護符に書かれていた文字を見るだけで、彼女はそれが何処の神社でもらったものなのかに気づいた。僕に聞くまでもなく、「ほら、行くよ」と、冷たい手で僕の手を引っ張り、外へと連れ出す。そして、まっすぐ最寄りの駅に向かった。
 駅に辿り着くと、慣れた様子で、券売機で切符を買い、丁度そのタイミングでホームに滑り込んできた電車に乗り込む。通勤、通学ラッシュが過ぎた電車の中は閑散としていた。無言のまま、二つの駅を通り過ぎ、田んぼや今にも潰れそうな民家しかない駅で降りた。
 駅員さんに切符を渡し、薄青い空の下に出た僕は、如月千草に聞いた。
「知ってるの?」
「もちろん」
「なんで?」
「そりゃあ、実家が神社やってるから、交流があるのよね」
 彼女はそう軽く言うと、駅舎の前にあった、蜘蛛の巣がこびり付いた自販機でミネラルウォーターを二本買うと、一本を僕に放り投げた。
「まあ、この神社の神主さん、私よりも劣るからなあ…」
「わかるんだ」
「うん、見たらわかる」
 少し歩いて、小学校の校門の前に辿り着く。そこにあったベンチに座って、買ってもらったミネラルウォーターを飲んでいると、薄汚れた市営バスが走ってきて、僕たちの前に停車した。行先を、「抱山神社」とあった。
 僕が「おねがいしまーす」と言ってバスに乗り込むと、運転手の男の人は「こんにちは」と言った。顔が少し驚いているようだった。「こんな田舎のバスを利用する人間がいるんだ」って言いたげだ。
 僕と如月千草が乗り込んだバスは、舗装された山道をしばらく進み、ある神社の鳥居の前に停車した。なんの変哲も無い、周りを山の木々に囲まれた神社だ。
 僕がお祓いをお願いして、断られ、大量の護符だけをもらった場所だった。ここに来るのは、約一週間ぶりだろう。
「うん? 何やってんの?」
 バスを降りて、神社の鳥居を潜りあぐねている僕を見て、如月千草は怪訝な顔をした。
「早く行くよ?」
「でも…」
 ここにきて、僕は怖くなっていた。
「ここの神社の神主さん、『私の手には負えない』って言ったんだぞ? だったら、また来られても迷惑だろ。絶対に、嫌な顔をされるに決まっているって」
「この邪気に塗れたお札を引き取ってもらわないとダメでしょうが」
 如月千草は、右手に持ったナイロン袋を指で回した。
「それに…、リッカ君が遠慮することは無いんだよ。『私の手に負えない』ってのは、完全にここの神主の修行不足ってことでしょうが。いや、才能不足…」
 わかったら行くよ?
 彼女はそう言うと、僕を放って、つかつかと鳥居を潜って行ってしまった。ここに取り残されるのも嫌なので、僕は彼女の背中を追った。
 落ち葉が降り積もった石畳を歩く。朝には似つかわしい、生ぬるい風が吹き抜け、周りに生えた楠木の枝葉を激しく揺らした。葉が、霧雨のようにゆっくりと降ってきて、僕や如月千草の頭の上に乗っかった。
 彼女は「うひゃあ」とわざとらしい声を上げて、頭の葉っぱを取り除いた。
「神様が怒ってる…、いや、ビビってるのかな? リッカ君の背後のやつが怖すぎて」
「……僕の悪霊は、神様よりも強いの?」
「この神社の神様は、元々は土地に住み着いた幽霊が、住人によって神格化されたやつだから…、うーん、まあ、神聖なものではあるけど、幽霊と大差はないよ」
「へえ…」
 感心していると、本殿の扉がゆっくりと開き、中からが、袴の男が血相を変えて飛び出してきた。頭には白髪が目立ち、目元にはくっきりと皺が刻まれている。如何にも「神主」って感じの雰囲気を漂わせていた。
 神主の男は、僕と目が合うなり、半開きになった口を、上から糸で引かれたみたいに歪ませた。
「こ、これは…、立夏さんじゃないですか…、ど、どうしました?」
 動揺した声。一週間前に聞いたものと同じだった。
「この前のお札を返しに来ました」
 僕の代わりに如月千草が答えて、持っていたナイロン袋を掲げる。
 僕の隣にいる女を見た時、神主さんは「おや」って顔をした。
「如月さんの、娘さんじゃないですか! どうしてここに?」
「そりゃあ、悪霊に取り憑かれている人を見たら、助けないわけにはいかないでしょ」
 彼女は遥に年上の男に、ため口を聞くと、黒く染まった護符が入ったナイロン袋を振り回しながら、賽銭箱の前にいる神主さんに歩いていった。
 神主さんが、反射的に半歩後ずさる。その様子が、まるで小学校の時に、いたずらでカエルを投げられて、びっくりした楓君を想起させた。
「ほら、これ見てよ」
 彼女はそう言って、ナイロン袋を放り投げる。
 神主さんはそれを受け取ると、中に入った護符を見て、表情を曇らせた。
「これは酷い…」
「まあ、丁寧に扱わなかったリッカ君も悪いんだけどね」
 如月が首だけで振り返り、いたずらっぽい目で僕を見た。はいはい、僕が悪うござんすよ。
 神主さんは渋い顔で言った。
「ですが…、如月さん、立夏さんに取り憑いた『アレ』は…、私たちの手には負えませんよ」
「ああ、わかってるよ」
 神主さんの面目もあるだろうに、彼女ははっきりと言った。
「今日は、新しい護符をもらいに来ただけ、あと、この護符の処分ね」
「はあ…」
「彼の背中に憑いている『アレ』が怖いのはわかるけど、もう少し、丁寧に説明してやってよ。ありがたみの無い使い方をして、本当の効力を発揮できなかったみたい。おかげで、あの男の子、死にかけたんだから」
「す、すみません」
 僕と同じ学年だから、二十歳か。自分の娘程に若い女に偉そうに言われても、神主さんは嫌な顔を一つせず、へこへこと頭を下げていた。護符が入ったナイロン袋を受け取ると、「では、お祓いをしましょう」と言って、僕に手招きをした。その皺だらけの手は震えていた。
「あ、いいよ」
 せっかくお祓いをしてくれると言うのに、彼女は首を横に振って断った。
「あれは、下手に触らない方がいい。気休めのお祓いをしたって意味がないでしょうが」
「で、では、どうすれば…」
「大丈夫、私に任せてね」
「如月の娘さんが? き、危険じゃありませんかね? それに、私も御父様になんと言えば…」
「ああ、お父さんには内緒でお願い。どうせ、あの無能は何もできないんだから…」
 わかった? 
 如月千草は優しく言うと、神主の胸をどんっと叩いた。
 神主さんはちょっと納得がいかない感じで頷くと、離れの方に走っていき、二十枚くらいの護符を持って戻ってきた。それを、僕に渡す。
「す、すみません…、これ、護符です。部屋の角に貼るんですけど…、必ず片隅は空けておいてください。だから、一度に使うのは三枚までですね」
「あ、はあ…」
「黒くなった護符の方が、こちらでお祓いしておきますので」
「うん、よろしくね」
 如月千草はそう言うと、神主の肩をぽんっと叩いた。
「じゃあ、私たちはこれで帰るから、一応、『アレ』の襲撃に気を付けておいてね。念には念を押して、二週間くらいはお祓いをした方がいいかも」
「は、はい、わかりました」
 霊水やら、灰塩やらをぶっかけられ、正気の沙汰ではない唱え言葉と共に、壮絶な除霊が始まるのだと思って身構えていた僕は、拍子抜けしてしまった。
 思わず彼女に「これだけ?」と聞く。
 如月千草は「うん、これだけ」と頷いた。
「さ、帰ってレポートだ」
 僕の手を取り、神社の鳥居に向かって歩き始める。
 僕は首だけで振り返り、神主さんにぺこっと頭を下げた。神主さんもぺこっと頭を下げた。
 歩きながら、如月千草は言った。
「あの神主に、『コレ』を祓う力は無いよ。もちろん、私にもね。まあ、できないことは無いけど…、うん、多分、祓いきる前に私が死んじゃう。こう言うのは、少しずつ、少しずつ祓って、弱点を見つけていくのに限る!」
「………」
「神主に言われたでしょ? 『護符は三枚まで』って。あれはね、四枚を四隅に貼っちゃうと、結界ができるの。そうすると、リッカ君の背後にいる『そいつ』の邪気が外に逃げれなくて、そこに充満するんだ。そうしたら、逆にそれが悪いものを呼び寄せちゃうんだよ」
「……そうなんだ」
 酸欠になることと一緒よね。
 と、彼女はわかるようなわからないような例えをした。
「………」
 僕の体内に入ってしまった大量の悪霊を祓った彼女なら、この背後にいる『何か』も何とかしてくれるんじゃないかと思ったが、そううまい話はないらしい。
 僕は彼女に気づかれないように、そっと振り返った。何もいない。だけど、確かに『何か』がいる気配がする。
 これは、もはや身体の一部なんじゃないか? って思う。あまり良い例えでははいかもしれないけど、「生まれた時から障がいを抱えている」のと同じようなものだ。一生、向き合っていかなければならないのだ。
「うん、時間に余裕はあるね」
 彼女の声で我に帰る。
 見ると、如月千草は腕時計を眺めて、満足そうに頷いていた。
「あっさり終わったでしょ? だから、こーんなに時間が余っちゃった」
「う、うん」
 悪霊よりも嫌な予感が僕の頭を過った。
 如月千草が悪意に満ちた笑みを浮かべた。
「じゃあ、帰ってレポートの続きをしようか」
「……」
 嫌なものを思い出してしまったな。