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 萩上のことを思い出しながら歩いていると、いつの間にか彼女のアパートに近づいていた。
 Tシャツに汗が滲み、薄い胸にぺったりとくっついている。すぐ近くに公園があったので、一度そこの水道で頬を冷やしてから、また歩き始めた。
 ええと、道順はこれであっているんだっけ? 
 あとはこの道をまっすぐ行って、すぐの交差点を右に曲がれば、左手に見えるのか。
 高い建物が少ない路地なので、夏の陽光が容赦なく照り付けていた。蝉もこの暑さには参っているのか。遠慮がちにみんみんと鳴いている。それでもうるさい。
 喉がからっと乾いていて、思わず頬に垂れてきた汗を舐めた。しょっぱい。不健康な証拠だ。
 僕はすぐに日陰に入りたくて、歩を速めた。
 路地をまっすぐ入って、右に曲がる。すぐ左に、二階建てのアパート。
「あった…」
 お世辞にも綺麗とは言えないアパートだった。
 駐車場は狭いし、草は生い茂っているし、藪蚊がぶんぶんと飛び回っている。昔は白い外観だったのだろうが、今は黄ばんで見えた。入居者募集中の看板が、駐車場の隅に隠れるように立っていた。一階に四部屋。二階に四部屋。そのほとんどが空き物件。
 僕は取扱説明書の地図を二度見した。
 これ、本当に合っているのか? 廃墟と間違われても仕方がないぞ? 
 とりあえず、僕は土地の中に足を踏み入れた。
 件の萩上千鶴の住んでいる部屋は、二階の一番端。二〇四号室にある。
 赤錆の浮いた階段をカツンカツンと音を立てながら上り、廊下を渡って、萩上千鶴の部屋の前に立った。
 表札とかは出ていないな。新聞受けにも何も無い。
 僕は手汗でべたついた指で、インターフォンを押した。
 キンコン。と、部屋の奥から、古めかしい電子音が聞こえた。
「…………」
 しかし、返事はない。誰も出てくる様子はない。人の気配がしない。
 留守を疑った僕は、そっとドアノブに手をかけて、引いてみた。
 軽い力で、扉はガチャリと開いた。
「あ…」
 他人の部屋を勝手に開けるという罪悪感と、確認しなければならない。という謎の義務感が一斉に襲ってきた。僕は半歩下がりながら、部屋の奥に目を向けていた。
 僕が見たもの。それは汚部屋だった。
 と言っても、テレビとかで特集されている社会不適合者の部屋とはちょっと違う。社会不適合者の部屋は、食べ終わったカップ麺の容器とか、プリンの容器とか、あと脱ぎっぱなしの着替えとかが散乱して、悪臭を放っている。って感じだけど、この部屋は、萩上千鶴の部屋は、少し違う。
 どちらかと言えば、「清潔」だった。
 クーラーが吐き出す冷気で満たされている。少し黴臭いけれど、それはここの部屋の日当たりが悪いから。廊下からダイニングを見渡しても、生ものの類は見当たらず、もちろん、脱ぎっぱなしの着替えも見受けられなかった。
 まるで、それらが化けたかのように、新聞や広告の切れ端が散乱して、足の踏み場がない状態になっていた。
「なんだ、ここ…」
 とりあえず、僕は「ごめんください」と、部屋の奥に向かって話しかけた。
 しかし、返事はない。なんだ、留守なのか?
 そう思った時、僕は、部屋の奥にある、びりびりに破られた新聞や広告の山の中から飛び出した、「人間の足」を見つけた。
「あ!」
 考えるよりも先に身体が動く。
 靴をその場に放り出すように脱ぎ。散乱した新聞や広告なんてお構いなしで踏みつけて、ダイニングのゴミに埋もれた人間に駆け寄った。
「おい! 大丈夫か!」
 その人間の上に被さった新聞紙や広告の切れ端を退けて、中に埋もれていた彼女を引き上げる。
「あ…」
 それはやはり、萩上千鶴だった。
 闇を切り取ったかのような黒髪が、まるで翼を広げる鴉のように床に広がり、新聞紙のくすんだ灰色と一体化している。顔は小さくて、頬の血色が悪い。とにかく華奢で、肩を掴んで抱え起こした時、角ばった骨の感触が生々しく手の中に残った。
 薄紅のパジャマを着て、すうすうと眠る萩上千鶴。
 まだ中学の頃の幼さを残した姿に、僕は少し困惑した。
 これ、起こした方がいいのかな? それとも、起きるまで待った方が良いのかな?
 彼女の肩を掴んだまま悩んでいると、萩上はぱちりと目を覚ました。
 きょとんとした瞳が僕を見る。途端に、眉間に皺を寄せて、威嚇するように睨んだ。
「誰?」
 心臓がどきっとした。
 何も緊張することはない。「明日香に言われて、ここに来た」って、正直に説明すればよかった。それなのに、今更、女の部屋に上がり込み、寝顔を見たことへの罪悪感が僕の口を鈍らせた。
「中学の時に、同じクラスだった……ぼ、僕だよ…」
「中学…?」
 彼女は、おもむろに上体を起こして、髪の毛に張り付いた新聞の切れ端を取り去った。それから、重そうな寝ぼけ眼をこすり、やや赤く充血した目で僕を見た。
「誰?」
 やはり、顔を見ただけでは思い出してくれないようだ。
 少し残念。
「桜井正樹。覚えていないかな?」
 何とか彼女に思い出してほしくて、僕はくどく言った。
「出席番号三番の…、桜井正樹」
「桜井君?」首を傾げる萩上千鶴。「一緒のクラスだったのね。そう。うん、覚えはあるわ」
 あまりピンと来ていない様子。
 まあ、無理もないか。同じクラスだったとはいえ、たった一年間。しかも、一番記憶が薄い二年生の時のことだ。話したことはあるけど…、さすがに記憶が残っていないか。
「そっか、覚えていないか」
「無理もないでしょ? 同じクラスだったとはいえ、たったの一年間じゃない。しかも、一番記憶の薄い二年の時。それに、私と桜井君とは殆ど話したことが無いのだから…」
「……」
 心の中を見透かされたような気分だった。
 萩上千鶴は、「それで?」と聞いてきた。
「それで、桜井くんはどうしてここにいるの? それとも強姦かしら?」
「あ、明日香から聞いていないか?」
「明日香ちゃんから?」
 明日香のことは知っているようだ。萩上は、細くしなやかな手を顎に当てて、自分の記憶をたどった。少しして「ああ」と何かを思い出す。
「世話役ね…」
「あ、そうそう」
「本当に来たんだ」
 萩上千鶴は目を細めてげんなりとした。
「前から強引な人だとは思ってたけど…、本当に使用人を雇ってけしかけてくるとは思わなかったわ」
「え…」
 萩上千鶴の様子から、明日香と彼女の間で何らかのすれ違いが起きていることに気が付いた。
 クーラーの効いた部屋は一瞬で気まずい空気に包まれる。
「もしかして、萩上は望んでいないのか?」
「そうよ」はっきりと言った。「別に私の世話なんていいのに。それなのに、強引に話を進めちゃって…。彼女に限ってそんなことはないでしょうけど、恩着せがましく言われるのは嫌よね」
 僕は萩上が話すのを聴きながら、横目で部屋を見渡した。
 汚部屋のはずなのに、汚いのかどうかわからない部屋だ。
 びりびりに破られた新聞紙と広告が、綿雪のように灰色の絨毯を埋め尽くしている。本棚とか、タンスとかの類は一切なく、キッチンのコンロもシンクも、使った形跡がなかった。
 僕は恐る恐る聞いた。
「なあ、もしかして、僕はいらないのか?」
「いらないわよ」
 冷たい返事。固まる僕を放って、萩上は再び新聞紙の切れ端の山の上に寝転がった。まるで、穴を掘るミミズのように、その中に潜っていく。
「さっさと帰ってくれる?」
「ああ、うん。でも」
 すぐにでも帰りたかった。だが、日給一万が視界でちらつく。どうにかして、一日だけでも彼女の世話をして、大金をせしめたかった。
「せっかく来たんだからさ、何か、手伝えることはないか?」
「無い」
 ゴロンと寝返りを打って、窓の方を向く萩上千鶴。
「はいはい」
 僕は諦めて立ち上がった。
 まだお金には未練があったが、本人が望んでいないのだ。彼女にぐちぐちと言われながら仕事をするのは、それはそれで耐えがたい。
「帰りますよ」
 まあ、よくよく考えれば、殆ど口もきいたことが無いような男が「お前の世話をする」なんて来ても、迷惑な話か。あと怖い。
「じゃあな」
 僕は萩上千鶴の背中にそう言った。
 くるりと背を向けた瞬間、僕の耳に、ぐうっと、スマホのバイブのような音が聞こえた。
「ん?」
 僕は反射的に、ジーパンのポケットの中に手を入れていた。しかし、スマホは何も受信していない。
「ねえ」
「あ?」
 振り返ると、萩上がころんと寝返りを打って、僕の方を見上げていた。
「お腹空いた。何か買ってきて」