黒よりも「黒い」姿をし、水の中に墨汁を垂らしたかのようにゆらゆらと揺らめく影。その姿を視界の隅に映しただけで、五感の全てを狂わせられるような恐怖を植え付けてきて、これは「死神」とか、「悪霊」なんて生易しいものではない。まさに、「災厄」のようなものだった。
「あ…、あ、ああ…」
 口に噛んでいた麻布が零れ落ちる。
 歯がカチカチと鳴る。
 黒い影が僕を見つめる。眼球なんて無いのに、「見つめられている」感覚がしたのだ。
 僕は口を必死に動かした。
「ざ、残念、だったな…」
「………」
「お、お前の…、好きには、させない…、よ…」
 言葉をうまく発することができない。
 それでも、不格好に強がった。
「ぼ、僕の、勝ち、だ…」
 僕の身体は、霊力が宿った水に満たされている。それだけじゃない。この刀は、黒縄神社のクロナワさんの念がこもった、いわば「退魔の刀」。そして、腹の中には強力なお守りが入っている。
「お、お前は…、僕に、ふ、ふれ、触れられれない…」
 僕が死んだとしても…、コイツは僕に触れられない。
 僕を地獄に落とすことは、できない。
「ざ、ざまあ、みろ…」
 僕はそう絞り出した。
 そして、声にならない悲鳴を上げ、持っていた小刀を一思いに心臓に突き刺そうとした。
 
 次の瞬間、パキンッ! という乾いた音が辺りに響き渡っていた。

 小刀の刃が割れた音だった。
 勢いよく弾けた破片が、回転しながら打ちあがり、僕の右目を掠める。瞼が裂け、血の雫がぱたぱたっと空中を舞った。
「え…」
 遅れて間抜けな声が出た瞬間、腹に異変が起こった。
 胃の底から、熱いものが込み上げてくる。
 僕はたまらず、大口を開けてそれを吐いた。
「ぶはっ!」
 黒い血液と混じって、さっき飲み込んだ神社のお守りが、その場に吐き出された。
「て、てめえ…」
 口から粘っこい血液を流しながら、目の前の黒い影を睨みつける。
 心なしか、黒い影が何かを発した気がした。
 その瞬間、僕は強い力に押し上げられ、強烈な水飛沫を上げて、浸かっていた池から飛び出していた。
 空中を二、三回転したのち、硬い岩の上に背中から叩きつけられる。ゴリッ! という感触がしたと思うと、脇腹の辺りから熱いものが溢れる感覚がした。
「く、うう…」
 反射的に、脇腹に手をやる。岩の尖った部分が、脇腹の肉を抉ったのだろう、手のひらが真っ赤に染まっていた。感覚が麻痺しているせいで痛みが無い。
「くそ…、くそっ! くそが! くそがあ…」
 僕は、ゴボゴボッ! と吐血しながらそう叫んだ。
 小刀の刃が折られた。飲み込んだお守りを吐き出さされた。池から引っこ抜かれ、致命傷となる傷を負った。
「くそがあ…」
 僕は脇腹から溢れる血を抑えながら天を仰いだ。
「何にも…、できないのかよお…」
 端からコイツを倒そうとなんて思っていなかった。飛び立つ蝉の小便のように、嫌がらせがしたかっただけだ。コイツに人生を狂わされ、大好きな人たちを奪われ続けた僕の、せめてもの「抵抗」のつもりだったのだ。
「ちくしょう…、畜生…」
 黒い影はじっと僕を見下ろしている。
 両手足の筋肉に電撃のようなものが走り、動けなくなった。まるで、貼り付けにされた昆虫の標本のような気分だ。
「くそ…」
 僕は眼球だけを動かして、黒い影を睨んだ。
 影は何もしてこない。きっと、勝ちを確信しているのだ。「お前のことはいつでも地獄に連れていける」って、余裕を抱ているのだ。
 僕は負けを確信していた。もう、半分諦めていた。
 その時、悪霊の様子に異変が起こった。
 僕の目の前に浮いていた黒い影の色が一層濃くなり、そして、中心部に白い線が走り、そこから観音開きになる。
 黒い影の中にあったものを見て、僕は全身の血が凍り付くのを感じた。
「てめえ…返せよ…」