二日後。
 あの神社から帰った僕は、如月千草の指導のもと、ちゃんとした作法に乗っ取って、部屋に護符を貼った。彼女が言うには、道端を漂っている悪霊くらいなら寄せ付けないらしい。流石に、僕の背中にいる『何か』には効果がない。
 これでしばらくは大丈夫。
 それからが地獄だった。
 如月千草は、丸二日、僕の部屋に閉じこもり、僕と一緒に、締め切りが迫っているレポートの作成に励んだ。
 彼女は「時間がないから、適当にやるよ」と、口癖のように言いながらペンを走らせた。僕も彼女の意見に賛成で、さっさとこの苦行から逃れたかったが、彼女のいう「適当」と、僕の思う「適当」には大きな差があった。
「は? なにこの雑な字。あと、ここの文章間違ってる。もう少しさ、丁寧にやろうよ」
 彼女はそう苛立ったように言って、何度も僕にレポートを突き返してきた。
 彼女のいう「適当」とは、つまり、「レポートの体をしている」ということだった。僕のように、「読めたらいいや」「多少誤字脱字しててもいいや」ではなかったのだ。
 何時間もかけて構成を練り、何時間も掛けて書き、何時間も掛けて書き直し、眠る時間すらも削り、僕たちはレポートを書いた。
 そして、提出期限まで残り三時間、というところで、妥協と固執の均衡のとれた、ごく一般的なレポートが完成したのだった。

        ※

「はい、お疲れ様」
 如月千草は完成したレポートの最終確認をしながら、満足そうに頷いた。
「まあ、ほとんど私がやったようなものだけど」
 五十枚近いレポートの束を、黒い綴り紐で閉じ、トートバックに入れる。
「どうすんの? 大学、行く?」
「え…」
 ベッドの上に、眠ったように死んでいた…、じゃなくて、死んだように眠っていた僕は、顔を上げて如月千草を見た。
「だって、私とリッカ君の合作なんだし…、一緒に提出した方が良くない? まあ、片方が提出しても問題は無いんだけど…」
「いや…、そりゃそうだけど…」
 僕は何もいない…、だけど「何か」がいる背後をちらっと見てから、首を横に振った。
「悪いけど、如月が提出しておいてくれ」 
 言葉には出さなかったが、もし、背後に「何か」がいる状態で大学に行って、周りの人間に影響を与えるわけにはいかなかった。
「それに、もうすぐ、僕は大学を辞める予定だから」
「はあ…」
 それには、如月千草は面食らったような顔をした。
「なんで?」
「いや、だって、僕が大学構内を歩いてみろよ。命がいくつあっても足りないだろ」
 その証拠に、この二年間で、僕と関わった人間が数名、不幸な目に遭っていた。
 もう潮時なのだ。僕みたいな人間は人と関わるべきじゃない。いっそ自殺してしまうか…、この部屋でひっそりと暮らすか。
「如月…、色々悪かったな。迷惑を掛けた。お前の単位が落ちないことを祈るよ」
「ああ、そう」
 如月はやけにあっさりと頷いた。いつの間にか、彼女は僕の鞄からスケジュール帳を取り出し、授業予定を眺めていた。
「まあ、今日は必修じゃないから、別にいいか…」
 そう呟くと、スケジュール帳を鞄にもどす。
 トートバックを肩に掛けると、「よいしょ」と言って、ゆっくりと立ち上がった。
 ベッドの上でぐったりとしている僕を見て言った。
「じゃあ、とりあえず提出しておくから。大学に来るかどうかは好きにしなよ」
「うん、好きにする」
 辞めてやる。
 ぼんやりと返事した僕は、ファブリーズの香りが残った枕に顔をうずめた。
 如月千草が「じゃあね、また今度」と言って、部屋を出ていく。扉がガチャンと閉まったタイミングで、僕は寝返りを打って天井を見ると、魂が抜けそうな勢いでため息をついた。首を右に、左に動かすと、脊椎の関節の中で、骨髄液が弾ける音がする。
「………」
 嵐のような三日間だった。
「ああ、ちくしょうめ…」
 何十時間とペンを握ったせいで、黒くなった自分の手のひらを見つめ、彼女に悪態をつく。
 なんだよ、あの女…、レポートなんて、適当にやっておけばいいんだ。適当に調べて、適当に書いて、でもって「合作でーす」って言って提出すればいいのに、何をあんなに几帳面にしているんだよ。おかげで、この二日間、まともに睡眠時間がとれなかったし…。

 まあ、感謝はしておこうか。

 僕は眼球を動かし、部屋の壁に貼られた護符を見た。効果は…、あるのかどうかわからない。
 あれから、身体に痛みが走るようなことは無かった。背中の筋肉がほぐれ、肺がいつもより広がるような気もした。
 ふっと、あの時の感触が、唇に蘇る。
「いや、いやいや、いやいやいや…」
 せっかく忘れるように努めていたはずなのに、また頬が熱くなった。隣に人がいないことをいいことに、上体を起こして、「いやいや…」と、くだらない独り言を連投する。
「いやいやいやいや…」
 心臓の脈拍が上がっているのがわかった。
 かあっと身体が熱くなり、首筋を汗が伝う。
「いやいやいやいや…」
 そして、また糸が切れた人形のようになった僕は、枕に顔を埋め、運動不足でやせ細った足をばたつかせた。
「………」
 なに照れてんだよ。って、自分を自戒する。
 如月千草も言っていたじゃないか「ただの除霊」って。
「ああ…、もう…」
 部屋の壁に貼ってある護符を見ただけで、彼女の姿を想起した。見ないように目を閉じても、暗闇の中に、彼女の姿が浮かんでくる。にやっと、人を小ばかにするように笑っていた。
「なんでだよ…」
 これはあれだ、ただの心理現象の一種だよ。少し優しくされたら好きになっちゃうとか…、吊り橋効果みたいな…。あの霊能女にキス(彼女は除霊と言っていたが)、身体が、脳が変な勘違いを起こしているだけなんだ。
 くそ、ちょろいんだよ。馬鹿野郎。
 僕は目を閉じたまま、頭をぽこすかと殴った。
 たった二日、レポートを一緒に作成して、キス(じゃない、除霊だ)をしただけだ。瞬きするくらいの短い期間で、恋に落ちるとか、どんだけ馬鹿なんだよ。この性欲の悪霊がよ。
「ああ、くそ…」
 難しい勉強をしたわけでもないのに、頭蓋骨の中で脳みそが煮えて、ぐちゃぐちゃに磨り潰されているようだった。思考が定まらない。浮かんでくるのは、如月千草の立っている姿だった。
「ああ、もう…」
 僕はタオルケットにくるまって、芋虫のように丸くなった。
「……」
 枕元に置いたスマホが、何かのメッセージをして、ピロリンと音を立てた。
 手に取って確認する余裕もなく、僕はぎゅっと目を閉じ、なるべく他のことを考えるように徹した。
 閑散とした部屋のなかでまた、何もしない、誰とも関わらない僕の、鈍重な時間が流れ始めた。