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 目を覚ました時、僕は冷たいアスファルトの上に倒れていて、無意識の内に、僕を見下ろしている萩上の頬を撫でていた。
 僕が目を覚ましたのを見た瞬間、迷子の子犬のような萩上の目に、また涙が浮かんだ。
「よかった、目を覚ました…」
「萩上…」
 萩上は、僕の手を握り返して言った。
「救急車は、呼んだから…、隣の人が、呼んでくれた…」
 首を回して見ると、アパートの壁に、Tシャツに半ズボンの女性が背をもたれて立っていた。
 煙草を咥えて、ライターで火を点ける。煙を吐いてから、不機嫌そうに言った。
「ったく、痴話げんかなら他所でやってくれないか? こっちは寝ようと思っていたんだよ」
「すみません」
 辺りに、割れた窓ガラスとか、ぐにゃりと曲がったアルミの手すりがそのままにされていた。この惨状を見て「痴話げんか」と呼ぶか?
 女性は煙草を吸いながら続けた。
「安心しなよ。私、前は看護師やってたから、軽く触診はしておいた。頭には異常が無いよ。あばらも、首の骨も問題は無いね。脚の骨が折れているだろうけど」
 道理で痛いわけだ。
「萩上は? 萩上は、大丈夫なのか?」
「私は大丈夫…、桜井君が庇ってくれたから」
「そんなことをしたっけな?」
 覚えがない。やっぱり脳の検査はしてもらおう。
 とにかく、萩上が無事であることを確認した僕は、深いため息をついた。
「お前が無事で良かったよ」
「………」
 その後、僕はやってきた救急車によって、救急病院に搬送された。
 精密検査を受けたが、あのお隣さんの言っていた通り、脳や、首の骨には異常がない。ただ、右足のふくらはぎの骨がぽっきりと折れていた。
 萩上にやられた額の傷も、手の甲の引っ掻き傷も、全て落下したときに付いたものになった。
 とにかく、軽傷だ。
 僕は脚にギプスを巻いてもらい、松葉杖を借りると、その日の内に萩上のアパートに戻った。
        
「ごめんなさい」
 アパートに戻ると、隣で気まずそうにしていた萩上が言った。
「傷つけちゃって、ごめんなさい」
「ああ、別に、こっちこそ」
「それと、これも…」
 萩上が差し出したのは、僕を殴った時に破損したヘッドホンだった。
 彼女がビーズやスパンコールを使って施した装飾はほとんど剥がれ落ち、マイクの部分のカバーに亀裂が入っている。その隙間から、針金が飛び出していた。
「あーあ」
 僕はヘッドホンを指で摘まんだ。
「これじゃ、もう聞けないな」
「ごめんなさい」
 萩上はまた泣き出した。
 部屋を見渡す。
 彼女が砕いた皿や窓ガラスの破片が散らばり、その上に、カッターナイフで切り出した絨毯の毛が雪のように積もっている。殴ったのか、壁は凹み、天井には、包丁が綺麗に突き刺さっていた。
「時々、感情が高ぶると、こうなっちゃうの…、頭の中が真っ赤に染まって…、気が付いたら、何もかも壊しちゃっているの…。今までに、何度も壊してきた…、卒業アルバムも、賞状とかも、目に映るもの全てに、攻撃をしちゃうの…」
 萩上は震える我が身を抱いた。
「ごめんなさい…、あなたがくれた大切なものを…」
「うん、いいよ、ものはいつかは壊れるものだから」
 萩上の頭を撫でる。十四歳の少女を撫でている気分だった。
「ぼくこそ、悪いことをした。これで恨みっこ無しにしよう」
「でも…」
「ほら、片づけだ」
 僕は松葉杖を突きながら、部屋の中に入った。
「ガラスに気を付けろよ?」
「うん」
 その後は、特に言葉を交わすことはせず、一心に部屋の片づけをした。
 突進して突き破った扉は、凹みはしたものの、大きな損傷は無く、とりあえず蝶番をドライバーではめなおして応急処置とした。
 割れた窓ガラス。へこんだ壁に、切り裂かれた壁紙は、さすがに直すことができなかった。弁償代、高いだろうな。
 ガラス片をゴミ箱の中に入れて、細かく散らばる破片は、ガムテープを使って吸着した。
 小一時間ほどで、足の踏み場がある程度には片づけることができた。
 萩上を一人にするわけにはいかず、その日は彼女の部屋に泊まった。
 割れた窓から、肌寒い風が吹き付け、びりびりに破れたカーテンを揺らす。
 僕と萩上は、タオルケットを分け合って傷だらけの絨毯の上に横になった。
 萩上はまだ震えていた。
「さっきの話の続き」僕は彼女の手のひらの上に、自分の手のひらを重ねて言った。「それと、五年前の話の続きだ」
「………」
「あの時、お前は僕に言った、『小さな目標を持つといい』って。お前にとっちゃ、社交儀礼の一環だったのかもしれないけど…、僕にはそのアドバイスが、衝撃的だったんだ」
 大げさかもしれないけど、頭の上に隕石でも降ってきたみたいに。
「次に会うときは、頑張れる自分になれているといいね。そう言ってくれたお前に応えるために、次にお前に会うときは、もう少しマシな自分になってやろうって、小さな努力を積み重ねたんだ」
「…………」
「ほとんど、中学二年の時のお前の生き様をまねただけだ。勉強を頑張る。人に好かれるようにする。運動を頑張る。さすがに、芸術の才は無かったけど…、まあ、それなりにやったよ。高校の時は、生徒会に立候補した。馬鹿な奴らばっかりだったから、簡単になれたけどな」
 それから、粘っこい唾を飲み込んで言った。
「僕は、なれたかな? 頑張れる自分に…」
 萩上は首を横に振った。
「ごめんなさい…」
 霧雨のような謝罪を聞いた。
「私は、桜井君が思っているほど、立派な人間じゃない」
「うん…」
「全部、作ってたの…。本当は、勉強なんてしたくなかった。運動だって…、絵も好きじゃないし、ピアノも大っ嫌い…。だけど、そうしないとお母さんに怒られちゃうし…、たくさん叩かれる…。なにより、私のことを尊敬してくれる皆の期待を裏切って…、失望されるのが、一番怖かったの…」
 萩上は、泣きながら全てを話してくれた。