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 あの一件から、一週間が経過した。
 あれから特に変わったことはなく、比較的平和な時間が流れていた。
 朝六時に起床。ウイダーゼリーで腹を満たすと、人気の無い路地を一キロ程散歩する。それから、部屋に戻って、椅子に座ってぼーっとする。ぼーっとしていると、また眠気が襲ってきて、昼過ぎくらいまでそこで眠る。
 起きると、顔を洗ってから、昼食としてインスタント麺を食べる。腹が膨れると、椅子に座ってスマホを弄る。でもすぐに飽きて、また椅子の上で転寝をする。夕方の薄暗くなる頃に目を覚まし、近くにあるコンビニに、さっと夕食を買いに行った。夕食を摂ると、また適当にくつろいで、朝の六時まで眠るのだ。
 机の上には、書きかけの退学届けが放置されてあった。ペンを握るのすら億劫だった。仮に書き切ったとしても、提出するためには大学に赴かなければならない。多分、その気になるのに、半年はかかる気がした。
 結局、書くことができないと判断した僕は、退学届けをくしゃくしゃにしてゴミ箱に放り投げた。だが、縁に弾かれ、明後日の方向に転がっていった。
「……」
 僕はそれを見て、めんどくさくなって、またベッドの上に横になった。
 外に出て歩くのがめんどくさい。食べるのもめんどくさい、って言うか、生きるのがめんどくさい。死にたいな。死んで楽になりたい…。楽になるためには、自殺しかない。自殺? でもなあ、あんまり痛いのは嫌なんだよなあ…。 
 僕はふっと身体を起こすと、傍に置いてあったスマホを掴み、「自殺 楽な方法」と検索した。すると、「心の健康相談ダイヤル」がヒットした。
「うーん…」
 なかなか思ったような情報に辿り着くことができず、唸っていた時だった。
 部屋の扉が、勢いよく開いた。
「え…」
 しまった、鍵を掛けていなかった。
 全身に冷や汗をかくのを感じながら、玄関の方を見る。扉を蹴破るようにして入ってきたのは、如月千草だった。
 一週間前のあのことが、頭の中でフラッシュバックした。
「え、…、如月千草…?」
「おっす、生きてる?」
 薄いTシャツの上に、ジャージと、ラフを通り越して手抜きの格好をした如月千草は、サンダルを脱ぐと、裸足のままドカドカと部屋に入ってきた。
 右手に下げていた、コンビニの買い物袋を僕に投げつける。両手ががら空きになると、腰に手をやって部屋の中を見渡した。そして、苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「あーあ、私が言ったこと、守れていないじゃん」
「え…」
「はい、除霊開始ね」
 そう軽く言った彼女は、遠慮も羞恥心も感じさせない動きで僕との間を詰め、ぽかんとしている僕の唇に、自分の唇を重ねた。
 はい、人生二度目のキス。
 僕は反射的に身を引こうとしたが、彼女はすかさず後頭部に手を回してそれを阻止した。
 約十秒間、それは続いた。
「はい、しゅうりょーう」
「おい! 痴女なのか? 痴女なんだな!」
 またしても不意打ちのキスをされたことに、僕は顔を熱くし、眼には涙を浮かべて訴えた。
 彼女は意に返さず、パタパタと手を振った。
「まあ、こんなことだろうと思って、見に来て正解だったね」
 壁の方にまで歩いていくと、指で印を結んでから、黒く染まった護符を剥がす。それをひらひらと振って、僕の方を振り返った。
「護符が黒くなったら取り替えろって言ったよね? なんでできないわけ? 死にたいの?」
「いや…、そういうわけじゃ…」
 すっかり忘れていた。 
 如月千草は、残りの二枚を剥がしながら言った。
「どうよ? 気分は?」
「いや、いつも通りだけど…」
「どうせ、さっきまで『死にたい』って思ってたんでしょ?」
「え…」
 そう言われて、心臓がどきっとした。
 確かに、一分前まで、僕は「死にたい」と思っていた。なんでだろう? 夕立が止んだみたいに、今はそんな気分じゃ無くなっている。
 如月千草は、赤い舌をべえっと出した。
「前みたいに、リッカ君の中に、自殺を強要する悪霊が入ってたからね。まあ、吸い出しておいたけど」
「護符を貼ってたのに?」
「だから、黒くなったら取り替えろって言ったでしょうが。効果が消えてんのよ」
 彼女はもの覚えの悪い僕に苛立ったような顔を見せると、机の引き出しを勝手に開け、新しい護符を取り出すと、また壁に貼り付けていった。
 作業はものの一分で終わった。
「はい、これでまた一週間は大丈夫ね」
 取り替えられた護符を見て、如月千草は満足そうに頷いた。
「黒い護符は…、まあ、私が持っておくか。溜まったら、一緒に神社に返しに行こう」
 そう言うと、三枚の護符を折り畳み、ジーパンのポケットに仕舞った。
 はっと我に返った僕は、声を上擦らせながら礼を言った。
「あ…、ありがとう」
「どうってことないことよ」
 如月千草は、まんざらでもないような顔をした。
「そうだ、ケーキ買ってきたから、一緒に食べようよ」
「え…」
 そう言われて、彼女に渡されたナイロン袋の中を見る。コンビニのフルーツケーキと、ミルクティーのボトルが、それぞれ二つずつ入っていた。
「あ、ありがとう」
 僕は早速、台所に行って、一番くじの景品で手に入れた皿を取って戻った。
 テーブルの上に置いたままの勉強道具や雑誌を適当に下ろし、台拭きで軽く拭いた。綺麗になったテーブルに皿を並べ、彼女が買ってきてくれたケーキを移した。ケーキは投げつけられた時の衝撃で少し歪んでいたが、味に変わりは無いだろう。
 テーブルを挟んで、如月千草と向かい合って座る。
 彼女はプラスチックのフォークのナイロンを剥きながら言った。
「これさ、つい最近発売されたばっかりなんだ。結構人気でね、ずっと売り切れが続いてたから、見つけた時は速攻で買っちゃった」
「甘いもの好きなんだ」
「好き。霊感があるから、特に糖分には敏感になるのよね」
 霊感と糖分がどう関係しているのかがわからなかった。
 僕もプラスチックのフォークを取り出し、右手に握った。一週間ぶりに何かを握るような気がして、なんだか違和感があった。
 スポンジの上に、生クリームが薄く塗られていて、その上に、キウイやオレンジ、イチゴなど、酸味が特徴のフルーツがこれでもかってくらいに乗っていた。小さく切ろうとフォークを突き立てると、上のフルーツがボロボロと零れる。
「うわ、すごいな」
「でしょ? フルーツを楽しむためのものなのよ」
 如月千草は、ケーキにフォークを入れると、上に乗っているフルーツを落とさないように、そっと、小さく切り分けた。それを、先ほど僕にキスをした口に持っていく。
 ぱくっと食べた瞬間、「う~ん」と、悶絶した表情に変わった。
「うん、美味しいね!」
「そう…」
 僕も、落ちたフルーツを再びケーキの上にもどし、慎重に口に運ぶ。一口噛み締めた瞬間、フルーツの果汁が口いっぱいに広がり、喉の奥から脳天に掛けて、幸せが突き抜けた。
「あ、美味しい…」
 甘いものなんて久しぶりだったから、特にそう感じたのかもしれない。
 お腹が空いていたということもあり、僕はありがたみも感じず、ケーキをパクパクと口に運んだ。十分も経たない内に感触する。
「ご馳走様」
 カップに注いだミルクティーを飲んで一息ついた僕は、後ろのベッドに背をもたれた。特に意味も無く、枕元にあったスマホの通知を確認する。
 如月千草のケーキは、まだ半分しか減っていなかった。
 彼女は小さく切ったケーキをちびちびと食べながら僕に言った。
「ねえ、大学に来ないの?」
「来ないって言っただろ?」
 僕は間髪入れずに答えた。
「もう、辞めるんだよ」
「その割には、退学届けだしていないんじゃない?」
「めんどくさいんだよ」
 ミルクティーを一口飲む。紅茶といい、カフェオレといい、甘ったるい飲み物は毛嫌いしてきたけど、案外悪くなかった。
「それに、僕の背中に『コイツ』がいる以上…、下手に動けない」
「そうだね」
 霊力のある人間の立場からして、「そんなことないよ」と言ってほしかったのだが、如月千草ははっきりと言った。
 僕は失笑した。
「なんだよ、『大学に来い』っていう割には、そういうこと言うんだな」
「いや、あれから考えて見たんだけど…、やっぱり不思議だなって…」
 如月千草はフォークで僕の鼻先を指した。
「リッカ君って、どうやって生きてきたの?」
「どうやってって…」
「いや、だって…、リッカ君の背中の『やつ』って、マジでやばいからね。二十近く、よく斬れる刀を抜き身のまま持っているのと同じよ。鈍感だとは言え、よくも今日まで生きてこれたね」
「ああ、まあ、そうだな…」
 僕は視線を下げ、口籠った。
 数秒間の沈黙の後、絞り出す。
「うん、他の人間を不幸にしながら…、生きてきたよ」
 手のひらを見つめる。
「こいつの存在を自覚するようになったのは、小学校五年生の時だった。林間学校で撮った写真に黒い影が写り込んで…、一緒にいた女の子が事故に遭ったんだ」
 あの世…、多分地獄にいるカホちゃんの笑顔が頭を過った。
「林間学校に行った時に取り憑かれたのかな? って思ったりしたんだけど…、よくよく考えてみれば、もっと前から…、下手したら、生まれてすぐに僕憑いていたのかもな…」
「まあ、そんな感じだろうね。そんなヤバいのがいる林間学校なんて聞いたことが無いし」
 如月千草は顎に手をやり、至って真面目な表情で頷いた。
「それで? どうしたの?」
「特に…」
 僕は首を横に振った。如月千草が苦虫を嚙み潰したような顔をしたのがわかった。
「特に、何もやらなかった…。内心は気づいていたんだけどな…、認めたくなかったんだ。『自分と関わった人間が不幸な目に遭う』なんて…。だから、小学校も、中学校も、高校も、まともに生活した。朝起きたら顔を洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて…、自転車に乗って学校に向かうんだ。で、普通に授業を受ける。普通、普通、僕は普通の暮らしが送りたかったんだ」
「でも、普通じゃなかったんでしょ?」
 彼女は全てをわかっているように言った。
 説明するまでも無いな、と思いながら、僕は自嘲気味に続けた。
「そうだよ、うん。皆、僕のことを怖がるんだ。もちろん、攻撃された時もあったけど、ほとんどの人間が何もしないんだ。ただただ怖がって、僕が通りかかると道を開けたり、泣いたりするんだ。人間の防衛本能ってやつかな…? 攻撃するよりも、防御しようとするんだよ」
 よくわからないが、唇にエンジンがかかって、言葉が流暢になっていく。
「よく考えてみれば…、ずっと空回りしてきたよ。とにかく認めたくなかったんだ。僕の背後に『何か』がいるって…。僕は普通の人間だ。普通の人生を送ってやるって…。『身分不相応』って言葉がお似合いだね。人と関わったら、その人間を不幸にするのに…、人と関わろうとするんだ。冗談が言い合える友達がいること…、それが、『普通の人間』だと思っていた。今も思ってる…」
 肩を竦めた。
「なんかこう…、インフルエンザに罹ってるのに、人混みに入っていこうとするやつと同じだな。おかげで、たくさんの人間を不幸にしてきた…。死んだり、病気になったり、怪我をしたり…、酷い目に遭わせてしまったよ」
「ふむ…」
 如月千草はこくっと頷き、「そりゃあ、深刻だ」と、なんだかなぞるように言った。
 僕は苦笑した。
「僕は『災害』みたいな存在だよ。そこにいるだけで、誰かに不幸が降りかかるんだ。だから…、人を傷つけ、恐怖させる分、たくさんの恨みを買った。『お前がいたからこうなったんだ!』って、物的証拠がるわけでもないのに、復讐されたこともあったよ。まあ、そいつらにも結局不幸は降りかかったんだけどな」
 ミルクティーを一口飲んで、唇を湿らせる。
「いい加減諦めろって話だよな。僕はもう、まともに生きられないんだ。小、中、高でわかったはずなのに、往生際悪く、大学にまで進学しちゃったよ」
「…大学での友人関係は?」
「もちろん、最初は沢山友達がいたさ。バイトだって、店長に気に入られて楽しかった…。背中の『コイツ』がいなければ、僕はいいやつだからな」
 まあ、最近はその「いいやつ」ってのも、「普通の人生」を送るために演じていたものだと、つい最近気づき始めた。
「だけど…、やっぱりだめだ。この二年間で、やっぱり人を不幸にしてきた。最初はさ、普通なんだよ。友達もできて、みんないいやつだ。だけど、みんな、僕の背中にいる奴にうすうす気づいてきて…、遂には、バイトをクビにされて、友達に逃げられた…」
 もう笑うしかなかった。
「如月はさ、僕に護符の使い方がなってないとかどうとか言ったけど…、もう、まともじゃいられないんだよ。これだけの人間を不幸にしてきたんだぞ? そりゃあ、我を忘れることだってあるさ。何もかも無気力になることだってあるさ」
「うーん…」
 如月は顎に手をやって、僕をじっと見つめる。いや、僕の背後にいる「何か」を見つめていた。そして、言った。
「あんたさ、どうやったら消えてくれるわけ?」
 僕に言われたわけではないので、返事はしなかった。
 数秒間、沈黙が辺りを支配する。
 虚空を見つめて、じっと沈黙に耐えていた如月は、水から上がったみたいに息を吐くと、「ダメだ!」と大声を上げた。フルーツケーキにフォークを突き刺し、ばくっと食べてしまう。むぐむぐと咀嚼し、飲み込んでから言葉を紡いだ。
「こいつ、完全にリッカ君と私のことをおちょくってるわね。何も言ってこない」
「口がきけないだけじゃないのか?」
「いや…、話しかけた時に、意識が私の方に向いたの。ってことは、言葉は認識できているみたいね。そりゃそうか…、十年以上もリッカ君と同じ屋根の下で暮らしてきたんだから、言葉くらい覚えるか…」
「その言い方やめろ」
 如月はミルクティー飲んでから、また「うーん」と唸った。彼女なりに、僕の背中の『なにか』を何とかしようと模索してくれているようだった。
「案外、この状況は『コイツ』にとって良いのかもしれないね。リッカ君は鈍感だから、魂を地獄に引きずり落とすことはできないけど…、君に寄ってきた人間に危害を加えることはできるのか…」
 それがヤバいってのに、彼女はへらっと笑った。
「もしかして、リッカ君って、便利なコバエホイホイだと思われているんじゃない?」
「笑いことじゃないだろ」
 本気でいらっとした僕は、少し声を荒げてしまった。
 如月は「まあ、笑い事じゃないね」と、肩を竦める。それからまたじっと考えた後、何かを思いついたのか、手をぽんっと叩いた。
 目を細め、真剣そのものの顔で言う。
「これだけ強力な邪気…、私でも祓うのは無理…。だけど…、弱めることならできるかな?」
「弱める?」
「うん、私の生理痛が重いから、痛み止めを飲むのと一緒ね。少しだけくらいなら、『こいつ』の力を弱めることならできるかも…。そうしたら、除霊の糸口くらい掴めるかな?」
「どうするんだよ」
 僕はあまり期待せずに聞いた。
「言っとくけど、その考えは、何十、何百回と思い立ったよ。お寺とか神社を巡りに巡って、バカ高い除霊料を払って、お祓いを受けたさ。だけど、全部無駄だった。ってか、逆に『コイツ』の反撃を喰らって、その寺の坊さんとか、神社の神主さんが不幸な目に遭う始末だ。お世辞にも、治ったとは言えないよ」
「それは私もわかってるわよ」
 如月千草は軽い口調で言った。
「うーん」
 また唸る。
 僕は「もういいよ」と言った。。
「『手の施しようがない』ってことだよ。もう、普通の生活は諦めて、山奥で何処でも、人のいない場所に行って、ひっそりと暮らすさ」
「そう簡単な話じゃないでしょうが」
「いいや、案外簡単かもしれないぞ? 人に嫌な目で見られるのは慣れているんだ。いざ一人になったら、そういった重圧から解放されて、伸び伸びと暮らせるかもしれん」
 言っていて悲しくなったが、口には出さなかった。
 如月千草は、悲しいものを見るような目をしていた。
「まあ、リッカ君が山暮らしになるかどうかは、色々試してみた後ね」
「試す…?」
「うん、試す」
 如月千草は、そう言うと、ショルダーバッグを開けて、スケジュール帳を取り出した。
「ええと…、この日は、授業があるから…、この日もバイトか…、じゃあ、この日と、この日しかないのか…」
 嫌な予感しかしなかった。
 僕は何か言われる前に言った。
「言っとくけど、お祓いには行かないぞ?」
「誰もお祓いに行くとは言ってないでしょうが」
 如月千草は、スケジュール帳をぱたんと閉じた。
 そして、何かを画策したような顔をして僕に言った。
「一週間後、遊びに行こう」