「あああああああっ!」
 走馬灯の中で千草の姿を見た瞬間、僕は発狂した。
 指で印を結ぶと、彼女が教えてくれた唱え言葉を吐き散らしながら、自分の胸を衝く。
 ドンッ! と、電気ショックを浴びたような衝撃が全身を駆け巡り、身体が陸に上がった魚のように飛び跳ねる。
 喉の奥に込み上げた鉄の味を飲み込み、さらに叫ぶ。
 叫ぶことで、脇腹の痛みをかき消すと、地面に手をつき、冷たい地面を転がりながら立ち上がった。
 立ち上がった瞬間、立ち眩みで膝をつく。それでも、口から血を吐きながら、目の前にいる黒い影を睨んだ。
「簡単に…、地獄に連れていかれてたまるかよ…!」
「………」
 黒い影は何も言わない。
「千草が…、千草が言ったんだ…、僕と一緒にいることが楽しいって…、幸せだって…!」
 血を飲み込み、言葉を紡ぐ。
「僕が死んだら…、千草が…、幸せじゃなくなるんだ…」
 僕が死ねば、彼女は悲しむだろう。泣くだろう。あいつはそう言う女性だ。
 だけど、僕が千草と一緒にいれば、彼女はこの悪霊の邪気にあてられて、不幸になってしまう。
「詰みだよ…、これは、詰みなんだ…」
 僕はそう言いながら、指で印を結んだ。彼女が教えてくれたものだ。「いざと言うときに使ってね、きっと、役に立つはずだから」と言ってくれた。
「僕が死んでも、彼女は不幸になる。僕が生きていても、彼女は不幸になる…」
 彼女は不幸になる「運命」なんだ。
「だけど…、それじゃダメなんだとおもう…!」
 血なのか涙なのかわからない、生温かい液体が頬を滑る。
「僕は間違いなく…、あの人に幸福にしてもらった…、人と関わることの大切さを、教えてもらった…! 僕は、あの人がくれた優しさに見合った行動をとらないとダメなんだ!」
 あれだけ一緒にいておいて、いざ彼女が不幸になりそうだから、「自害」を選ぶ?
 違う。
 自害は…、正しい選択じゃない。
 あの人の傍にいることが、「正解」の運命なんだ。
「だから…、僕は…、お前を祓わないとダメなんだ…!」
 一通りの印を結び終えた僕は、右手の指を口に持っていった。
 ふっと、魂の気配が混じった息を吹きかけ、千草に教えてもらった通りの唱え言葉を発する。
「キリ…!」
 次の瞬間、喉に熱いものが走った。
 溜まらず天を仰いで咳き込むと、大量の赤黒い血が吹き出し地面に滴った。
 構わず、唱え言葉の詠唱を続けようとしたが、痰のようなどろっとしたものが舌の付け根に絡まり、言葉を出すことができない。
「ぐ…」 
 印を結んでいた指先に激痛が走り、爪がべりべりと剥がれる。その痛みに発狂し、さらに血を噴出した。
 白目を剥いて失神しようとした瞬間、突風に吹かれたような衝撃が全身を襲い、背後の木の幹に叩きつけられた。
「ぐ…、そ…」
 指の爪が全て剥がれ落ち、ボロボロと地面に落ちる。喉に絡んだ痰のようなものが固まり、息ができない。
 酸欠はすぐにやってきて、視界の中で白い火花が散った。
「………」
 黒い人影が、ゆっくり、ゆっくりと僕に近づいてくる。亀よりものろい足取りだった。ぼくなんか、「いつでも殺せる」と言っているようだった。
 まあ、事実か。
 僕身体が動かない。指の爪が剥がれて痛いし…、息はできないし…。脇腹からはずっと血が出てるし…、腕も…、骨が折れているんじゃないか?
 唯一動く右手を口の中に突っ込み、えづきながら、喉に絡んだものを掻きだした。
 それは、血の塊に塗れた黒い髪の毛だった。女のように長いものから、男のように短いものまである。それだけじゃない、誰のものかわからない護符やらお守りやらも、次々と引っ張り出された。
 黒くなったそれを、べちゃっと地面に落とす。
「いや…、すごいな…」
 次に印を結ぼうとしたら、どうなるのだろう? 爪だけじゃなくて、指も吹き飛ぶのかな? 今度は、喉にこれらが詰まるだけじゃない。きっと、肺の一つや二つが破裂するに違いなかった。まあ、肺は二つしかないんだけど。
「く…、そ…、があ…」
 最期の抵抗と言わんばかりに、霊水が浸み込んだ土を引っ掴み、黒い人影に投げたが、空気中に静電気のような青白い光が走るだけだった。
「抵抗は…、したからな…、抵抗は…、千草の、優しさに応えるために…、彼女を幸せにするために…、立ち向かったからな…、勝てなかったけど…」 
 僕はくどくそう言った。
 黒い人影を睨み、肩の力を抜く。
 さあ、さっさとやれよ。
 そう言おうとした瞬間、僕の隣に、誰かが立った。
 ふわっと鼻を掠める、甘い香り。
 顔を動かす気力も無い僕の頭を、柔らかな手が撫でた。
「ありがとね、すっごく嬉しい」
「………」
 そこには、千草の声がした。
「………なん、で?」
 僕は地面を見つめたまま、隣の彼女に聞いた。
「なんで…、ここがわかったんだ?」
 どうして来たんだ! 君が危ないんだぞ! という怒りは一瞬で消え失せた。代わりに、喜びが、ボロボロになった胸に湧いて出た。まるで、陽だまりの中に寝転んでいるような、安らかな感覚だった。
「リッカ君のいる場所なんて、世界中どこにいてもわかるから」
 千草はそう言って笑い、僕の肩に手を触れる。
「ごめん、嘘。普通に、山の中からヤバい邪気が見えたから、『多分ここにいるんだろうなあ』って思って来ただけ」
「……」
 うん、まあ、いいや。
 千草が肩をぽんぽんっと叩いた瞬間、重かった身体が少しだけ軽くなった。
「少し金縛りにあってたみたいだね、解除したから、マシになったと思う」
「…ほんとだ」
 首を動かし、やっと千草の方を見る。月明かりに照らされた彼女は、神様…には見えなかった。走って山を駆け上ったのか、顔は汗まみれ、泥まみれ。頭からは湯気が湧き出ている。にこっと笑っているが、目の下には黒い隈が浮き、呼吸するたびに、肩が上下に揺れていた。
 やはり、彼女は本調子ではない。
「千草…」