部屋に戻った僕は、押し入れの中に詰め込まれ、引っ越し以来開けていない段ボール箱の中身をその場にぶちまけた。大学の資料やら、ガラクタやら、皿やらに混じって、麻布に包まれた小刀がゴトン…と、鈍い音を立てて転がった。
僕はそれを掴むと、傍にあったナップサックに入れた。さらに、財布とハンカチを入れて、背負う。
軽く部屋の掃除をして、来月分の家賃を封筒に入れると、テーブルの上に大家さんへの手紙と共に置いた。
そして、鍵もかけずに部屋を出ていった。
終電ギリギリの電車に乗り込み、隣町に移動すると、そこから真っ暗な田舎道を一時間ほど歩いて、山の中に入った。最初はアスファルトで舗装されて歩きやすかったが、気が付くと草が膝の高さまで生い茂り、雨で柔らかくなった獣道を歩いていた。
スマホの灯りを頼りに、水の匂いがする方を目指す。
地面はぬかるんでいるだけでなく、ごろっとした岩が大量に転がっていた。冬なのに、よくわからない虫の鳴き声が聞こえた。
何度も転び、悪霊に殺されるよりも先に滑落して死にそうになりながら、夜の山の中を進んだ。
飛び出していた枝で太ももをパックリと切ってしまった。血が滲んで痛かったが、今からやろうとしていることの前座だと思えば耐えることができた。
「……」
水の流れる音が近づいてくる。
僕は歩みを速めながら、彼女のことを考えた。
僕は、千草のことが大好きだ。
彼女の、艶やかな黒髪とか…、ふっくらとした頬とか、宝石みたいな瞳とか…、骨張りながらも柔らかい身体とか…、辛いことがあっても幸せそうに笑う顔とか…、時々言う洒落にならない冗談とか…。
彼女の身体から、魂まで、全てが好きなんだ。
大好きだからこそ、僕は失いたくない。
君のその笑顔を、守りたいんだ。
ごめんよ。わかってる。君が本当に、僕を助けたいと思っていることは知っている。だけど、君が魂を削った「自己犠牲」による「救い」なんて、僕には必要無いんだ。
悪霊に呪われたままでもいいから、一緒にいたい。だけど、一緒にいれば君が「犠牲」になってしまう。
だから、もう、こうするしかないんだ。
「………」
僕は大きな岩の前に立っていた。
岩の隙間から、地面でろ過された雨水が、湧き水となって流れ出て、そこに一人が入れるくらいの小さな池が形成されていた。漂うマイナスイオンが、僕の頬を撫でた。
浄化作用のある霊水。
「……」
僕はぎゅっと唇を結ぶと、その池に飛び込んだ。
バシャンッ！ と、白い水飛沫が立った。
「寒い」と思ったのは一瞬で、全身を針で刺されるような痛みが波のように駆け巡る。どぶんとゆれた水面のように、僕の覚悟も揺れ、そして凍り付きそうになったが、歯を食いしばって耐えた。
さらっとした水底に足をつき、胸から上を出して必死に息を吸う。胸の奥がズキズキと痛み、呼吸が乱れた。
身体の感覚が消え失せるのを待った僕は、池の縁に置いていたナップサックから、彼女と一緒にパワースポットを回って手に入れたお守りを取り出した。親指の大きさくらいのそれを、一つ一つ口に含み、飲み込む。案の定喉に詰まったので、湧き水で胃の奥にまで流し込んだ。
全てのお守りを飲み込むと、今度はナップサックから、麻布に包まれた小刀を取り出した。
取り払った麻布は、さるぐつわのように口で噛む。
何の装飾もされていない表面の木を指で撫ででから、柄に手を掛けた。
あの時、僕にこの短刀を渡した時。黒縄神社の、クロナワさんは、僕にこう言った。
「この神社を出て、少し下ったところに看板があります。そこから細道に入り、ずっと進めば、霊水が湧き出ている池があります…。もし、もう無理だと感じた時…、そこでこれを使いなさい。神がきっと、貴方を救ってくれるはずです」
今がその時なのだ。
僕はぐっと力を込めて、小刀を鞘から抜いた。
あれだけ曇っていた空が、まるで測ったかのように晴れる。金色の光が一直線に差し込み、小型の刃の輪郭をなぞるように照らし出した。
水が流れる音。
銀色に光る刃。
僕は震える手を必死で抑えると、小刀の切っ先を自分の方に向けた。
「…ふうー、ふうー、ふうー！」
なるべく深い息をして心を落ち着ける。
この小刀は、「僕」と、「他者」を救うお守り。
つまり…、「自害」だった。
「ふうー、ふうー、ふうー…」
大丈夫だ。やれる。今まで、沢山辛い目に遭ってきたんだ。自分の胸に、小刀を刺すくらい…、わけないさ！
そう自分に言い聞かせ、僕はゆっくりと小刀の切っ先を、左胸に近づけた。
その時だった。
冷凍庫の中に放り込まれたかのように寒かった辺りの空気が、まるで、石油ストーブの前にいるかのような熱いものに変わった。
キーンッ！ と耳鳴りがする。
あ…、と思った瞬間、僕の目の前に、黒い影が現れた。
それを見た瞬間、身体が硬直する。皮膚を押し破ろうとしていた小刀が、それ以上先に進まなくなった。
「あ…、あ…」
その姿を見るのは生まれて初めてだった。
直感で「こいつだ！」と思った。
僕はそれを掴むと、傍にあったナップサックに入れた。さらに、財布とハンカチを入れて、背負う。
軽く部屋の掃除をして、来月分の家賃を封筒に入れると、テーブルの上に大家さんへの手紙と共に置いた。
そして、鍵もかけずに部屋を出ていった。
終電ギリギリの電車に乗り込み、隣町に移動すると、そこから真っ暗な田舎道を一時間ほど歩いて、山の中に入った。最初はアスファルトで舗装されて歩きやすかったが、気が付くと草が膝の高さまで生い茂り、雨で柔らかくなった獣道を歩いていた。
スマホの灯りを頼りに、水の匂いがする方を目指す。
地面はぬかるんでいるだけでなく、ごろっとした岩が大量に転がっていた。冬なのに、よくわからない虫の鳴き声が聞こえた。
何度も転び、悪霊に殺されるよりも先に滑落して死にそうになりながら、夜の山の中を進んだ。
飛び出していた枝で太ももをパックリと切ってしまった。血が滲んで痛かったが、今からやろうとしていることの前座だと思えば耐えることができた。
「……」
水の流れる音が近づいてくる。
僕は歩みを速めながら、彼女のことを考えた。
僕は、千草のことが大好きだ。
彼女の、艶やかな黒髪とか…、ふっくらとした頬とか、宝石みたいな瞳とか…、骨張りながらも柔らかい身体とか…、辛いことがあっても幸せそうに笑う顔とか…、時々言う洒落にならない冗談とか…。
彼女の身体から、魂まで、全てが好きなんだ。
大好きだからこそ、僕は失いたくない。
君のその笑顔を、守りたいんだ。
ごめんよ。わかってる。君が本当に、僕を助けたいと思っていることは知っている。だけど、君が魂を削った「自己犠牲」による「救い」なんて、僕には必要無いんだ。
悪霊に呪われたままでもいいから、一緒にいたい。だけど、一緒にいれば君が「犠牲」になってしまう。
だから、もう、こうするしかないんだ。
「………」
僕は大きな岩の前に立っていた。
岩の隙間から、地面でろ過された雨水が、湧き水となって流れ出て、そこに一人が入れるくらいの小さな池が形成されていた。漂うマイナスイオンが、僕の頬を撫でた。
浄化作用のある霊水。
「……」
僕はぎゅっと唇を結ぶと、その池に飛び込んだ。
バシャンッ！ と、白い水飛沫が立った。
「寒い」と思ったのは一瞬で、全身を針で刺されるような痛みが波のように駆け巡る。どぶんとゆれた水面のように、僕の覚悟も揺れ、そして凍り付きそうになったが、歯を食いしばって耐えた。
さらっとした水底に足をつき、胸から上を出して必死に息を吸う。胸の奥がズキズキと痛み、呼吸が乱れた。
身体の感覚が消え失せるのを待った僕は、池の縁に置いていたナップサックから、彼女と一緒にパワースポットを回って手に入れたお守りを取り出した。親指の大きさくらいのそれを、一つ一つ口に含み、飲み込む。案の定喉に詰まったので、湧き水で胃の奥にまで流し込んだ。
全てのお守りを飲み込むと、今度はナップサックから、麻布に包まれた小刀を取り出した。
取り払った麻布は、さるぐつわのように口で噛む。
何の装飾もされていない表面の木を指で撫ででから、柄に手を掛けた。
あの時、僕にこの短刀を渡した時。黒縄神社の、クロナワさんは、僕にこう言った。
「この神社を出て、少し下ったところに看板があります。そこから細道に入り、ずっと進めば、霊水が湧き出ている池があります…。もし、もう無理だと感じた時…、そこでこれを使いなさい。神がきっと、貴方を救ってくれるはずです」
今がその時なのだ。
僕はぐっと力を込めて、小刀を鞘から抜いた。
あれだけ曇っていた空が、まるで測ったかのように晴れる。金色の光が一直線に差し込み、小型の刃の輪郭をなぞるように照らし出した。
水が流れる音。
銀色に光る刃。
僕は震える手を必死で抑えると、小刀の切っ先を自分の方に向けた。
「…ふうー、ふうー、ふうー！」
なるべく深い息をして心を落ち着ける。
この小刀は、「僕」と、「他者」を救うお守り。
つまり…、「自害」だった。
「ふうー、ふうー、ふうー…」
大丈夫だ。やれる。今まで、沢山辛い目に遭ってきたんだ。自分の胸に、小刀を刺すくらい…、わけないさ！
そう自分に言い聞かせ、僕はゆっくりと小刀の切っ先を、左胸に近づけた。
その時だった。
冷凍庫の中に放り込まれたかのように寒かった辺りの空気が、まるで、石油ストーブの前にいるかのような熱いものに変わった。
キーンッ！ と耳鳴りがする。
あ…、と思った瞬間、僕の目の前に、黒い影が現れた。
それを見た瞬間、身体が硬直する。皮膚を押し破ろうとしていた小刀が、それ以上先に進まなくなった。
「あ…、あ…」
その姿を見るのは生まれて初めてだった。
直感で「こいつだ！」と思った。
