黒よりも「黒い」姿をし、水の中に墨汁を垂らしたかのようにゆらゆらと揺らめく影。その姿を視界の隅に映しただけで、五感の全てを狂わせられるような恐怖を植え付けてきて、これは「死神」とか、「悪霊」なんて生易しいものではない。まさに、「災厄」のようなものだった。
「あ…、あ、ああ…」
口に噛んでいた麻布が零れ落ちる。
歯がカチカチと鳴る。
黒い影が僕を見つめる。眼球なんて無いのに、「見つめられている」感覚がしたのだ。
僕は口を必死に動かした。
「ざ、残念、だったな…」
「………」
「お、お前の…、好きには、させない…、よ…」
言葉をうまく発することができない。
それでも、不格好に強がった。
「ぼ、僕の、勝ち、だ…」
僕の身体は、霊力が宿った水に満たされている。それだけじゃない。この刀は、黒縄神社のクロナワさんの念がこもった、いわば「退魔の刀」。そして、腹の中には強力なお守りが入っている。
「お、お前は…、僕に、ふ、ふれ、触れられれない…」
僕が死んだとしても…、コイツは僕に触れられない。
僕を地獄に落とすことは、できない。
「ざ、ざまあ、みろ…」
僕はそう絞り出した。
そして、声にならない悲鳴を上げ、持っていた小刀を一思いに心臓に突き刺そうとした。
次の瞬間、パキンッ! という乾いた音が辺りに響き渡っていた。
小刀の刃が割れた音だった。
勢いよく弾けた破片が、回転しながら打ちあがり、僕の右目を掠める。瞼が裂け、血の雫がぱたぱたっと空中を舞った。
「え…」
遅れて間抜けな声が出た瞬間、腹に異変が起こった。
胃の底から、熱いものが込み上げてくる。
僕はたまらず、大口を開けてそれを吐いた。
「ぶはっ!」
黒い血液と混じって、さっき飲み込んだ神社のお守りが、その場に吐き出された。
「て、てめえ…」
口から粘っこい血液を流しながら、目の前の黒い影を睨みつける。
心なしか、黒い影が何かを発した気がした。
その瞬間、僕は強い力に押し上げられ、強烈な水飛沫を上げて、浸かっていた池から飛び出していた。
空中を二、三回転したのち、硬い岩の上に背中から叩きつけられる。ゴリッ! という感触がしたと思うと、脇腹の辺りから熱いものが溢れる感覚がした。
「く、うう…」
反射的に、脇腹に手をやる。岩の尖った部分が、脇腹の肉を抉ったのだろう、手のひらが真っ赤に染まっていた。感覚が麻痺しているせいで痛みが無い。
「くそ…、くそっ! くそが! くそがあ…」
僕は、ゴボゴボッ! と吐血しながらそう叫んだ。
小刀の刃が折られた。飲み込んだお守りを吐き出さされた。池から引っこ抜かれ、致命傷となる傷を負った。
「くそがあ…」
僕は脇腹から溢れる血を抑えながら天を仰いだ。
「何にも…、できないのかよお…」
端からコイツを倒そうとなんて思っていなかった。飛び立つ蝉の小便のように、嫌がらせがしたかっただけだ。コイツに人生を狂わされ、大好きな人たちを奪われ続けた僕の、せめてもの「抵抗」のつもりだったのだ。
「ちくしょう…、畜生…」
黒い影はじっと僕を見下ろしている。
両手足の筋肉に電撃のようなものが走り、動けなくなった。まるで、貼り付けにされた昆虫の標本のような気分だ。
「くそ…」
僕は眼球だけを動かして、黒い影を睨んだ。
影は何もしてこない。きっと、勝ちを確信しているのだ。「お前のことはいつでも地獄に連れていける」って、余裕を抱ているのだ。
僕は負けを確信していた。もう、半分諦めていた。
その時、悪霊の様子に異変が起こった。
僕の目の前に浮いていた黒い影の色が一層濃くなり、そして、中心部に白い線が走り、そこから観音開きになる。
黒い影の中にあったものを見て、僕は全身の血が凍り付くのを感じた。
「てめえ…返せよ…」
「……」
悪霊は何も言わない。
僕はもう一度言った。
「返せよ…、お前が連れていったやつら全員…、返せよ…!」
黒い影の中にあったもの、それは、大量の人間の首だった。
見知った首だ。父さん、母さん、姉貴、カホちゃん、カホちゃんの母親、学校の先生、お隣さん…、西条加奈子…。他にも、見知った顔があった。
僕と関わったばかりに命を奪われた者たちが、悪霊の腹の中に押し込められ、ひしめき合っていたのだ。もちろん、実体ではない。彼らは半透明で、眼球の白目の部分が血のような色で染まっていた。口をぱかっと開けて、喉の奥から言葉にならない呻き声をあげている。
「くそ…」
僕はうなだれた。
こんなこと、こんなことがあるかよ。
黒い影は少しずつ身体の形を変え、人の形になった。相変わらず腹は観音開きになっていて、そこから生首たちが僕に話しかけてくる。「アア…、ア、アア…」「アウウ…、アウウゥ」と、なんて言っているのかはわからない。
人の形になった悪霊は、黒い腕を僕に向かって伸ばしてきた。
動けない僕の胸に手が触れる。
悪霊の手は僕の肉と胸骨をすり抜け、心臓…、いや、僕の「魂」に触れた。
途端に全身に痺れるような痛みが駆け巡り、僕は断末魔のような悲鳴を上げた。
「ああああああッ! アアアッ! アアアアアッ! アアあああッ!」
悪霊が僕の魂を掴む。離れないように指を食い込ませ、強く圧迫した。
バツンッ! バツンッ! と、まるで蛍光灯のように、光ったり暗転したりを繰り返す。激痛が波のようにやってきて、僕の思考を鈍らせた。
悪霊の腹の中にいる生首たちが、一斉に笑い出した。
きゃはははははっ! いひひひひひひひっ! と、辺りに響き渡る。その甲高い声すら、ナイフのような鋭さを持って全身に突き刺さった。
「あ、ああ…、あ、アアああ…」
僕は何もすることができず、ただただ、悪霊に魂を握られ、生首たちの狂騒を聞くだけだった。
もう駄目だ…。
そう思った瞬間、頭の中に走馬灯が浮かんだ。
※
「お前は悪くないよ」
いつの日か、父さんと母さんが僕に言ってくれた言葉だった。
「お前は悪くない。ただ…、運が悪かっただけなんだ」
母さんが僕の震える身体を抱きしめた。そして、肩の辺りに顔を埋め、泣いていた。
「ごめんなさい…、ごめんなさい…」
ただひたすらに謝っていた。
次の日、父さんと母さんは、荷物を持って家を出ていった。その一週間後、九州のとある崖で、車ごと転落して死んでいるのを発見された。
「あんたは悪くないよ」
いつの日か、姉が僕に言った言葉だった。
「あんたは悪くない。私は、アンタを恨んでいない。だけどね…、やっぱり、『命』は惜しいと思うんだ。だから、私はあんたを辛い目に遭わせるよ」
家を出ていこうとする姉を、僕は必死で引き留めた。
姉は悲しそうな顔をして、でも、笑っていた。
「生きろ」
それが、姉が最期に言った言葉だった。
それから一週間後、姉は瀬戸内海の上で、真っ裸で浮かんでいるのを発見された。
高校二年生にして、僕は天蓋孤独となった。
「幸福と不幸はプラスマイナスゼロ」という言葉がある。それをいう奴は大抵…自分がどれだけ幸福な身にあるかを知らない。
「生きているだけで幸せ」という言葉がある。そういう奴は大抵…自分が「生」以外の何かを恵んでもらっていることを知らない。
二十年間、人を「不幸」にしてきた僕だからわかるのだ。
この世界には、「幸福」と「不幸」が存在する。それは、「幸福と不幸はプラマイゼロ」なんて言葉がただの妄言に聞こえる程、非情にも偏り、そして差別的に僕たちに分配される。
幸せには偏りがある。もちろん、不幸にも。
僕は「不幸」を得た人間…、いや、不幸の「寵愛」を受けた人間なのだ。
幸福なことがあれば不幸なことがあるのではない。誰かが幸福になるから、誰かが不幸になるのだ。幸福量保存の法則は、「垂直的」ではなく「平行的」に作用するのだと。
これは直感だった。
これは「詰み」だった。
幸福を分配された人間は、幸福に人生を楽しめばいい。
不幸を得た人間は、「幸福」を際立たせるために、不幸のまま生きていけばいい。
それが世界の仕組みだ。「運命」の仕組みだ。
僕は「不幸」に選ばれてしまった。
このまま、不幸に生きていけ。
それができないなら、不幸のまま死んでいけ。
その時だった。
何もかも諦めて、抵抗することを辞め、悪霊に命を捕られるだけだった僕の視界に、砂漠のオアシスのように、あるものが浮かんだ。
千草の姿だった。
千草が、笑っていた。
千草が言っていたんだ。
「私は、リッカ君と一緒にいられて、楽しいよ。幸せだよ」
あ…。って思う。
その瞬間、僕は動いていた。
「あああああああっ!」
走馬灯の中で千草の姿を見た瞬間、僕は発狂した。
指で印を結ぶと、彼女が教えてくれた唱え言葉を吐き散らしながら、自分の胸を衝く。
ドンッ! と、電気ショックを浴びたような衝撃が全身を駆け巡り、身体が陸に上がった魚のように飛び跳ねる。
喉の奥に込み上げた鉄の味を飲み込み、さらに叫ぶ。
叫ぶことで、脇腹の痛みをかき消すと、地面に手をつき、冷たい地面を転がりながら立ち上がった。
立ち上がった瞬間、立ち眩みで膝をつく。それでも、口から血を吐きながら、目の前にいる黒い影を睨んだ。
「簡単に…、地獄に連れていかれてたまるかよ…!」
「………」
黒い影は何も言わない。
「千草が…、千草が言ったんだ…、僕と一緒にいることが楽しいって…、幸せだって…!」
血を飲み込み、言葉を紡ぐ。
「僕が死んだら…、千草が…、幸せじゃなくなるんだ…」
僕が死ねば、彼女は悲しむだろう。泣くだろう。あいつはそう言う女性だ。
だけど、僕が千草と一緒にいれば、彼女はこの悪霊の邪気にあてられて、不幸になってしまう。
「詰みだよ…、これは、詰みなんだ…」
僕はそう言いながら、指で印を結んだ。彼女が教えてくれたものだ。「いざと言うときに使ってね、きっと、役に立つはずだから」と言ってくれた。
「僕が死んでも、彼女は不幸になる。僕が生きていても、彼女は不幸になる…」
彼女は不幸になる「運命」なんだ。
「だけど…、それじゃダメなんだとおもう…!」
血なのか涙なのかわからない、生温かい液体が頬を滑る。
「僕は間違いなく…、あの人に幸福にしてもらった…、人と関わることの大切さを、教えてもらった…! 僕は、あの人がくれた優しさに見合った行動をとらないとダメなんだ!」
あれだけ一緒にいておいて、いざ彼女が不幸になりそうだから、「自害」を選ぶ?
違う。
自害は…、正しい選択じゃない。
あの人の傍にいることが、「正解」の運命なんだ。
「だから…、僕は…、お前を祓わないとダメなんだ…!」
一通りの印を結び終えた僕は、右手の指を口に持っていった。
ふっと、魂の気配が混じった息を吹きかけ、千草に教えてもらった通りの唱え言葉を発する。
「キリ…!」
次の瞬間、喉に熱いものが走った。
溜まらず天を仰いで咳き込むと、大量の赤黒い血が吹き出し地面に滴った。
構わず、唱え言葉の詠唱を続けようとしたが、痰のようなどろっとしたものが舌の付け根に絡まり、言葉を出すことができない。
「ぐ…」
印を結んでいた指先に激痛が走り、爪がべりべりと剥がれる。その痛みに発狂し、さらに血を噴出した。
白目を剥いて失神しようとした瞬間、突風に吹かれたような衝撃が全身を襲い、背後の木の幹に叩きつけられた。
「ぐ…、そ…」
指の爪が全て剥がれ落ち、ボロボロと地面に落ちる。喉に絡んだ痰のようなものが固まり、息ができない。
酸欠はすぐにやってきて、視界の中で白い火花が散った。
「………」
黒い人影が、ゆっくり、ゆっくりと僕に近づいてくる。亀よりものろい足取りだった。ぼくなんか、「いつでも殺せる」と言っているようだった。
まあ、事実か。
僕身体が動かない。指の爪が剥がれて痛いし…、息はできないし…。脇腹からはずっと血が出てるし…、腕も…、骨が折れているんじゃないか?
唯一動く右手を口の中に突っ込み、えづきながら、喉に絡んだものを掻きだした。
それは、血の塊に塗れた黒い髪の毛だった。女のように長いものから、男のように短いものまである。それだけじゃない、誰のものかわからない護符やらお守りやらも、次々と引っ張り出された。
黒くなったそれを、べちゃっと地面に落とす。
「いや…、すごいな…」
次に印を結ぼうとしたら、どうなるのだろう? 爪だけじゃなくて、指も吹き飛ぶのかな? 今度は、喉にこれらが詰まるだけじゃない。きっと、肺の一つや二つが破裂するに違いなかった。まあ、肺は二つしかないんだけど。
「く…、そ…、があ…」
最期の抵抗と言わんばかりに、霊水が浸み込んだ土を引っ掴み、黒い人影に投げたが、空気中に静電気のような青白い光が走るだけだった。
「抵抗は…、したからな…、抵抗は…、千草の、優しさに応えるために…、彼女を幸せにするために…、立ち向かったからな…、勝てなかったけど…」
僕はくどくそう言った。
黒い人影を睨み、肩の力を抜く。
さあ、さっさとやれよ。
そう言おうとした瞬間、僕の隣に、誰かが立った。
ふわっと鼻を掠める、甘い香り。
顔を動かす気力も無い僕の頭を、柔らかな手が撫でた。
「ありがとね、すっごく嬉しい」
「………」
そこには、千草の声がした。
「………なん、で?」
僕は地面を見つめたまま、隣の彼女に聞いた。
「なんで…、ここがわかったんだ?」
どうして来たんだ! 君が危ないんだぞ! という怒りは一瞬で消え失せた。代わりに、喜びが、ボロボロになった胸に湧いて出た。まるで、陽だまりの中に寝転んでいるような、安らかな感覚だった。
「リッカ君のいる場所なんて、世界中どこにいてもわかるから」
千草はそう言って笑い、僕の肩に手を触れる。
「ごめん、嘘。普通に、山の中からヤバい邪気が見えたから、『多分ここにいるんだろうなあ』って思って来ただけ」
「……」
うん、まあ、いいや。
千草が肩をぽんぽんっと叩いた瞬間、重かった身体が少しだけ軽くなった。
「少し金縛りにあってたみたいだね、解除したから、マシになったと思う」
「…ほんとだ」
首を動かし、やっと千草の方を見る。月明かりに照らされた彼女は、神様…には見えなかった。走って山を駆け上ったのか、顔は汗まみれ、泥まみれ。頭からは湯気が湧き出ている。にこっと笑っているが、目の下には黒い隈が浮き、呼吸するたびに、肩が上下に揺れていた。
やはり、彼女は本調子ではない。
「千草…」
その時、辺りの気温が三度上がった。
目の前で、黒い人影がゆらゆらと揺れている。
「千草…、ごめん」
僕は爪を剥がされた手のひらを見つめながら謝った。
「何も、できなかったんだ」
「当たり前でしょ」
千草が鼻で笑う。
「素人が印を結んで、唱え言葉を詠唱したところで、大した効果は無いの」
それから、千草は黒い影に言った。
「感謝するよ。リッカ君の自害を止めてくれて。おかげで、彼が死ぬ前に間に合ったよ。だけど…、彼の爪を剥がしたこと、脇腹を抉ったことは頂けないね」
「なんで、僕が自害するって……?」
「お父さんが教えてくれたんだよ。『リッカ君は自害するつもり』だって」
千草の、父親が?
にわかには信じられない話だった。だってあの人は、千草と僕が関わるのを酷く怯え、嫌っていたんだ。それなのに、僕のことを千草に伝えたのか? どうしてそんな、娘に行動を促すような真似を…。
僕がぽかんとしていると、千草がははっと苦笑した。
「すごく嫌そうな顔をしてた。でもね…、私の想いを尊重してくれたんだろうね。声には出さなかったけど…」
彼女が、コートのポケットに手を入れると、何十枚ものお札を取り出す。
「だから、私は自分のやりたいように動く。リッカ君を、助けるんだ!」
「千草…、ダメだよ…」
悪霊に立ち向かう意思を見せた千草を、僕は泣きそうな声で止めた。
「無理だ…、ただじゃ済まない」
「そうだね…、ちょっとしんどいかも」
千草は苦笑した。
僕の頬を優しくなでる。
「だけど、リッカ君が傍にいてくれたら、頑張れるかもしれない」
「……」
「大丈夫。悪いようにはならない」
千草は悪霊の方を向いた。
「『リッカ君を助ける』ことが、この霊力を持って生まれた私の…、『使命』なんだ!」
次の瞬間、黒い人影が、ぶるっと身震いした。
すると、影の体表から鉄粉のような黒い粉が吹き出し、千草目掛けて降りかかる。
それを見た僕は、直感で「呪いだ!」と思った。
あの黒い粉のようなものが、今まで僕と関わってきた人間に降りかかり、そして、地獄の底へと叩き落したのだ。
千草が唱え言葉を詠唱し、護符を粉に向かって翳す。
バチンッ! と、黒い閃光が弾けたかと思うと、彼女の手の中にあった十数枚の護符が燃え上がり、一瞬にして黒い灰となって砕けた。
「くっそ!」
千草の身体がのけ反る。
彼女はコートの裾を翻して立て直すと、さらにもう十枚の護符を取り出し、悪霊に翳した。
「いい加減! 祓われろっ!」
悪霊は一瞬怯んだような素振りを見せたが、すぐにまた身震いをして、「呪い」を四方八方に飛散させた。
千草がまた護符を片手に、詠唱する。
黒い閃光が空間に走り、護符が燃え上がる。
千草がよろめく。
千草が踏みとどまる。
また護符を取り出し、悪霊に翳す。
悪霊が呪いを吐き散らかす。
千草の護符が燃え上がる。
それの繰り返しだった。
「千草…」
「いい加減! 地獄に帰りなさいよ!」
千草は金切り声を上げてそう言った。
風に流された灰が、木の幹にもたれかかっている僕の方に飛んできた。
「千草…」
千草は次々と護符を取り出し、悪霊が吹き出す呪いに翳していた。その度に、護符は灰に代わり、雪のように流れていく。
僕の目から見ても防戦一方だった。千草は降りかかる呪いを防いでいるだけだ。本体への効果は皆無だ。
いつまで護符で凌げる?
護符が無くなったら、彼女はどうやってコイツと戦う?
「リッカ君!」
千草が僕の名前を呼んだ。
「協力して!」
「千草…!」
その瞬間、僕は蹴り飛ばされたように動いていた。
痺れた脚に力を込め、土を蹴り飛ばし、千草の足元に置いてあったナップサックを掴む。爪を剥がされた指で四苦八苦しながら中を開け、そこに詰まっていたお守りを、ごそっと取り出し、千草の手に握らせた。
「千草! 頼む!」
「ありがとう!」
千草は護符からお守りに持ち代えると、詠唱を続ける。
だが、バツンッ! と、電気がショートするような音と共に、彼女の手に握られていたお守りが破裂した。
千草は舌打ち混じりに後ずさる。
「くっそ! リッカ君! もっと!」
「うん!」
僕は千草の手にお守りを握らせる。
千草がお守りを翳す。今度は、彼女が唱え言葉を詠唱するよりも先に、お守りが爆発した。
「きゃあっ!」
千草が顔を伏せて怯む。
鼻を突くようなアンモニア臭が辺りに漂い、それを吸いこんだ僕の視界がぐにゃっと歪む。
ダメだ…、気を確かに持て!
歯を食いしばって顔を上げた瞬間、悪霊が黒い腕を千草に伸ばし、彼女の華奢な肩を掴んでいるのが見えた。
「てめえ!」
僕は地面に落ちたお守りを一つ拾い上げると、大きく振りかぶってそれを悪霊に向かって投げつける。
千草ほどでは無かったが、空気中に白い光が走り、悪霊が怯んだ。
「千草に触わんじゃねえよ!」
逆向した僕は、ナップサックからさらに三つのお守りを取り出し、悪霊に投げつけた。
その瞬間、悪霊が目の前から姿を消す。
「え……」
祓った…? なわけないか。
僕が口を開けて固まった瞬間、千草が叫んだ。
「後ろ!」
振り返る。
そこには、黒い人影が立っていた。
飛び退こうとしたが、黒い人影から、影の触手のようなものが伸びてきて、僕の肩や腕、腹に張り付いた。ナイフで刺されたかのような鋭い痛みが走る。
そして、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
「一緒ニ、イコウヨ」
その瞬間、身体の中から、神経系を根こそぎ奪われたかのように、力が抜ける。いや、「消え失せた」。
僕は「あぐ…」と間抜けな呻き声を上げ、その場に倒れこむ。
「リッカ君…!」
千草が駆け寄ってくる。
「大丈夫…?」
「……あ」
僕は振り向きざまに、拳を振った。
骨と骨がぶつかる、ゴキッ! という生々しい感触が手の中に残る。
そして、見ると、殴り飛ばされた千草が地面を転がっていた。
「え……」
胸から上に、冷や汗をどっとかいた。
拳に、人を殴ったあとのちりちりとした感触が残っている。
自分が彼女を殴ったのだと理解した。
「あ、あ、ああ…」
僕は泣きそうな声を上げながら、地面に手をついて立ち上がった。
そのまま、千鳥足で千草の方に歩いていき、彼女の上に馬乗りになる。
千草はまだ苦痛に顔を歪めていた。
僕はその白い首を、左手で掴んでいた。
「リッカ、くん…」
「ご、ごめん…」
僕は震える声で謝ると、左手に力を込めて彼女の首を締めた。僕の指は、彼女の薄い皮と肉に食い込み、その奥の気管を圧迫する。たちまち、喉の奥からカエルのような声が洩れた。
「ごめん…、千草…、身体が…、勝手に…」
僕の背中に、あの黒い人影が張り付いていた。
人影は、まるで操り人形のように、僕の手足を動かし、目の前の彼女を地獄に引き込もうとする。
尋常ではないくらいの力がでて、みるみる彼女の首が絞まっていく。
「ごめん、千草…、くそ…、くそ、くそが…、手が…、身体が…、勝手に…」
頭に血が回らなくなって、彼女の顔が段ボールのような色になった。
背後にいる黒い影が、ぐるんと僕の方に顔を回してきて、僕を見てけたけたと笑った。どぶ川のような臭いが鼻を突く。
僕が右腕を動かすと、足元の暗闇を弄った。そして、硬いものを掴んで拾い上げる。
それは、短刀の柄だった。切っ先は折れてなくなっているが、根元の部分の刃が残っていて、まだ鋭利に輝ている。
僕はそれを逆手で持つと、千草の鼻先に突きつけた。
千草の顔が引きつる。
「リッカ君…」
「ご、ごめん…」
身体が言うことを利かない。
僕は泣く。
黒い人影が笑う。
僕は人影を罵った。
「てめえ…、千草を殺してみろよ…、ただじゃ置かねえぞ…! 一生恨むからな…、死んでも、ずっと恨むからな…!」
僕の言葉を意に介さず、悪霊はまたけたけたと笑った。
僕は「くそ…、くそ…! くそ、くそが!」と叫びながら、もった短刀を振り上げた。
千草が、「ああ、もう!」とじれったい声を絞り出す。
僕が短刀を振り下ろした。
その瞬間、千草はコートのポケットから、護符を取り出した。
それは、あの旅館で僕が鞄の中から見つけたものだった。
「いい加減に! しなさい!」
それを僕の額に押し当てた。
短刀の刃は軌道が逸れ、彼女の左肩辺りに突き刺さる。
肉が抉れる痛みに、千草は苦痛を感じながら、唱え言葉を発した。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が僕の脳天を掛けめぐる。
悪霊の劈くような悲鳴と共に、僕の身体は吹き飛び、湿気た地面を転がっていた。
「う、うう…」
額に張り付いた護符が、黒い灰となって崩れていく。
身体が自由に動くようになったはいいものの、転がった時に腹を強く打ち付けたせいで、うまく立つことができなかった。それは千草も同じで、彼女は左肩に短刀を突き刺したまま、痛みに悶えていた。
「ど、どうよ…、それは…、私が作った護符なんだから…、効くでしょうが…。いざとなったら…、使うつもりだったの…。量産はできなかったんだけど…」
顔中に脂汗をかいたまま言う。
「千草…」
彼女のもとに這っていこうとすると、目の前に黒い影が立ち塞がる。
影はけたけたと笑いまるでメトロノームのように、頭を左右に振っていた。
また腹の辺りが、観音開きになり、その中に収納されていた者たちの生首が、壊れたおもちゃのように、一斉に声を発した。
「オイデ…」「コッチニオイデ…」「タノシイヨ」「ウレシイヨ」「ミンナデワラオウ…」「オイデ…」「ココハタノシイバショダヨ…」
父さん、母さん、姉さん、カホちゃん、カホちゃんの母親…、中学の友達…、先生、高校の友達、先生、近所のおばさん…、お隣のお姉さん…、西条加奈子…。みんな黒い影の腹の中に詰まり、白目を剥いて笑っている。楽しそうに、幸せそうに…、でも、何処か悲しそうに。
「リッカ君…!」
千草の声が聞こえたかと思うと、小刀が飛んできた。
刃に千草の血がべったりとついた小刀が、黒い影の脇腹を掠めた瞬間、バチンッ! と火花がはじけるような音が響き、人影がよろめいた。
すかさず、千草がお守りやら護符やらを投げつけながら走り、僕の隣に立つ。
「大丈夫? リッカ君?」
「ぼ、僕は大丈夫だけど…」
僕は横目で千草を見た。
「ごめん、千草が…」
彼女の左肩の肉が、見るも無惨に抉られ、そこからびちゃびちゃと血液が滴っていた。
泣きそうな僕に、千草は首を横に振った。
「気にしないで…。それよりも、今はあいつ」
黒い人影が、グネグネと揺れている。まるで酔っぱらっているようだった。
「今わかったわ。あいつ、殺した人間を自分の中に取り込んで、それの力を借りてるみたい」
「力を、、借りてる?」
「うん、リッカ君のお父さんとか…、お母さんとか、学校の友達とかだね…。殺して地獄に送っているものばかり思っていたけど…、そう言うことか…」
彼女の目がすっと細くなる。
瞼の隙間の黒目の中に、白い光が宿ったような気がした。
千草は口角をにいっと上げた。
「じゃあ、そろそろ、決着と行こうか」
「決着…?」
「うん、終わりにしよう」
千草はふっと息を吐き、肩の力を抜いた。僕も彼女の真似をし、肩の力を抜く。
黒い人影はニタニタと笑い、一層激しく頭を揺らす。相変わらず腹の辺りは観音開きになっていて、そこに詰め込まれた死者の生首が、譫言のように呟やいていた。
「シニタイ」「イキタイ」「カナシイ」「オイデ」「イッショニイコウ」「サヨウナラ」「コッチニオイデ…」「サビシイヨ」
その、僕たちを誘う言葉に紛れて、誰かの声が聞こえた。
「助けて…」
その言葉を聞いた瞬間、ボロボロの身体に力が湧いて出た。
僕と千草は、何も言わず、手と手を握り締めた。もう離れないように、指を絡め、肩と肩とを密着させる。
「千草…、僕は怖いよ」
「うん、私も怖い」
「だけど…、千草と一緒なら、大丈夫な気がするんだ」
「うん、私も、リッカ君と一緒なら、なんでもできる気がする」
目の前の悪霊が踊る。
身体中の傷に、冷たい風が入り込んで痛かった。
僕は頬の血をぺろっと舐めて、聞いた。
「ねえ、千草、これが終わったら、なにする?」
「そうだね…」
千草は息を吸い込んでから答えた。
「普通に生きていこうか」
「うん、生きていこう」
次の瞬間、僕たちと、悪霊の、最期の戦いが始まった。
あの悪霊は、今までに殺してきた人間の魂を取り込み、それを糧としていた。ならば、まず最初にやるべきなのは、悪霊に囚われた者たちの解放だった。
僕が千草に護符やお守りを渡し、千草がそれを使って除霊する。
悪霊は一層強い邪気で僕たちを圧倒してきたけど、二人で手を握り合い、肩を寄せ合い、耐えた。何もしていないのに皮膚が裂けた。鼻血が出た。咳き込んだ拍子に、血を吐いた。
自分が今どこにいるのか? 生きているのか? 死んでいるのか? 地獄にいるのか? その感覚さえも消え去る、黒い呪いの中に僕たちはいた。
生きていこう、生きていこう、生きていこう、生きていこう、生きていこう、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい…。
一心不乱にお守りと護符を握り締め、彼女の手を握り締め、ただただ祈っていた。
これが終わったら、この長い夜が明けたら、僕たちは自由の翼を手に入れている。
人と笑いあい、泣き合い、手を触れ合うことが、「不幸」ではなく、宝石のように輝く「幸せ」を生み出すようになると信じて。
気の遠くなるような時間、僕たちは悪霊と戦い続けた。
そこに、光があると信じて。
目を開けた時、辺りはすっかり明るくなっていた。
「………」
僕は朝露で湿気た地面の上に仰向けで横たわっていて、頭上のある木の枝で、小鳥がぴいぴいと鳴いていた。
何十年ぶりのような息を吸い込んだ。肺に冷たい空気が流れ込んできて、胸の奥がちくっと痛む。思わず唾を飲み込むと、喉の奥で鉄の味がした。
「う…、くそ…」
僕は身を捩り、冷たい地面に手をついて立ち上がる。手の甲に、ナイフで何度も切りつけられたような傷があった。失血は止まっているが、動かすと痛い。
くしゃくしゃになった髪をかき上げて隣を見ると、そこに千草が倒れていた。彼女の着ていたコートはズタズタに裂かれ、そこに黒い血が浸み込んでいる。よく見れば、彼女もまた、「何か」の力によって、、身体を裂かれていた。
「ち、千草…」
僕は彼女の方に這って行き、頬を撫でた。冷たい。だけど…、ほのかに温もりがある。
「千草…」
僕は千草のコートをはぐると、薄い胸に耳を押し当てた。大丈夫…、どくんどくんと、脈を打っている。ちゃんと、生きている…。
「よ、かった…」
そう安堵し、涙を流した時だった。
現実に引き戻された僕は、勢いよく辺りを見渡した。
僕と千草を取り囲むようにして、黒くなった護符や、びりびりに裂かれたお守りが、大量に散らばっていた。
だが、あの「悪霊」の気配は感じない。
やったのか?
よくわからなかったが、怪我をした状態でここに留まるのは危険だった。
僕はボロボロになった身体に鞭を打つと、千草の細い腕をとって背負った。
脚に痺れるような痛みを感じながら、歯を食いしばって立ち上がる。
「はあ…、はあ…、山を…、山を降りないと…」
朝露に湿った地面に踏み出すと、血が滲んだ靴が数センチ沈んだ。それでも、必死に歩き始める。
身体の色々なところが傷ついていた。爪が剥がれているのはもちろん、足や腹、腕の皮膚が容赦なく裂かれていて、動かすたびに、風を浴びるたびに激痛を走らせた。
僕は痛みに涙目になったが、彼女を背負っているということから、歯を食いしばって耐えた。決して下には降ろさなかった。
がくがくと、亀のような歩みで山を下る。
「はあ…、はあ…、はあ…」
千草は目を覚まさない。
せめて…、山を出るまでは…、彼女が目を覚ますまでは、こうしていよう。彼女の体温を、存在を感じていよう。
その一心で足を進めた。
ねえ、千草…、僕は幸せだったんだ。
君だけが、僕の傍にいてくれた。
君だけが、僕を理解してくれた。
ありがとう。の言葉じゃ足りないくらい…、ありがとう。
その時、背後で気配がした。
ふと足を止め、振り返る。
そこには誰もいない。
だけど、人と抱き合っている時のような暖かな空気が流れてきて、僕の頭の中に声が響いた。
「がんばれ」
って。
聞き覚えのある声だった。父さんと、母さんと、姉さんのものだった。
それを聞いた僕は、少し涙ぐみ、笑った。
「うん、頑張るよ…」
僕は千草を背負って歩き始める。
空も笑っているような気がした。
三日後。
千草は病院のベッドの上で目を覚ました。
「…リッカ君?」
目を開けた途端、掠れた声で僕の名を呼び、潤んだ目で僕を見る。
僕は彼女の白い右手をぎゅっと握り締めた。
「千草…、ありがとう…」
「………」
「全て…、終わったんだ…」
あの後、彼女を病院に送り届け、少し休んだ僕は、有名な霊媒師のところを尋ねて、霊視をしてもらった。そして、僕の背後にいた「あいつ」が消え失せていることを教えてもらったのだ。僕の二十年の人生を狂わせた「あいつ」が、僕と千草の力によって祓われたのだ。
「ありがとう…、本当に…、ありがとう…」
僕は彼女の手に顔を埋め、情けなく泣いた。
千草は寝返りを打ち、左手で僕の頭を撫でた。まるで、母親のような手だった。
「そう…、良かった…」
あの日、僕たちは命を賭けて悪霊と戦った。
何度も護符を翳し、お守りを翳し、印を結び、唱え言葉を発し、今の自分たちにできること全てを試した、地獄のような一晩だった。
そして、僕たちは打ち勝った。
もちろん、代償はあった。僕の指の爪は全て剥がれていたし、脇腹に深い傷を負ったし、叩きつけられた拍子に、左腕の骨に亀裂が入っていた。僕の方はまだマシだ。ご飯を食べて眠っているだけで、治るのだから。
問題は千草の方だった。
「ああ…、そうか」
千草は自分の手の平を見つめて、頷いた。
「霊力…、尽きちゃったか…」
彼女の象徴であった、類まれない「霊力」が、全て尽きてしまったのだ。
「ごめん…」
僕は何度も謝った。
でも、千草は気にする様子も無く、僕に微笑んだ。
「気にしないで…、そもそも、霊力なんて煩わしいと思ってたし…、リッカ君を助けるために使い切ったのなら本望よ」
「でも…」
確かに、千草は自分の霊力をよく思っていなかった。霊力があったために、父親に家業を継ぐことを強制されそうになったからだ。僕も、千草が望んでいない道に進むのは嫌だった。
だけど、彼女のその力は、僕を救ってくれた。僕を自由にしてくれた。
彼女にとっては嫌な力だったかもしれないが、僕にとっては、「命の恩人」そのものなのだ。それが消え失せただなんて…、寂しくて、嫌で、たまらなかった。
「大丈夫…」
もう、何度目の「大丈夫」だろうか。
千草は霊力も何も宿っていない手で、僕の頬を撫でた。
「これで、自由だから」
※
一週間後、千草が退院した。
彼女の霊力が尽きてしまったことは彼女の父親に知らされ、人を轢き殺しそうな勢いで病院にやってきた父親は顔を真っ青にしていた。しかし、すぐに下唇を噛み締めて現実を受け入れると、「よくやった」と言って、彼女を労った。彼女は少しだけむず痒そうな顔をしていた。
「神社のことは気にするな…、好きに生きろ」
父親はそう言うと、車に乗って実家に帰っていった。
病院を出た僕たちは、電車に乗り、歩いて帰宅した。
「ねえ、千草…」
「なに?」
「千草の夢って、何? その…、普通に生きる、以外で」
「そうだなあ…」
千草は青い空を見上げて考え込み、苦笑した。
「わかんないや」
「わからないって…」
「霊力が残っていたら、神社を継いだり…、霊媒師的な仕事もできたんだろうけど…」
「うん、本当にごめん」
「だから、気にしないでよお」
脱線しかけた話をもとに戻し、彼女は続けた。
「まだ、自分が何になりたいのかわからないけど…、まあ、とりあえず好きに生きてみるよ」
「……」
「リッカ君もそうでしょ?」
彼女はいたずらっぽく言うと、僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「リッカ君に、もう『悪霊』は憑いていないの。だから、たくさんの人と触れ合えるよ? 手を繋いだり、一緒にご飯を食べたり…、お酒飲んだり…」
それから…、と言って彼女は僕の胸を小突いた。
「大学生なんだから、女の子と遊んだり、男友達と、警察呼ばれそうになるくらい馬鹿騒ぎだってできる! もう、人生楽しんだもん勝ちでしょ!」
「…、ああ、そうだな」
僕は曖昧に頷いた。
「千草も、そうするの?」
「私はそういうわちゃわちゃした雰囲気はパスパス! 今まで通り、ぼーっと生きていくとするよ。その中で、私が本当にしたいことを見つければいいもんね」
彼女は負け惜しみなのかわからないことを言うと、手のひらをパラパラと振った。
「リッカ君はリッカ君のやりたいようにやりなさいよ。私も私のやりたいようにやるからさ。お互い、人生楽しもうじゃないの」
「……」
歩いていると、分かれ道に差し掛かった。
右に曲がれば千草の住んでいるアパート。
左に曲がれば僕の住んでいるアパート。
千草は迷わず、つま先を右側に向けた。
「リッカ君の悪霊を祓うためとは言え…、迷惑を掛けたね。ずっと家にお邪魔しちゃって」
「迷惑かけている自覚はあったんだな」
「もちろん」
冷たい風が吹き付け、彼女の黒髪を揺らす。
千草は僕に手を振った。
「それじゃあ、また今度」
「うん」
僕は千草に手を振り返す。
千草が僕に背を向け、歩いていく。
その遠ざかっていく背中を見つめながら、僕は下唇を噛み締めた。
千草は霊力を失った。
僕は悪霊を失った。
これで、二人を結びつけるものは何も無い。
何も無いんだ。
僕は新しく人生を始めるだけ。
彼女も、霊力が無くなった日々を過ごしていくだけ。
でも…、それでも…。
ああ、そうだよ。僕は自由が欲しかった。悪霊に患わされない、「普通の日々」が欲しかった。人といっぱい話したかった。ご飯を食べたかった。二十歳になったんだ、お酒だって飲みたい。馬鹿騒ぎして、ご近所に怒られて…、一緒に募る話でもして…、将来を語り合ったり、相談に乗ったり、相談に乗ってもらったり…、僕は「誰か」に、支えてもらいながら、人生を歩んでいきたいんだ。
多分…、そこには、「千草」がいる。
「千草!」
僕は思わず彼女の名前を呼んでいた。
千草がびくっとして振り返る。
そして、遠くから「なあに?」と聞いてきた。
僕は言葉を発しようとしたが、緊張か、それとも冬の乾燥した大気に喉をやられたのか、うまく喋れない。
「あ、あのさあ」
声が上擦った。
何やってんだ。彼女が行ってしまうぞ? 早く、早く言えよ。
これからも、僕と一緒にいてくれ。って。
「と、取り憑かれちゃったんだ…」
「うん?」
僕の素っ頓狂な言葉に、千草は首を傾げた。
「また、何かに、取り憑かれたの?」
「あ、う、うん…」
「ごめん…、私、霊力が無いから、もう役に立てないんだよ」
「あ、ああ、それは…、わかっているんだよ。だから、その…」
顔が熱くなるをの感じた。
不意に、空から雪が降ってきて僕の頬に触れる。それは一瞬にして水に変わり、僕の煮えた頭を冷やした。
僕は唾を飲み込み言った。
「その! 恋の悪霊にさあ! 取り憑かれているんだよ!」
言った後で後悔した。
なんだよ…、「恋の悪霊」って…。臭いこと言いやがって…。気持ち悪い…。
僕は別の意味で赤面すると、深いため息をついてうなだれた。
すると、道の向こうから千草が叫んだ。
「その悪霊って! 私にも祓えるかな?」
「………」
僕は顔を上げる。
千草が持っていた荷物を放り出し、髪の毛も胸も、コートの裾も、激しく揺らしながらこちらに走ってきていた。
返事をする前に、千草が地面を蹴り、僕に飛びつく。
ガチン! と、唇と唇が重なり合っていた。
それはキス、と言うよりも「歯と歯のぶつかり合い」で、触れた傍から痺れるような感覚が脳天を駆け巡った。
冬の大気に晒されていたはずの彼女の身体は熱く、まるで燃えているようだった。そういう僕も、自分の体温が一度上昇するのを感じた。
二つの熱の塊は、お互いを求めるようにして腕を回し抱き合った。そして改めて、キスを交わす。朝霧のように目の前がぼんやりとした。一秒が、まるで一分のように思えた。
「どう?」
千草は唇を離すと、真っ赤な顔で聞いてきた。
「悪霊…、祓えた?」
「ううん」
僕は頬を真っ赤にして首を横に振る。
「全然だめだ…」
「そう…、じゃあ、一緒にいるしかないよね!」
千草が満面の笑みを浮かべる。まるで、嵐の中、不意に差し込む陽光のようだった。そこに、天使でも宿っているかのような神々しさだった。
その日、二人は、僕のアパートに一緒に帰った。そして、気が済むまでイチャイチャした。
僕はもう、誰かを不幸にすることはない。
僕はもう自由だ。
自由な翼を手に入れて何をする?
そうだな…、とりあえず、僕の隣にいてくれる美しい女性を、「幸福」にすることから始めることにした。
完