歌声喫茶が人生変えた


紅葉が色付き始めた頃、明照の通う中学校では体育祭・文化祭に並ぶ
行事の下準備が始まっていた。
「これより音楽コンクールに関する話し合いを始める。
去年やったから基礎的な流れは分かっているな?」
社会科の担当であるクラスの担任、仙石聡(せんごくさとし)の言葉に
男子生徒の大半は露骨に嫌な顔をして見せた。
人前で歌うというだけでも十分嫌で嫌でたまらない。
その上更に、皆と声を合わせるなんて想像しただけで生き地獄だ。
勿論、ここで騒ぐと先生が怒るので何も口にはしなかったが
露骨に非協力的な態度なのは心理学者でなくても簡単に分かった。
「先ず課題曲のパート分けから始めるぞ。自分が去年どの
音域だったか覚えているか? 余程の事が無い限り、原則
同じで良いとは思う。只、問題が有るなら名乗り出てくれ」
明照は直ぐに嫌な記憶が蘇ったが、よく考えてみると、当時
明照に嫌な事を言った連中は殆ど別のクラスになった。まして
先生に告げ口した事で逆ギレして暴力を振るった輩は全員
転校して居なくなっていた。
「未だ忘れられないか・・・でも良いんだ。前より酷くなった訳じゃない」
ものの数分もせず課題曲のパート分けは終わった。
「次、自由曲だが、候補は・・・」
この言葉を聞いた瞬間、明照はビリー・ザ・キッドが拳銃を抜くより早く
手を挙げ、立ち上がったと思うと大声で名乗り出た。
「はいっ!! 丁度良い楽曲を知っています! 音源も持ってきました!」
普段は存在感が殆ど無い明照の突飛な行動に、根路銘崇と赤嶺美娜以外
誰もが仰天せずにはいられなかった。
勿論、聡もまた、ただでさえ大きい目を更に大きく見開いた。
何せ1年の時の担任、工藤俊子から“普段は寡黙”と聞いていたので
一瞬、明照ではない、全く別の誰かに見えた。
「田中明照、随分凄い勢いだな。音源が有るなら先ずはそれを聴こう」
聡に促され、明照は前に出るとタブレットに収録された音楽を再生した。
楽曲自体も全く知らないが、それ以上に、言語も謎だった。
楽曲が終わると、聡は腕を組み大きく頷いた。
「誰か、この曲を1度でも聴いたことが有る者は居るか!?」
数秒待ったが誰も手を挙げなかった。
「誰も居ないか。田中明照、この曲について解説を頼む!」
「はい。この歌のタイトルは“国際学生連盟の歌”です。
原爆を以てしても絶たれない熱い友情がテーマです」
「熱い友情か。気に入った! して、この言語は何だ?」
聡の圧にドキドキしながらも明照は答えた。
「これはロシア語です。何でかというと、今迄
英語の歌は有ったものの、他の外国語は未だ誰も
やってなかったので、またとないチャンスだって考えたからです」
「よく調べたな。その通りだ! しかも、問題はこれだけではない。
未だ決まった訳ではないが、音楽コンクールは今年が最後になる
可能性が有る。それを思うと、尚更最後に凄い物をやりたくなるな」
聡が乗り気になる一方、同級生の何人かは益々やる気を削がれていた。
合唱自体が嫌+聴いたこともない歌+知らない言語と、三重苦なのだ。
とある男子生徒が挙手した。
「あの、前例が無い事に挑むって考え自体は素晴らしいけど
皆英語だって余り分からないのにロシア語って・・・どうなの?」
これを皮切りに反対派が口々に騒ぎ出した。
「他に無かったのかよ」
「そうでなくても合唱ってだけで嫌なのに」
「巫山戯るなよ」
最初の内は未だ比較的まともな意見も有った。然し
後半から、単純に明照本人への中傷に変わっていた。
「大体陰キャの癖に何出しゃばってんだよ」
「地味な癖に生意気だぞ。身の程を弁えろ」
「去年御前の所為で私ら無茶苦茶怒られたんだから」
罵倒の大嵐に晒されている間、明照は視界が暗くなってきた気がした。
あぁ、結局去年と全く同じ事の繰り返しなのか。勇気を出して
皆の前に立ったのは間違いだったのか。
明照の耳に入ってくる言葉は最早只の雑音でしかなかった。
そんな時、低く、それでいて威圧感の有る声が耳に入った。
「おい、今明照に地味だの生意気だのほざいた奴
正直に名乗り出るなら決して悪いようにはしねーぞ」
恐る恐る目線を向けると、赤嶺(あかみね)美娜(みな)は一見冷静に見えた。
然し、本性を熟知する明照と、根路銘(ねろめ)(たかし)は理解した。
下手な事言うと火に油を注ぐ結果になる。
暴走すれば教室が血で染まると判断した崇は
牽制も兼ねて立ち上がった。
「反対するならするでも良いけどよ、それと
明照本人への悪口は違うだろうが。分からないのか?」
次の瞬間、大部分の生徒は静かになった。
崇と美娜は、普段はとても情深いが、キレさせたら
誰も止められない暴れ者として非常に有名だった。
しかし、それを知ってか知らずか、数名は未だ食い下がった。
「だってこいつ去年クラスを引っ掻き回したんだろ」
「何でこんなキモい奴なんかの肩を持つんだよ」
「さては何か弱みを握られているの? 助けるよ?」
警告しても無駄だったと悟った美娜は崇に目線を向けた。
小さく頷いたのを見ると、美娜は前に出てきた。
「貴様等さっきから聞いていれば明照への人格否定ばっかりして。
そんな大それた事が出来る程偉いのかよ! 自分が阿羅漢だとでも
言うのかよ! 或は阿闍梨だとでも言うのかよ!」
「いや、そんな話はしてない・・・」
「喧しいわ!!!」
余りの怒声と剣幕に、明照すら震え上がった。
「貴様等ここへ何しに来たんだよ! 建設的な議論だろうが!
違うのか! 大体な、明照が去年何やったのかちゃんと分かってる奴
居るだろうがよ! 何で本当の事言わないんだよ! 明照を陥れて
小遣い稼ぎでもするのかよ!」
美娜の本気の激怒に誰も何も言えなくなった。
体を震わせているのを見て、聡は漸く口を開いた。
「うむ、よく言った。後は俺に任せて席に戻るんだ。
田中明照、この音源を転送したい。良いか?」
「どうぞ」
聡は自分のタブレットにデータを転送すると再び顔を上げた。
「途中から話が逸れたが、改めて尋ねる。
他に自由曲、候補が有るなら聞こう」
またしても水を打った様に静かになった。
散々好き勝手騒いだ癖に誰も良い代案を用意していなかった。
「誰も候補を挙げないのならこのまま確定だぞ」
数秒待ったが矢張り沈黙が続いた。
「よし、これでこの話はお終いだな。田中明照、この曲の
歌詞を印刷したい。何処にアクセスすれば良い?」
「そう来ると思って用意しました」
明照は聡のタブレットに何やら入力し、とあるページを開いた。
「分かった。ルビが振ってあるとは実に用意周到だな!
・・・おっと、もうこんな時間か。では本日はこれまで!」
丁度チャイムが鳴ったので聡はそのまま職員室へ戻った。
それを見るや否や、生徒達も一斉に教室を去った。
一足遅れて帰り支度を済ませた明照は、崇と美娜の机に向かった。
来るのを分かっていたとでも言わんばかりの様子で2人は
明照に目線を向けた。
「明照、よく頑張ったな。偉いぞ」
「最初に1歩踏み出すって勇気が要るよね」
先程迄の羅刹の如きオーラは既に何処にも無かったのを見て
明照は表情を緩め、話し始めた。
「崇君、美娜ちゃん、僕の為にあれ程怒ってくれて有難う。
家族ですらこんな事してくれた経験は一度も無かったから
凄く嬉しいよ。2人には一生頭が上がらないよ」
いじらしい姿を見て、崇と美娜は思わずほっこりした。
「気にすんな。俺等は小さい頃から何度となく
オジーとオバーから教わってきた事が有るんだ」
「折角だから明照にも教えるよ。
“イチャリバチョーデー ユイマール”」
初めて聞いたウチナーグチに明照は一時的に固まった。
「あぁ、御免よ。えぇとね、直訳すると“行き合えば兄弟 助け合い”。
古くから伝わる金言だよ。初耳?」
「初耳だね、うん」
漸く意味を正しく理解した明照の肩を、崇は数回叩いて
白い歯を見せて笑った。
「明照、御前は本来優秀なんだ。あんな奴等の戯言なんか
何も聞く必要は無いぞ」
心から気を許せる親友に恵まれていると知り、明照は
涙を隠す為、思わず壁を凝視するのであった。
明照は、何時しか自分が杏果と同じ事をしていると
気付き、心に変化が生じていると感じた。

一旦帰って宿題を済ませた後、明照は杏果の所を訪ねた。
歌声喫茶“”自体は休みだったが杏果は家に居た。
初めての事に驚きはしたが、杏果は年の離れた
ボーイフレンドが自ら来たので思わず飛び上がった。
「こんな事って初めてだよね!? 凄い! 如何してかは知らないけど
凄く嬉しいよ。今日はどっちの部屋に入る? 明照君が選んで」
例によってグイグイ来る杏果に明照は相変わらず気圧されていたが
それすらも今となっては楽しみの一つと化していた。
「そうだな・・・じゃあ、魔法少女の間にする」
「はい喜んで!」
何処で覚えたのか、飲食店の様なノリで応えると
杏果は明照を自室へ招き入れた。

「・・・成る程ね。明照君、凄いよ! 初めて会った日とは
大違いだね。例えるなら、猫が白虎に進化した様なものだよ」
「あ、あはは・・・・・・そんなに凄いとは自覚してなかったな」
小さな手で頬を撫でて貰いながら、明照は今日有った事を
杏果に話して聞かせた。
「よし。明照君、凄く頑張った御褒美に良い物を・・・」
「わわっ・・・待って! 未だ心の準備が・・・」
またキスされるのかと思い、明照は慌てふためいた。
ところが、杏果は目が点になっていた。
「何の話?」
「え・・・・・・?」
数十秒、時が凍りついた。やがて、先に杏果が沈黙を破った。
「御褒美に、面白い物を見せるって言おうとしたんだけど」
「え? あ、あぁー・・・そうだったんだ」
明照は、1人で勝手に盛大な勘違いをしていた自分が惨めになった。
「明照君、一体何を想像したのかなぁ?」
不意に杏果は真正面に来ると、ニヤニヤしつつ顔を近付けた。
「いや近い近い。何って言われると、それは・・・・・・」
また暫く2人は固まった。今度も先に動いたのは杏果だった。
「何かして欲しい事が有るなら遠慮しないで言うんだよ。
あたしは明照君のガールフレンドなんだからさ」
「えっと、うん・・・有難う。それで、良い物って本当は何?」
杏果はタブレットを弄っていたと思うと
とある音源のデータを呼び出した。
再生出来る事を確認すると、杏果は幼稚園の頃
着ていた体操服に着替えた。
「あたしが年中さんの時にやった御遊戯だよ。当時
年少さんと年長さんも面白がって真似してたんだよね。
余りに流行るから、次の年から全員やることになったんだよ」
杏果が幼稚園の頃はどんな具合だったか色々想像して
明照は思わず笑みを浮かべた。
「杏果ちゃんが幼稚園の頃の話、聞いてみたいな」
「勿論だよ。あ、良かったらビデオ撮る? 良いよ。
長さはそうだね・・・5分も有れば十分だよ」
思わぬ申し出に一度は躊躇ったが、別に拒む必然性も無いので
好意に甘えることにした。
「5分か。じゃあ撮らせてもらおうかな」
明照がカメラを用意し、杏果が再生ボタンを押すと、何とも
コミカルなBGMが流れ始めた。思わぬ展開に明照は危うく
吹き出すところだった。
やがて、風変わりな歌詞が聞こえた。

『︎今日も悪戯頑張るぞ。落書きいっぱいしてみよう
先ずはおうちの外にある 大きな壁に書いてみよう』

杏果の可愛い声は耳に心地良かったが、それ以上に
意味不明な内容の歌詞に、明照は何からツッコミを入れるべきか分からなかった。
やがて、この意味不明な歌は、悪戯がバレるくだりへ突入した。

『︎悪い子は、如何なるの? 可愛いお尻をペンペンペン
お膝の上に乗っけたら、幾ら泣いてもペンペンペン』

杏果は明照に向けお尻を突き出したと思うと、自ら右手で
軽く叩いてみせた。明照は、唖然としながらも、一方で
可笑しさと愛おしさを同時に覚えていた。

『︎どんなに泣いても許しません。きちんと反省しなさいね
痛いよ痛いよエンエンエン 御免なさーいもうしません』

怒っているママと泣いている子供を体いっぱいに表現し
尚且つ、一瞬で演じ分けをこなす杏果は、明照には
一端のエンターテイナーに映った。

演目が終わると、明照は撮影を終えた旨を示すハンドサインを出した。
杏果はタブレットを操作すると、再び明照の膝の上に鎮座した。
「こんなのが流行ってたって想像出来る? 凄いよね」
「本当。これ作詞作曲した人、ぶっ飛んでいるよ。
誰か恥ずかしがってなかった?」
杏果の頭を撫でつつ明照は疑問を投げかけた。
「勿論だよ。只、恥ずかしがってたのは殆ど男の子だったね。
女の子の方が堂々としてたよ。全員がそうって訳じゃないけど」
この話を聞き、明照は自分が中学1年の時も、更には小学生の時も
合唱コンクールや演劇の練習では大抵男子の方が不真面目だったと
思い出した。
「そう言えば明照君、さっきはビデオ忙しくてあたし自身は
余りよく見てなかったよね? もう1回やるよ」
「え、いや、悪いよ。疲れてないの?」
「余裕だよ。てか、これ踊ってたら楽しくなってきた。
一緒に踊ろうよ。上手でも下手でも良いからさ」
「い、1度お手本を見せてもらいたいかな」
先延ばしにしたい一心で明照は慌てて頭を回転させた。
時間が経てば覚悟も決まるだろうと判断したのだった。
「そう? 良いよ。それじゃ、しっかり見ていてね」
こうしてセカンドステージが始まった。暫くはニコニコしつつ
見ていたが、悪戯がバレてお尻叩きのお仕置きの場面は
矢張りどうしても平常心の維持に苦労した。

「如何かな? あたし、可愛いでしょ。さぁ、一緒に踊ろうか」
2度目が終わり、明照は逃げ道を完全に絶たれた。
「あの、これ何処にも公開しないよね?」
「勿論。公開するとしたらあたし1人の分」
望み通りの答えが聞けて、明照は安堵した。

然し、それでも結局お仕置きの場面は恥ずかしさを隠せなかった。
2年A組の面々は、音楽室で“国際学生連盟の歌”を練習していた。
音楽教諭の佐竹(さたけ)陽子(ようこ)は、自分の教員人生で初の体験をしており
生徒達が今正に味わっているのと同じ緊張感に浸っていた。
「それまで。皆、大分纏まりが出てきたんちゃうかな。
この調子やったら何かしら賞は獲れるで」
陽子の言葉に一同は緊張感を緩めた。


遡ること1週間前、自由曲が決まった翌日、2年A組では
歌詞カードが配られていた。見たこともない文字の羅列に
明照・根路銘(ねろめ)(たかし)赤嶺(あかみね)美娜(みな)以外は全員唖然としていた。
「何じゃこりゃ」
「所々に英語と同じ文字も有るね」
「これ鏡文字じゃね?」
「これ逆さまにしたら・・・意味無かった」
皆の驚きはやがて不満へと変化していった。
「こんなの無理」
「覚えられないー」
「見ただけで頭痛くなる」
懲りずに騒ぎ出したのを見て美娜はまたも羅刹に変身した。
「おい、貴様等、試す前からそんな事言って如何するんだよ。
明照より良い曲を選べなかった癖に生意気ぬかしてんじゃねーぞ」
この前は食い下がった連中も、流石に2度も同じ間違いは繰り返さず
直ぐに静まり返った。
「余り大声で喚き散らすなよ。喉を傷めたら後が大変だろ」
変身を解除した美娜に崇が小声で声を掛けると、一瞬
目を細めた。
「堪忍して。文句ばかり一丁前で、建設的な事
何も言えない奴が私は大嫌いだから」
崇に宥められ、美娜は落ち着きを取り戻した。
それを確認してから明照は話し始めた。
「確かに、これ全部となると難しいよね。では、仮に
皆が覚える部分が後半4行だけだとしたら?
然も、この部分は1番から3番まで歌詞が全く同じだよ」
そう言われてよく読んでみると、1文字も違っていなかった。
「まぁ、これなら何とか・・・」
「何十回も延々聞けばいけるかも」
「本当にこれだけで良いの?」
またも皆が口々に意見を述べた。
「勿論、自信が有るから全部覚えるって言うのならそれは歓迎するよ。
本当に出来るならの話だけど」
傍で話を聞いていた担任、仙石聡は頃合を見て口を開いた。
「成る程、これなら確かに楽だな。それで、最初の2行は如何するんだ?」
「音源聴いた時分かったと思いますが、ソロパートになっていましたね。
これを模倣します。他の皆はこの間は休みです」
この提案には皆複雑な表情を浮かべた。
確かに楽出来るのは嬉しいが、これだと半分は明照の
独演会も同然だ。皆がまた好き勝手に意見を出し合う中
崇が不意に手を挙げた。
「だったらよー、1番は美娜、2番は明照、3番は俺がソロパートやる。
これなら特定の1人に偏らないだろ?」
不意に出てきたアイデアに誰もが息を呑んだ。想像だが
他のクラスはこんな事はしてない筈だ。ならば
大きく差別化する絶好のチャンスではないか。
「ほほぅ、それは気が付かなかった。面白い!
前例が無い事に果敢に挑戦するのは良い事だ!」
こうして自由曲の練習の方針は簡単に決まった。


音楽室にチャイムが鳴り響く数分前、明照が不意に前に出た。
皆が何事かと注目する中、明照は思わぬ提案を持ち掛けた。
「皆、休日返上してでもやるって言ってたよね。それなら
歌声喫茶“ひかり”でやろうよ。エアコンもきいているし
機材だって良い物がふんだんに有る。加えて、僕なら
講師とコネが有る。勿論、あくまで任意だから強制はしない。
只、来るなら手抜きは一切許されないよ」
この頃になると皆は明照・崇・美娜の統率力を認めていた。
「面白い。乗った」
「表彰される為なら何だってするわ」
「どんな先生が来てくれるんだろうな」
一心団結する姿に、陽子はえびす顔になった。
「歌声喫茶“ひかり”か。えぇやん。皆
行くんやったら最後の瞬間迄全力やで」
チャイムが鳴っても、一同は後1回だけと粘り
音合わせを行なった。

翌日、歌声喫茶“ひかり”に集まった一同の前に明照が立った。
「皆、僕の提案を受けてくれて有難う。では早速
講師を招くから、決して粗相の無い様にね。
先生、出番です。御願いします!」
その声を合図に、奥の扉が開いたと思うと
歌声喫茶“ひかり”の主宰者夫妻及びその孫娘が姿を見せ
壇上に上がった。直後、少し遅れてもう1人現れた。
Здравствуйте(こんにちは), товарищ(同志). 今回、皆様の担当講師となりました
アナスタシア・ヴラディーミロヴナ・タルコフスカヤです。
凄く長い名前なので“アナスタシア”で結構です」
産まれて初めて見るロシア人美女に、男子は勿論、女子も心を奪われた。
「凄い。氷の妖精だ」
「あれじゃ嫉妬する気にもなれない」
「完全に違う世界に住んでいるよね」
「逆立ちしたって勝てやしない」
呆然とする中、主宰者一家も挨拶をした。
「初めまして。歌声喫茶“ひかり”の主宰者をしています
小野田寛司です。今日は宜しく御願いします」
「小野田英子です。皆様を迎え入れられて嬉しいです」
「初めまして。稲葉杏果です。主宰者の孫娘です。
皆にこの歌声喫茶を紹介した、田中明照君のガールフレンドでもあります」
思わぬ爆弾発言にその場は騒然となった。
「おい、どういう事だよ」
「何時の間にあんなに可愛い子と知り合ったんだ」
「どっちから言い出した訳?」
芸能人に群がるパパラッチの如く同級生達は矢継ぎ早に質問を投げかけた。
そんな流れを大きく変えたのは、例にとって崇と美娜だった。
「御前等、歌声喫茶の方々に迷惑掛けるなって再三再四
言われてただろうが。忘れたのか?」
「それに、杏果ちゃんと明照は一緒に御風呂に入り
互いの過去を打ち明け合い、家にまで泊まった程の仲だよ。
貴様等の入る隙間は1mmも無いから潔く諦めな。
仲を応援するなら結婚式には呼んでもらえるかも」
衝撃の事実が何度も相次ぎ、同級生達はツッコミを
入れる気が失せた。そして、本来の目的も思い出した。

漸く静かになったところで、アナスタシアによる講義が始まった。
「日本人にとってはЛとРの区別は難しいでしょう。
Лは英語のLに近い一方、Рは英語と日本語のどちらにも無い
音なので、コツが要ります・・・・・・」
歌声喫茶の常連である照明、並びに数回来たことが有る
崇と美娜は比較的早く順応出来ていた。
然し、他の生徒達は悪戦苦闘していた。
「なまじ英語が出来ると却って難しいな」
「確かに」
「えぇと・・・あぁ、英語だとSに当たる文字か」
「これ、数学の授業で似た文字見たかも」
2年A組は既に友情と努力は揃った。今や勝利を掴む段階に入っていた。
しかし、それこそが最後にして最大の難関だった。何せ他のクラスは
自由曲に何を選んだか分からない。加えて、歌唱力も全く不明である。
そんな様子を見て、杏果は、以前崇と美娜に掛けた魔法をもう1度使った。
「皆なら出来るよ。諦めないで☆」
次の瞬間、明照以外の全員の魂が体から抜けそうになった。
後に明照は“漫画とかアニメとかゲームによく有る、魂が浄化される瞬間を
まさかリアルで見ることになるとは夢にも思わなかった”と語った。


そうして迎えた当日、2年A組は最大級の緊張感に包まれていた。
課題曲の時は未だ比較的気が楽だった。嫌な表現をすると
気に入っていようがいまいが、学校から無理矢理押し付けられた
楽曲なので、どのクラスも露骨にやる気が無かった。だから
特に大した差は見られなかった。
しかし、自由曲になった途端猫も杓子も覚醒した。ここぞとばかりに
派手なパフォーマンスをしてみせたり
楽器が得意な者は腕前を披露したりと、創意工夫に富んでいた。
今更ながら緊張する一同に向かい、明照は最後のアドバイスを贈った。
「皆、客席に並んでいるのは全て果物のオブジェだ。苦手なら代わりに
野菜のオブジェでも構わない。兎に角、人間じゃないって事を忘れるな」
今やクラスの領導者となった明照の勢いは、崇と美娜でも止められなかった。
「あいつ、守宮から青龍に進化したな」
「杏果ちゃんの前で良いところ見せたいんだね。
尤も、それは皆同じだけど」
やがて、前のクラスの自由曲の披露が終わった。
「続きまして、2年A組による自由曲で“国際学生連盟の歌”です」
実行委員長、井上(いのうえ)沙也加(さやか)のアナウンスは皆の気を引き締めさせた。
同時に、全員一斉に自分の好きな果物を思い浮かべ始めた。


ここで時はコンクールの前日に遡る。
音楽室で自由曲の練習をしていたA組の面々は
明照のブリーフィングを聞いていた。
「緊張するなと言ったって、そんなのが無理である事は
最初からよく分かっているよ。寧ろ、全く緊張しないのも
其れは其れで良くない。でも、緊張し過ぎも論外。そこで
杏果ちゃん直伝の奥義を教えるよ」
明照はホワイトボードに以下の内容を書き記した。それを見ると
同級生達は一斉にノートを取り始めた。

*練習の時は自分が世界一の下手くそだと思い込む
*本番の時は自分が世界一の歌い手だと思い込む
*軍楽隊の一員になりきるのも有り
*緊張はするのが当たり前
*客席に並んでいるのは※果物のオブジェ
人間じゃないから怖がる要素は無い

※苦手なら、代わりに野菜のオブジェでもOK

ホワイトボードマーカーのキャップを閉め
元の位置に戻した後、明照はブリーフィングを再開した。
「僕達はともすれば緊張するのは悪い事であると思い込み易いよね。
それでは何時まで経っても良い歌にはならないよ。だから発想を
逆転させようって訳。緊張している自分自身を受け入れるんだ。
何か質問が有るなら答えるよ」
その瞬間、1人の男子生徒が勢い良く手を上げた。
「早いね。どうぞ」
指名された生徒、川端(かわばた)宏明(ひろあき)は後ろの列に居たので
太った体を揺らしつつ前に出てきた。
「果物または野菜って言うけど、他の物
例えば豚カツとか寿司とかでも良いのか?」
予期せぬ内容に、クラスの大半が失笑した。しかし唯一
明照だけは笑わずに疑問に答えた。
「どんなに小さな疑問でも決してほったらかしにはしないとは
良い心掛けだね。皆も見習うべきだよ。
それで、今の質問の答えだけど、結論から言うと“やって良い”。
当然、歌詞を忘れるような事は決して許されないけど
自分の好きな物のオブジェを思い浮かべることで
本当に士気が上がるならそれは実に素晴らしい事だよ」
一見すると愚問にしか思えない事にも丁寧に答えてくれる
明照の方針は、他の生徒達に“自分も質問しよう”と思わせた。
こうして皆の礎は確実に固まった。


皆が好物のオブジェを思い浮かべる中
遂に音楽が始まった。最初のソロパートを担当する
明照は、杏果と行なった地獄の訓練の日々を思い出していた。
少しでも不自然だと直ちに“ニェット”と言われ、何百回も
心が折れそうになった。それでも、レッスン終わりには
マッサージをしてくれたり、キスしてくれたりしたので頑張れた。

明照から引き継いだ同級生達はここぞとばかりに
団結力を皆の前に見せた。その凄まじい迫力に
審査員の先生は勿論、他の生徒達と保護者も気圧された。
それは2番で美娜から、3番で崇から引き継いだ時も一緒だった。

全学年、全クラスの発表が終わった後、審査員による評議が
行われた。今年はイレギュラーが有り、例年以上に時間が
掛かった。また、表彰状を書く担当の書道部員も
今年は枚数が多く、手間取っていた。

かなり待たされた後、漸く結果発表が始まった。
今年はどうした事か1年の後、3年の分を先に発表した。
この瞬間、全員が悟った。これは一波乱有る。
その予想は正しかった。2年の分の発表を聞いていると
どのクラスも何かしら賞を貰っていた。その中には
“面白かったで賞”をはじめとする、明らかに御情けで
与えられた物も少なからず有った。
何故かクラス順ではなくランダムに発表された事も
皆の思考回路をオーバーヒートさせた。
そして、最後に2年A組の番が来た。
「2年A組、先ずはクラス全体に対してです。
アイデア賞と敢闘賞、獲得おめでとうございます」
その瞬間、本日最大級の拍手が起こった。
クラス代表で明照が舞台上に上がると、待ち構えていた
校長はゆっくり表彰状の文面を読み上げた。
「アイデア賞、2年A組。あなた達は、音楽コンクール始まって以来
前例の無い、ロシア語の歌曲を選びました。その、素晴らしい発想力を
讃え、ここに表彰します。
敢闘賞、2年A組。あなた達は、慣れない言語、ロシア語の歌曲を
練習してきました。不慣れな事に勇ましくぶつかる、その敢闘精神を
讃え、ここに表彰します」
2枚の表彰状を受け取ると、明照は最敬礼を行い、舞台を去ろうとした。
その時、井上沙也加のアナウンスが響いた。
「2年A組は、クラス全体だけでなく、個人への特別賞も有ります。
根路銘崇君と赤嶺美娜さん、舞台へどうぞ。田中明照君は
引き続き待機していて下さい」
呼ばれた褐色カップルと明照は事情が理解出来ず
ポカンとしていた。何せ個人宛の表彰も前例が無かったのだから。
3人が揃った後、校長はまたも表彰状の文面を読み始めた。
「リーダーシップ賞、田中明照君。あなたは2年A組を見事に
引っ張り、クラス全体を纏め上げました。その成果を讃え
ここに表彰します。
友情賞、根路銘崇君、赤嶺美娜さん。あなた方は田中明照君の
支えとなり、原爆の力でも絶たれぬ友情を以て助け合ってきました。
その尊い友情を讃え、ここに表彰します」
誰も全く予想してなかった内容に、3人は思わず視界が霞んだ。
最優秀賞こそ他のクラスが獲得したが、最早大した問題ではなかった。
表彰状を受け取る際、校長の前で涙を見せるのは流石に良くない
気がしたが、本人は態々マイクの電源を切り小声で呟いた。
「構いませんよ。私だって嬉しければそうもなります」
3人は無言で頷いた後、本日最大級の最敬礼をしたのだった。

後日知ったのだが、3人への個別の特別賞を推薦したのは
普段無表情で厳格な事で悪名高い数学の教諭、乾義文だった。
授業の後3人で御礼を伝えると、知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
しかし、顔を逸らした時に窓ガラスに映った顔は普段と違い
恥ずかしさを必死で隠そうとする、中高生の様な顔だった。

コンクールを終えて家に帰った明照が自分の部屋で目にしたのは
クラッカーを鳴らす体制に入った杏果及び小野田寛司・英子夫妻だった。
国旗が飛び出す、散らからないタイプのクラッカーが鳴った後
最初に祝辞を述べたのは寛司だった。
「おめでとう! 流石は明照君。君を信じて良かった」
「有難う御座います! この表彰状は僕の生涯の宝です」
一度は乾いた筈の涙が再び溢れるのを明照は自覚していた。
「おめでとう。友情と努力が勝利に結び付いたわね」
「有難う御座います・・・あれ? 何処かで聞いた様な・・・まぁ良いか」
英子の祝辞に微かに違和感を感じたが、そんな事を考える暇は無かった。
杏果は子守熊の様にしがみ付いたと思うと、唇を重ねてきた。
2度目ではあったが、全く予測出来ない行動に、明照はドキドキした。
「明照君、おめでとう! これがあたしからの御褒美だよ」
「あ、有難う・・・・・・。本当に杏果ちゃんは僕が大好きなんだね」
しがみ付いて離れない杏果を抱っこしていると
小野田夫妻は、或る意味予想通りの事を言い出した。
「将来は必ず明照君と結婚するんだと張り切っていたよ」
「新婚旅行はモスクワに行きたいんですって。最初は子供特有の
絵空事かと思ったけど、レーニン廟とか軍事博物館とか
行きたい所が具体的だから、これは本気と見なしたわ」
何かにつけて誰よりも大好きと言う杏果の言葉の重みは
予想以上と知り、明照は自分の認識が違っていたと感じた。
「御両人としては如何なんですか? 僕と結婚したいって話」
「そりゃ勿論大歓迎よ。杏果ちゃんに言われてやった事とは言え
あの子の両親と兄と、父方の方のおじいさんおばあさんに御線香
上げたじゃないの。あれ見て分かったわ。明照君は人格者」
「私達としては明照君なら何の心配も無いと考えているんだ。
生真面目で正直、それでいて親切。何で反対しなきゃならないんだ?」
明照はこの瞬間悟った。外堀も内堀も既に完全に埋まっている。
後は両親と祖父母だが、姿が見えない。
不安になったのを見て、寛司は口を開いた。
「御家族なら私達の家に居るよ。何せ大人達だけで
話さなきゃならない大事な話が有ってね。どちらの家でしても
良かったんだが、成り行きで結局うちでする事になったんだ。
明照君、今日は孫娘のことを宜しく御願いします」
何という事だ。互いに泊まりに行ったことは何度も有ったが
2人きりは、それこそ前例が無い。まごついていると英子は
帰り仕度を始めた。
「食事の手配と、必要な物の用意は既に全部
私達がしたわ。掛かった経費は1円単位で正確に教えて頂戴。
掛かった分だけ払うから。何か有ったら私達の携帯にどうぞ」
呆然としている間に、2人は居なくなり、杏果だけが残された。
車の音が消えたのを確認すると、杏果はゆっくり地に下り
家から持ってきた、幼稚園の体操服に着替え始めた。
「今日は何見せてくれるの?」
半ば開き直った明照は、杏果の出し物を見て平常心を取り戻そうと考えた。
「1人で3つもの表彰状を獲った明照君への御褒美。
あたしが年少さんの時にやった御遊戯だよ。
タイトルは“おしりの山はエベレスト”」
そう言えば昔何処かで聞いた気がする。そんな事を考えている間
杏果は撮影の用意を始めた。
「明照君、そのカメラは緑のボタンを押すと録画開始で
赤いボタンは終了。押したらハンドサインで伝えてね」
「任せといて」
杏果が音源を再生した直後、明照は
指示通りボタンを押し、ハンドサインを送った。
数秒後、何ともユーモラスな音楽が再生された。
以前見せてもらった“良い事悪い子の歌”の時と同様
体全体でダイナミックな表現を披露し、時には
お尻を振ったり叩いたり強調したりする姿を見ながら
明照は考えた。今見せている、光り輝く笑顔に至るまでに
何回泣いたんだろう。

撮影が終わった後、杏果は、鑑賞に集中出来なかっただろうからと
もう1度踊ってくれた。明照は今度は余計な事を考えず純粋に楽しんだ。



只、3度目で一緒に踊った時、前と内容は全然違うものの
矢張りお尻を用いた表現のパートでは恥ずかしさの余り
卒倒しそうになった。
様々なイベントの為に使われる劇場、フェニックスホールでは
今正に授賞式が行われていた。館内最大の会場
獅子の間の舞台上では、明照が表彰台の頂点に立っていた。
その手には、最優秀賞・アイデア賞・敢闘賞の、3枚の表彰状が有った。


ここで時は合唱コンクールの数日後の午後に遡る。
この日、担任の仙石聡は普段以上に上機嫌だった。
「皆、心して聞いて欲しい。先日の合唱コンクールを
見に来た人々の中に、全国音楽祭協会の幹部の方が居た。
その人は、是非我々のクラスに出場して欲しいと御願いしてきた。
勿論、あくまで任意ではある。だが、俺としては是非
出場という選択をしたい」
この意見に反対する者など1人も居なかった。
「出ましょう!」
「私達は無敵です!」
「俺らの凄さ、見せてやる!」
「リーダーは勿論前と同じだ!」
そこから先はあっという間だった。
楽曲自体は今回も同じだった。しかし、どうせならもっと工夫しようと
今回は1番をドイツ語・2番を日本語・3番をロシア語で歌った。
この作戦は見事に成功し、事前審査もあっさり通った。


そうして、当日、2年A組は魂の全てを込めて
心を燃やして歌った。結果、見事に最優秀賞に輝いた。
終わった後、ロビーに出てきた明照のもとに、杏果が駆け寄ってきた。
姿勢を低くして抱き上げると、明照は今有った事を話した。
「杏果ちゃん、僕達は見事にやったよ。あの
意気地無しでネガティブだった僕がやったんだ」
「客席で見てたよ。おめでとう!」
少し遅れて小野田寛司・英子夫妻とアナスタシアも
姿を見せた。
「皆様、おめでとうございます!」
「自分の事の様に嬉しいわ」
「慣れない言語の歌を歌うのは大変だったでしょう。
本当に御疲れ様でした!」
態々見に来てくれたと知って、2年A組一同は目頭が熱くなった。
「遠路遥々見に来て下さり嬉しいです!」
「皆さんの御蔭です」
「本当に有難う御座いました!」
頃合を見て仙石聡は皆を注目させた。
「よくやった。今日の事は何時迄も忘れられないだろう。
皆が皆の責務を全うした結果だ。俺は2年A組を誇りに思う。
魂の全てを込めて、心を燃やして歌った皆は偉大だ!」
皆が聞き入る中、聡の目線は明照に向かった。
「それから、田中明照。そのままで良いから聞いてくれ」
「え、あ、は、はい!」
その瞬間、明照は自分が杏果を抱っこしている事を思い出した。
「君の御家族と、その少女の祖父母から聞いた。
許嫁と言うには時期が遅いかも知れないが、兎も角も
君達はそういう仲なのだな。おめでとう。
君の出席は認めるから、先に帰ってその少女と一緒に過ごすと良い。
反省会なら別に今日でなくても出来る」
ふと見ると、自分の両親と祖父母も何時の間にか来ていた。
「明照、おめでとう!」
「あなたを産んで本当に良かったわ」
靖彦と千枝からの賛辞は生まれて初めてだった気がした。
「良かったな、賞状に加えて婚約者まで居るなんて」
「何時迄も愛し合うのよ・・・えぇと、恭子ちゃん
あら、麗華ちゃんだったかしら」
相変わらず物忘れが酷い清美に、均は勿論
他の面子も呆れた。そんな中、場の雰囲気を変えたのは杏果だった。
「皆、祝ってくれて有難うー! 今から凄いもの見せるよ」
明照を含め、全員が何事か分からずにいると、杏果は
不意に明照の唇に強烈なチューをした。その瞬間
時が凍りついた。そして数秒後、拍手と歓声の嵐が起こった。
「明照、おめでとうー!」
「悲しませたら許さないぞー」
「結婚式には呼びなさいよね」
「新婚旅行は何処に行くのー?」
明照は誰にも絶対譲らない宣言はこうして発布された。


然も、サクセスストーリーはこれだけでは終わらなかった。
数日後の放課後、明照・崇・美娜は突如校長室へ呼び出された。
余程模範的な事をしたか、或はその正反対の事か。全く以て
訳も分からないまま、足をガクガクさせつつ入ると
そこには担任の仙石聡・音楽教諭の佐竹(さたけ)陽子(ようこ)
校長の沼田(ぬまた)くるみ・教頭の大石(おおいし)陽太(ようた)に加え、初めて見る
人物が複数居た。見慣れない人々は立ち上がると
3人に丁寧に挨拶をした。
「初めまして。田中明照君、根路銘(ねろめ)(たかし)君、赤嶺(あかみね)美娜(みな)さん。
私は国際フェリーチェ大学学長、嵐山(あらしやま)雪美(ゆきみ)です」
「同大学、音楽学部長、声楽科担当の鶴見(つるみ)創一(そういち)です」
「附属高校の校長、花園(はなぞの)由羅(ゆら)です」
「同校の教務主任、城島(きじま)高雄(たかお)です」
3人はやっとの事で挨拶を返した。国際フェリーチェ大学と言えば
名門校の中でも別格の存在であり、そこの教員や学生は
雲上人とか神様とかいうレベルでは済まない程の存在だった。
何事なのかと考えていると、沼田くるみ校長は事情を話し始めた。
「結論から言います。皆さんを特待生として無試験で
入学させるそうです。然も、学費は全て無料との事です」
杏果と触れ合い何度か超展開を目にしてきた明照でも
今の発言は寝耳に水だった。崇と美娜にとっては尚更だった。
呆気に取られる3人を他所に、教頭は内容を補足した。
「然も、試験で基準点を取ればエスカレーター式に大学
大学院へと進学が出来る。更に、卒業後、希望するならば
高校・大学・大学院の何れかで教職として働ける様
斡旋して下さるそうだ」
身に余る厚遇に3人は訳が分からなくなった。嬉しいことは嬉しいが
何か裏が有る気がした。それを察してか、学長は理由を話し始めた。
「驚くのも当然でしょうね。何故自分達がこんな破格の条件を
提示されるのか。数日前、フェニックスホールで行われたコンクールを
私達は見ていました。あの時、私達は皆さんの高い歌唱力は勿論
団結力・血の友誼・発想力・敢闘精神にナイアガラの滝の如き
感涙を流したのです。未だこんなにも偉大な魂の持ち主が
居たのかと驚かされました。私は皆様に敬服せずにはいられません」
自分達が当たり前と思っていた事が、まさかこんな結果になるなんて。
3人は返す言葉が思い浮かばなかった。
固い表情になっているのを見て、附属高校の校長は優しい笑顔を見せた。
「嫌な事を言うと、何処の世界でも、知識や経験を積んで技術力が上がると
人はどうしても傲慢になるものなのよ。勿論、全員がそうとは言わないけどね。
だけど、校内でのコンクールに関する御話を聞いた限り、あなた方は
強い指導力を発揮しながらも、決して誰も踏みつけにしなかったわ。
これは簡単そうに見えて非常に難しいのよ。一流の人間にならずして
どうして一流の音楽が出来るかしら?」
漸く情報処理が追いついたところで、最初に発言を申し出たのは美娜だった。
「これ以上無い有難い御話ですが、交換条件は何でしょうか。
如何考えてもタダで受けられる特典とは思えないんです」
予期せぬ発言に陽子は慌てふためいた。
「こら、何を言うねんな」
だが、附属高校の教務主任は至って冷静だった。
「いえ、構いません。私がこの3人の立場だったとしても
同じ事を考えますから。赤嶺さん、よく分かったね。正解。
とは言っても無茶苦茶な事ではないよ。安心してね」
そうして教務主任が話した内容を要約すると以下の通りだった。


*犯罪行為等、学園の看板に泥を塗ったら契約破棄
*契約内容は許可が無い限り対外秘
*家族には学園から話す
*何時迄も3人の血の友誼を大切にすること

案外容易い条件に、全員胸を撫で下ろした。
そうと決まれば後は簡単だった。最初にボールペンを
取り出したのは崇だった。
「この御話、喜んで御受け致します。今後、御世話になります!」
崇の姿を見て明照と美娜も決心した。

一通り手続きが終わると、崇と美娜は先に帰されたが
明照は他に話が有るからと未だ残されていた。
「僕に御話が有るとの事ですが・・・」
内容に全く心当たりが無かった明照は再び緊張してきた。
そんな時、またもや予想外の言葉が耳に入った。
「稲葉杏果さんは御元気ですか?」
「はい、昨日も一緒に魔法少女ごっこしました・・・って、えぇ!?」
思わず明照は素っ頓狂な声を上げてしまった。何故
学長が存在を知っているのか。
小野田(おのだ)寛司(かんじ)先生と小林(こばやし)英子(えいこ)先生には昔
大変お世話になりました。あぁ、小林っていうのは旧姓です」
ポカンとしている明照に、担任の仙石(せんごく)(さとし)が事情を話し始めた。
「歌声喫茶“ひかり”の主宰者夫妻は昔、国際フェリーチェ大学の
教授をしていたそうだ。此方の方々は昔、師事していたという」
思わぬ事実に目を見開いていると、学部長は苦笑しつつ
昔の事を話し始めた。
「小野田教授と小林教授は、今では到底分からないだろうけど
厳格な御方でね。正当な理由の無い遅刻・早退・欠席・私語をする
学生に対し般若の如き形相で怒鳴りつけていたものだよ。あの
2人のゼミを志願した学生は皆“勇者”の称号を獲得したものさ。
然も、技術だけ高くても、音楽自体を心から楽しんでないと
見做されると問答無用で-100点なんて事も有ったのさ」
唖然としていると、フォローする様に附属高校の校長が補足した。
「だからって、冷酷な悪魔ではなかったわ。苦学生に良い働き口を紹介したり
分からない事は徹底的に教えてくれたり、学内でのいじめを何度も
解決したり・・・人によっては神様の様な存在だったのよ」
先日、家で甜瓜を御馳走になった時の優しい姿しか知らない明照は
到底想像出来なかった。それを見て、理事長が更に付け足した。
「杏果さんが御生まれになった時、今迄1度も見せたことがない
ニヤついた顔と、不自然に高い声で報せて下さいました。
角が取れるきっかけとしては十分でしょうね」
今度は容易に想像出来たので明照は笑いがこみ上げてきた。
「・・・随分話が長引きましたが、明照君、君には後1つ条件を足します。
杏果さんと何時迄も御幸せに。御家族を事故で亡くされて以降
偽りの笑顔の仮面を被っていました。しかし明照君が真の笑顔を
引き出して下さったので嬉しい限りです」
生易しいとは思えなかったが、拒む必然性は無かった。
「はい。喜んで承ります」
所々で笑いは有ったものの、話が漸く終わり、明照は校長室を出た。


数日後の夜、明照は自宅の風呂場で杏果の体を洗っていた。
「痒い所は無い?」
「大丈夫だよー」
何時からか、明照は杏果との御泊まりが楽しみになった。
小3には見えない位小さく、細い体に石鹸を塗りながら明照は考えた。
身長は兎も角、こんなに痩せているなんて。家族の
事故死は食欲を一体どれだけ暴落させたのだろうか。
「明照君、あたしの体は洗い易くて良いでしょ。
あっという間だもんね」
「本当だね。普段ちゃんと三食食べている?」
「食べているよ。もしかして、あたしが食べる量
少ないのを気にしている?」
顔を合わせていないのに考えている事を読まれて
明照は心臓を掴まれた気がした。
「大丈夫。皆同じ事言うから分かるんだよ。あたしが
食べるの少ないのは昔から。お医者さんも、特に
大したことはないって言ってたから心配無いよ」
「そっか。それなら良いんだけど、僕は医学の事
分からないから、今にも折れそうな位細くて心配で・・・」
明照が次に何言おうか考えていると、杏果は不意に正面を向き
泡だらけの体で抱きついた。
「え、あ、あの・・・」
抱きつかれる事自体には幾らか慣れてきたが、今のは予測出来なかった。
行動の意図を分からずにいると、杏果は目線を上げた。
「大丈夫。こんな小さくて痩せた体でも、結構頑丈だから。
幼稚園の時、相撲大会で3年連続で優勝した程だよ」
言われてみると、マッサージして貰った時、凄く力が強かった。
勿論“小3にしては”という但書は付くが、それでも、明照の計算だと
小6位の力は有る様に思えた。
「相撲大会で3年連続優勝したんだね。その話
後で詳しく聞かせてくれるかな」
「勿論良いよ」
洗い流し終え、マッサージを受けている最中、明照は
不意に耳朶が生暖かくなったのを感じた。横目で見ると
杏果が甘噛みしていた。その表情は、獲物を狩る猫の様だった。
「杏果ちゃん・・・それ、僕以外にはやっちゃ嫌だからね」
「分かってる。明照君だからやったんだよ。
こんな事崇君や美娜ちゃんにだってしないから。
今、これで思い出が1つ増えたね」
その瞬間、明照は今年の夏休みが人生で最高に楽しかったと
気付いた。
「今年は思い出が一挙に増えたね。潮干狩り・温泉
夏祭り・肝試し・海水浴・プール・動物園・水族館・遊園地・・・」
「今後もっと増えるよ。芋掘り・ハロウィン・感謝祭・クリスマス・忘年会
年越しカウントダウン・新年会・春節・バレンタイン・雛祭り・御花見・・・」
2人は色々想像して、思わず表情筋が緩んだ。

湯船に入った後、明照は頭を撫でられながらも
意を決して切り出した。
「あの、僕・・・・・・教えて欲しい歌が有るんだ」
唐突ながらも嬉しい申し出に、杏果は目を輝かせた。
「明照君自ら教えを請うとは嬉しいねぇ。今のあたしは
凄く機嫌が良いから何だってやっちゃうよ」
「それは有難い。僕が教えて欲しいのは・・・」
耳元で小声で言うと、明照は杏果の目をじっと見た。
杏果は一瞬も躊躇せず快諾してくれた。
「遂にこの歌が選ばれたね。何時言われるかドキドキしてたよ。
それじゃ、やろうか」
この日、風呂場にはソビエト社会主義共和国連邦の国歌の
二重唱が響いた。家には他に誰も居ないので邪魔される
可能性を気にせず、2人はリラックスして歌えた。
本作の筆者、桜撫子で御座います。読んで下さり心から感謝致します。
本編の内容は一応これにて終了です。しかしながら、これに伴い
数多の難民が続出することを私は知っています。
事実、この様な事は過去に何度か有りました。
けものフレンズ然り、ごちうさ然り
仙狐さん然り、のんのんびより然り・・・・・・未だ有るでしょうね。
そんな訳で、私は難民キャンプとして
番外編を幾つか御用意いたしました。
引き続き、どうかお楽しみ下さいませ。

YouTube/Twitter/SNS/ブログ等で拡散して下さり
誠に有難う御座います。

尚、本作の内容は全てフィクションです。
実在の人物や出来事とは一切無関係です。
日ノ元(ひのもと)小学校6年2組の教室は、騒がしさのピークを迎えていた。
と言っても、大道芸人が来た訳でも、野犬が侵入した訳でもない。
騒ぎの中心に田中明照は居た。
「お前の声は女かよ」
「男の癖に何そのキモい声」
学級の大多数が明照を囲み、思いつく限りの罵声を浴びせ
時にはゴミを投げていた。
当時、未だ弱気だった明照はこの状況に為す術も無く
如何して良いか全く分からなかった。時の流れは
こんな時に限って遅く感じられた。
家族に言おうとも考えたが、心配させたくないからと
思い留まってきた。だが、このまま卒業なんて嫌だ。
複雑な思いを抱えていた。

或る日、思い切って祖父母に相談すると、意外な答えが返ってきた。
「これを持って行けば役に立つ」
「えぇと・・・あぁ、そうだったかしらね」
均と清美から渡された物はボタンの付いたベスト
万年筆・消しゴムだった。
「あの、これは・・・」
ポカンとする明照の頭を撫でつつ均は笑顔を見せた。
「明日、帰ったら直ぐこの部屋に来なさい。
大丈夫。これで問題は解決する」
全く以て意味不明だったが、兎も角も言う通りにした。

翌日、指示通り明照はこれを祖父母に渡した。丁度
金曜なので好都合と言われたものの、意図が分からなかった。
「後の事は全て任せて、自分の好きな事してなさい」
「大丈夫。必ず解決させるから」
「あ、有難う・・・・・・」
相変わらず意味は分からないものの、明照は自室に戻り
SongTube(ソングチューブ)の画面を開いた。

月曜日、登校してみると校内は大騒ぎになっていた。
見ると、学校には抗議の電話が殺到し、職員は対応に忙殺されていた。
「何が有ったんだろう」
考えつつ行ってみると、何時もあれ程容赦無く
明照を虐めてきた同級生達が青菜に塩だった。
数分後、チャイムが鳴り、当時の担任
石井真由美が恐ろしい形相で入ってきた。
「今日は皆にお知らせが有ります。知っての通り
私立中学に合格した子がうちのクラスには何人か
居ますよね。しかも、何人かは特待生でした。ところが
今日、先方から電話が来て全員の合格が取消になりました。
それで生じた空白には補欠の子達が入りました」
次の瞬間、明照は悟った。あのベスト・消しゴム・万年筆は
超小型カメラだったんだ。何も言わなかったのは
バレない様にする為の対策だったという訳か。
考えていると、石井真由美は言葉を続けた。
「何でこうなったと思いますか? 当事者は一番
詳しく知っているでしょ、ねぇ津田君!」
指名された男子生徒、津田丈は震え上がった。
「た、田中明照君の声の事で揶揄いました」
「揶揄ったでは済まないでしょ!」
「ひぃっ・・・! ぞ、雑巾投げたことも有りますっ!」
閻魔大王による裁きを思わせる状況下で、1人、また1人と
虐めを行なっていた者達は次々に自白し始めた。
「分かっていると思うけど、御家族は既にこの事
全部知っているからね。序に言うけど、見てただけの
子も同罪だから。罪悪感を覚えていようといまいと関係無いよ」
恐怖の余り、失禁する者、泣き叫ぶ者、過呼吸になる者が続出した。

収拾がつかないので状態異常に陥った児童を保健室へ行かせた後
石井真由美は明照を呼び寄せた。
「本当に申し訳無かったね。先生として不甲斐無い。
穴が有ったら入りたいよ」
抱き締められた途端、明照は一挙に涙腺が緩んだ。
「良いよ。気が済むまで泣きなさい。許すから。
何人か泣いてたけど、一番泣きたいのは君だよね」
大きく頷きながら、明照は泣き叫び、心成しか
赤ちゃん返りした様な心理だった。

これにより、6年2組の児童達の悪事は全て露見して
連日マスコミが怒涛の如く押し寄せてきた。
物証が揃っている上、犯人達も自白したので誤魔化せなかった。

数日後、顔中痣だらけの者が、或は坊主頭に瘤だらけの者が
もしくは頰に手形を幾重も重ねた者が、家族に連れられて
目を真っ赤にしつつ謝罪に来た。

この日を境に虐めは無くなった。
しかし、友達も殆ど居なくなった。
何故か悪事が全部筒抜けになったことで
皆が明照を悪魔の子と恐れる様になった。


久方ぶりに当時の夢を見て魘された明照は
起き上がった瞬間、寝汗で背中と胸を濡らしていた
事に気付いた。
「・・・今日は杏果ちゃんから買い物頼まれてたんだった」
時計はAM05:30を指していた。


駅前の商店街で買い物を終えた後、杏果の家に向かう途中
通り掛かった公園に、派手な身なりの男女5人組が居た。
横目で見た瞬間、それが誰か一瞬で見抜いた。
見なかったことにしようと考え、目線を逸らした直後
忘れたくても忘れられない声がした。
「あっれ〜? 田中明照じゃね?」
全身黒づくめの不良、津田(つだ)(じょう)は虐めグループの首領だった。
気が短く、荒っぽい、それでいて悪知恵は働く、兎に角
明照にとっては最悪の存在だった。
「ヒャーハハハハハ! 相変わらず貧相だなぁおい」
髪も含め全身赤づくめの上村(うえむら)翔平(しょうへい)はガムを噛んではいたが
猛禽類の様な目つきは変わっていなかった。
「いやいや、貧相でもサンドバッグ程度なら使えるだろ」
髪を含め全身黄色づくめの木村(きむら)義雄(よしお)は、今日はどの
ボクシンググローブを使おうか迷っていた。
「身長こそ伸びたものの、奴の勝率は0で御座るな」
チリチリ頭に青づくめの葉山(はやま)浩一(こういち)はタブレットを弄りながら
ねちっこい笑みを浮かべた。本来、丈はこのタイプの人間は
大嫌いだが、彼の高い知能が気に入ったので側用人として認めていた。
「丈、こいつにはどんな“御礼”する? 私なら選択肢幾らでも出せるわ」
茶色のロングヘアーに全身紫の紅一点、萩原(はぎはら)由紀(ゆき)
恋人である丈に甘え寄っていた。しかし、その瞳は
美しくも残忍なオーラを漂わせていた。

主犯格であるこの5人は、悪事がバレた結果、名門私立
中学への特待生合格が取り消された。加えて、他の学校からも
受験自体を拒まれた。親や親戚からは一生分怒られ
ネットでもオフラインでも皆から石を投げられ、一時は憔悴していた。
何とか受け入れてくれた学校でも相変わらず荒れ狂い、先生も
随分昔に匙を投げていた。

「まさかこんな所で会うとはな。随分大きい荷物
抱えて、おつかいか?」
「う、うん・・・まぁ、そんなとこ」
相変わらず弱気な明照を見て、一同は少しだけ安堵した。
知らない間に暴力団と懇意にでもしていたら後が怖い。
だが、それは杞憂と直ぐに分かった。
「私達の人生無茶苦茶にしてくれて有難う。こんな体験
金を積んでも出来ないもの。本書けるかも?」
何も知らない人なら簡単に騙されるこの笑顔は
作り物であると明照は熟知していた。
何も言えずにいると、葉山浩一は不意にタブレットから目線を上げた。
「金で解決する訳ではないので御座るが、有り金
丸ごと頂かないと腹の虫が治まらないで御座るな」
鮮やかなピンクのグローブをはめた木村義雄は
準備運動を始めた。
「まぁ待て。只奪うだけじゃ面白くない。
暫く弄んだ後でも十分だろ」
「良いねぇ! それでいこう」
メリケンサックをはめた上村翔平は、誰かが止めないと
いの一番に明照の顔面を砕きそうな勢いだった。
逃げようかと思ったが、1:5では流石に分が悪い。
と言って、警察を呼ぶタイミングは無い。そんな時
2つの巨体が明照の真横から現れた。
「明照、そいつら何者?」
「返答次第ではここに赤い海が出来るから」
次の瞬間、5人組は先程迄紅潮させていた顔を真っ青にした。
根路銘(ねろめ)(たかし)赤嶺(あかみね)美娜(みな)。その知名度は非常に高かった。
並居るヤンキー達を全員病院送りにした上、トラウマを植え付けた
伝説のカップルとして恐れられていた。
「あ、明照、御両人の御友達? 良かったら俺らの事
紹介してくれないかな」
急に猫撫で声になった丈は不自然な笑いを浮かべつつ
後退りした。
「足掛け2年の付き合いだよ。仲人と、結婚式の司会
任された」
その瞬間、5人組は目玉が飛び出た。行く所全て戦場にする
凶悪カップルがそんな事を、弱味噌の明照に頼むなんて。
「あ、あの・・・エイプリルフールの予行演習ですよね?」
数分前までハイテンションだった上村翔平は、油断していると
失禁しそうだった。
「そんな嘘吐いたって鐚一文も得しねーだろ。それに
俺らは明照と杏果ちゃんの仲人と司会、引き受けたから。
交換条件としては妥当だろ?」
崇の言葉に5人は腰を抜かした。明照に婚約者が居るなんて。
一体どんな奴なんだ。似た者同士なのか。
「あ、もしかして嘘だと思っている?
良いよ。実際会えば分かるから」
訳も分からないまま一行は公園の南側に向かった。
杏果とはそこで会う約束だった。

程なく、小さな足音が聞こえてきた。不良達は、最初
全く無関係の通行人と思い込んでいた。だが、数秒後
3度目の震撼が5人を襲った。
「明照君、来たね。代わりに買い物行ってくれて有難う」
杏果の姿が見えたので明照はすぐさま屈んだ。そして
抱き上げると、唇を重ねた。それを見て不良達は発狂した。
「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だーーーーー!!」
「嫌ああああああああああああああ」
丈と翔平が余りに叫ぶので、通行人達は思わず振り返った。
「おい、これ如何なっているんだ!」
「まさか金で芝居を引き受けたんじゃないで御座るよね?」
「これは悪い夢よね? そうよね? そうだと言って!!」
義雄・浩一・由紀も現実を受け入れられずパニックに陥った。
「こ、こんなの見たって何も悔しくなんてないぞ!!」
半泣きになりながら5人の不良達はブリザードの如く去っていった。

「明照君、あれ、何?・・・・・・」
「忘れて良いよ」
明照としては、あの様な連中の存在は杏果の記憶から
1秒でも早く消したかった。
「明照、怪我は無いか?」
「何も盗まれてない?」
崇と美娜は明照に異常が無いか気遣った。
「怪我は無いけど1つ盗まれた物が有るよ」
次の瞬間、カップルの表情が硬化した。
「何だと? おい、全部正直に言え」
「御礼参り対策なら大丈夫だから、心配しないで」
一瞬驚きはしたが、明照はこの2人の前では冷静だった。
「もう手遅れだよ。だって僕、杏果ちゃんに
ファーストキスも心も奪われちゃったからね。
最初こそ混乱したけど、今は受け入れているよ」
意外な“犯人”を知った後、2人は一時的に固まった。
数秒後、けたたましい笑い声が響き渡った。
「そういう意味かよlolololololololololololololololol」
「そりゃ怒れないわlolololololololololololololololol」
散々笑った後、やっと落ち着いた2人は明照と杏果を家へ送った。
「たーかーにーにー、みーなーねーねー、送ってくれたから
御礼にうちで桃でも食べない? 急ぎじゃないならの話だけど」
思いがけず、天使からの招待状が届き、崇と美娜はニヤつきながらも
これを快諾した。


数日後、件の5人組が覚醒剤と大麻とシンナーを摂取した後
盗んだ車で無免許運転の末、大事故を起こし病院に運ばれたと
報じられた。流石の明照も、これには乾いた笑いしか出てこなかった。
日ノ元(ひのもと)幼稚園ではこの日、卒園式が行われていた。
会場となった体育館は園児・教員・保護者等で埋まっていた。
卒園児代表として、稲葉杏果は1歩前に出ると
“Believe”のソロパートを司り、皆を統帥した。
遠くまでよく届く上、一際可愛い声なので、誰もが
他の園児達の声に紛れ込んでも杏果の声だけは間違えなかった。


明照の家の空き部屋を整理して設けた杏果の部屋で
2人は卒園式の日の映像を見ていた。
「 この時から既にリーダーシップを持っていたんだね」
「だから小学校に入った時も新入生を代表して演説したんだよ」
明照は、自分が持ってない物を持つ杏果を相変わらず羨んでいた。
同時に、自分がそんな子のボーイフレンドになって本当に良いのか
未だ分からずにいた。そんな考えを悟ってか、映像が終わり
DVDを元の箱に戻した杏果は、明照の膝の上で対面座位になった。
「明照君、もしかして、リーダーシップを取るべきなのは
男の子でないと駄目だと本気で信じている?」
またも鋭い所を突かれた。もしかすると心の何処かでそんな
愚かな事を考えているかも知れない。そんな気がした。
「まさか! 有能なら男の子でも女の子でも大歓迎だよ」
「信じないかも知れないけど、卒園式の合唱のソロパート
本当は別の男の子がやる予定だったんだよね」
思わぬ話に明照は思わず前のめりになりそうになった。
「杏果ちゃん、その話、詳しく聞きたいな」
「勿論だよ」
杏果が話し始めたのは、実に情けない内容だった。


卒園する1年前、合唱曲“Believe”の最初2行のソロパートの
事で大いに困り果てた。
ソロパートを司る卒園児代表はランダムに選ばれるのだが
この年は杏果の居る白百合組が選ばれた。そうして
最終的に白羽の矢が立ったのは福田博夫だった。
ところが、いざやらせてみると音程もリズム感も滅茶苦茶だった。
それに加えて、終始一貫苦しそうな表情をしていた。
白百合組の担任、赤城(あかぎ)莉奈(りな)は頭を抱えた。
「選び方自体に問題が有るのかも」
ピアノを担当する園児、桃山(ももやま)(あい)は円らな瞳で莉奈の顔を凝視した。
「先生、他に誰か居ないか聞いてみようよ」
今の莉奈にとってはどんなアイデアも地獄で会った仏だった。
「そうだね。そうしようか。誰かソロパートやりたい子、居る?」
すると、意外にも3人が手を挙げた。杏果の他に角田(つのだ)勝之(かつゆき)
山口(やまぐち)光夫(みつお)が名乗りを上げた。
「杏果ちゃん、卒園児代表っていうのは、男の子がやるものだよ」
前例の無い事態に、莉奈は古い慣習に囚われた発想しか出てこなかった。
しかし、こんな時でも杏果は毅然としていた。
「先生、本当に大事なのは実力じゃないんですか?」
痛い所を突かれ、莉奈は感電した様な感触を覚えた。
「それは・・・・・・」
「3人の中で誰が一番上手か、皆に聴いてもらいましょう。
園長先生や芳子先生にも来て貰えば誰もズル出来ないです」
莉奈は慌てふためいた。何で自分より園児の方がしっかりしているんだ。
情けなさを覚えながらも、莉奈は頷いた。
「分かった。じゃあ、そうしようか。その代わり
これで負けても泣いたり喧嘩したりは無しだからね」
気は進まなかったが、莉奈は園長の西郷(さいごう)光枝(みつえ)と、主任の礒﨑(いそざき)芳子(よしこ)
呼びに行く為、重い腰を上げた。

職員室に入り、莉奈は事情を説明した。絶対怒られると思った
莉奈の耳に入ったのは、思わぬ言葉だった。
「まぁ面白そう。是非見物させて下さいな」
「そうね。こんな機会滅多に無いでしょう」
意外にも、園長と主任は目を見開き、鼻息を荒くした。
「そ、それは有難う御座います。では参りましょう」
こうして審判は揃った。

園長と主任が入った時、黒板の端には阿弥陀籤が有った。
それを見て、莉奈は、自分が不在の間に何が有ったか把握した。
「先生が居ない間に順番を決めたんだね。これ、誰のアイデア?」
「はーい」
元気良く手を挙げ答える杏果は、先刻見た、矢鱈頭の回転が早い
超級園児と同一人物には一瞬見えなかった。
「良いね。えぇと順番は・・・分かった。園長先生、主任
録音もしくは撮影は必要ですか?」
事が事なので後で間違いの無い様にしようと莉奈は考えた。
「そうね、折角だし撮らせて貰います」
「なら私も」
撮影の準備が終わったので、先ずは坊主頭の男児
山口光夫が歌った。いざ聴いてみると表情と
音程はまともだったが、野球の応援の様に
大声でがなり立てているのと変わらなかった。
山口光夫の失格は、15秒も経たず満場一致で可決した。

続いて、角田勝之の番が来た。今度は声量は適切だったが
アクセントが狂っていたり、歌詞を忘れたり
順番を間違えたりと、別の意味で無茶苦茶だった。
今度は少し時間が掛かり、20秒で失格が確定した。

遂に杏果の番が来た。普段からリーダーシップを発揮している事を
園児達も教員も知っていた。だから誰もが期待の目で見ていた。
果たしてそれは正しかった。声量・アクセント・表現力・表情
全てに於いて教員の予想を凌駕していた。園長に至っては
歴代最高の歌唱力ではないかとさえ考えた。
撮影を終えた後、園長と主任は思わずスタオベをした。
これを見て、園児達もつられて同じ事をした。只1人
莉奈だけは呆然としていた。これは夢か幻か。否
手の甲を抓ってみたら痛かった。だから夢ではない。
莉奈は前に出ると、園児達に尋ねた。
「他に誰かやりたい子は居る?」
また誰か手を挙げるだろうと思っていたが、園児達の反応は違った。
「杏果ちゃんにやって欲しいー!」
「こんなに凄いんだもん」
「杏果ちゃん、御願い!」
異口同音に園児達が称賛の声を上げるのを聞き、莉奈は漸く観念した。
「皆、御免なさい。正直に言うね。先生はずっと間違ってました。
卒園児代表は必ず男の子がやらなきゃいけないと思ってた。だけど
杏果ちゃんの歌を聴いて分かったんだ。相応しいのは
杏果ちゃんの様に歌が上手で、やりたいって気持ちが有る子なんだね」
この言葉を聞き、主任は目線を向け、発言を申し出た。
「莉奈先生、卒園児代表は必ず男の子なんて誰から言われたの?」
「え、いや、あの・・・・・・そういうものじゃないんですか?」
全く以て頓珍漢な発言に、主任は呆れ果てた。今時こんな
反動的な事を言うと世界中の笑い者になるのに。何故知らないのか。
叱りつけようとする主任を宥め、園長は古い写真を見せた。
「昭和44年、この幼稚園の歴史が始まった年です。ここの
卒園児代表第1号は女の子ですよ」
莉奈と園児は勿論、主任ですらこの事は全く知らなかった。
「とても大事な御話をしたいので、御時間頂きますね」
「あ、はい、どうぞ」
園長は莉奈の許可を得てから皆の前に立った。
「皆さん、卒園児代表に限らず、何かのトップに立つのは
必ず男の子でなくてはならないなんて、そんな事は
決して有りません。実際、私は園長という、この幼稚園の
トップに立っています。皆のリーダーになるべき人というのは
男だから女だから、そんなのは理由になりません。
どれ程やるべき事が上手に出来るか。今回の場合は、どれ程
上手に歌えるかですね。それに、皆に気を配れることも大事です。
これが出来ないと、只の御山の大将でしかありませんよ。
稲葉杏果ちゃん、卒園児代表への就任、おめでとうございます。
最後にして最大の凄い役目、あなたなら絶対大成功します」
講話の最後に自分が呼ばれ、杏果は慌てて立ち上がると前に出た。
「私を応援してくれた皆、有難う御座います。必ずやり遂げます」
万雷の拍手を送られ、杏果は会心の笑みを浮かべた。

尚、莉奈は園児達が全員帰った後、園長と主任から
徹底した思想教育を受けた。


「・・・とまぁこんな具合」
「杏果ちゃんも凄いけど、園長先生は輪をかけて凄いね」
後ろから杏果に背中を撫でられながら、明照は只々感服していた。
「今のあたしがこうなったのは、ママの方のおじいちゃんとおばあちゃん
それから、園長先生の御蔭だよ。あたしは心から尊敬するね」
「分かる。僕が杏果ちゃんの立場でも絶対そうしてた」
杏果が膝の上に座ったので今度は明照が背中を撫でた。
「園長先生ね、あたしが事故に遭った後、御見舞に
いらっしゃったんだよ。卒園式はもう終わったけど
“人を心配するのにそんなの関係有りません”って。
家族に愛されてなかったと知ったあたしを支えて下さったから
こうしていまも元気でいられるんだよ」
「そんなに凄い先生なら、会ってみたいな」
何気無く口にした言葉を杏果は聞き逃さなかった。
「良いよ。連絡先と家は知っているし」
「え、いや、急ぎじゃなくて良いよ」
慌てて引き止めたので、アポはまた後日という事になった。


小学校の入学式の日の映像を見終わった後
明照は不意に何やら閃いた。
「今気付いたんだけど“Believe”ってもし短調なら如何なるのかな」
自分ですら思いつかなかったアイデアに杏果は目を輝かせた。
「面白いアイデアだね! 歌ってみようか」
早速歌ってみたところ、何とも怖い曲に変貌した。
身震いをした2人だったが、直後、今度は杏果が何やら閃いた。
「長調と短調を混ぜる方がローラーコースターみたいで面白いかも」
「成る程。やってみようか」
また歌ってみたところ、確かに全編短調より却って恐怖度が上がった。
「何時奈落の底へ蹴落とされるか分からないから怖いね」
「本当。全部短調なら最初からそうと分かっているし
あたしでも耐えられるけど、これは洒落にならないよ。
そうだ、今度は長調のパートと短調のパート
入れ替えてみようか」
こうして行われた3度目の企画も“怖い”という結論が出た。
そして最終的に2人は同じ意見に辿り着いた。
「「何時もの明るいメロディがやっぱり一番だね」」
日ノ元(ひのもと)中学校の音楽室には2年A組の生徒が揃っていた。
「来週は歌唱のテストやるから皆練習するんやで。楽曲は何でもOK.
暗譜が原則やけど、外国語の歌に限っては見ながらでもえぇよ」
音楽教師、佐竹(さたけ)陽子(ようこ)からの宣告は、通常だと一部を除き死刑宣告も同然だった。
しかし、コンクールでの優勝を経験した猛者達にとっては腕が鳴る瞬間だった。
「何か質問は・・・無いんやったっら今日は解散」
直後、チャイムが鳴り生徒達は一礼した後音楽室を出た。
生徒達の話題は既に決まっていた。
「何にする?」
「正直選択肢が多過ぎて凄く困ったlolol」
「明照にお勧め聞いてみるか?」
「良いわね。そうしましょ」
2年A組の生徒にとって、人前で歌うのは、依然緊張はするが
今となっては楽しくて楽しくて堪らない事だった。

翌日から明照は目が回る程忙しくなった。自分のクラスだけでなく
他のクラス、剰え、1年生と3年生からも助言を求められる程だった。
寝る間も惜しんで処理しても未だ追いつかないので、根路銘崇と赤嶺美娜が
マネージャーを務めた。人に教えを求める態度ではないと判定された
者を門前払いにした結果、助言を求める者の数は幾分減った。

数日後、歌声喫茶“ひかり”での会に出た後、明照・崇・美娜は残って
歌のテスト対策をしていた。そんな折、主催者の孫娘
稲葉杏果が小走りで現れた。
「いらっしゃい。明照君、たーかーにーにー、みーなーねーねー。
歌のテスト対策、よく頑張っているんだね」
杏果の存在は“休憩しなさい”と云うサインであると考えた3人は
目線を向けると表情を緩めた。
「大丈夫? 魂飛んでいってない?」
冗談交じりに明照が尋ねると、崇と美娜は吹き出しながらも答えた。
「何十回もそんな事してたら身がもたないってlolol」
「明照がそんな冗談言える様になるとは思わなかったlolol」
笑いが巻き起こりながらも、兎も角も、3人は杏果の案内で家に入った。

「何でも自由に選んで良いと言われると確かに却って悩むよね」
苺を食べながら杏果は考えた。
「まぁ、僕達は直ぐに決まったから良いけどね」
明照の言葉に褐色カップルは大きく頷いた。
「本当、歌声喫茶に通っていて良かったな」
「多分これは簡単には真似出来ないと思うよ」
暫くの間、4人は談笑していたが、直ぐに本来の目的を思い出した。
自分達は苺を食べに来た訳じゃない。
「忘れるところだった。僕達は歌のテスト控えているんだった」
この言葉に、杏果は意外な反応を見せた。
「あたしもなんだよ。何でも好きに選んで良いって」
偶然の一致に4人は思わず目を丸くした。
「尤も、何歌うかは1日で決まったんだけどね」
得意そうに笑う杏果が、中学生3人には微笑ましく映った。


そうして迎えた当日、明照達は勿論、他の生徒達も
今日が余程楽しみなのか、目を爛々と輝かせていた。
「何や、今日は随分やる気満開やないか。えぇなぁ。
せやなかったら何もおもろない」
佐竹陽子は生徒達の様子が余りに違うので驚きを
隠せなかったが、悪い気はしなかった。
「順番は如何する? 誰からでもええよ」
「私から行きます!」
早速手を挙げたのは同級生の一人、西田美穂だった。
「前もって説明した通り、原則として暗譜。
但し、外国語の歌に関しては歌詞カード持ち込みOK
ほな、名前と、歌う楽曲を言った後
自分のタイミングで始めて」
「はい。西田(にしだ)美穂(みほ)。La |Chanson de l'oignon《玉葱の歌》」
美穂は、戦車に乗った女子高生が戦うアニメに触発され
この歌を覚えたのだった。後半はよく知っていたので
苦労は半分だったと後に語った。
楽曲を、多少訛りは有るものの、概ね流暢なフランス語で
歌い上げた後、美穂は丁寧に一礼した。
聴き終えた後、陽子は、意外にも馴染の有る楽曲だったので安堵した。
「クラリネットを壊しちゃったの元歌か。ええ選択やな。次」
「棚橋学。|John Brown's Body《ジョン・ブラウンの屍》」
リパブリック賛歌の元となった歌に“Blood Upon the Risers”の
歌詞も捩じ込んだ歌が音楽室に響いた。
聴き終えた後、陽子は笑いを隠せなかった。
「随分欲張ったなぁ。こんなん初めてや。次」
古谷(ふるや)由依(ゆい)Johnny(ジョニー) I hardly knew ya(あなただとは分からなかったわ)
“|When Johnny comes marching home《ジョニーが凱旋する時》”の元歌が
有るとは知らなかったので、誰もが興味を持って聴いていた。
「何や今日はアメリカの歌がよう出てくるなぁ」
「それなら次は大橋(おおはし)(きよし) British(英国) Grenadiers(擲弾兵) イギリスの歌です」
「結局英語やんかlolololol まぁどうぞ」
漫才の様なやり取りを経て、4人目の番が来た。
清は美穂に誘われて戦車に乗った女子高生のアニメを見たのだった。

その後、紆余曲折を経て遂に歌声喫茶“ひかり”の常連である
三英傑の出番が来た。3人が何を選ぶか皆が注目していた。
根路銘(ねろめ)(たかし)。ステンカラージン」
初めて来たロシア語の歌に、陽子は表情を緩めた。
「殆どが英語か日本語やったし、丁度良かったわ」
やがて歌が始まった。杏果からの指導を受け、力まず
歌える様になった崇の技術は間違い無く進歩していた。
聴き終えると、陽子は急いでメモを取った後、顔を上げた。
「考えてみたら、ロシア語の歌は初めてかも?
まぁその辺は兎も角、次」
赤嶺(あかみね)美娜(みな)。ウラルの茱萸の樹」
前に出てきた美娜が歌ったのは、ロシアの楽曲ではあるが
中国語の歌詞も交えていた。
聴き終えると、陽子は少し考えた後、何かを納得したのか手を打った。
「そうか。せやな。ソ連と中国は同盟国やし、国境
接しているから知ってて当然か。次、田中明照君やろ?」
普段なら順番はランダムなのだが、この時は次に誰が来るか予測出来た。
事実、三英傑の首領である田中明照は勢いよく挙手した。
「田中明照、谷を渡り丘を越えて」
どんな凄い歌を選ぶのかと思ったら、予想以上に牧歌的なタイトルの
歌だったので、誰もが拍子抜けした。これは三段オチなのか。
しかし数秒後、それは間違いだと嫌でも痛感することになった。
恐怖分子を駆除する赤軍の進撃を綴った歌が音楽室に響く間
誰もが静かに傾聴していた。
明照は、伊達に最も長く杏果から歌唱指導を受けていなかった。


全員の歌が終わった後、陽子は普段以上に疲れていると実感した。
「教師やって結構経つけど、こんな事は初めてや。
皆から教わることになるとはな。ほんま、おおきに!」
疲れているとは言っても、それは正確には心地よい疲れだった。
一方、外国語の歌を選べば暗記しなくて済むと云う抜け穴は確かに問題だった。
日本語の歌に限定しようかと思ったがそれは人権の侵害と考え、思い留まった。

翌週、音楽室内の掲示板にはこう書かれていた。
<外国語の歌を暗記して歌った場合、ボーナススコア有り

※日本語と外国語が混ざった場合も適用>


その日の放課後、杏果の家へ遊びに来た3人は
デラウェアを食べながら今日の事を話した。
「皆中々やるね。指導し甲斐が有りそう」
事情を聞いた杏果は、歌唱指導をする時に見せる
愛らしくも、何処か怖い顔をしてみせた。
「杏果ちゃんらしい考えだね」
そんな時、美娜は或る事を思い出した。
「杏果ちゃんの歌のテストは如何なったの?」
「あぁ、それ? 聴きたいなら歌うよ」
「じゃあ御願いしようかな」
そうして杏果が3人の前で歌ったのは“中国人民志願軍戦歌”だった。
しかも、中国語と朝鮮語の歌詞を交互に歌うというものだった。
聴き終えた後、3人は拍手を送りつつ、にやけていた。
矢張り杏果が歌うと何でも素敵だ。3人はここで可笑しな想像をした。


カラオケボックスに来た杏果は“ヘーコキましたね”を歌っていた。
下品な内容ではあるものの、杏果の可愛い声と
愛らしい外観がそれを見事に打ち消していた。


ふと我に返った3人は、誤魔化す様に麦茶を飲んだ。
「それで、先生は何て言ってた?」
平静を装い崇は尋ねた。
「“そう来るとは思わなかった”だって。ポカーンとしてた。
あたしが小さい頃から歌声喫茶に入り浸っている事は皆
知っているのにね」
その時の音楽の先生の心理と表情を想像して、3人は吹き出すのであった。
幸運は、続く時は続く。今回は正にその典型的な例である。

田中日照は、赤いボストンバッグを担ぎながら軽い足取りで歩んでいた。
「不発弾が小学校と中学校の双方で同時に見つかるなんて。
偶然と言って良いのかな?」
木曜日の午後、日ノ元小学校と日ノ元中学校の裏口で
巨大な不発弾が発見という未曾有の事態が起きた。
撤去は相当慎重にしなければならないからと、金曜日は丸一日
臨時休校と相成った。しかも、日曜と祝日が重なっていた。
このため、月曜日は振替休日となった。
幸運は未だ続く。明照の家族と杏果の祖父母は温泉旅行に行く
機会を前から探っていたが、今回の不発弾事件は寧ろ好機となった。

かくして、明照と杏果は足掛け4日間も一緒に過ごすことになった。
理論上何方に泊まっても問題は無かった。だが、ショッピングモールへの
距離が近い杏果の家の方がより適切と明照は判断したのだった。
何せ敷地内にはバス停とタクシー乗場も有る。杏果の要望
或はその他特殊な事情でも無い限り、答えは1つだった。

家に着くと、杏果は玄関口に座っていた。
「早かったね。さぁ入って!」
手を引かれ、明照は専用の部屋に通された。
そこは昔、杏果の母が使っていた部屋で、長らく空き部屋だった。
掃除を行い、不用品を残らず始末した後、明照の着替やら
何やら運び込み、何時でも泊まれる様にしていたのだった。

コンクールの数日後に知ったのだが、明照の家には
杏果が何時でも泊まれる様に専用の部屋を用意して
衣類等を搬入していたのだった。そして逆もまた然り。

専用の部屋で荷物の整理をし終えた明照は
俯せになり、肩・太股・脹脛・足の裏を揉んでもらっていた。
「本当に僕がこの部屋使って良いのかな。杏果ちゃんは
この部屋に思い入れ・・・あ、御免。考えたくなかったよね」
不味い事を口にしたと慌てたが、意外にも杏果は冷静だった。
「良いんだよ。一応あれでも良い所、何も無い訳じゃないから。
掃除・洗濯・縫い物・お料理教えてくれたから。これに関しては
感謝しているんだよ。まぁ、割合は11%だけどね」
顔は笑ってはいたが、内心怒っているだろうと思い
明照は罪悪感を出さない様気を付けた。マッサージして貰っている上
気を遣わせては大変申し訳無い。そんな思いで一杯だった。
おやつに出された黄色い西瓜を食べている間も
夕食を食べに出た時も、明照は表面では笑顔だったが
これ以上要らぬ事を言わない様にと警戒した。


一緒に入浴するのはもうこれで何度目だろう。何時からか
明照は考えるのを止めていた。
体を洗って貰っている時、杏果は不意に思わぬ事を言い出した。
「明照君、漫画とかアニメとかゲームでよく見る入れ替わり
興味有る? 相手は勿論あたし」
杏果は何時も急に思わぬ事を言い出す。頭と性格は良くても
矢張りそこは幼い子供と明照は親近感を覚えた。
「確かによく見掛けるね。考えたこと・・・無いかも。でもどうして?」
至極当然の疑問に、杏果は白い歯を見せ笑った。
「見た目は同じだけど、これで明照君を抱っこまたはおんぶ出来るよ。
勿論肩車も。考えただけで楽しくて楽しくて堪らないね」
「それじゃ聞くけど、もし僕の魂が杏果ちゃんの体に入ったとして
抱っこされた時、パニックでお漏らししたらどうする?」
明照にとってはちょっとした与太話のつもりだった。
だが杏果はその状況を真面目に考え始めた。
「そもそも最初にトイレに連れて行けば良いんだよね。
でもこの場合、家は兎も角、外だとどっちに入るのかな・・・」
予想以上に真剣に考えるので、明照は慌てふためいた。
「御免。そんな真剣に考えるとは思わなかった。
忘れて良いから、うん」
ポカンとする杏果の頬を撫でながら、明照は斜め上を見上げた。
「何やっているの? 上、何も無いよ」
「気にしないで。何でもないから」
また懲りずにやらかした。明照は自分の不甲斐なさが情けなくなった。

明日の朝食の下準備等、やる事を全部終えた後
明照は魔法少女の間に入った。遂にこのお泊まりの
メインイベント、鑑賞会が始まる。
室内では、魔法少女の衣装をモチーフにした
変身パジャマを着た杏果が手薬煉引いて待っていた。
「魔法少女の世界へようこそ。歓迎するよ」
「僕、男だけど歓迎されたね」
「女とか男とか如何でも良いよ。今も昔も条件は唯1つ。
魔法少女が心から大好きって心。これだけ。
これさえ有れば魔法少女の世界に住んで良いよ。
何なら魔法少女になることさえ出来るから」
「それは想像出来ないなぁ。如何なるんだろう」
色々想像している間に映像が始まった。

<愛と正義を貫く、ムーンライトガーディアン!
宇宙に代わって、懲らしめるわよ!>

天文学がモチーフの魔法少女“ムーンライトガーディアン”は
一時代を築いた、金字塔と言って良い存在だった。
29年も前の作品とは到底思えない程、高度な作画
声優の演技力、美しい世界観で知られ、海外でも
知らないと馬鹿にされる程だった。

明照は食い入る様に画面を凝視していた。
事故の後DVD-BOXを贈ってくれた何処かの誰かへの
感謝の念で一杯だった。

第1シーズンの回を全部見終わった後、杏果は
明照の膝から下り、DVDを取り出しパッケージに戻した。
「明照君、入れっぱなしは厳禁だから覚えておいてね。
下手すると2度と再生出来なくなるんだよ。
贈られた物が被って、同じ物が幾つも有っても関係無いから」
「大事な事だね。教えてくれて有難う」
素直に御礼を言う明照が、杏果には愛おしく映った。
「そうだ、良い機会だからトイレ行ってくるね。
序に飲物と御菓子持ってくるから。明照君も
行くならどうぞ。うちには3つ有るから」
「そうなんだ。じゃあ行ってくる」
観ている最中の中座は失礼だと思い、明照はトイレを
済ませることにした。

魔法少女の間に戻ってきたが、未だ杏果は戻ってなかった。
そんな時、明照の視界に、ムーンライトガーディアンの
専用武器、ムーンライトワンドが視界に入った。
先端に満月の付いた魔法の杖は、必要に応じて
半月・三日月・上弦の月・下弦の月・新月等に付け替えられる仕様だった。
「今だけ、ちょっとだけ借りるね、杏果ちゃん。
へぇ〜・・・再現度凄く高いな」
暫くは手にとって光に翳していたが、やがて飽きてるの欲望が顔を出した。
「今なら誰も見てないよね。今この部屋には僕1人・・・・・・
“愛と正義の光が、あなたの邪心を祓います。
ムーンライト、ホーリーキャノン!!”」
明照は先程DVDで見た動作を精一杯真似した。

この時明照は気付いていなかった。魔法少女の間に戻った時
扉を半開きにしていた。飲物と御菓子を持った杏果が
入り易い様にとの気配りだった。それは、断じて間違いではなかった。
しかし、明照が最も恐れていた事が起きた。
「あ、そこね、体を1回転させてから決めポーズにシフトすると
凄く格好良いよ。フィギュアスケートのスピンみたいに
強くなくても良いから」
「あぁそうなんだ。有難う・・・・・・あ゛っ・・・・・・」
次の瞬間、明照は悟った。終わった。何もかもが終わった。
一番見られてはならないものを、一番見られてはならない相手に知られた。
何と言い訳すれば良いのか。否、それともいっそ開き直るべきなのか。
そんな明照に対して、杏果は何時も通り神対応だった。
「身も心も完全に魔法少女の世界の住人だね。おめでとう。
知りたい事は何でも教えるからね」
杏果に抱き締められるのは今夜が初めてではなかった。しかし
何故か今日のハグは普段と何かが違う気がした。


後日、明照は、今迄殆ど使ってなかった小遣いで魔法少女グッズを
古物店で山程買い漁った。両親と祖父母は当初
愕然とした。しかし数秒後、杏果との話題について行く為と
勝手に思い込み、納得した。剰え、掛かった分は経費として
認めてくれたので丸々キャッシュバックを受けられた。
それどころか、杏果と仲良くなろうと努力する
模範的な行動と看做され、臨時収入まで入った。
「偉いな、明照。今後も続けるんだぞ」
「そう云う事は最初に言いなさいね」
父、靖彦と母、千枝は完全に勘違いしており
柴犬にする様に頭・頬・下顎を撫で回した。

両親が居ない間に均と清美に真実を話すと、意外な答えが返ってきた。
「最初から分かっていたとも。誰にも言わんから大丈夫」
「共通の趣味が出来て良かったじゃない」
明照はこの日、誓った。一生涯、祖父母には足を向けて寝ない。
給食を食べ終えた後、杏果は学級で飼っている兎に餌を与えに行った。
本来、彼女の所属は放送委員である。しかし、根っからの動物好きなので
飼育委員でないにも拘らず何時も兎の世話に勤しんでいた。
当の飼育委員にとっては、仕事が楽になり感謝の対象だった。

そんな杏果を、少し離れた所から白い目で見る者達が居た。
木下(きのした)琢己(たくみ)吉井(よしい)香織(かおり)。有り体に言うと、餓鬼大将とクラスの女王である。
どちらも粗暴・強欲・恩知らず・卑劣と、人間の短所の集合体だった。
同級生は琢己のグループが暴力で従わせ、それが無理と悟ると香織の
グループが悪い噂を流す。そんな“連携プレー”を普段からしていた。
「あいつ、動物好きを皆の前で見せて良い子アピールかよ」
「本当キモい。親無し子の癖に。しかも、あの年で未だに
魔法少女とお飯事が好きって。幼稚にも程が有るでしょ」
武力で従えようとしたら大声で泣き叫ばれ、先生に見つかり中止。
実は嘘泣きだったと知ったのは、数日後の事だった。
おねしょ常習犯という噂を流したところ“家族が目の前で死んだ時の
事が忘れられないんだからしょうがない”と反駁されあっさり撃沈。
2人の謀略は毎回失敗に終わっていた。
琢己のグループのメンバー、平田(ひらた)将太(しょうた)は太った体を震わせつつ不平を口にした。
「何であいつの時ばっかり上手くいかないのかな」
欠伸をしながら締まりの無い間抜け面を晒す将太に
香織のグループのメンバー、斎藤(さいとう)沙織(さおり)は苛立ちを覚えた。
「将太、その暑苦しいの何とかならんの?」
沙織には訳が分からなかった。何で、こんな河馬と蝦蟇を
足して2倍した様な鈍臭いのが琢己の子分なのか。
「俺だって最初は鬱陶しかったよ。だけどな、こいつ
聖フェリーチェ病院の院長の息子なんだ。
要は大金持ちの家の坊ちゃん。だから
正直、一番手放したくないって訳」
まぁまぁ長い間一緒に居るが、今迄知らなかった事実に
香織と沙織は愕然としたが、同時に納得もした。
「こ、こいつが!? 人は見た目によらないね」
「でもまぁ、確かに院長の息子なら欲しいよね。
うちのグループだと佳奈子がそれに当たるかな」
目線の先には、虚ろな雰囲気の、癖毛の少女が居た。
「上、何も無いね・・・・・・」
琢己達の話を全く聞いてなかったのか、佳奈子(かなこ)
天井を凝視していた。
琢己の腰巾着、金田(かねだ)治夫(はるお)は呆れながらも香織の心理を察した。
「確かに。国際的な大手文房具メーカー、トウィンクルの
社長の娘でなけりゃ、誰だってこんな変人は御断りだよな」
「分かってくれる? 流石ブレーンだね。じゃあ、その良い頭を使って
あのクソッタレをとっちめる良い方法を考えて貰えるかな」
香織に褒められ上機嫌の治夫は頭を回転させた末、何やら閃いた。
「皆の前で恥をかかせると云うのは如何かな」
誰も思いつかなかった、思わぬ提案に誰もが関心を示した。
「治夫、詳しく話してみろ」
琢己に促され、治夫が話した内容は以下の通りだった。

*杏果を知る1年生と2年生を集める
*自分達も立会の上で、皆の前で歌わせる
*下手糞だと一斉にブーイング
*皆の前で恥をかいて心が折れる

話を聞き終え、琢己は普段余り見せない笑顔を見せた。
「出来したぞ。御前よくそんな天才的なアイデア
思いついたな。俺ですら考えつかなかったのに。
気に入った。今日の帰り、アイス奢ってやろう。
それとも飲み物の方が良いか?」
「あ、有難う。じゃあ・・・暑いしスポーツドリンクで」
こんな時でも賢さ全開の治夫が皆には微笑ましく映った。
只1人、佳奈子だけは相変わらず全然違う所を見ていた。
「ぼんやりと壁を見て、何が面白いのかな・・・」
相変わらずの奇行を沙織は呆れ顔で見ていた。
「佳奈子、魂を何処へ置いてきたんじゃ」
その答えは、下手をすると本人ですら知らない可能性が有った。


虐めグループは学校の近くの公園で
御菓子を貪りながら待ち構えていた。
「ぶち美味いのう」
沙織は漫画等によく出る、外国の成金をイメージしつつ
葉巻そっくりな外観のチョコを咥えた。
将太が家から持ち出した、チョコラーテ・シガーロは
見た目が葉巻にそっくりなので、子供と大人の双方に
名前を知られた高級銘菓であった。
「み、見つからない様に持ち出すの苦労したよ」
「そうだろうな。だから褒美にこれをやる」
琢己は将太に、以前他所で巻き上げた100円を与えた。
やがて、下級生達に連れられた杏果が公園に着いた。
何処からか持ってきた木箱を階段状に重ねると、香織は
努めて笑顔で話した。
「杏果ちゃん、よく来てくれたね。呼び出したのは
私達の前で歌って欲しいから。因みに言い出したのは
そこに居る、下級生達だよ」


ここで時は数日前に戻る。
杏果が下級生や上級生の前で歌う事が多々有るのは
皆よく知っていた。だから適当に下級生の群れを
探していた。声かけは香織が担当することになった。
「君達、稲葉杏果ちゃんに歌を習ってたよね?」
警戒されない様に目線を合わせるのを見て
リーダー格の1年生の女児は香織を優しい御姉さんと認識した。
「そうだよ。御姉さんは杏果ちゃんの友達?」
「よく分かったね。正解。それでね、その杏果ちゃんが明日
学校の裏の公園で皆の前で歌ってくれるんだって。聴きたい?」
思わぬ誘いに1年生達は目を輝かせた。
「聴きたい!!」
満場一致で可決となったので、後は簡単だった。
「それじゃあ、明日呼びに行くのは任せたからね」
こうして、下級生達を巻き込んだ謀略の下絵が完成した。


以前の事が有るので杏果は本心では信じていなかった。
しかし、下級生達が騙す必然性は無いとも分かっていた。
「洪吉童ライブって訳だね。良いよ。何歌えば良い?」
「それは任せるよ。俺らはよく分からないから」
琢己がそう言うので、納得した杏果は壇上に上がった。

この時、杏果は勿論、他の面子も全く気付いてなかった。
「おい、あれ見てみ」
「杏果ちゃんだよね?」
公園の裏を通った根路銘崇と赤嶺美娜は、嫌な予感を覚えた。
そこから先は早かった。崇はSongTubeで全世界に生配信し
美娜は歌声喫茶“ひかり”に電話を掛けた。

かくして青空の下、ライブが始まった。杏果は最初に
“アムール河の波”を歌った。聴き慣れないロシア語に全員
首を傾げはした。それでも、長年歌声喫茶と親しんだ
杏果の歌声は耳に心地良かった。
曲が終わり、皆一斉に拍手を送った。しかし、数秒後
琢己は想定外の事に頭が真っ白になった。
「嘘だろ!? まさかこんなに上手いなんて」
「最初からいきなり下手と野次を飛ばすのも不味いかも。
敢えて調子に乗らせて、気分が1番良くなった時
一挙に奈落の底に蹴落とすのがベストだと思う」
治夫の冷静な分析により、暫くはこのまま放置することにした。

続いて“祖国の歌”を歌った時も杏果は平常運転だった。
ロシア語が分かる者は誰も居なかったが、皆
聴き入っていた。真に優れた音楽は国境の壁を
簡単に崩すとオーディエンス達は感じていた。
だが、虐めグループの焦りは大きくなる一方だった。
「不味い。このままだと杏果が余計図に乗る・・・」
鈍臭い将太も流石にその程度は理解出来た。程なく
虐めグループの意見が一致した。次の歌の後、横槍を入れよう。
但し、下級生も居るから言葉は選ばないといけない。
意見が纏まった後、虐めグループは杏果が“ソビエト陸軍の歌”を
歌っている間、身動ぎせず聴いていた。

ロシア語の大波が漸く去った後、沙織は挙手し、発言を申し出た。
「あの、杏果・・・確かにうちら“何でも良い”とは言ったけど
出来ればその、日本語の歌、御願いしてもええ?」
杏果にとっては想定外の事だった。しかし、別に困りはしなかった。
「良いよ。何にしようかな・・・」
数秒考えた末、杏果は名護パイナップルパークの主題歌
“パッパパイナップル”を日本語・朝鮮語・中国語・英語交じりで歌った。
この時虐めグループは“しまった!!”と顔に出た。
日本語とは言ったが、他の言語を交えるなとまでは
言ってなかった。怨めしさを隠しながら皆
聴いていた。歌が終わると、今度は琢己が発言を申し出た。
「あの、御免。正しく伝えてなかった。日本語100%って
意味だったんだよな」
「あれそう云う意味だったんだ」
杏果本人は意図的に抜け穴を掘った訳ではないので
怒るに怒れなかった。
困惑しながらも、杏果は“UNIONですから!”を歌った。
確かに日本語ではあったが、ウチナンチュ以外殆どの人は
知らない歌曲なので虐めグループはポカンとするしかなかった。
「あぁー・・・確かに日本語じゃけど、もっとこう・・・
有名なのは無いんね? 面倒掛けて悪いんじゃけど」
何時しか虐めグループは下手に出ていた。
考えた末、杏果は“フルタ製菓 社歌”を選んだ。少々
昔の曲ではあるが、やっと知っているのが出てきて
皆が安堵した時、イレギュラーが起こった。
「琢己!」
「何やっているのあなたは!」
声の主を間違える要素は無かった。何時の間に来たのか
琢己の両親、木下健一(けんいち)由美子(ゆみこ)夫妻が般若の形相で見ていた。
イレギュラーはこれだけでは済まなかった。
「何やっているんだ香織!」
「いい加減にしなさい!」
「何て事をしてくれたんだ!」
「この恥知らず!」
香織の両親、吉井武雄(たけお)千佳(ちか)夫妻
並びに母方の祖父母、村田(むらた)権蔵(ごんぞう)武子(たけこ)もまた激怒で
天地を焦がさんばかりの気迫だった。
各グループのリーダーの両親を先頭に、虐めグループの
家族が次々公園に集まった。更に
野次馬に、生配信を見た視聴者まで群がり
杏果は下級生達を帰すのに苦労した。
怒号と絶叫と悲鳴が一度に沢山響き、現場は
何が何だか分からない状態だった。

一連の様子を見ていた崇と美娜は目が点になった。
「流石にやり過ぎたか?」
「もっとド派手にやっても良かったんだよ」
このカオスな状況はTwitter/YouTube等でも
取り上げられ、大騒ぎだった。

数日後、杏果の家を、虐めグループの面々が
保護者に連れられ謝罪に訪れた。余りに数が多いので
順番待ちの集団は居間で待機してもらうことにした。
そして、用が終わったら即帰すことにした。
病院の待合室の様に、杏果の祖母、英子(えいこ)が名前を呼びに来た。

最初に応接間に通されたのは琢己の一家だった。
丸坊主に瘤だらけの頭をしているのを見て
杏果は何が起きたか悟った。
「この度は、うちの息子が申し訳ない事をしました!」
「大変申し訳御座いません!」
両親が土下座する中、琢己本人は
見当違いの所を見ていた。
杏果の隣に座っていた寛司は思わず声を掛けた。
「琢己君、如何したんだ?」
その言葉に思わず顔を上げた両親は次の瞬間、馬鹿息子に
同時に蹴りを入れた。
「馬鹿! 一番土下座しなきゃならないのは御前だろうが!」
「てか、最初に謝罪しなさいよ!」
呻き声を上げながらも、琢己は起き上がり、家族達と一緒に土下座した。
「本当に御免なさい。もうしません」
如何しようか迷ったが、杏果は意を決し、スマホを取り出し
或る動画を再生した。
「これを見て下さい」
そこには、琢己が子分達と共に幼稚園児位の女児から
御菓子を奪う場面が鮮明に映されていた。
数秒後、今度は拳骨が炸裂した。
「御前、こんな事までしていたのか!」
「何処迄腐っているの!」
杏果のスマホに有った証拠の動画を全て確認した後
由美子は丁寧に一礼した。
「杏果ちゃん、有難う。御蔭で重要な真実が分かったわ」
「いえ。遅かれ早かれ届け出る予定でした」
幾度も御礼を言った後、琢己の家族は果肉入りの
果物ゼリーのギフトセットと幾許かの金を置いて帰った。

次に来たのは香織の両親と祖父母だった。香織本人は
丸坊主ではなかったが、頰には手形が幾重にも重なり
目は真っ赤だった。加えて、歩き方が不自然だった。
「うちの娘が申し訳御座いません」
「杏果さんに嫌な思いをさせてしまいました」
「わしらの教育が間違っていたんですな。孫娘だからと
甘やかし過ぎた結果がこのザマです」
「1から育て直すことに決めました」
両親と祖父母が謝罪している最中
琢己のやり取りを聞いていたのか
香織は早いタイミングで土下座した。
「本当に御免なさい! 私、酷い事して・・・」
謝罪を受けた後、杏果は香織の両親と祖父母の所へ
歩み寄り、膝をついた。
「面を上げて下さい。皆さんの気持ちはよく分かりました。
後の事は御任せ致します」
何とでも解釈出来る言葉なので、両親と祖父母は一時
フリーズしたが、直ぐ“罰するなら徹底的に”と解釈した。
「それはもう絶対やります!」
「長居するのもアレなんで今日は失礼します」
「御詫びにこれを御納め下さい」
「大変申し訳御座いません」
杏果の好きな、魔法少女の絵柄入りのスケッチブックと
慌てて用意したであろう札束を置いて一行は去っていった。
「おじいちゃん、これ金庫に入れとかないとね」
「そうだな。次の人が入るのはその後だ」
応接間の隣に有る書斎に入ると、寛司は
現金を金庫に入れた。

その後も大体は同じだった。パン屋の店主である斎藤浩美(ひろみ)
娘の沙織を引っ立てると謝罪の言葉を口にした後
現金+自分の店の無料券を置いていった。
「沙織の父親が亡くなり、女手一つで育てるのが大変と痛感しました。
本当に申し訳御座いません」
全く予想外の事実に、杏果と寛司は思わず目を見開いた。
当の沙織はげっそりしていた。

将太の両親、平田義行(よしゆき)慶子(けいこ)夫妻は、流石は病院長夫妻というだけあって
慰謝料の額が桁違いだった。加えて、お詫びの品の数も最多だった。
両親の謝罪の後、杏果より小さな女の子が一緒に土下座した。
「ごめんやしゃい」
未だ舌足らずな幼子が気になり、杏果は歩み寄った。
「こちらは?」
「名前は美紀(みき)と云います。将太の妹です」
慶子は答えた後、慌てて美紀を起き上がらせた。
「美紀ちゃん、うちへ遊びにいらっしゃい。面白い物
沢山有るから。御両人、問題有りませんよね?
美紀ちゃん本人には何の罪も有りませんから」
幼稚園の頃から発揮してきた統率力を活かし
杏果は美紀の顔が曇らない様にした。
その優しさに義行と慶子は思わず笑顔になった。
「有難う、杏果さん。確かに美紀は何も悪くないな」
「どうやら美紀もあなたを姉の様に慕っている様ね。
これなら連れて来ても大丈夫でしょう」
最終的に受け取ったのは、数え切れない程の慰謝料に加え
キャラ物文房具・お飯事セット・魔法少女の主題歌/キャラソンCD・図書カード等
あっさり受け取るのが気が引ける程だった。しかし、好意を足蹴にするのも
嫌なので、結局受け取ることにした。
当の将太は丸坊主の上、顔に包帯を巻いていた。素顔は分からなかったが
余程強烈な折檻を受けたのだろうと想像した。
「丁度良いから今ここで言っておくわ。
杏果さんと、お祖父様もよく聞いておいて下さい。
将太、あなたに与える予定だった、病院の跡目は無し。
全ての権限は妹、美紀に与えるから」
「そ、そんなぁ!!・・・俺の夢が・・・人生が・・・・・・」
急に母から院長の顔になったのを見て、将太は絶望の沼に沈んだ。

治夫の父方の祖父母、横山(よこやま)泰三(たいぞう)純子(じゅんこ)夫妻は、自分達が
歌声喫茶“ひかり”の会員であるという事情も重なり
泣きべそをかきつつ謝罪した。
「どうか面を上げて下さい。私は公私混同はしません。
治夫君のした事は決して水に流しませんが、それと
歌声喫茶は関係有りませんから」
何時の間にか人事権を行使する杏果を
寛司は頼もしいと感じた。
「今御聞きの通り、孫もこう言っています。ですから
辞める必要は有りません」
こう言われると固辞する訳にいかなかった。
「有難う御座います」
「この御恩は決して忘れません」
泰三・純子夫妻は杏果の好きな、怖い話を集めた本10冊に
加えて慰謝料を置いて去っていった。
尚、当の治夫は顔の輪郭が変わっていた。

最後に入った小塚(こづか)邦夫(くにお)真希(まき)夫妻は、娘を連れて入って来た。
最初に口を開いたのは、6人組の中で唯一
皮膚に変化が無かった佳奈子だった。
「杏果ちゃん、御免! 不思議ちゃんの芝居はもう終わり」
流石にこれは意味が分からなかった。呆然としていると
佳奈子は事情を話し始めた。
「知っての通り、私は文房具メーカーの社長夫妻の一人娘。
香織はそれを知って、私をグループに引き込んだって訳。
令嬢と知って妬む輩を今迄何十人も見てきたから、当初
便利な用心棒が出来て助かったと考えていたんだよ。
だけど違う。あいつらは私を都合の良い道具としか思っていない。
確かに直接虐められた事は1度も無かったけど
あのグループに所属するのは本当に嫌だった。
何回もグループを抜けようかと思ったけど
香織と琢己が怖くて言い出せなかった」
涙を零しつつ謝るのを見て、杏果は勿論
寛司も強く言えなかった。
「だから、勇気を出して一連の事を全部
録音していたんだよ。これで香織達も終わり。
序に言うと、私は自ら事情を打ち明け、連れて来て
貰ったんだよ」
嗚咽し始めた佳奈子に代わって、両親が代わりに事情を説明した。
「普段から仕事で忙しく、娘を放置していた私達が悪いんです」
「悪意を止められなかったと娘は泣いていました。ですが
私達の所為でこうなった佳奈子も考え方次第では
被害者と言えます。直接何かした訳ではないと言っても
責任は取ります」
土下座する3人を見て、杏果は直ぐに決心した。
「佳奈子ちゃん、本当に責任を取る気なら御願い
聞いてくれる? この次は、あたしの家へ遊びに来て。
あたしは佳奈子ちゃんと友達になりたい」
事実上の無罪判決に、佳奈子はより一層号泣した。
佳奈子の膝の上に乗せられたと思うと、抱き着かれた
杏果は、小さく痙攣する背中を撫でながら両親を見上げた。
「これが私の意思です。佳奈子ちゃんは何も悪くありません。
ですからこの事で叱ったり、罰を与えるのは勿論
話題にも出さないであげて下さい。佳奈子ちゃんから
言い出したのであれば話は別ですが」
体格の差の所為で不自然な場面になっていたが、兎も角も
完全なる和解が成立した。
尚、慰謝料と、御詫びの品々である玩具・縫いぐるみ・キャラ物の衣料品
果物のギフトセット等は、両親の心情を慮り、受け取ることにした。


謝罪訪問の翌日の午後、明照は、遊びに来た杏果から事情を聞いた。
何も知らなかった明照は事情を知って唖然とした。
驚きの余り、金楚糕が咽喉に詰まるかと思ったが
香片茶で何とか流し込んだ。
「そんな事が有ったなんて。大丈夫だった?」
「うん。皆の前で恥をかかせようとしたらしいけど
全然効かないどころか、1年生と2年生の子達からの支持率
稼ぐことになっちゃった。たーかーにーにーと
みーなーねーねーには御礼しなきゃいけないね。
偶然とは言え、結果あたし達を助けてくれたし」
あっけらかんとしている杏果に明照は感服した。
虐めと全く気付かなかったばかりか、自分にとって
都合の良い事態を招くとは。矢張りポジティブな発想が一番と明照は考えた。
直後、何かを思い出した様に慌ててSongTube(ソングチューブ)の動画を再生した。
「杏果ちゃん、この歌を習いたいんだけど」
そこには、杏果のSongTube上での姿、“マジカル九尾狐(クミホ)”が
沖縄の童歌“耳切坊主”を歌う姿が有った。
また自分の動画を選んでくれた事が嬉しくて
杏果は満足そうに頷いた。
「OK その代わり今夜の鑑賞会はあたしが選ぶから。
今日はカードチェイサーチェリー・・・いや
魔法戦士レアアースにしようかな? まぁ、授業の後で決めるね」
この日、田中家の縁側には“耳切坊主”の二重唱が響いた。
道行く通行人は、暫し足を止めて聴き入った。