「………」
 立ち止まり、振り返る。
 警察署から全力で走ってきたのか、彼は顔を真っ赤にし、湿った髪から白い湯気を発していた。膝に手をつき、ゼエゼエと荒い息を吐く。何かぶつぶつと言っているようだったが、寒風にかき消され、わからなかった。
「り、リッカ君…」
「なんですか?」
「む、娘を…、離してくれ…」
「………」
 僕は三秒迷った。
 昼間に散々殴られ、千草も「大っ嫌い」と言っている父親だ。そんなやつの言うことなんて聞きたくなかったが、今の僕と一緒にいるよりもマシだと思い直した。
 ため息をつき、吹き付ける風に逆らうようにして父親に近づく。
 自分で「娘を離してくれ」なんて言っておきながら、父親は引きつるような悲鳴を上げて後ずさった。
 僕はずんっと父親との距離を詰め、気を失った千草を彼に預けた。
 父親はそっと、娘の軽い身体を抱いた。
「………」
 僕があまりにあっさりと娘を離したので、父親は遅れて面食らったような顔をした。
 僕は三歩後ずさり、父親に聞いた。
「…僕が怖いんですか?」
「…ああ、怖いよ」
 彼は素直にそう言った。
「神に仕える身でありながら、情けないと思ったかい?」
「いえ…、当然の反応ですから」
 僕はさらに一歩下がる。
 千草の父親も、一歩下がった。
 二人の間は、約二メートル。
 その微妙な距離を保ったまま、彼女の父親が言った。
「千草は…、神様の子供なんだ」
「……」
「生まれながらに、素晴らしい霊力を持っていた。常人が、何十年と修行してやっと得られる、莫大な霊力を、彼女は持っていたんだ。私のような、平凡な神主や、霊力を持たない母親から生まれることはありえない…。これは『奇跡』なんてものではない。きっと、神様が与えた『使命』なんだ…」
「………」
「千草は、神様の子供だ。千草の力を使えば…、悪霊によって苦しむ者たちを救うことができる…」
 千草の細い身体を抱きしめ。父親は歯を食いしばってうなだれた。
「確かに…、私たちは娘に、過度な期待を込めすぎたのかもしれない…。小学生の時は、遊びも勉強も取り上げて、ただ、霊の祓い方や、神官としての作法を叩き込み続けた。娘が、学校で孤立していたのは知っていたさ…。だけど…、これ以外の方法を知らなかったんだ。必ず、娘を最強の霊媒師にしようと…」
「あんた、不器用過ぎるよ」
 僕はぼそっと言った。
 千草の父親ははっとして顔を上げる。
「わ、わかっているよ…」
 また視線を落とす。
「娘が高校生の時に…、初めて反抗されてね…。千草は、護符を私の目の前で破り捨てて、『いい加減にしてっ!』と言ったんだ。酷く震えた声だったよ。その時、自分が娘を追い込んだことを気づいたんだ…。だけど、今更どうしろって言うんだ…。今まで、娘の想いも、意見も全て捻り潰して来たんだぞ? 今更…、『娘の自由にさせる』なんて、器用なこと、私にはできないんだよ」
「だから、千草を連れ戻しに来たのか?」
「本当は来るつもりなんて無かった。だけど…、今年の夏に、千草が、悪霊に取り憑かれた男の子と、色々な神社を回っているって話を聞いてね…」
 心なしか、父親が苦笑した。
「すごく嬉しかったんだ。『神社なんて継ぐもんか!』って言って出ていった娘が…、人を助けるために動いているんだよ? 『ああ、やっぱり、娘は人を助けるために生まれてきたんだ』って有頂天になったんだよ」
 その言葉に、僕も苦笑した。
「あんた、ほんと、不器用すぎるよ」
「…わかってる」
 父親は静かに頷いた。
 僕は父親から、千草の方に視線を移した。
「今日、初めて千草が怒る姿を目にしました」
「…君の前では、どんなだったんだ?」
「神様のような人でした」
 僕は間髪入れずに答えた。
「僕は、生まれながら『コイツ』に取り憑かれていましてね…、僕と関わる人間のほとんどを不幸にしてきました…。僕はそれが認められず…、凝りもせずに『普通の生活がしたい』って躍起になって、空回りを続けて、そして、結局、孤独に陥っていたんです。そんな僕の前に、彼女がやってきました…」
 ふっと笑う。
「千草のお父さん…、彼女はすごい人間です…。孤独だった僕の横に、自分で自分の居場所を作り出したんです…」
「そうだろう…。自慢の娘なんだ」
 父親は嬉しそうだった。
 僕はあの時の彼女の言葉を思い出しながら続ける。
「千草は…、僕の背中に憑いた『コイツ』を祓うことを約束してくれました。色々な方法を試してくれました…。効果があったかどうかは別として…、本当に楽しかった。生まれて初めてでした。誰かとこうやって、幸せな時間を噛み締めて生きるのは…」
 でも…。
「でも…、千草は…、もう…」
「うん…」
 父親は悲しそうな顔をした。腕の中で眠っている娘の頬を撫でる。
「娘は…、無理をしていた…。修行を二年も休んでいたんだ。そんな状態で君の『ソレ』を相手にすれば…、何かしらの影響は受けてしまうんだよ。私だって、神主だからね…、そのくらいわかる。最初は大丈夫でも、霊力を使うたびに、君の傍にいて、悪霊の発する邪気を吸い込み続ける度に、娘の身体は蝕まれていたんだ…」
 父親は僕にこんなことを聞いた。
「つい最近、何かを祓ったか?」
「…僕のことを恨んでいる人間が、僕に呪い返しをしたんです。僕の身体に入ってしまった呪いを、彼女は半日かけて祓ってくれました」
「ああ、そうか…」
 納得したように頷く。
「それが、前々から弱っていた身体に止めを刺したようだね…。娘はきっと、今のままでは祓い切ることができないから…、呪いの一部を自分の身に移したんだよ。確かに、娘の体内に入ってしまえば、食べ物のように呪いや邪気は浄化される…。だけど…、元から弱っていた身体だ。うまく浄化できなかったようだ…」
 消化不良を起こしている胃のようなものか。と思った。
 父親は僕の方を見て宣言した。
「しばらくの間…、娘から離れていてくれ…。娘の呪いは、私が何とかする」
「あんたにできるのか?」
「やるしかないだろう」
 そう言った父親の声は、酷く震えていた。
「それで、いいね?」
「はい…、いいですよ」
 僕は素直に頷いた。元からそうするつもりだった。
 黒い空から湿気た雪が降ってきて、僕の鼻先に触れる。白いそれは一瞬で水に変わった。
 僕はあることを思い出していった。
「…神社の、黒縄神社の、クロナワさんって知っていますか?」
「クロナワさん? ああ…、知ってるよ。昔、千草を連れて挨拶に行ったことがある」
「千草と出会う前に、一度だけクロナワさんに相談しに行ったんです。だけど、クロナワさんにも、僕の『コレ』は何とかすることができませんでした…」
 すると、父親は「ああ…」と、納得したように頷いた。
「クロナワさんにも、無理だったか」
「はい…」
 僕は凍てつく空気を飲み込んだ。
「つまり…、これは詰みです」
「………」
 寒くなってきた。風も強くなって、この場に留まるのは辛い。
 僕は立ち去る前に、父親に告げた。
「僕は千草のことが大好きです」