神主さんは、如月千草に向かって恭しく礼をした。
 知り合いなのか? 
 見れば、巫女さんもきょとんとした目をしていた。
「おい、如月、知り合いなのか?」
「あ、うん。そんなものだね」
 如月千草は、神主さんの方を見たまま、曖昧な返事をした。
 神主さんは「いやあ、お久しぶりですなあ」と、間延びした声で言い、脂っぽい頬を撫でた。
「前に来たのが、いつでしたっけ?」
「ええと、二年前だね」
「もうそんなに経つんですか? ってことは、もう成人したんですか?」
「そうだね、だから、今は大学に…」
「大学ですか、綺麗になられて」
 神主さんは大人らしく、余裕を持った声をしていた。
「御父様の仕事は継ぐんですか?」
「いや…、どうだろう? まだちょっとわからないや」
「そうですか。継いでくださったら、御父様もきっと喜ぶでしょうね」
「さあね? 喜ぶのやらどうやら?」
 如月千草と、この神社の神主さんは、そうやって、身の上話を続けた。
 忘れ物にされた僕と巫女さんがぼーっとしていると、神主さんが「あ、そうだ」と手を叩いて僕の方を見る。そして、険しい顔をした。
「とんでもないものに取り憑かれてますね」
「あ、はい」
 この人も見える人か。
 こう言う顔をされるのはもう慣れっこだった。神社や寺に行くと、大抵の人が、眉間に皺をよせて、唇を一文字に結びながら僕のことを見に来る。そして、僕の背後の存在に気付く。
 これを祓おうとするか、放っておくかで、その人の賢さがわかった。当然、賢いのは後者だった。
「うーん…」
 神主さんは数十秒唸り、僕の背後の「何か」を睨み続けた。
 巫女さんが、「どうですか?」と聞いたが、答えなかった。
 さらに十秒考えた後、神主さんは絞り出した。
「これは…、我々の手には負えませんね…」
「そうでしょう?」
 如月千草がため息混じりに言った。
「私も何度か試したんだけど、びくともしないのよ、コイツ」
「千草さんでも通用しなかったんですか? それは…、流石に…」
「彼、他の神主や法師のところにも行ったらしいけど…、みんな無理だったらしいの。だから、試しに、『神様』の力を利用してみようと思ったんだけど…、あんまり効果は無かったね。ちょっとおとなしくなる感じ」
 如月千草がははっと笑うと、ショルダーバッグに入れていたペットボトルを取り出し、中の霊水をシャカシャカと振った。
 神主さんは、それを見て少し嬉しそうな顔をした。
「ああ、うちの霊水ですか。御神体の山から湧き出ているので、私よりも効果はありそうですね」
 如月千草は、さらにショルダーバッグから観光パンフレットを取り出し、地図を広げて神主さんに見せた。
「ほら、これ…、他にもパワースポットを回ろうと思っているんだけど…、何処が良いと思う? 流石に、一日じゃ回れないから」
「そうですね…、こことかいいんじゃないですか? 坂を下ったところにバス停があるので、それに乗って行けば、十分くらいで着くことができますよ? ああでも、道がちょっと険しいので、その格好じゃ、怪我をするかも…」
「まあ、険しい道には慣れてるからね。父さんとの修行でよく歩いたから」
「ああ、そうですか。それなら安心ですね」
「うん」
 神主さんは、僕と如月千草に「ちょっと待っててくださいね」と言うと、本殿の方へと走っていった。その間に、僕は無病息災のお守りを、彼女は学業のお守りを巫女さんから買った。お守りを受け渡すとき、巫女さんの手は震えていた。よっぽど僕の背中の『何か』が怖いのだろう。
 本殿の方へと行っていた神主さんが、砂利を踏み鳴らしながら戻ってきた。
「千草さん、気休めになればいいですが…、これをどうぞ」
 そう言って、五枚の護符を渡される。
 如月千草は苦笑しながらそれを受け取った。
「悪いね」
「いえ…、人を助けるのが、我々の仕事ですから」
「うん、ありがたく受け取っておくよ。一応、私も札の囃し方は知ってるから」
 札を観光パンフレットに挟み込むと、彼女は優しくショルダーバッグに仕舞いこんだ。
 僕の方を振り返り、優しく微笑む。
「じゃあ、次に行こうか」
「あ、うん」
 帰りに、参道の端に立ち並んだ出店を冷やかしで見て回ったが、特にこれと言ったものは無かった。
 何も買わず、神社を後にする。
 アスファルトで舗装された山道を歩きながら、僕は如月千草に先ほどのことを聞いた。
「前の神社もそうだけど…、如月って、なんかこう…、顔が広いな」
「そこまでも無いけどね」
 彼女はそっけなく返事をし、ショルダーバッグからコンビニで買った霙飴を取り出し、コロンと舐めた。僕の方にも、一つイチゴ味を寄越してくる。
 僕は飴を口に放り込み、もごもごとしながら続けた。
「如月の家って、なんなの?」
「会話で察してよ」
 如月千草の声は、何処か突き放す感じだった。
 落石だろうか? 彼女は、道端に落ちていたごろっとした石ころを厚底のサンダルで蹴飛ばした。石は地面を転がり、ガードレールの向こうの茂みに消えた。遅れて、バサバサッ! と雀のような小さな鳥が飛び立つ。
「あーあ、やっぱり気づかれたか…」
「気づかれたかって…、あの神主さんにばれたくなかったの?」
「まあ、そんな感じ」
 如月千草は気まずそうな顔をして、後頭部をポリポリと掻いた。
「この神社…、効果はあるんだけどねえ…、神主さんが礼節を大切にする人だから…、出くわすと絶対に話し込んじゃうのよ。あー、めんどくさいめんどくさい、私が人見知りだって知らないのかな? まあ、知らないか…」
 話し込むってほどの長さでも無かったけどな。
 如月千草は「まあいいか…」と言うと、ショルダーバッグを上からぽんぽんと叩いた。
「護符をもらえたからね。嫌な思いをして出くわした甲斐があったもんだ」
「その護符って、使えるの?」
「リッカ君の部屋に貼ってあるやつよりはよっぽど効果があるよ? 何せ、神聖な霊水を使って擦った墨汁を使ってるからね」
「そうなんだ…」
 僕がそう相槌を打つと、如月千草は我に返ったように、はっとした顔になった。
 さっきの出来事を忘れるかのように、髪の毛を振り乱して首を横に振る。そして、いつもの快活な顔になると僕に微笑んだ。
「ま、そういうわけよ」
 どういうわけだ?
 疑問を残したまま、僕たちはバス停に着いた。神主さんは「徒歩十分」と言っていたが、実際はニ十分くらい歩いた気がする。まあ、十分程度の誤差は切り捨ててやるか。
 近くにあった自販機で水を買い、ベンチに座ってちびちびと飲んでいると、坂道の向こうから市内バスが走ってきて僕たちの前に停車した。
「よし、行こうか」
「うん」
 観光客らしき人たちが降りるのを待ってから、僕たちはバスに乗り込んだ。一応運転手に、「このバスは石野宮神社に行きますか?」と尋ねた、いかつい顔の運転手だったが、「はい、行きますよ」と穏やかに言われた。
 バスの一番後ろに隣り合った座る。
 僕は座席シートに背をもたれ、人がいないことをいいことに、脚をだらんと投げだした。
「歩き疲れた…。もう無理」
「まだ一件目でしょうが。この時間帯なら、あと三件は回れるけど? どこも山の中にあるから、結構歩かないとダメだよ?」
「それをさ、先に言ってくれよ。アパートを出る前にさ」
 僕はパンパンに腫れたふくらはぎを親指で揉んで、気休め程度にほぐした。
 如月千草は呆れたようにため息をついた。
「もう少し頑張れるものだと思ってた」
「逆に、如月が強すぎなんだよ」
 僕は如月千草の顔を覗き込んだ。彼女の顔は、白くふっくらとしていて、まだまだ余裕って感じが滲み出ている。
「何か運動でもしてたの?」
「いや、運動は特に」
 彼女は頬をぴくっと動かしてから、首を横に振った。
「霊力がある身…、神社に行く機会が多かったから…、自然と入り組んだ地形には強くなったの」
「へえ、羨ましいや」
 僕はなぞるように言った。
 アスファルトで舗装されているとは言え、山道には細かな落石や枝葉が落ちていて、それを踏むたびに、バスの大きな車体が揺れた。
 その拍子に、僕と如月千草の肩が触れ合う。彼女ははなんてことないように、「あ、ごめん」と言ったが、僕はあの時の「除霊」が思い起こされ、一人で勝手に赤面した。
 それがばれないように、右手で顔を抑え、下を向く。
 僕がよっぽど疲れているように見えたのか、彼女は本気で心配した声をあげた。
「あの…、本当にきついの? なんかごめん…、もう旅館行く?」
「いや…、いい…」
 僕は彼女の方を見なかった。
「せっかくなんだ、行けるところまで行こう」
「そう…」
 それに、旅館に行くにはまだ早い時間…。
「って、え?」
 僕はゆでだこのようになった顔を、如月千草の方に向けた。
 彼女は面食らったような顔になり、「なに顔赤くしてんの?」と言った。そんなことはどうでもよくて…。
「え、旅館に行くの?」
 あの後、僕と如月千草は、二つの神社を回った。
 一つ目の神社は、「石野宮神社」と言って、如月千草が言うには、石の神が祀られているところだった。急な坂を登ったところに艶やかに研磨された鳥居を潜り、空が透けるくらいに磨かれた石畳を進んだ場所に本殿がある。本殿の前に置かれた賽銭箱も石でできていて、空の光を反射して重厚に光っていた。
 お参りを済ませると、そのまま神社を外れたところにある山道を通って、パワースポットに向かおうとしたのだが、邪気を察知した神主さんに見つかってしまった。
 案の定、そこの神主と如月千草は知り合いだった。
 二人は、「千草さんじゃありませんか! どうしたんですか?」「いやあ、この男の子の背後にいる奴をなんとかしようと思って」「ほう、それは素晴らしい心がけですね。御父様を喜びますよ」と、テンプレのような会話をしていた。会話がひと段落すると、僕たちは神主さんに案内されて、パワースポットに向かった。
 そこには、大きな岩があった。伝承によると、この山に住み着く神様が、崖を削ってここに運んできたものらしい。岩には、神様の霊力が宿っているので、これを削って、お守り代わりに持っておく人が多いという。
 僕は神主さんからノミを借りて岩を叩くと、岩はゴルフボールくらいの大きさにころっと割れた。神主さんは、「これを肌身離さず持っておきなさい」と言って、首に掛けれる麻布の袋をくれた。それに削れた岩を入れて、首に掛けた。
 次に向かったのは、「宵之神社」。色々すごい神様が祀られているらしい。とにかく急な階段を登って…、お参りをして…、で、僕の邪気を察知した神主さんに見つかって…、如月千草と知り合いで…、後のことはもうデジャブのようだった。
 三つの神社で、お守り、護符、霊水、霊石を手に入れた僕たちは、そのままの足で、彼女が予約した旅館へと向かった。

 そして、今に至る。

「リッカくーん、どう? お湯の具合は?」
「いや、まあ…、うん、悪くないよ」
 露天風呂の、頼りない竹組みの壁の向こうから、如月千草の面白がった声が聞こえた。
 僕は白く濁った湯船に首まで漬かったまま返事をする。だが、壁の向こうに、裸の如月千草がいると思うと、気恥ずかしさが勝って声が出なかった。
 壁の向こうで、如月千草が大声を出す。
「ちょっと! 何言ってんの? 聞こえないんだけど! のぼせちゃった?」
「いや…、のぼせてないけどさ…」
「ここのお湯、いいでしょ? 私も、この町に来たときは、必ず入るようにしてるの!」
 バシャッ! と、湯を掻く音がした。
 僕も彼女の真似をして、指で湯を払ってみる。白い湯が、空中に華を咲かせるようにして飛び散った。
「………」
 この旅館に入る前、僕は如月千草にごねた。「旅館じゃなくていいよ、安いビジネスホテルにでも泊まろう」と。某旅行サイトによると、一番安い部屋でも宿泊料は、僕が居酒屋で三日バイトしないと払えない額だったのだ。
 そんな高い部屋には泊まれない。
 だが、如月千草は「平気平気」と楽観的に言って、旅館の暖簾を潜った。
「あいつ、すげえな…」
 ごつごつとした岩にもたれかかり、僕は壁の向こうの彼女に感心した。
 ほんと、あいつ何者なんだ? 
 思い出すのは、旅館に入った時。女将さんがパタパタとやってきて、「ああ、如月のお嬢さん、今日はよおお越しくださいました」と言ったのだ。そして、、格安…、いや、ほとんどタダ同然の額で、一番高い部屋に泊めてくれることになった。
「…、いや、すごいわ」
 僕は一人呟くと、湯の中で腕と足を伸ばした。
 湯の温度は丁度いい温さで、長く入っていてものぼせそうに無い。程よく温められている感覚が、疲れ切った筋肉にはよく効いた。
 岩の露天風呂の周りには、松や枯山水など、普段ではお目にかかれない、古き良き日本の荘厳な光景が広がっていた。これで入ってきた客の目を癒すらしいが、庶民の僕には眩しすぎた。「金」ってやつに睨まれているようで落ち着かない。
 綺麗な光景、そして、壁の向こうにいる如月千草を意識して、もじもじしながら、湯の中でふくらはぎを揉んでいると、如月千草の声がした。
「どう? 疲れ、取れた?」
「まあ、マシになったよ」
 僕は少し声を張って答えた。如月千草は「ね? いいでしょ?」と得意げに言った。
「霊泉なんだ。だから、大抵の悪霊は湯に浸かるだけで浄化される」
「で、僕の背後にいる『コイツ』はどうなんだ?」
「うーん、ダメだね。壁から身を乗り出して、私の方を睨んでる。こいつ、見かけに寄らずにえっちいね」
 なに? 『何か』が、如月千草の裸を見ているだと? そんなの羨ましい…、じゃなくて、許せん。
「おいこら」
 僕は露天風呂の「霊泉」とやらを両手で掬うと、背後の虚空に向かった引っ掻けた。
 バチンッ! と、電撃が走るような音がして、湯が空気中で水蒸気に変わった。
「………」
「あんまり刺激しない方がいいよ~、確かに、今の奴でおとなしくなったけど、除霊できるほどの力じゃないし…」
 壁の向こうで、如月千草が言った。ため息に混じって、「あーあ、この温泉もダメか…、そりゃそうか」と聞こえた。
 こいつ、本気で僕の背後の『何か』を祓おうとしているのか?
 僕は湯船から立ち上ると、竹の壁を見つめた。
 丁度そのタイミングで、脱衣所に通じる扉がガラガラッ! と開き、白髪交じりのおじいさんが入ってきた。明らかに六十は超えているだろうに、背筋は柱のように伸び、湿った砂利の地面に踏み出す足も力強かった。こんな高級旅館に泊っているんだ。きっと、ただのジジイじゃないんだろうな。
 おじいさんは、桶でかけ湯を済ませ、「御免なさいね」と一声掛けてから、白く濁った湯船にどぶらんと漬かった。
「……」
 このおじいさんに、『何か』の影響を与えるわけにも行かないので、僕は壁の向こうの如月千草に一声かけた。
「如月! 僕はもう出るからな!」
「あ! 出るの? じゃあ、私も!」
 壁の向こうで、ザバンッ! と湯が跳ねる音がする。
 振り返ると、おじいさんが微笑んでいた。
「いいですね、彼女さんですか?」
「いや…、彼女というか…、恩人ですね」
「そうですか」
 おじいさんが柔らかな笑みを浮かべる。
「恩人と呼べる方がいて羨ましいですよ。人との関りは、大切にしないといけませんね」
「…そうですね」
 僕はおじいさんに頭を下げてから風呂を出た。

 浴衣を着て、まだ湿っている髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると、畳の上に布団が敷いてあった。机が端に避けられ、新しい茶菓子が用意してある。女中さんがやってくれたのだろう。
 まだ眠る気分じゃないし…、それに、布団くらい自分で敷くのになあ。と思いながら、下駄を脱いで部屋に上がる。つい最近新しくしたのか、爽やかなイ草の香りが鼻を掠めた。
 奥の障子が少し開いていて、その奥にある小さなスペース…、広縁って言うんだっけ? そこに置かれた竹の椅子に、浴衣を着た如月千草が腰を掛けていた。
「何やってんの?」
 布団を跨いで、彼女のもとに歩み寄る。
 如月千草は、頬を桜色に染めて振り返った。
「ほら、景色、綺麗だよ」
「あ…、ほんとだ」
 窓から見える町は、藍色の闇が舞い降り、そこに光の粒をまぶしているようだった。ここに来たときは実感が無かったが、案外標高の高い場所に泊っているんだなと思う。
 如月千草は、「写真撮らなきゃ…」と言って、足元に置いていたスマホを手に取り、窓に翳した。だが、光の調整がうまくいかず、撮れた写真の街並みはぼやけていた。
「ありゃ、ダメだ」
「夜景モードとか無いの?」
「最新機種じゃなからね」
 彼女は残念そうに言うと、僕にスマホのレンズを向けた。
「はい、チーズ」
 そう言われ、反射的に口角をにやっと上げた。
 それを見た如月千草は、盛大に吹き出した。
「ちょっと、なに? その顔!」
「いや、ごめん…」
 写真には慣れていないんだ。小学校五年の、あの事件があってからは。あれから何度も、クラスで色々な場所に出かけたが、なるべく写真に写らないようにした。
 だから、笑顔のやりかたなんてわからなかった。
「で、どんなのが撮れたの?」
 僕は如月千草のスマホを覗き込もうとした。
 如月千草ははっとして、身を引く。
「ごめん…、うまく撮れなかった。その、『アレ』がね」
「あ、そう」
 撮れた心霊写真を見せないのは、彼女なりの配慮だと思った。
 如月千草は、スマホを操作して、さっき撮れた写真を消去すると、スマホに向かって何かを唱え、指で印を作って除霊をしていた。
「…スマホに、乗り移ったのか?」
「そんなものかな? 『そいつ』そのものは移ってはいないんだけど…、そいつの念が入った邪気がね。心霊写真を持っていたら危ないのって、そういうことなの」
「……」
 不意に、五年生のことが頭を過った。
 それを振り払うように、如月千草の声が耳に届く。
「そうだ、ちょっとそこに正座してみて」
「正座?」
「あ、柔らかいところがいいね、布団の方に行こうか」
「う、うん」
「エッチなこと考えちゃダメだからね?」
「考えてないから」
 畳の部屋に戻ると、僕は柔らかい布団の上に正座をした。
 如月千草の言ったとおりに、肩の力を抜き、彼女のお腹の方をぼーっと見つめる。
 如月千草は、浴衣の内側に隠し持っていたペットボトルを取り出し、シャカシャカと振った。白く濁った液体…、それは、さっきの露天風呂の霊泉だった。
 如月千草が浸かった、露天風呂の湯。
 彼女はそれで指を湿らせると、いつものように、唱え言葉を発し、指で印を作った。そして、「はっ!」という掛け声と共に、僕の額に指を押し当てる。
 バチンッ! 
 と、目の前で火花のようなものが弾けた。
 僕は「うわっ!」と悲鳴を上げ、何か強い力に突き飛ばされたように、布団の上に背中を打ち付けた。
「……」
 まだ頭がひりひりしてる。
「…どうだった?」
「ダメね、反撃喰らっちゃった」
 如月千草は残念そうに言うと、僕の額を突いた右手の指を、左手で抑えた。
「ごめん…、ちょっと、私の鞄から絆創膏とってくれない? さっきので…、爪をやられた」
「え…?」
 彼女の手を覗き込んで、背筋に冷たいものが走った。
 如月千草の人差し指と、中指が真っ赤に染まっていたのだ。それが鮮血であると理解するのに、一秒とかからなかった。
 流れ出した血が、みるみる彼女の左手に溜まっていく。
「お、おい…」
「早くしてよ…、痛いんだから…。あと、布団に落ちたらダメでしょうが」
「あ、わかった」
 僕は蹴り飛ばされたように、部屋の隅に置いていた彼女のショルダーバッグに駆け寄り、開けた。中には、神社でもらったお守りやら護符やらが入っている。
「え、ええと…、どれ?」
「内側のポケットに、ポーチが入ってると思う…」
「これ?」
「あ、違う…、それはナプキン…、逆側に無い? ピンク色のやつ」
「あ、あった…」
 僕は、バックの内ポケットから、ピンク色のポーチを抜いた。開けて確かめると、絆創膏や包帯、ガーゼが入っている。
 それと、僕の鞄からタオルを取り出し、脂汗をかいている如月千草のもとに戻った。
 流れ出た血はタオルで吸い取り、傷口にガーゼを押し当てて止血した後、剥がれた爪と一緒に絆創膏を巻き付けた。
 如月千草は「ありがとね」と言うと、布団の上に腰を落ち着かせた。
「いやあ、ちょっと焦った」
 そう明らかに動揺した顔で言って、指を閉じたり開いたりする。
「おい、大丈夫なの?」
「大丈夫よお。油断した私が悪い!」
 如月千草は明るい表情を作った。
「私の霊力と、ここの温泉の霊力を合わせれば、何とかなるんじゃいかって思ったけど…、うーん、ダメね。ちょっと深入りし過ぎた」
「深入りって…」
「リッカ君の後ろの『何か』が、怒ったのよ。まさか、霊力を封じて、呪力を返してくるとは思わなかった…」
 呪力を返してきたって…、つまりは、「呪われそうになった」ってことだろう?
 僕はたちまち嫌な汗をかいて、如月千草に詰め寄った。
「おい! 大丈夫なんだろうな? 如月…、死んだりしないだろうな?」
「しないよ…。身体に流れ込みそうになった呪力は、咄嗟に浄化したし」
「でも…」 
 心配だった。
 僕の心を読んだように、如月千草はふふっと微笑んだ。
「私のこと、心配してくれたの?」
「当たり前だろう!」
 僕は思わず声を荒げた。
「今まで、色々な人が…、僕のために動いてくれたんだ! 僕のこの『何か』を祓おうと、賢明に努力してくれた…! だけど、みんな返り討ちにあったんだ!」
 感情の爆発が、富士山の噴火みたいに唐突に訪れる。
 潤んだ視界に、今まで僕のために動いて、不幸な目に遭っていった者たちの顔が浮かぶ。事故に遭った者、病気になった者、家族の誰かを亡くした者、突然、首を吊った者。
「そう言うのは、もう見たくないんだよ!」
 思わず、如月千草の華奢な肩を掴み、上下に揺さぶった。
「僕はお前のことを信用しているんだ! だって、お前が『大丈夫』って言うから! 大丈夫なのか? 大丈夫なんだろうな! もし、お前が死にそうになったら、僕はすぐにお前の元から離れるぞ!」
「馬鹿ねぇ、取り乱し過ぎ」
 荒ぶる僕とは対照的に、如月千草は平和っぽい笑みを浮かべ、僕の額を小突いた。
「大丈夫って言ったでしょ? 私、天才なんだから」
「天才って…」
 何言ってんだ?
 彼女の間延びした声に、高ぶった感情が、一瞬にして鎮まる。
「あ…」
 如月千草の肩に指が食い込んでいたことに気づき、さっと手を引いた。そして、気恥ずかしさから、何事も無かったかのように、そそくさとその場の救急セットを片づける。
 如月千草は乱れた浴衣を、怪我をしていない左手で直しながら言った。
「ごめん、私の方も、ちょっとやり過ぎた。こういうのって、慎重にやらないとダメなの。だから、反撃喰らううのは自明の理だね。次はうまくやるね」
「そうだな…」
 いまいちぴんと来なかったが、僕は頷いた。
 如月千草は布団の上に仰向けになると、両手足を投げだした。
「ふへえ、疲れた! 今日はここまでだね! 続きは明日! 明日やろうは馬鹿野郎!」
「うん…」
 曖昧に返事した後、絆創膏が入っていたポーチをもどすべく、彼女の鞄に近づいた。
 しゃがみ込み、ファスナーを開ける。内側のポケットにポーチを押し込んだ時…、僕の指先に静電気のようなものが走った。
「え…」
 如月千草には聞こえない声が出る。
 そこで何もせずに、そのままファスナーを閉めていればよかったものを、僕はポケットの中で指を這わせ、奥に入っていた何かを掴んだ。すると、また指先に痺れるような痛みが走る。
 まるで、湯の中から何かを取り出すように、それを引っ張り出す。
「……」
 なんてことない。それはただの護符だった。だが、今日行った三つの神社でもらったものとは違う。蚯蚓が這ったような文字の上に、何か、家紋のような朱印がされていた。
 何だろう…?
 気にはなったものの、女の子の鞄の中をこれ以上漁るわけには行かず、僕は護符をそっとポケットの奥に押し込んだ。
 ファスナーを閉め、振り返る。
 如月千草は「ふかふか~」と言いながら、二つ並んだ布団の上を転がっていた。おかげで、僕の陣地までもがぐちゃぐちゃになっている。
 僕はため息をつくと、端にあったテーブルに行き、備え付けてあった急須で茶を淹れた。
 如月千草がばっと身体を起こす。
「あ! 私のも淹れて!」
「はいはい」
 僕は如月千草の分の茶も淹れた。
 せっかくなので広縁に行き、置いてあった椅子に二人で向かい合って座った。
 湯気の立つお茶と、この旅館の名物の饅頭で、寝る前のティータイムとする。
「カンパーイ」
「この状況に『乾杯』が似合うのかは甚だ疑問だな」
 と言いながら、僕は如月千草と湯飲みを突き合せた。
 ずずっ…と飲むと、舌先から喉の奥に掛けて、甘みが広がる。
「あ…、美味しい…」
「でしょ? この近くに、いいお茶っ葉畑があるんだよ。パワースポットめぐりとは関係無いけど…、明日、一緒に行ってみる?」
「ほんと、よく知っているよな」
 彼女の提案を無視して、僕は饅頭を齧った。甘い。
「如月って、何者?」
 単刀直入の質問。
 如月千草は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「やだなあ、しがない大学生ですよ」
「って言う割には、霊力高いし、神社の人と知り合いだったりするんだよな」
「あはははは…」
 如月千草はテーブルの上に湯飲みを置き、気まずそうに頭を掻いた。
 何となく彼女の正体はわかっていたが、追及して欲しくないような雰囲気を漂わせているので、あえてそれ以上聞かなかった。
 代わりに、僕は夜景を横目に、自分の半生を語った。
「こういうのって…、久しぶりだな」
「どういうこと?」
「いや…、こうやって、誰かと一緒に、遠くを訪れて、色々楽しむこと」
「よかった、嬉しい」
「うん、楽しかったよ」
 湯飲みの中の、若葉色の液体がとぷんと揺れた。
「最期の思い出は、小学校の林間学校だったな。あれは楽しかった…。みんなでカレーライス作ったり…、カヌーを漕いだり…、ウォークラリーしたり…。だけど…、帰ったら僕の写真全部にあの黒い影が写っているんだよ。最初は、怖いけど面白かった。自虐ネタにもできたからね。だけど…、人が死んでからは、何もかも変わった。不思議だよな…、あれだけ仲良かったはずなのに、少しずつ、少しずつ、みんなが僕を見る目に『恐怖』が宿っていくんだよ。稚魚から育てた金魚みたいにさ…、一気にじゃない。少しずつ…、毎日見ていないと気づかない小さな変化だった。放課後一緒に遊んでくれた友達は、休み時間しか遊んでくれなくなった。しばらくすると、休み時間も遊んでくれなくなって…、授業中に話かけても、返してくれなくなったね。僕はムキになって、何回も話しかけるんだ、そうしたら、泣きそうな顔で振り返る。その顔がね、訴えているんだよ、『関わらないでくれ』って。そんな顔されたら、僕も身を引かずにはいられないだろう?」 
 甘い茶を飲み、口を湿らせる。
「歳を重ねるごとに…、僕は孤立していった…。時々、変な輩に絡まれることはあったけど、ほとんど虐められなかった。もう、みんなが僕を怖がっているんだ…。僕が歩けば誰かが泣きだすってくらいに…」
 僕は湯飲みを置くと、指を折った。
「ざっと数えて、五十人だ。僕に関わったばかりに、五十人が不幸になった。そのうち、八人は死んだ。そのうち五人は、僕が死体を発見した…」
 思わず笑みが零れた。
「まるでさ…、ちょっと触ったら崩れる砂のお城を弄っているみたいなんだよ。『僕が何かをすれば、誰かが不幸になるかもしれない』って感情が常に、心臓のこびり付いているみたいなんだ。だから、何をするにしても、心の底から楽しめなかった。修学旅行に行っても…、なるべく班の人間とは離れて行動した。写真を撮るときも、うまく対処したよ…。みんな僕の噂は知っているから、すごくホッとした顔をしてたね…。ほんと…、人に気遣う毎日だった」
 饅頭を齧る。
 そして、僕の話をじっと聞いてくれる如月千草の顔を見た。
「なあ、如月…。お前はまだ、僕のことを詳しく知らないだろう? 何が好きか…、とか、どんなものを食べるとか…、どんな人間かとか」
「そうだね」
「僕はね…、『いいやつ』なんだ」 
 自分で言うと、滑稽だった。
「これは自己評価じゃないよ。他者の評価だ。みんな僕から離れるときに、口々に言うんだ。『お前はいいやつだ。いいやつなのはわかる。だけど…、お前はこれ以上人と関わらない方がいい』って」
 つい最近は、バイト先の同僚と、アパートの隣のお姉さんに言われたな。
「まあ、僕の恨みを買わないための口実かもしれないけどね…」
「いや、リッカ君は優しいね」
 如月千草はそう言った。
「別に…、気を使わなくてもいいぞ」
「いいや、優しい!」
 彼女は謎の自信を持ってそう宣言した。
 あまりにもはっきり言われたために、僕は浴衣を着た胸の辺りがむず痒くなる。
「…なんでだよ」
「だって、人に気を使って生きてきたんでしょ?」
「いや…」
 思わず目を背ける。
「嫌いだよ…、そう言う考え。『人に気を使う』イコール『優しい』だなんて…。単に、『人を傷つけるのが怖い』だけだよ。それに…、人に気を使った覚えなんて無いよ。その証拠に、僕は他県の大学を選んで進学して…、この悪霊の呪いを広めたんだ…。これの何処が優しいんだよ。自分のことしか考えていない馬鹿だろうが」
「人として生きようとするのは良いことだよ」
 如月千草はそう言った。
「時には、自分の意思を貫くことも大事ってことだよね」
「なんだ…、都合のいい頭だな」
「ううん、大事なことなんだ…」
 彼女は念を押すように言った。その目は、僕を見ず、膝の辺りを見ていた。
 僕は思わず、意地悪な質問をした。
「如月は…、将来、何になりたいの?」
「え…」
 如月が僕を見る。くりっとした目に、桜色の頬。ぽかんと開いた口が、可愛らしいと思った。
「如月には、夢があるのか?」
「いや…、その…」
 途端に歯切れが悪くなる。
「まあ、無いことはないよ?」
「教えてくれよ。如月が良いのなら」
「いや…、くだらない夢だよ」
「くだらないかどうかは、僕が決める」
「あのねえ…」
 如月は逃げ場を失くしたようにうなだれた。
 少し間を置いて、彼女は言った。
「その…、『普通に生きたい』の…」
「普通?」
「リッカ君の考えと似ているのかもね…、悪霊にも何にも縛られずに、悠々と生きていきたいの」
「そう…」
 何と返せばいいのか、わからなかった。
 変な沈黙が部屋を包み込む。
 如月千草は、「ああ、もう、変な空気になっちゃった」とわざとらしく言うと、まだ熱い茶をぐいっと飲みほした。
 椅子から立ち上がり、伸びをする。
「そろそろ寝ようよ。明日も歩かないとダメだし」
「……うん、そうだな」
 歯を磨いてから、僕たちは布団に入った。
 部屋の灯りを落としてもすぐには眠れなかったので、備え付けのテレビを付けて、クイズ番組を眠る前のBGM代わりにした。
 淡く光るテレビの液晶を眺めながら、如月千草が言った。
「あの人…、憑かれてるね」
「え…」
「ほら、司会者…。女の霊が憑いてる。すごく恨んでるね…。早めに対処しないと…大変なことになる…」
「そう…。僕のやつと比べたら?」
「…月と鼈」
 僕の背後にいる『何か』が、RPGの裏ラスボスだとしたら、その司会者に憑いている霊は中ボスらしい。
 瞼が重くなった。
 隣を見れば、如月千草も目をとろんとさせている。
 僕はおぼつかない声で聞いた。
「指…、大丈夫?」
「大丈夫」
 布団の中から、彼女の手が伸びてきて、僕の目の前にぽんっと置かれた。
 どういう意図でそうしたのかはわからない。どうすればいいのかわからなかった僕は、とりあえず、自分の手を、彼女の手の上に重ねていた。指を這わせ、絆創膏が貼られた爪の辺りに触れる。
 彼女はびくっと肩を震わせた。
「痛いの?」
「まあね」
「ごめん」
 テレビから発せられる音がはっきりとしなくなった。
 瞼がずっしりと重くなり、僕は抗わずに目を閉じた。思考が鈍る。泥に沈むみたいに、感覚が消え失せる。
 重ね合わせた手を離さないまま、僕と彼女は夢の中に吸い込まれていった。
 一泊二日の除霊旅行(?)から帰ると、如月千草は、真っ先に僕の部屋を訪れた。そして、この二日で得た護符やお守り、除霊アイテムなどの使い方を僕に教え込んだ。
「どれもご利益があるけど…、一度に使ってしまったら、前みたいになるからね…。一つ一つ、ありがたく使っていこうね」
「うん」
 六つの神社を回って手に入れた大量の護符は、大半を部屋の結界に使うことにした。余ったものはお守りとして所持し、自分、及び、他者が邪気に当てられたときに使うと効果を発揮してくれる。
 霊水や霊泉は、主に、邪気に犯された護符のお清めに利用する。と、彼女は言った。
「ただ…、腐らせると逆に変なもの呼び寄せちゃうから…、冷蔵庫で保管しよう。まあ、それでも持って一か月かな? 多分、それまでには全部使い切ると思う」
「お守りはどうするの?」
「そうだね、どれも種類が違うから…、全部一緒に持つのはダメだね。どうせ、この悪霊は強力だから、一週間も持たないと思うの。だから、一つのお守りを所持して、邪気にやられたらもう一つのお守りを持つ…、って感じにしよう」
「邪気に汚されたお守りの処分は?」
「私がしてあげる。護符と一緒に、もらってきたお清めの水を使えば、大丈夫だから」
「頼もしいな」
「まっかせなさい!」
 如月千草は、ふんっと息を吐くと、控えめな胸を叩いた。
 二日間で集めた護符やお守りは、全て強力な霊力を有していて、僕の力になってくれる。その証拠に、僕の背後にいる『何か』の動きが鈍くなっていること、周りに悪霊が寄ってきていないことを、彼女は教えてくれた。
 これまでと変わらず、人と関わることは危険だったが、深くかかわらず、社交辞令程度にしておけば問題は無いらしい。つまり、大学にも授業を受けるくらいなら大丈夫だということだ。
「……」
 彼女の言葉を信じて、僕は大学に行くことにした。

      ※

 次の日。
 リュウセイやタケルからは、相変わらず連絡は来なかった。もう二度と来ることはないだろう。大学に行ったって、「おう!」って挨拶して、それっきりだと思う。怖がられて、もう二度と近寄ってくれないんだ。悲しくはない。むしろ懐かしい。人を不幸にしてきた僕の人生はやっぱこうでないと。
 リュウセイやタケルの他に、友達なんていなかった。友達付き合いは最低限に留めていたからだ。人と関わってはいけない僕にとってはこれで良いのかもしれない。
 さて、独りで大学に通って、一人で授業を受けて、一人で学食を食べて、一人で帰宅するとしますか。
 そう思い、支度を終えた僕がアパートを出ようと扉を開けた時だった。
 扉の前に、如月千草がいた。
「……何やってんの?」
「やだな、様子を見に来たんだよ」
 寒くなってきたからか、薄地のセーターとロングスカートを着た如月千草は、僕を見るなりにこっと笑った。
 部屋を覗いて、満足そうに頷く。
「うん…、ちゃんと護符の結界が働いているね。『そいつ』の他に、悪霊はいないみたい」
「千草の言うとおりに、取り替えているからね」
「古くなった護符とかお守りは頂戴ね。私が浄化させるから」
「うん、じゃあ、大学から帰った後に頼むよ」
「任せなさい」
 僕と如月千草は、肩を並べて歩き始めた。
 通りは閑散として、秋の寂しげな風が吹き抜けていた。千草は「うう…、寒い」と、大げさに肩を竦める。風に靡く彼女の黒髪を見た時、僕は、ああ、そうか…。って思った。
 僕は人と関わってはいけない。背中に「コイツ」がいるから。だけど、彼女となら、身に押し寄せる邪気を祓うことができる彼女となら、こうやって肩を並べて歩いたり、他愛の無い話をしたりすることができるのだ。
「リッカ君って、寒さに強い方?」
「いや、弱いよ…」
 喉の奥に詰まっていた栓が、ポンッ! と音を立てて抜けるようだった。
「人と関わらないようにしているとね…、自然と部屋に引きこもるんだ。暖房でぬくぬくの部屋にね」
「いいなあ…、私の家、そう言うのが無かったから」
「貧乏だったの?」
「そう言うんじゃなくて、お父さんが使わせてくれなかったの。『軟弱者はダメだ』って」
「ああ、そういう」
 その後は、本当にくだらない会話をしながら歩いた。
 約三週間ぶりの大学だ。教室に入った時、既に来て雑談を交わしていた生徒らが、ぎょっとした顔で振り返り、またお互いに向き直って会話を始めた。耳を済ませると、「あいつ、大学辞めたんじゃなかったのか?」と、根の葉も無い噂が聞こえた。
 誰かが言うのが聞こえた。「あいつに近づくなよ、呪われるぞ」って。
 それを聞いた時は流石に、「おっと」と、言って足を止めていた。その声がした方を振り返ったが、すぐに歩き出す。
 僕に近づくと呪われる。か…。
 如月千草がため息混じりに耳打ちした。
「リュウセイ君らが広めたんじゃない?」
「そうかもな」
 僕の背後の『コイツ』の影響を受けて、実害を受けたのはリュウセイやタケルだった。広めたのは彼しかいないと思った。
「なんだか裏切られた気分だよ」
「そんなものでしょ。気にしたら負けよ」
 如月千草は僕の隣に座り、授業は始まるまでの間、三週間分の授業ノートを見せてくれた。その時間内では全て目を通すことができなかったが、また後で貸してくれると言った。ありがたい。
 昼になると一緒に学食に行き、陰で人が少ない席に座ってご飯を食べた。僕は日替わり定食を、千草はチーズレタスのサンドウィッチを買った。案外小食なんだなっと思った。
 午後の授業も一緒に受けて、夕方になると散歩がてら遠回りをして帰った。部屋に上がってもらい、使用済みの護符とお守りをその場で浄化してもらった。本当は作法に乗っ取って、神社で燃やさないといけないらしいが、彼女は霊力が高いのでそういうのはいらないらしい。「力技よ、力技」と、得意げに語る彼女は可愛らしかった。
 次の日、千草は大きな段ボールを抱えて、僕の部屋に押し掛けてきた。「リッカ君と一緒に住むから!」という、くだらない冗談を言って僕を焦らせた後、その段ボールを開けて中を見せてきた。そこには、ストラップの組み立てキッドが大量に入っていた。
「接客業ができないからね、リッカ君は」
 バイトを首になって、絶賛無職の僕を心配してくれて、内職を手配してくれたのだ。
「これ、ある神社で販売されている、お守りのストラップなんだよ。百個作ったら、五千円になるんだ。私も手伝うから、一緒に作ろう?」
 僕は千草に、ストラップの作り方を教えてもらった。
 千草のストラップを作るスピードは早かった。ゴマみたいに小さなビーズを、配色を間違えることなく、するするとに紐を通し、金具の部分をペンチで器用に曲げ、乱暴に扱うとちぎれてしまいそうな模造の羽根を取り付ける。ものの五分で完成した。
 僕は説明書と千草の手元を交互に見ながら、賢明に作ったが、どれも不細工だった。千草は「仕方ない仕方ない!」と笑って、それを手直ししてくれた。段ボール箱に入っていた百セットはその日のうちに完成したが、ほとんど彼女が作ったようなものでふがいなかった。
 さらに厄介なことに、僕が作った除霊ストラップには、必ず背後の「何か」の邪気が移ってしまうのだ。これでは商品にならない。買った者に呪いが伝染してしまうのだ。だが、千草は嫌な顔一つすることなく、それらを浄化していた。
「なんか…、ごめん」
「大丈夫だよ。浄化しちゃえばなんてことないし!」
「それでもなあ…、なんか、消費者に申し訳ないって言うか」
「大丈夫! 知らぬが仏だから!」
「はいはい」
 知らぬが仏ね。。

        ※
 
 十二月に入り、窓の外にちらちらと雪が舞う頃、僕は一日のほとんどを、千草と一緒にいるようになっていた。
 朝は、アパートの前まで彼女が迎えに来てくれて、一緒に大学に行く。
 肩を並べて授業を受ける。
 一緒に昼食を食べる。
 夕方は、ぶらぶらと帰宅し、向かい合って黙々とストラップを作った。
 一日のノルマは百個。二人で作れば、四時間程度で作り終えた。その頃には、窓の外は真っ暗。電車はまだ走っているし、帰れないことはない時間帯だったが、千草は色々めんどくさがって、僕の部屋に泊まった。
 その日も、彼女は「暗いし、今日は泊めてよ」と言ってきた。僕が「いや、今日も、の間違いだろ」と突っ込むと、「今日も泊めて」と言い直してきた。
 僕が「いいよ」と頷くと、千草は「やった!」と軽く飛び跳ねる。部屋にある五段の衣装ケースの上二段には既に、彼女の下着やら着替えやらが入っていた。それを彼女がいないときにこっそり覗く…、おっと、これ以上はいけないな。
 千草がお風呂に入っている間、僕はスマホでネットニュースを見て時間を潰していた。スクロールしていくと、今年の紅白歌合戦に出場する歌手が意気込みを語っている記事に行きついた。それではっとして、机の卓上カレンダーに視線を向ける。僕と千草が出会ってから、もう三か月以上が経過していることに気づいた。
「お風呂先にいただきましたあ…」
 風呂場から、バスタオルを巻いた千草が出てくる。
 僕は卓上カレンダーの方を見ながら、彼女に聞いた。
「ねえ、千草」
「なによ」
 背後では、千草が衣装ケースから着替えを取り出す音が聞こえる。
「千草って、僕と一緒にいて楽しいわけ?」
「……楽しいよ」
「なんだよ、その間は」
 咄嗟に、突っ込みを入れて振り返る。下着姿の彼女が目に入り、すぐに向き直った。
 薄ピンクのパジャマに着替えた千草は、僕の横に座った。
 そして、もう一度言った。
「楽しいよ? 急にどうしたの?」
「いや…、よく考えたらさ、悪霊に取り憑かれているとは言え、こんな面白みの無い人間と一緒にいられるよなあって」
 横目で、千草をちらっと見る。彼女の頬は赤く火照っていた。
「同情とかはやめてくれよな」
 そう言うと、唐突に頭を殴られた。痛くはない。コツンって感じ。
「馬鹿ねぇ、同情とかしてないから」
「ほんとに?」
「ごめん、半分嘘」
「やめろよ! 傷つくんだからさ!」
 僕のツッコミを華麗に躱した千草は、僕の頭をぺちぺちと意味も無く叩きながら言った。
「このまま放っておいたら、リッカ君の『何か』が、人を不幸にしちゃうでしょ?」
「ってことは、他の人間を護るためか? そりゃあ、立派なご覚悟だこと」
「いやいや…、ひねくれないでよ」
 頬をぺちっと叩く千草。もう完全に遊ばれているな。
「前に言ったでしょ? リッカ君の背後の『何か』は、リッカ君を狙っているって。そのために、周りの人間を不幸にして、リッカ君の魂を弱らせているんだよ」
 ツンっと、僕の胸を突く。
「リッカ君を助けるってことは、他の人間を助けることに繋がるし、他の人間を助けることは、リッカ君を助けることに繋がるの」
 そう言った彼女は、ふふっと、天使のような笑みを浮かべた。
「それにさ、『何処が楽しい』とか、無粋な質問、辞めてくれる? 私は私が『楽しい』って持ったから、リッカ君と一緒にいるんだからさ」
「……うん」
 なんかうまく言いくるめられた感じがしたが、僕は頷いた。まあ、「楽しい」って言われるのに、悪い気はしないか。
 千草は僕の背中をパンパンと叩いた。あ、今、ちょっと浄化したなって思う。
「ほらお風呂、入っておいでよ。私の出汁が出てるから」
「時々そういう気持ちの悪いこと言うよね?」
 立ち上がり、千草の方を見た時、あることに気が付いた。
「あれ…、千草?」
「うん? なによ」
「お前…、目に隈ができてるぞ」
 一瞬、蛍光灯による陰かと思ったが、よく見ると違った。彼女のくりっとした瞳のしたに、黒鉛を擦りつけたような隈ができていたのだ。
 千草はなんてことないように笑った。
「ああ、ちょっと、最近寝不足で…」
「寝不足って…、そりゃそうだろ」
 僕は仕返しと言わんばかりに、彼女の頭をコツンと小突いた。
「何日も人の部屋で寝るからだ。たまには、慣れた自分の部屋のベッドで寝たらどうだ?」
「あははは、そうだね」
「ホットミルクでも飲む?」
「あ、お願い」
 僕は冷蔵庫から牛乳を取り出すと、一番くじの景品のマグカップに注いだ。それを電子レンジに放り込み、適当な時間チンする。
「ほら、できたよ」
 湯気の立つマグカップを彼女に渡した。
 千草はマグカップをそっと受け取り、ふうふうと冷ませてから飲んだ。
「あちっ!」
「あ、熱かった? ちょっとチンし過ぎたかな?」
「いや、まあ、このくらいが丁度いいかな?」
 そっと、湯気の立つミルクを飲む彼女を見ていると、僕も欲しくなって、もう一杯チンした。
 お互い十分くらいで飲み干し、それからも他愛の無い会話を続けた。
 そうこうしていると、千草の目がトロンとしていることに気づく。
 僕はそっと立ち上がった。
「風呂、入ってくるよ」
「はーい、行ってらっしゃい」
 彼女は欠伸混じりに言った。
 千草の出汁が出た湯船で、身体の芯まで温まった僕は、バスタオルを巻いて風呂から出た。
 いつもなら「情けない身体見せないでよ」と、文句が飛んでくるところだったが、千草は僕のベッドの上に横になり、目を閉じていた。
「………」
 なんだ、寝ているのか。
 寝巻のジャージに着替えた僕は、頭をバスタオルで拭きながら千草に近づいた。
 彼女はすうすうと、安らかな寝息を立てていたが、目の下には陰のような隈が浮いている。隈くらい、大学に通って、バイトで生活費を稼いでいる学生ならできて当たり前だったが、いつも快活に笑っている彼女の目の下に隈は、やはり似合っていなかった。
 そりゃそうか、僕に構ってくれて、それで、自分のことは自分でしているんだから、疲れるに決まっているか。
 僕は悪いと思いながら、彼女の頬に手を触れ、その隈を指で拭った。
「………」
 千草の口元がぴくっと動く。僕は慌てて手を引いた。
 起きたのかと思ったが、彼女は「うーん」と眉間に皺を寄せて唸り、無意識に僕の布団を抱き寄せ、足を絡めていた。
「……」
 おい、人の寝床を奪うな。という言葉を飲み込む。
 世話になっているのは僕の方だし、しっかりと休ませてあげよう。幸い、明日は午前の授業は無かったはずだ。
 僕は座布団を並べて、その上に横になった。そのままだと寒かったので、ウインドブレーカーを羽織る。指先が冷えたが、気にならず、眠気はすぐに襲ってきた。
「……」
 僕って、もしかしたらサバイバルの才能があるのかもな。
 そんなくだらないことを考えながら、僕は眠った。

        ※

 次の日、六時半ごろに目を覚ました。
 うーん! と背伸びをして、固まった筋肉をほぐしていると、千草も「うーん」と言って起きてくる。
「あ、おはよう、千草」
「ああ、おはよ、リッカ君」
 どれだけ寝相が悪かったのだろう? ダイナマイトを喰らった漫画のキャラクターのように、彼女の髪の毛はぼさぼさだった。
 硬い座布団のせいで、安眠できなかった僕は、そのまま起きて顔を洗った。
 千草は、まだベッドの上でうとうとしていた。
「千草、まだ寝てていいよ」
「ああ、そう?」
「朝ごはんは…、コンビニで何か買ってこようか?」
「じゃあ、私、おにぎり…、梅干しと…、高菜ね」
「はいはい」
 僕が頷くと、千草はまた糸が切れた人形のようにベッドに倒れこんだ。
 僕一人で外出するのはいかがなものかと、一瞬頭を過ったが、朝だし、人も少ないだろうし、まあいいかって思って、財布を掴むと、外に出ていった。