒い影に言った。
「感謝するよ。リッカ君の自害を止めてくれて。おかげで、彼が死ぬ前に間に合ったよ。だけど…、彼の爪を剥がしたこと、脇腹を抉ったことは頂けないね」
「なんで、僕が自害するって……?」
「お父さんが教えてくれたんだよ。『リッカ君は自害するつもり』だって」
千草の、父親が?
にわかには信じられない話だった。だってあの人は、千草と僕が関わるのを酷く怯え、嫌っていたんだ。それなのに、僕のことを千草に伝えたのか? どうしてそんな、娘に行動を促すような真似を…。
僕がぽかんとしていると、千草がははっと苦笑した。
「すごく嫌そうな顔をしてた。でもね…、私の想いを尊重してくれたんだろうね。声には出さなかったけど…」
彼女が、コートのポケットに手を入れると、何十枚ものお札を取り出す。
「だから、私は自分のやりたいように動く。リッカ君を、助けるんだ!」
「千草…、ダメだよ…」
悪霊に立ち向かう意思を見せた千草を、僕は泣きそうな声で止めた。
「無理だ…、ただじゃ済まない」
「そうだね…、ちょっとしんどいかも」
千草は苦笑した。
僕の頬を優しくなでる。
「だけど、リッカ君が傍にいてくれたら、頑張れるかもしれない」
「……」
「大丈夫。悪いようにはならない」
千草は悪霊の方を向いた。
「『リッカ君を助ける』ことが、この霊力を持って生まれた私の…、『使命』なんだ!」
次の瞬間、黒い人影が、ぶるっと身震いした。
すると、影の体表から鉄粉のような黒い粉が吹き出し、千草目掛けて降りかかる。
それを見た僕は、直感で「呪いだ!」と思った。
あの黒い粉のようなものが、今まで僕と関わってきた人間に降りかかり、そして、地獄の底へと叩き落したのだ。
千草が唱え言葉を詠唱し、護符を粉に向かって翳す。
バチンッ! と、黒い閃光が弾けたかと思うと、彼女の手の中にあった十数枚の護符が燃え上がり、一瞬にして黒い灰となって砕けた。
「くっそ!」
千草の身体がのけ反る。
彼女はコートの裾を翻して立て直すと、さらにもう十枚の護符を取り出し、悪霊に翳した。
「いい加減! 祓われろっ!」
悪霊は一瞬怯んだような素振りを見せたが、すぐにまた身震いをして、「呪い」を四方八方に飛散させた。
千草がまた護符を片手に、詠唱する。
黒い閃光が空間に走り、護符が燃え上がる。
千草がよろめく。
千草が踏みとどまる。
また護符を取り出し、悪霊に翳す。
悪霊が呪いを吐き散らかす。
千草の護符が燃え上がる。
それの繰り返しだった。
「千草…」
「いい加減! 地獄に帰りなさいよ!」
千草は金切り声を上げてそう言った。
風に流された灰が、木の幹にもたれかかっている僕の方に飛んできた。
「千草…」
千草は次々と護符を取り出し、悪霊が吹き出す呪いに翳していた。その度に、護符は灰に代わり、雪のように流れていく。
僕の目から見ても防戦一方だった。千草は降りかかる呪いを防いでいるだけだ。本体への効果は皆無だ。
いつまで護符で凌げる?
護符が無くなったら、彼女はどうやってコイツと戦う?
「リッカ君!」
千草が僕の名前を呼んだ。
「協力して!」
「千草…!」
その瞬間、僕は蹴り飛ばされたように動いていた。
痺れた脚に力を込め、土を蹴り飛ばし、千草の足元に置いてあったナップサックを掴む。爪を剥がされた指で四苦八苦しながら中を開け、そこに詰まっていたお守りを、ごそっと取り出し、千草の手に握らせた。
「千草! 頼む!」
「ありがとう!」
千草は護符からお守りに持ち代えると、詠唱を続ける。
だが、バツンッ! と、電気がショートするような音と共に、彼女の手に握られていたお守りが破裂した。
千草は舌打ち混じりに後ずさる。
「くっそ! リッカ君! もっと!」
「うん!」
僕は千草の手にお守りを握らせる。
千草がお守りを翳す。今度は、彼女が唱え言葉を詠唱するよりも先に、お守りが爆発した。
「きゃあっ!」
千草が顔を伏せて怯む。
鼻を突くようなアンモニア臭が辺りに漂い、それを吸いこんだ僕の視界がぐにゃっと歪む。
ダメだ…、気を確かに持て!
歯を食いしばって顔を上げた瞬間、悪霊が黒い腕を千草に伸ばし、彼女の華奢な肩を掴んでいるのが見えた。
「てめえ!」
僕は地面に落ちたお守りを一つ拾い上げると、大きく振りかぶってそれを悪霊に向かって投げつける。
千草ほどでは無かったが、空気中に白い光が走り、悪霊が怯んだ。
「千草に触わんじゃねえよ!」
逆向した僕は、ナップサックからさらに三つのお守りを取り出し、悪霊に投げつけた。
その瞬間、悪霊が目の前から姿を消す。
「え……」
祓った…? なわけないか。
僕が口を開けて固まった瞬間、千草が叫んだ。
「後ろ!」
振り返る。
そこには、黒い人影が立っていた。
飛び退こうとしたが、黒い人影から、影の触手のようなものが伸びてきて、僕の肩や腕、腹に張り付いた。ナイフで刺されたかのような鋭い痛みが走る。
そして、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
「一緒ニ、イコウヨ」
目の前で、黒い人影がゆらゆらと揺れている。
「千草…、ごめん」
僕は爪を剥がされた手のひらを見つめながら謝った。
「何も、できなかったんだ」
「当たり前でしょ」
千草が鼻で笑う。
「素人が印を結んで、唱え言葉を詠唱したところで、大した効果は無いの」
それから、千草は黒い影に言った。
「感謝するよ。リッカ君の自害を止めてくれて。おかげで、彼が死ぬ前に間に合ったよ。だけど…、彼の爪を剥がしたこと、脇腹を抉ったことは頂けないね」
「なんで、僕が自害するって……?」
「お父さんが教えてくれたんだよ。『リッカ君は自害するつもり』だって」
千草の、父親が?
にわかには信じられない話だった。だってあの人は、千草と僕が関わるのを酷く怯え、嫌っていたんだ。それなのに、僕のことを千草に伝えたのか? どうしてそんな、娘に行動を促すような真似を…。
僕がぽかんとしていると、千草がははっと苦笑した。
「すごく嫌そうな顔をしてた。でもね…、私の想いを尊重してくれたんだろうね。声には出さなかったけど…」
彼女が、コートのポケットに手を入れると、何十枚ものお札を取り出す。
「だから、私は自分のやりたいように動く。リッカ君を、助けるんだ!」
「千草…、ダメだよ…」
悪霊に立ち向かう意思を見せた千草を、僕は泣きそうな声で止めた。
「無理だ…、ただじゃ済まない」
「そうだね…、ちょっとしんどいかも」
千草は苦笑した。
僕の頬を優しくなでる。
「だけど、リッカ君が傍にいてくれたら、頑張れるかもしれない」
「……」
「大丈夫。悪いようにはならない」
千草は悪霊の方を向いた。
「『リッカ君を助ける』ことが、この霊力を持って生まれた私の…、『使命』なんだ!」
次の瞬間、黒い人影が、ぶるっと身震いした。
すると、影の体表から鉄粉のような黒い粉が吹き出し、千草目掛けて降りかかる。
それを見た僕は、直感で「呪いだ!」と思った。
あの黒い粉のようなものが、今まで僕と関わってきた人間に降りかかり、そして、地獄の底へと叩き落したのだ。
千草が唱え言葉を詠唱し、護符を粉に向かって翳す。
バチンッ! と、黒い閃光が弾けたかと思うと、彼女の手の中にあった十数枚の護符が燃え上がり、一瞬にして黒い灰となって砕けた。
「くっそ!」
千草の身体がのけ反る。
彼女はコートの裾を翻して立て直すと、さらにもう十枚の護符を取り出し、悪霊に翳した。
「いい加減! 祓われろっ!」
悪霊は一瞬怯んだような素振りを見せたが、すぐにまた身震いをして、「呪い」を四方八方に飛散させた。
千草がまた護符を片手に、詠唱する。
黒い閃光が空間に走り、護符が燃え上がる。
千草がよろめく。
千草が踏みとどまる。
また護符を取り出し、悪霊に翳す。
悪霊が呪いを吐き散らかす。
千草の護符が燃え上がる。
それの繰り返しだった。
「千草…」
「いい加減! 地獄に帰りなさいよ!」
千草は金切り声を上げてそう言った。
風に流された灰が、木の幹にもたれかかっている僕の方に飛んできた。
「千草…」
千草は次々と護符を取り出し、悪霊が吹き出す呪いに翳していた。その度に、護符は灰に代わり、雪のように流れていく。
僕の目から見ても防戦一方だった。千草は降りかかる呪いを防いでいるだけだ。本体への効果は皆無だ。
いつまで護符で凌げる?
護符が無くなったら、彼女はどうやってコイツと戦う?
「リッカ君!」
千草が僕の名前を呼んだ。
「協力して!」
「千草…!」
その瞬間、僕は蹴り飛ばされたように動いていた。
痺れた脚に力を込め、土を蹴り飛ばし、千草の足元に置いてあったナップサックを掴む。爪を剥がされた指で四苦八苦しながら中を開け、そこに詰まっていたお守りを、ごそっと取り出し、千草の手に握らせた。
「千草! 頼む!」
「ありがとう!」
千草は護符からお守りに持ち代えると、詠唱を続ける。
だが、バツンッ! と、電気がショートするような音と共に、彼女の手に握られていたお守りが破裂した。
千草は舌打ち混じりに後ずさる。
「くっそ! リッカ君! もっと!」
「うん!」
僕は千草の手にお守りを握らせる。
千草がお守りを翳す。今度は、彼女が唱え言葉を詠唱するよりも先に、お守りが爆発した。
「きゃあっ!」
千草が顔を伏せて怯む。
鼻を突くようなアンモニア臭が辺りに漂い、それを吸いこんだ僕の視界がぐにゃっと歪む。
ダメだ…、気を確かに持て!
歯を食いしばって顔を上げた瞬間、悪霊が黒い腕を千草に伸ばし、彼女の華奢な肩を掴んでいるのが見えた。
「てめえ!」
僕は地面に落ちたお守りを一つ拾い上げると、大きく振りかぶってそれを悪霊に向かって投げつける。
千草ほどでは無かったが、空気中に白い光が走り、悪霊が怯んだ。
「千草に触わんじゃねえよ!」
逆向した僕は、ナップサックからさらに三つのお守りを取り出し、悪霊に投げつけた。
その瞬間、悪霊が目の前から姿を消す。
「え……」
祓った…? なわけないか。
僕が口を開けて固まった瞬間、千草が叫んだ。
「後ろ!」
振り返る。
そこには、黒い人影が立っていた。
飛び退こうとしたが、黒い人影から、影の触手のようなものが伸びてきて、僕の肩や腕、腹に張り付いた。ナイフで刺されたかのような鋭い痛みが走る。
そして、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
「一緒ニ、イコウヨ」