僕の心の準備ができない間に、如月千草は歩きにくそうな厚底のサンダルで、土と落ち葉の道に踏み出した。一瞬、「愚か者め」と思ったが、彼女は猿のように、ひょいひょいと道を進んでいく。
「おいおい…」
 僕は置いていかれそうになり、すぐに道に足を踏み入れた。
 ああそうか…、如月千草は何回がこの神社に来たことがあると言っていたな…、その度にこの道を通るから、慣れたんだろう…。
「おーい、遅いよー」
 十メートル先の如月千草は、これ見よがしに振り返り、挑発するように言った。
 僕は頬の汗を拭うと、彼女の背中を追った。
 途中、何度も落ち葉に足を滑らせ、木の幹で躓いた。痛くなかったが、煩わしくてたまらなかった。
 十分ほど歩き、やっと如月千草に追いつく。
「遅かったね」
「如月が速すぎるんだよ」
 身体を土埃まみれにした僕とは違い、彼女の服は全く汚れていなかった。サンダルに土がこびり付いているくらいだ。あと、全く息を切らしていない。
「なんだよ…、お前…、なんでそんなに平気なんだ?」
「そりゃあ、何回も来たからね」
 如月が手を伸ばしてきて、僕の頬に着いた土を拭った。
 そして、鋭い目を僕の背後に向ける。
「お…、霊気の濃い場所に来たから、リッカ君の背後の『やつ』、ちょっとおとなしくなってるね」
「ま、マジで?」
「うん、マジ、動きが鈍くなってる。寒いところに放り出された蛙くらいに」
「なんか微妙…」
「まあ、こんなもんでしょ。ってか、効果があっただけ儲けものよ」
 彼女は快活に笑うと、背後にあった岩を指した。
「ほら、これが件の湧き水」
「おお…」
 思わず、歓声が洩れる。
 そこには腰くらいの高さの岩があり、そこの中央から、透明の水が湧き出ていた。水は苔むした岩の表面を滑り、足元で小さな川となって道の外れまで流れ出ている。
 マイナスイオンってやつだろうか? 辺りには、ひんやりとした空気が漂っていた。
 如月千草はショルダーバッグから空のペットボトルを取り出すと、湧き水をそれに汲んだ。
「大昔は、この霊水を求めて、たくさんの人がこの神社を訪れたんだって」
「へえ…」
 僕もリュックサックから、さっき飲んだミネラルウォーターのボトルを取り出すと、湧き水を汲んだ。
「ちなみに、その水、飲めるから」
「そうなの? なんかお腹壊しそう」
「大丈夫だって、ほら」
 そう言うと、如月千草は両手で受け皿を作ると、湧き出る水を汲んだ。そして、喉を鳴らしてそれを飲み干す。濡れた唇を拭い、「ぷはあああ!」と、女子にはあるまじき下品な声を上げた。
「美味い!」
「うん、わかったよ。あとでお腹壊しても知らないからな」
「ってか、リッカ君が飲んだ方がいいんだよね。キミ、よく身体の中に悪霊が入り込むから」
「湧き水で胃の中を殺菌ってか?」
 そう言われたら、やらないともったいない気がしたので、僕も彼女を真似て、手で水を掬い、喉を鳴らして飲んでみた。
 霊気が宿ったその湧き水は、地下でひんやりと冷やされていて、疲れて熱を持った喉をするんと滑り落ちた。胃の底に触れた瞬間、だるくなっていた全身がふっと軽くなる。曇りガラスを拭ったときのように、視界が明るくなった。
「あ…」
「どう?」
「よくわからないけど…、すごいよ」
「そりゃあ、良かった」
 彼女は自分のことのように喜び、僕の背中をバシバシと叩いた。また、身体が軽くなった気がした。
「霊水の効果だね」
「いや、単に水分補給したからだと思うんだけど」
「信じる者は救われるんだよ」
「ああ、そう」
 周りに人がいなかったので、如月千草は霊水で指を湿らせると、印を結び、何やら呪文のようなことを唱えた。僕は彼女の前に棒立ちになり、事の顛末をじっと眺めた。如月千草は何度も難しい顔になり、霊水で指を濡らしては、印を結び、唱え言葉を発し、僕の背後の『何か』を睨むのを続けた。そして「だめだ」と言った。
「ダメねぇ、ここの霊水の力を借りても、こいつ、微動だにしない」
「祓えなかったの?」
「そんな問題じゃないよ。HPが『九九九九』ある敵に、ダメージが『一』しか入っていない感じ」
 時々、変な例えをするよな。
「九九九九回攻撃を叩き込めばいい話だけど…、現実的ではないね」
 如月千草はつまらなそうに言うと、濡れた指をスカートの裾で拭いた。
「とりあえず、戻ろうか。お守りを買って、出店でも回ろう」
「そうだね」
 僕は、如月千草に支えてもらいながら元来た道を戻った。
 看板の案内に従って、細い砂利道を歩き、本殿から少し離れたところにある、お守りを売っている倉庫のような建物に入った。
 そこには、漫画で見るような赤と白の装束を着た巫女さんがいて、眠そうな顔をしてパイプ椅子に腰を掛けていた。
「こんにちは」
 そう声を掛けると、巫女さんははっとし、黒い髪を揺らして頭を下げた。
 長机の上に、赤や青、黒色など、色とりどりのお守りが並んでいた。効果も、安産や必勝、学業など様々。
「どうする?」
 僕と如月千草は、沢山の色や形をしているお守りを覗き込み、何を買おうかと思案した。
「普通に、リッカ君は、無病息災かな?」
「だろうね」
「私は…、大学に通ってるし、学業のやつにしようかな?」
「でもなあ、このデザイン、あんまり好きじゃないんだよな」
 僕は無病息災のお守りを指で摘まんで、まじまじと眺めた。白基調で、この神社の家紋が入っている。その上に、赤い文字で「無病息災」と刺繍された、何処にでもありそうなデザインだ。だけど、なんか色の配色が気に入らない。どちらかというと、如月千草が持っている、若葉色の学業成就のお守りの方に惹かれてしまった。
「仕方ないでしょうが。襟好みしてたらダメでしょ」
「でもなあ…、せっかく買うんだし…」
「変なところにこだわるよね」
 如月千草が呆れていると、勘定を待っていた巫女さんが、おどおどとしながら僕に言った。
「あの…、神主を呼んで来ましょうか?」
「うん?」
 思わず首を傾げる。
 二十代くらいの可愛らしい巫女さんは、酸欠の金魚のように口をパクパクとさせて、僕の背後を指した。
「その…、今日は、それの件で来たんですよね?」
「ん、あ、ああ…」
 僕は背後の『何か』を見た後、如月千草の方を見た。彼女はこくっと頷き、わざとらしく笑い、僕の頭をポンポンと撫でた。
 巫女さんに言う。
「ああ、大丈夫ですよ。今日はただの観光なので!」
「え、でも…」
 巫女さんは気が気でない顔をしていた。額に汗を浮かべ、目は少し潤んでいる。心の中で、「逃げたい」という気持ちと、「神職者の身として放っては置けない」という気持ちがせめぎ合っているように見えた。
「その…、あの…、でも…」
「大丈夫ですから、私がついているので」
 如月千草がそう言って、巫女さんよりも控えめな胸をどんっと叩いた。
 丁度その時、背後から男の声がした。
「おや、如月の娘さんじゃないですか」
 振り返ると、そこには、袴を着た男が立っていた。四十代くらいで、だんごっ鼻。目は眠っているかのように細く、口元に大きなほくろがある。
 巫女さんが「あ…、神主様…」と言った。
 如月千草は、「ああ…」と声を洩らすと、現れた神主さんに向かって片手を挙げた。
「どうも、お久しぶりです」
「お久しぶりです、如月の娘さん」