幽鬼羅刹幸あれ

「なに? 何が悪いの?」
「悪くない! 人助けは良いことだ! だが、神道に背いた人間のすることじゃないと言っているんだ! 人を助けると言うのなら、ちゃんと手順を踏んでやれ! 修行をして、神社を継いで、そこで、困っている人間を迎えろ!」
「はあ? 馬鹿じゃない? なんで私が実家を継がなきゃならないわけ? なんでそういう話になるわけ? 結局、あんたの都合の良いようにしたいだけでしょうが!」
「違う! 世間体というものを考えろと言っているんだ!」
「大っ嫌いなのよ! そういう世間体ってやつが! ずっと、『世間体』って言い続けるあんたが!」
 そうやって人を罵倒する千草を見るのは初めてだった。
 僕を置いてけぼりにして、親子喧嘩は加速する。
「大体! 偉そうに! 私よりも才能が無いくせして! 霊力なんて全く無いくせして!」
「だからこそだろうが! お前は、神様の寵愛を受けた、奇跡の子供なんだぞ! あの神社を次いで、人のために尽くすのが、お前が生まれた意味だろうが! その力を人のために使わずして、神様に顔向けできるのか!」
「だから、それが大っ嫌いだから、家を出たんでしょうが!」
 千草が金切り声を上げる。
「他の神社との世間体ばっかり気にして…、悪霊を浄化できているのは全部私のおかげなのに、胸張ってふんぞり返って…。それに…、神社に相談に来るのは、悪霊がいる場所にふざけて行って、呪われた馬鹿な奴らばっかじゃない! 命を粗末にしている馬鹿の集まりじゃない! なんで私が、そんなやつらのために、魂削らないとダメなのよ!」
「それが使命だからだ!」
 父親の声が通りに響き渡る。
 千草はきゅっと目を閉じ、肩を竦めた。
「な、なによ、偉そうに…」
 そう言いかけた瞬間、千草の身体がぐらっと揺れる。 
 僕が駆け寄る前に、父親のカサついた手が千草の身体を支えた。怒っていながらも、親としての情が湧いたのか、「大丈夫か?」と言いながら、彼女の頬を撫でる。それから、目の下の隈をなぞった。
 その時、父親が何かに気づいた。
「お前…、今、何を相手にしているんだ…!」
「言わない! お父さんには関係無いでしょうが!」
「言ってみなさい!」
「嫌よ! あんたになんかどうしようも無いでしょうが! これは私が祓うの!」
「馬鹿言え!」
 バチンッ! と、痛々しい音が響き渡った。
 父親に殴り飛ばされた千草は、顔を大きくのけぞらせ、その場に倒れこんだ。頬に紅葉のような手形を残し、「うう…」と唸る。
「ちょっと、お前…!」
 我に返った僕は、父親の腕を掴んだ。
「何やってんだよ!」
 だが、興奮した父親には聞こえていなかった。僕の姿が見えていなかった。彼は強い力で僕の上を払いのけると、ずんずんと千草に近づいていく。そして、彼女の胸ぐらを掴むと、強引に立たせた。
「『自分で祓う』だと? なんだこのざまは! お前…、悪霊に呪われているじゃないか!」
「え…」
 間抜けな声をあげたのは、僕の方だった。
 千草が…、呪われている?
 嘘だよな? って目で千草を見る。彼女は、僕とも、父親とも目を合わせようとしなかった。
 だって、千草…、「大丈夫」って言ってたじゃないか。「霊力を使いすぎて、少し疲れた」って。「休めばもとに戻る」って。
 父親はふたたび顔を青くして、彼女の肩を強く揺さぶった。
「なんだ! 何をした! 何を相手にした! おい! 言え! 言え! お前…、このままだと死ぬぞ!」
 千草が…、死ぬ?
 僕の身体の中の血が、一瞬で凍り付いた。
 明らかに動揺した父親は、娘が顔を青くしているというのに、その身体を揺さぶり続けた。まるで、脅迫するように叫び続けた。
「帰れ! すぐに実家に帰るんだ! そこでお祓いをしよう! まだ間に合うはずだ!」
「馬鹿じゃない?」
 千草は目に涙をため、口から涎を糸引きながらそう言った。
「この呪いは、リッカ君の悪霊は…、あんたなんかに、どうにかできるものじゃないのよ…」
「………」
「リッカ君は…、私が…、助けるんだから…、あんたは…、邪魔しないで…」
「………」
 その瞬間、娘の弱った姿を凝視していた父親の肩が、びくっと震えた。
 そして、顔中に脂汗をかきながら、まるで錆びついたロボットのような動きで僕の方を振り返る。
 父親の、年相応に疲れた目が、僕を見た。
「き、君の…、背後にいる『ソレ』は…」
 その怯えた声に、千草がにやっと笑った。
「今頃気が付いたの?」
 その瞬間、父親が娘を突き飛ばし、暴れ牛のような勢いで突進してきた。
 反射的に身構えたが、僕の腕をすり抜け、彼の拳が僕の頬を撃ち抜いた。
 パンッ! 乾いた音が響きる。
 僕はカエルが踏みつぶされたような呻き声を上げて、その場に倒れこんだ。顔を上げた瞬間、父親が僕の上に馬乗りになり、さらに頬を殴った。
「お前か! お前が娘をたぶらかしたのか! よくもそんな危険なものを宿しておきながら! よくも…! お前のせいで、娘が死ぬかもしれないんだぞ!」
 一発、二発、三発、四発…、五発、六発、七発、八発…。
 九発目の拳が僕の鼻先に迫ったとき、乱暴事件だと思った通りすがりの男が、父親をタックルで突き飛ばした。
「お前! 何やってんだ!」 
 顔も名前も知らない男の、野太い声が響き渡る。
 突き飛ばされた千草の父親は、その場に蹲り、「千草…、千草…、千草…!」と、我が娘の名前を呼んでいた。
 僕も、薄れゆく意識の中、、首を動かして彼女の方を見る。

 そして、驚愕した。

 倒れこんだ千草は、死んだように気を失っていて、彼女の周りを黒い霧のようなものが漂っていたのだ。それは、まるで生きているかのように蠢き、収束し、黒い塊となって彼女の胸の上に降り立つ。
 その光景は、死神が人間の魂を喰らっているかのようだった。
 通りすがった人が、次々と僕や千草に駆け寄り、「大丈夫か!」「大丈夫ですか?」と話しかけてくれた。だが、触れた者は、次々に、「ひいっ!」と悲鳴を上げて手を引っ込めていく。何か変なことでもあったのかな? いや、おそらく、「何か」の気配を感じ取ったのだろう。
 蹲った父親が顔を上げて、僕を睨みつける。
「お前のせいで…、娘は…!」
 何も返すことができなかった。
 僕はふうっとため息をつき、仰向けになったまま、空を見上げた。十秒と経たないうちに、灰色の雲から、生ぬるい雨が降ってくる。腫れあがった頬に触れる水滴は、まるで弾丸のようだった。

 そろそろ潮時だな。って思った。