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 萩上の母親は、相変わらずだった。
「あら、いらっしゃい!」
 と、尋ねてきた僕たちを応対用の、鼻に抜けるような声で出迎えた。
「嬉しいわ、千鶴ちゃんから来てくれるなんて、ほら、上がって!」
 昨日、萩上に反抗されて取り乱した顔は何処へやら、顔に作り笑いをべったりと貼りつけて、僕と萩上を中に誘った。
「あら、正樹君、その足は…」
「ああ、昨日萩上を追いかけて、階段から転げ落ちたんです」
 適当な嘘をついておいた。
「あら、千鶴のために、身体を張ってくれたのね、ごめんね、後で治療費は払ってあげるから」
 この人、やりにくいな…。
 十四歳の頃、自分を偽っていた萩上がそのまま成長したかのようだった。
 自分の腹の内を隠して、相手に当たり障りの無いことを言う。
「そのまま上がってきていいわよ」
「ああ、はい」
 僕は靴を脱いで、外を歩いた松葉杖をワックスがかかったフローリングの上に着いた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 萩上に支えてもらいながら、母親の背中を追って、リビングに通された。
 リビングの光景を見た時、僕は身体が引きつるのを感じた。隣の萩上は、「ひっ」と、小さく悲鳴をあげて、僕のジャケットの裾を強く掴む。
「ああ、いいでしょ?」
 萩上の母親は満面の笑みで、部屋の奥の棚に飾られたものを自慢した。
 壁際に置かれた、五段から成る大きな棚。下から上の段全てに、萩上に関連するものが飾られていた。
 萩上が今までに描いてきた絵や、書道、獲得した賞状。一つ一つ、金縁の額の中に収められ、所せましと並んでいる。トロフィーも、メダルも、窓から差し込む、陽光を反射して鈍く光っていた。
「座りなさいよ、立っているとしんどいでしょ?」
「……」
 僕と萩上は目を合わせて、すぐ近くのソファーに腰を下ろした。
 母親は座らず、棚に飾られたものを愛おしそうに眺めた。
 ある、風景画を手に取る。
「これはね、千鶴が小学一年生の時に、初めてもらった賞状ね。読書感想画だったっけ? もう、お母さん、すごく嬉しかったの。『この子には才能がある』って確信したわ!」
 それから、トロフィーを手に取る。
「これもすごく印象に深いわね。何のものかわかる?」
「ピアノコンクール」
「そうよ、小学四年生の時よ。今までは銀賞ばっかりだったのに、この年は、金賞がとれたよな? これも、ママとの特訓の成果よね?」
「………」
「成果よね?」
「……はい」
「これもいいわね」
 そう言って母親は、他の賞状に隠れて見えにくくなっていた、額を棚から取り出した。
 それは、賞状でも、絵でも書道でもなかった。
 一枚の、答案用紙だった。
「中学校三年生の、最期の期末テストの時よ。覚えてる? 千鶴ちゃん、このテストで、五教科全部満点だったね。中学生最期の集大成だったから、お母さん、嬉しくて泣いちゃったわ!」
 萩上が、僕にしか聞こえない小さな声で、「嘘つき」と言った。
 気が高ぶっているのか、母親は僕たちのことなんて目もくれず、萩上の賞状や作品を手に取っては、思い出を語っていった。
 隣に座っている萩上が、冷たい手で僕の手を握った。
「お母さん、普段は、私の賞状なんて、部屋に飾らない」
「………」
「過去の栄光に縋りつくな、次の目標を持てって言って、クローゼットの中にしまってたのに…」
 そう言われると、母親の言葉がいかに芝居臭いかわかった。
 白ける僕たちを放って、母親はさらに言った。
「ほら、これなんてどう? 読書感想文コンクールの時にもらった盾! あと、副賞の図書カードも残しているのよ。あの頃の千鶴ちゃん、本をたくさん読んで頑張っていたもんねえ」
「あの、お母さん」
 僕は母親の口を塞ごうと話しかけた。
 萩上の母親は止まらない。
「ねえ、見てよ。これ、これ全部、あなたがとった栄光なのよ?」
 充血した目で、僕じゃない、萩上だけを見た。
 天井までに届くような高い棚。下から上まで並んだ萩上の栄光。
「最近の千鶴ちゃん、ちょっと、嫌々モードに入っちゃっているからねえ」 
 口はにこっと笑っているが、目は作り物のように無機質だった。
「どうかしら? もう一度、頑張りたくなったでしょ? 努力って、楽しいことだものねえ。努力したくなったよね。ね? ね? ね? ね?」
「……」
 この異様な圧に、僕は思わず目を背けた。
 ふと、ソファーのすぐ前にあるガラスのテーブルの上に、大量の広告が置いてあることに気が付いた。何枚か手に取って見ると、その全てが、家庭教師や、映像授業、対人制の塾の案内だった。
「それ、千鶴ちゃんのために、沢山集めたの!」
 母親は声だけ嬉々として言った。
「千鶴ちゃんが高校で頑張れなかったのは、多分、勉強のやり方が間違っていたと思うの。そりゃそうよね? 中学と同じ勉強の仕方じゃ、高校ではついていけないよね? お金は気にしなくていいから、千鶴ちゃんの好きなところを、好きなだけ選んでいいからね! ああ、問題集とか参考書も、好きなだけ買ってあげる」
 僕の手を握る萩上の力が、さらに強くなった。
 見れば、萩上は顔を段ボールのような色にして、首筋には玉のような汗をかいていた。
 これ以上、萩上を追い詰めるわけにいかないか。
「ね? 千鶴ちゃん? もう十分休んだでしょう? 正樹君にもこれ以上迷惑は掛けちゃだめだから、もうそろそろ、本腰入れて頑張らない? まずは高校を受けなおそうか! それが嫌なら、高校卒業認定試験でもいいよ! 大丈夫よ! 千鶴ちゃんならきっとできる! 上手くいくよ! そうしたら、大学も受けていこうね! 千鶴ちゃんの頑張れる性格なら、私、医学部でも良いと思うの! ○○大学とか、△△大学とかいいんじゃないかな? 女医って、かっこいいと思うなあ」
「あの、お母さん」
 僕は母親の話を遮った。萩上の手を握り締めたまま続ける。
「今日は、そういう話をしに来たんじゃありません」 
 弱みを握られないように、なるべく凛とした態度で接する。
「今日は…」
「なんで君が口を開くの? 私は千鶴ちゃんに話をしているのよ?」
「……」
 笑顔の圧に、一瞬で喉に込み上げていた言葉が消し飛ばされていた。ああ、だめだ。人と仲良くすることは覚えていたけど、人と対立することには慣れていない。
 萩上の母親は、彼女に歩み寄る。
「ね? ね? ね? ね? ね? そう思うでしょ? ね? 千鶴ちゃん、もうそろそろ、頑張ろうね? 私の誇りになってくれるよね? ね? ね?」
「やめてください」
 僕は言葉を振り絞った。
 次は遮られないように、一気にまくし立てる。
「今日はそんな話をしにきたんじゃない。萩上、いや、千鶴さんから手を引いてくださいと、言いに来たんです」
「私が、千鶴ちゃんから手を引く?」
 母親は首を傾げて、何を言っているのか理解しがたいような顔をした。
「なんで? 私はこの子の母親よ? 家族なんだから、手を引くってのは、無いんじゃない?」
「だから、もう、やめてください。これ以上やったら、萩上が壊れてしまいます」
「私の子供よ? 疲れることはあるだろうけど、壊れることは無いわ。大体、この程度で『壊れる』なんて、人間として甘いんじゃないかしら? 成功を収めた人間は、これ以上に努力しているのよ? 千鶴ちゃんも、正樹君も、まだまだね」
 母親は「それに」と付け加えた。
「私があなたに頼んだのは、千鶴ちゃんのお世話よ? おかげで、千鶴ちゃんの心が回復したのは感謝するわ。だけど、私に指図するのはダメよ? 家族の問題なの。他人は口出ししたらだめなの」
 萩上の母親は、にいっと笑って、また、萩上に顔を近づけた。
「ね? 千鶴ちゃんもそう思うでしょ? 正樹君のいうことに流されたらダメよ? ダメな人間になっちゃう。ね? 私のいうことを聞いていたら、間違いないんだから…」
 まあ、言いたいことはわかる。
 僕はまだ学生で、萩上同様、誰かの力を借りていないと生きていけない。対して萩上の母親は、性格はあんなだが、一応成功している。有名企業に勤めて、豪華な家に住み、金には一生困らないだろう。この母親についていれば、彼女は生活に困窮することは無い。それなりに勉強して、それなりの大学に行き、それなりに就職すれば、きっとそれなりに生きていくことができるだろう。
 だけど、僕たちはまだ若い。それなりに生きていった先にあるものが本当に、僕たちが欲するものなのか、わかるわけがなかった。
「ね? 今の苦しみは、未来への投資なの! いつかは報われるわ。今は辛いかもしれないけど、一緒に乗り越えて行こうね! ね? ね? 千鶴ちゃんなら、できるわ!」
 いつかは報われる。そんな漠然とした甘い言葉に釣られるほど、僕たちの心は寛容にできていないのだ。
 いつかっていつだ?
「………」
 僕は、萩上の手を離した。
 松葉杖をついて、そっと立ち上がる。
 急に動き出した僕を見て、母親は気圧されたように後ずさった。
 カツン、カツンと、松葉杖をつきながら、棚に歩いていく。
 上から下まで、賞状、賞状、賞状、賞状、賞状、トロフィー、トロフィー、賞状、盾、賞状、盾、トロフィー、賞状、盾、賞状、盾、メダル、メダル、賞状、盾、メダル、書道、絵、絵、絵、絵…。
 これらの栄光を、十四歳の萩上は、あの小さな身体、甲冑のように身に纏っていた。
 重かっただろうな。
 脱ぎたいと思っただろうな。
 辛かっただろうな。
「萩上!」
 僕はなるべく笑顔で、萩上の方を振り返った。
 迷子になり、雨に濡れるしかない子犬の目。
 今、ようやくお前の気持ちがわかった気がしたよ。
 息を吸い込み、まるでダンスに誘うかのように言った。

「壊そう!」