それから、母親が呼んだ警察に、僕は逮捕された。
 器物破損。
 執行猶予がついて、すぐに牢屋からは出られたものの、高校の三年間苦労して合格した大学は退学処分となった。 
 母親と兄貴から連絡が入り「親不孝者」とだけ言われた。これで実家に帰る理由はなくなったな。 
 萩上のアパートの修理代。萩上の実家で暴れて壊したもの弁償金で、かなりの金が僕の懐から出ていった。その金も大学の学費に使うために置いておいたものなので、あまり関係は無かった。
 悪事千里を走るとはこのことか。誰かに言ったわけでは無いのに、路地を歩く僕に向けられる視線はどこか冷たかった。
 前科者が、アパートに戻ると、萩上が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 当面の生活費を得るために、漫画やゲームを売り払った僕の部屋はがらんとしていた。
「あーあ、やんなっちゃうよ」
 僕は冗談交じりに言った。
 萩上も冗談交じりで返した。
「だったら、あんなことしなければよかったのに」
「楽しかったなあ」
「楽しかったね」
「スカッとした」
「スカッとしたね」
 笑いあった後、萩上が声のトーンを落として言った。
「ごめんなさい」
「気にするな」
「だけど、桜井君まで…、生きるのが難しくなっちゃって…」
「難しいだろうなあ…」
 前科持ちになってしまった。
 せっかく合格した大学も退学処分。親からは勘当されて、ちまちまと貯めていた金も一瞬で無くなった。今日のご飯を食べるのにも一苦労だった。
「まあいい。あるべき姿にもどっただけだよ」
 中学の頃、何のやる気も起きないままに生きていった僕が、必ず通る道に立っただけだ。
 部屋のインターフォンが鳴らされた。
 出てみると、眉間に皺を寄せた明日香が立っていた。
 部屋には萩上がいるので、一度外に出る。
 開口一番、彼女は「よくもやってくれたわね」と、恨みがましく言った。
「私、お金もらえなくなったんだけど?」
「仕方な。世の中、そんな甘くないってことだ」
「甘いのはどっちよ、感情に任せて犯罪犯しちゃってさ」
「なんで知っているの?」
「悪事千里を走るってことよ。大学のみんな噂している。もう、高校、中学時代の友人
にも知れ渡っていると思うけど?」
「ははは、有名人だ」
 笑う僕に、明日香はため息をついた。「こいつはもう駄目だ」と言いたげだった。
「とにかく、食べ物無いんでしょ? ほら」
 そう言って、持っていたナイロン袋を僕に渡した。中には、インスタントラーメンや、缶詰、ミネラルウォーターなどが入っていた。
「正樹のこと、馬鹿にするけど、でも、同情はするよ? そりゃあ、女の子が困っていたら、助けたくなるもんね」
 僕の気持ちを汲み取ったのか、そんなことを言った。
「だけど、正樹、将来必ず後悔するよ?」
 後悔か…。
 明日香は、くるっと踵を返す。去り際に、首だけで振り返って言った。
「またね、形だけでも応援しておく」
「うん、ありがとう」
 したたかな明日香は、秋の肌寒い風にスカートを揺らしながら階段を下りていった。
 部屋に戻ると、萩上が僕からナイロン袋を取り上げながら「明日香ちゃん、なんて言ってたの?」と聞いた。
「怒られたよ。僕のしたことが馬鹿だって」
「うーん、確かに」
 萩上は、袋の中からミネラルウォーターとサバの缶詰を取り出し、無言で僕に寄越した。「開けろ」ということらしい。
 鯖缶を二つ開けて皿に移し、二人で食べた。
 夕方になると、外に出て、近所の人たちの刺すような視線を背に、軽い散歩をした。
 暗くなると、テレビのドキュメンタリーをぼーっと見て、日付が変わった頃に、一枚の布団を分け合って横になった。
「後悔していない。と言ったら嘘になる」
 僕は、萩上の手を握りながら言った。
「きっと、僕たちはこの先、苦労をすることになると思う。そして、少なからず、今回の選択を後悔するだろう」
「うん、そうだろうね、ごめんね」
「そうなることを悟った、二十歳の餓鬼の言い訳を聞いてほしい」
「うん」
「幸せは、金じゃないと思うんだ。学力とか、経歴とか、そういうのじゃないと思う。何かに向かって努力しているときとか、美味しいものを食べた時、楽しいことをしている時に、人は幸せになれるんだと、僕は思っている」
「うん」
「幸せに無頓着だった昔の僕なら、きっとこの考えは浮かんでいないだろうよ」
 萩上の頭を撫でた。
「僕にとっての幸せは、萩上とこうやって一緒にいるときだ」
「なんか、照れるな」
 頭の中を、いろいろな感情が渦巻いていた。
 僕のしてきたことは、本当に正しかったのか。
 ただ感情に突き動かされただけの愚かな行為だったのではないか?
 この先、僕たちは生きていくことができるのか。
 一寸先の闇の前に立たされた気分だった。
「何が起こるかわからないんだ、僕たちの選択が正しかったのかどうかもわからない」
 萩上の頬に赤みが差す。彼女が身に纏っていた、見栄や虚構が、ぺりぺりと剥がれ落ちていようだった。
「僕たちの選択が、正しいと思えるように、生きていこうじゃないか」
「…はい」
 萩上は強く頷いた。
 ゆっくりでいい。
 ゆっくりでいいのだ。
「ゆっくりと、幸せになっていこう」
 これから僕たちを待ち構える嵐の中に身を投じるように、二人は眠った。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
 翼を失った天使は、地上にしたたかに腰を打ち付けた。
 一度は雲を仰いで、涙を流す。しかし、鼻を掠める爽やかな香りに目を向ければ、そこには天界と見まがうくらいの、爽やかな花畑が広がっていた。
 草木をサクサクと踏みしめて、飛び交う蝶々に手を伸ばす。
 静かに、それでも、淑やかに息をする命を見た時、「これでいいや」と天使は思うのだ。
 これでいい。 
 これでいいのだと。




        完