「リッカくーん、どう? お湯の具合は?」
「いや、まあ…、うん、悪くないよ」
露天風呂の、頼りない竹組みの壁の向こうから、如月千草の面白がった声が聞こえた。
僕は白く濁った湯船に首まで漬かったまま返事をする。だが、壁の向こうに、裸の如月千草がいると思うと、気恥ずかしさが勝って声が出なかった。
壁の向こうで、如月千草が大声を出す。
「ちょっと! 何言ってんの? 聞こえないんだけど! のぼせちゃった?」
「いや…、のぼせてないけどさ…」
「ここのお湯、いいでしょ? 私も、この町に来たときは、必ず入るようにしてるの!」
バシャッ! と、湯を掻く音がした。
僕も彼女の真似をして、指で湯を払ってみる。白い湯が、空中に華を咲かせるようにして飛び散った。
「………」
この旅館に入る前、僕は如月千草にごねた。「旅館じゃなくていいよ、安いビジネスホテルにでも泊まろう」と。某旅行サイトによると、一番安い部屋でも宿泊料は、僕が居酒屋で三日バイトしないと払えない額だったのだ。
そんな高い部屋には泊まれない。
だが、如月千草は「平気平気」と楽観的に言って、旅館の暖簾を潜った。
「あいつ、すげえな…」
ごつごつとした岩にもたれかかり、僕は壁の向こうの彼女に感心した。
ほんと、あいつ何者なんだ?
思い出すのは、旅館に入った時。女将さんがパタパタとやってきて、「ああ、如月のお嬢さん、今日はよおお越しくださいました」と言ったのだ。そして、、格安…、いや、ほとんどタダ同然の額で、一番高い部屋に泊めてくれることになった。
「…、いや、すごいわ」
僕は一人呟くと、湯の中で腕と足を伸ばした。
湯の温度は丁度いい温さで、長く入っていてものぼせそうに無い。程よく温められている感覚が、疲れ切った筋肉にはよく効いた。
岩の露天風呂の周りには、松や枯山水など、普段ではお目にかかれない、古き良き日本の荘厳な光景が広がっていた。これで入ってきた客の目を癒すらしいが、庶民の僕には眩しすぎた。「金」ってやつに睨まれているようで落ち着かない。
綺麗な光景、そして、壁の向こうにいる如月千草を意識して、もじもじしながら、湯の中でふくらはぎを揉んでいると、如月千草の声がした。
「どう? 疲れ、取れた?」
「まあ、マシになったよ」
僕は少し声を張って答えた。如月千草は「ね? いいでしょ?」と得意げに言った。
「霊泉なんだ。だから、大抵の悪霊は湯に浸かるだけで浄化される」
「で、僕の背後にいる『コイツ』はどうなんだ?」
「うーん、ダメだね。壁から身を乗り出して、私の方を睨んでる。こいつ、見かけに寄らずにえっちいね」
なに? 『何か』が、如月千草の裸を見ているだと? そんなの羨ましい…、じゃなくて、許せん。
「おいこら」
僕は露天風呂の「霊泉」とやらを両手で掬うと、背後の虚空に向かった引っ掻けた。
バチンッ! と、電撃が走るような音がして、湯が空気中で水蒸気に変わった。
「………」
「あんまり刺激しない方がいいよ~、確かに、今の奴でおとなしくなったけど、除霊できるほどの力じゃないし…」
壁の向こうで、如月千草が言った。ため息に混じって、「あーあ、この温泉もダメか…、そりゃそうか」と聞こえた。
こいつ、本気で僕の背後の『何か』を祓おうとしているのか?
僕は湯船から立ち上ると、竹の壁を見つめた。
丁度そのタイミングで、脱衣所に通じる扉がガラガラッ! と開き、白髪交じりのおじいさんが入ってきた。明らかに六十は超えているだろうに、背筋は柱のように伸び、湿った砂利の地面に踏み出す足も力強かった。こんな高級旅館に泊っているんだ。きっと、ただのジジイじゃないんだろうな。
おじいさんは、桶でかけ湯を済ませ、「御免なさいね」と一声掛けてから、白く濁った湯船にどぶらんと漬かった。
「……」
このおじいさんに、『何か』の影響を与えるわけにも行かないので、僕は壁の向こうの如月千草に一声かけた。
「如月! 僕はもう出るからな!」
「あ! 出るの? じゃあ、私も!」
壁の向こうで、ザバンッ! と湯が跳ねる音がする。
振り返ると、おじいさんが微笑んでいた。
「いいですね、彼女さんですか?」
「いや…、彼女というか…、恩人ですね」
「そうですか」
おじいさんが柔らかな笑みを浮かべる。
「恩人と呼べる方がいて羨ましいですよ。人との関りは、大切にしないといけませんね」
「…そうですね」
僕はおじいさんに頭を下げてから風呂を出た。