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 授業が終わると、千草を優しく揺り起こした。
「ん? あれ…」
 千草はパチッと目を開けると、口元を伝う涎を拭った。
「寝てた?」
「うん、寝てた」
「やばい…、黒板写してない…」
「大丈夫、僕がとっておいたから」
 僕は今日の授業のことが書かれたノートを、彼女の目の前でパタパタと振った。
 千草はとろんとした目でそれを見て、「ありがとう」と言った。
 その日の授業はそれだけだったので、学食で昼食を食べてから、大学を出た。
「夕方はなにする?」
「ちょっと、欲しい服があってさ、付き合ってよ」
「服くらい自分で買えよ」
「なによお、ファッションって、人が見ないとわからないでしょうが」
「僕にファッションセンスを求めるなよ」
 そんな不毛な会話をしながら、大学前の歩道を歩き始めた時だった。
 背後から、男の声が彼女の名前を呼んだ。

「千草っ!」

 デジャブのようなものを感じつつ、二人同時に振り返る。
 そこには、顔面蒼白の男が立っていた。年齢は、四十後半、いや、五十前半くらいか? 皺が目立つ顔に、紫色の唇。白髪交じりの黒髪はワックスで整えられている。もこっとしたダウンを着ているため、体型はわからなかったが、多分やせ型だと思った。
 誰だ?
 僕が眉間に皺を寄せる。
「お、お父さん?」
 千草が顔を青くして、三歩後ずさった。
 僕は思わず声を上擦らせた。
「え、お父さん?」
 千草の顔と、急に話しかけてきた男の姿を交互に見やる。当たり前のことだけど、全く似ていない。彼女のくりっとした眼とか、八咫烏の翼のような黒髪とか、華奢な身体とか、もう見る影も無い。
 僕は目を擦った後、聞いた。
「本当に、お父さんなの?」
「う、うん…」 
 千草が震える声で頷いた。
 本当にお父さんなのか。
 でも、なんでここに?
 彼女の父親は、娘の姿を見るなり、目を見開き、ダウンを着た肩を震わせた。感動の再会に歓喜している…わけではないな。半開きになった口からは荒い息が洩れ、瞳の奥に、焼けるような怒りが宿った。
 父親は、バタバタと千草に詰め寄ると、その華奢な肩を骨張った手で掴んだ。
 そして、思わず耳を塞ぎたくなるような声量で怒鳴った。
「何をしているんだっ!」
 千草の身体がびくっと震える。だが、すぐに歯を食いしばって抑えると、父親の顔を睨んだ。
「お父さん! 急にどうしたの? なんで? なんで人の大学にまで来るわけ!」
「当たり前だろう! 私はお前の父親だぞ!」
 傍から見れば、不審者の男が優美華麗な女に詰め寄る案件ものの光景、はたまた、過保護な親による、行き過ぎた干渉だろうか?
 父親の顔がみるみる赤くなっていき、それに比例するように、彼女の肩を強く揺さぶった。
「水奈森神社の、神主さんから聞いたぞ! お前、夏にあそこを参拝したらしいな! 赤霧旅館にも泊ったと聞いたぞ! 家を捨てて出ていったくせして、どうしてそんな礼儀に欠けたことをするんだ! なんで私に相談しなかった!」
「なによ…、神社を参拝して何が悪いわけ? それに、旅館の件は、私が解決したんだから、力を貸してもらうのは当たり前じゃない!」
 千草も顔を真っ赤にして反論する。
 歩道の真ん中で言い合いを始める二人。通りすがったものは、「なにあれ?」って感じの視線を向けてきたが、ありがたいことに、立ち止まらずに通り過ぎていってくれた。
「悪霊に取り憑かれた男の相手をしていると聞いた!」
 僕の事だと思った。
 千草は一瞬押し黙る。