「そ、ん…、なこと…、わかって…、る…」
 西条加奈子は、黒い血を絶えず吐きながらそう絞り出した。そして、にやっと笑った。トレンチコートのポケットから、灰色の護符を取り出すと、くしゃくしゃに丸め、薬でも飲むかのように口の中に放り込んだ。
「え…、何を…?」
 僕の頬を、血と冷や汗が伝った、次の瞬間だった。
 僕の胃袋に、まるで泥の靴で踏みつけられたかのような痛みが走った。
「うぐっ!」
 咄嗟に腹を抑えて蹲ったがもう遅い。胃袋から胸、そして、喉にかけて熱いものが走る。花から脳天に掛けて、鉄のような香りが突き抜けた。
 僕は、その場に吐血していた。メリケン粉を水で溶いたかのような、どろどろの血だった。
「ぐえええ!」「げぼおお!」「おええええ!」と、情けない悲鳴を上げながら、その場に血の塊を吐き続ける。これは僕の血じゃない…。何故か、直感でそう思った。
 これは…、西条加奈子の血だ!
「どう…、です?」
 顔を上げると、満面の笑みの西条加奈子が立っていた。
「あの件の後…、神社に行って見てもらった時、これが『呪い』の類であることを教えてもらいました…。祓ってくれませんでしたが…、『呪い返し』の方法は教えてもらったんですよ…」
「呪い…、返しだと?」
「ええ…、とっても…、効くでしょう?」
 次の瞬間、僕の背後にある空気が歪んだ気がした。まただ。また、『何か』が西条加奈子に攻撃を仕掛けたんだ。
 それに気づいた西条加奈子は、二枚目の護符を取り出し、口に含む。
 数秒遅れて、僕に呪いが跳ね返った。
「がはっ!」
 僕はまた咳き込む。吐き出されたのは血ではなく、虫の死骸だった。血まみれでよくわからないが、多分、コオロギだと思う。
「げほっ! ごほっ! があっ!」
 僕は立て続けに咳き込んだ。その度に、喉の奥から、バッタ、ゴキブリ、カナブン、カメムシ、蝶々の死骸が吐き出される。
 地獄絵図のような光景を見て、西条加奈子は顔を真っ赤にして喜んでいた。
「…ああ、よかった。今まで、生きてきてよかった…!」
「くっ!」
 僕はウインドブレーカーのポケットに手を入れ、千草とパワースポットめぐりをしたときにもらった、魔除けの石を取り出した。
 迷うことなく、それを口の中に放り込む。そして、ごくんっ! と飲み込んだ。
 だが、すぐに大量の虫と共に吐きだしていた。
 西条加奈子が笑う。
「馬鹿ですね…、人を殺せる呪いですよ? パワースポットの石ごときで何とかなると思いますか?」
「て、てめえ…」
 僕は血やら死骸やらを吐き出し、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら西条加奈子を睨んだ。
 彼女は、歪んだ笑みを浮かべた。
「勘違いしないでください。貴方がいい人だということを、私は知っています。ですが…、貴方に憑いていた悪霊が、私の人生をめちゃくちゃにしたことには変わりません…。失った分は、それ相応に取り戻さないと、私の気が晴れないんですよ…」
 トンカチを握りなおす西条加奈子。
 手足が痺れて動けない僕に、ゆっくりと近づいてきた。
「やっと、やっと、殺せる…」
 そう引きつった顔で言った彼女は、震える腕を振り上げた。
 その時だった。
「リッカ君!」
 千草の声が聞こえた。
 僕が吐血しながら振り返ると、通りの向こうから千草が走ってくるのが見えた。
 それに気づいた西条加奈子が舌打ちをする。
「ああ…、今の彼女さんですか…」
「だったら…、なんだよ…」
「可哀そうに…、と思っただけですよ。私と同じ道を歩むなんて…」
 そう言った瞬間、西条加奈子はトンカチを振り切った。
 僕は咄嗟に顔を引く。
 しかし、トンカチは僕のこめかみの辺りを容赦なく撃ち抜いた。
 頭蓋骨は割れていない。だけど、皮膚が裂けて、そこから血が吹き出した。
「リッカ君!」
 倒れこんだ僕に、千草が駆け寄る。
「ねえ! リッカ君! しっかりして!」
「だ、大丈夫だ…」
 僕は血を吐きながら返事した。
「それよりも…、加奈子を…」
「かなこ…?」
 千草は、僕の身体を支えながら、西条加奈子を睨んだ。
 そして、全てを察したように言った。
「あなた…、リッカ君の悪霊に呪われてるね」
「あら…、気づいているんですか?」
 西条加奈子は身体をゆらゆらと揺らしながら、首を傾げた。
「どうして?」
「悪いことは言わないわ! 武器を捨てて! できる限りで、私が浄化してあげるから!」
「ああ…、霊力のある人ですか…」
 西条加奈子の目がすっと細くなった。
 トンカチを振り上げるかと思いきや、手を離し、その場に落とす。
「もう遅いんですよ。私はもう助かりません。地獄に半歩踏み入れているんです…。それに…、助かったところで、大好きな家族はもういないんです…。みんな、この男の悪霊によって、地獄に連れていかれましたから…」
 西条加奈子は挑戦的に言った。
「彼を助けるものなら、助けてみてくださいよ。私は、彼に呪い返しをしたんです。流石に、全てを返すことはできませんでしたが…」
 西条加奈子の口から、どろっとした血が流れ出る。
「わかりますか? 呪い返しです。人を殺すほどの呪力を持ち、今まで、どんな神主も僧侶も祓うことができなかった強力な呪いを、彼は受けたんです…」
 真っ赤な歯を見せて、彼女は笑った。
「本望ですよ。憎き相手に、命を賭して復讐をしたのだから」
 トレンチコートの裾を翻し、彼女が踵を返す。首だけで振り返って言った。
「さようなら…、君との学校生活は…、楽しかったよ。ただ…、君が運が悪かった」
 すたすたと歩き始める。
 千草が西条加奈子を呼び止めた。
「待って! ダメよ! あなた! そのままじゃ!」
 西条加奈子は無視をして歩く。
 そして、通りの奥にあるT字路に出た瞬間、右から飛び出してきた大型トラックに撥ね飛ばされた。
 トラックが停車し、中から若い男の人が出てきた。彼は「うわあああ!」と叫びながら、はるか遠くに吹き飛ん西条加奈子に駆け寄っていった。ここからじゃ見えないが、きっと、原型は留めていないと直感で思った。
 千草の目に、陰が差した。
 彼女は僕を引きずって道路の端に寄せると、その場で印を結び、僕の背中を強く叩いた。
 その瞬間、また強い吐き気が込み上げて来て、僕はその場に吐いた。血やら虫の死骸やらがドボドボとその場に滴った。
「ごめん…」
 千草が謝る。
「流石に、こうなることは予想してなかった」
「いや…、ありがとう…。あのままだと、僕は殴り殺されていた…」
「偶然よ…。コンビニで牛乳も買ってほしかったから、追いかけてアパートを出ただけだから…」
「それでも…、助かった…」
 僕はまた吐いた。血に塗れた護符が、べちゃっと落ちた。 
 千草はほっと息を吐いた。
「とりあえず…、呪い返しの護符は吐き出せたね…。これで少しはマシになると思う」
「あ、ああ…」
 彼女のいう通り、吐き気が収まった。まだ胃の奥がむかむかとして、身体がインフルエンザに罹ったときのように火照っているけれど、耐えられない苦しみじゃない。
 千草が僕の腕を取って、ゆっくりと立ち上がる。
「とりあえず、帰ろうか…」
 事故の音を聞きつけて、近くにあった民家から、人がぞろぞろと出てくるのがわかった。
 彼女は、右手で印を結び、僕の吐しゃ物に翳した。多分、そのままにすると、そこに邪気がこびり付いてしまうからだろう。
「ごめん…。本当に、ごめんね…」
 帰り道、千草は何度も僕に謝った。