バイトを辞めるとき、同僚が僕に言ったことを思い出す。
「本当に悪いと思っている。今から、お前の気が悪くなることをいうけど、決して怒らないでくれ」って。
 僕は同僚が言おうとしていることを何となく察しながらも、「なんですか?」と聞いた。
 同僚は下唇をぐっと噛み締め、斜め下を見下ろした。それから、意を決したように僕の目を見ると、震える声を絞り出した。
「お前は、あまり人と関わらない方がいい」
 その時は「はあ…」と頷いた。
 同僚は、「すまない」と、また謝った。
「お前は本当に良いやつだよ。仕事できるし…、頭がいいから、接客もできるし…。美味しい店も沢山知ってるもんな。お前とバーベキューに行った時も、マジで楽しかった。楽しかったんだ。お前はいいやつなんだ。だけど、もう、人と関わらない方がいい」
 同僚も、僕にとっては「良いやつ」だった。仕事をさぼる癖があるのはいただけなかったが、普通に接客できるし、料理も美味しいし、女の子の連絡先を沢山知っているし。彼と一緒にいて、楽しい思いは何度もしてきた。
 だから、彼にそんなことを言われた時、ショック、と言うよりも、申し訳なささが勝った。彼だって、本当はそんなことを言いたくないはずだ。それを言わせてしまった僕がふがいなく思った。

 人と関わらない方がいい。か。人を寄せ付けたらダメなのか。
「あっはっは! 来るな来るなあ…」
 僕は、傍から見れば、狂った人間のように呟くと、酒に酔った足を前に踏み出した。
 つい最近まで、うだるような暑さが続いていたはずなのに、通りを吹き抜ける風は冬の気配を孕んでいた。背筋がぞっとして、腕に鳥肌が立つ。
 アパートに着くと、錆が浮いて今に落ちてしまいそうな階段を登って自分の部屋の扉の前に立った。
 ドアノブには、回覧板が下げられていた。それを手に取り、脇に挟む。それから、鍵を使って中に入ろうとした…、その時だった。
 ガタンッ! と扉が勢いよく開いて、隣の部屋から女の人が出てきた。
 今さっきまで寝ていたのか、三十代前半くらいの女性はパジャマ姿で、髪もまとまって折らずぼさぼさだった。胸元のボタンが外れていて、少し間違えれば、白い胸が露わになりそうな状況で、彼女は裸足のまま僕に詰め寄ってきた。
 声を押し殺して、僕を怒鳴る。
「ちょっと! さっきからなんなのよ! うるさいわね!」
「え……」
 僕の手から、部屋の鍵が零れ落ちた。
 カシャンッ! という音に、お隣のお姉さんは肩を震わせながら続ける。
「さっきから、ガタガタガタ…、うるさいのよ! 近所迷惑ってことを知らないの?」
「え、いや、その…」
 僕が言い淀んでいると、お隣のお姉さんの顔がピタッと固まった。
 居酒屋のTシャツを着て、手には買い物した後のナイロン袋。足元には、部屋の鍵。
 それを見たお隣のお姉さんは、「へ?」と間抜けな声を発した。
「もしかして…、今、帰ってきたの?」
「え、まあ、はい」
 頷くと、お隣のお姉さんは「なーんだ…、良かった。そうだよね」と、ほっと息を吐いた。しかし、すぐに顔を青ざめさせ、扉の方を見た。
「え、ええと…、警察呼んだ方が良いかな?」
「いや、いいです」
 僕は鍵を拾い上げると、さっと鍵穴に差し込み、右に回した。ガチャンと、開錠される。
 お隣のお姉さんの制止も聞かず、僕はドアノブを捻って手前に引いた。
 扉を開けると、蛍光灯の白い光が、アパートの通路に差し込み、僕たちの頬の輪郭を照らした。
 今更、己のあられもない姿に気づいたお隣のお姉さんが、パジャマのボタンを留めながら部屋を覗き込む。僕は「大丈夫ですよ」と言いながら、靴を脱いで部屋の中に上がった。
 いつもの僕の部屋だった。
 台所には、朝食の皿が洗われず放置され、奥のフローリングも、家を出る前と変わらない。布団がぐちゃっと捲れ上がり、テーブルの上には読みかけの小説が積み上がっている。唯一、家を出る前と違うのは、蛍光灯の灯りが点いているということだった。
「ほら、何もいないでしょ?」
「そ、そうだね…」
 女性は頬にじっとりとした汗をかきながら頷いた。
「その…、お祓いに行った方がいいんじゃない? 近くの神社の神主さんと知り合いだから、声をかけてみようか?」
「いや、いいです。自分でやるんで」
 僕は彼女の厚意に感謝しながらも、やんわりと断った。今までに、何人もの神主やら坊さんやらに相談したが、いずれも「私の手には負えない」だった。ちなみに、怪しい女性から「幸運になれる壺」を買ってみたが、効果は無かった。
 僕は女性に謝った。
「本当に、すみませんでした」
「い、いや…、リッカくんのせいじゃないってわかって、うん、安心したよ。そりゃそうか、リッカ君って優しいし、いい子だもんね」
 女性はパジャマの袖をパタパタと振った。
「じゃ、じゃあ、明日も仕事があるんだ。お休み」
「はい、おやすみなさい」
 女性が隣の部屋に戻るのを確認してから、僕も部屋に引っ込み、鍵をかけた。
 冷蔵庫に酒とおつまみを入れて、シャワーを浴びてさっぱりとしてから、ベッドの上に横になる。天井を見上げると、見知らぬ黒いシミができていた。変色した血の色みたいだな。
「………」
 酒のせいか、瞼がとろんと重くなった。
 頭の中で反響するのは、同僚に言われた言葉だった。

 人と関わらない方がいい。