浴衣を着て、まだ湿っている髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、畳の上に布団が敷いてあった。机が端に避けられ、新しい茶菓子が用意してある。女中さんがやってくれたのだろう。
まだ眠る気分じゃないし…、それに、布団くらい自分で敷くのになあ。と思いながら、下駄を脱いで部屋に上がる。つい最近新しくしたのか、爽やかなイ草の香りが鼻を掠めた。
奥の障子が少し開いていて、その奥にある小さなスペース…、広縁って言うんだっけ? そこに置かれた竹の椅子に、浴衣を着た如月千草が腰を掛けていた。
「何やってんの?」
布団を跨いで、彼女のもとに歩み寄る。
如月千草は、頬を桜色に染めて振り返った。
「ほら、景色、綺麗だよ」
「あ…、ほんとだ」
窓から見える町は、藍色の闇が舞い降り、そこに光の粒をまぶしているようだった。ここに来たときは実感が無かったが、案外標高の高い場所に泊っているんだなと思う。
如月千草は、「写真撮らなきゃ…」と言って、足元に置いていたスマホを手に取り、窓に翳した。だが、光の調整がうまくいかず、撮れた写真の街並みはぼやけていた。
「ありゃ、ダメだ」
「夜景モードとか無いの?」
「最新機種じゃなからね」
彼女は残念そうに言うと、僕にスマホのレンズを向けた。
「はい、チーズ」
そう言われ、反射的に口角をにやっと上げた。
それを見た如月千草は、盛大に吹き出した。
「ちょっと、なに? その顔!」
「いや、ごめん…」
写真には慣れていないんだ。小学校五年の、あの事件があってからは。あれから何度も、クラスで色々な場所に出かけたが、なるべく写真に写らないようにした。
だから、笑顔のやりかたなんてわからなかった。
「で、どんなのが撮れたの?」
僕は如月千草のスマホを覗き込もうとした。
如月千草ははっとして、身を引く。
「ごめん…、うまく撮れなかった。その、『アレ』がね」
「あ、そう」
撮れた心霊写真を見せないのは、彼女なりの配慮だと思った。
如月千草は、スマホを操作して、さっき撮れた写真を消去すると、スマホに向かって何かを唱え、指で印を作って除霊をしていた。
「…スマホに、乗り移ったのか?」
「そんなものかな? 『そいつ』そのものは移ってはいないんだけど…、そいつの念が入った邪気がね。心霊写真を持っていたら危ないのって、そういうことなの」
「……」
不意に、五年生のことが頭を過った。
それを振り払うように、如月千草の声が耳に届く。
「そうだ、ちょっとそこに正座してみて」
「正座?」
「あ、柔らかいところがいいね、布団の方に行こうか」
「う、うん」
「エッチなこと考えちゃダメだからね?」
「考えてないから」
畳の部屋に戻ると、僕は柔らかい布団の上に正座をした。
如月千草の言ったとおりに、肩の力を抜き、彼女のお腹の方をぼーっと見つめる。
如月千草は、浴衣の内側に隠し持っていたペットボトルを取り出し、シャカシャカと振った。白く濁った液体…、それは、さっきの露天風呂の霊泉だった。
如月千草が浸かった、露天風呂の湯。
彼女はそれで指を湿らせると、いつものように、唱え言葉を発し、指で印を作った。そして、「はっ!」という掛け声と共に、僕の額に指を押し当てる。
バチンッ!
と、目の前で火花のようなものが弾けた。
僕は「うわっ!」と悲鳴を上げ、何か強い力に突き飛ばされたように、布団の上に背中を打ち付けた。
「……」
まだ頭がひりひりしてる。
「…どうだった?」
「ダメね、反撃喰らっちゃった」
如月千草は残念そうに言うと、僕の額を突いた右手の指を、左手で抑えた。
「ごめん…、ちょっと、私の鞄から絆創膏とってくれない? さっきので…、爪をやられた」
「え…?」
彼女の手を覗き込んで、背筋に冷たいものが走った。
如月千草の人差し指と、中指が真っ赤に染まっていたのだ。それが鮮血であると理解するのに、一秒とかからなかった。
流れ出した血が、みるみる彼女の左手に溜まっていく。