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「ああ、ああ、あああ…」
 錯乱した萩上が、割れた窓ガラスからベランダに出る。
 目を涙で真っ赤にして、アルミの手すりから身を乗り出した。
 そして、滑るように、、地面へと落ちる。
 彼女の小さな身体が、アスファルトの上に叩きつけられるよりも先に、僕は彼女の手首を掴んでいた。
 僕の勉強ばかりをして細くなった腕に、萩上の体重が加わる。肩の関節に激痛が走った。
「…桜井君…?」
 萩上は、二階のベランダから宙づりの状態となった。
 額から滴る血が、真下の萩上の顔にぽたぽたと落ちる。
 少しでも気を抜いたら、手を離してしまいそうだった。
「二階から落ちたって、死ねるわけないだろ…」
「何よ…、だったら離しなさいよ!」
 萩上は僕に手首を掴まれた状態のまま暴れた。
「離してよ! 離せ! もう私にかまわないでよ!」
 僕は一層気を張り巡らせ、手の中の力を強めた。
 今、握力を測ったらどのくらいの記録が出るだろうか? 火事場の馬鹿力ってやつが、萩上が地面に叩きつけられるのを食い止めていた。
 でも、だめだ。
 手汗で、ぬめる。
 相変わらず、身体はインフルエンザにかかったみたいに熱を持ち、ぼんやりとしている。
 それでも、右手で彼女の手首を掴み、左手と、両脚で身体を支える。
 このまま、このまま引き上げればいい。
 だけど、これ以上、力が出ない。
 その時、耳に、「ミシミシ」と、何かが軋むような音が届いた。
 萩上が顔を青くする。
「だめ! 手すりが!」
 さすがおんぼろアパート。
 ベランダのアルミの手すりに、僕と萩上、二人分の体重を掛けただえで、固定しているネジの部分が耳を劈くような音を立てて軋んでいた。
「ダメ! 離して! このままじゃ!」
 萩上は必死になって叫んだが、僕は手を離さなかった。
 このまま体重をかけていれば、この手すり事僕たちは落下してしまうだろう。
 手すりが外れる前に、萩上を、引き上げればいい話だ。
「萩上…! 手を、掴め!」
「ダメ! 落ちちゃう! あなたまで!」
「嫌だ!」
「このっ!」
 僕が意地でも手を離さないと悟った萩上は、強引な手段に出た。
 留守になっている手で、僕の手の甲を引っ掻いたのだ。
 焼けるような痛みに、思わず肩が跳ねる。皮膚が剥がれて、血が滲んだ。それでも、歯を食いしばって耐えて、お返しと言わんばかりに、さらに彼女の手首を強く握り締めた。
「何でよ! 私が死のうが、あなたに関係無いでしょうが! 放っておいてよ! もう、楽にさせてよぉ!」
「嫌だ…!」
 最期の力を腕に込める。
 萩上を、ゆっくりと引き上げた。
「お前に、見てほしかったんだ…」
 中学の頃、何かに対して心血を注ぐことができなかった。
 勉強も、運動も、趣味も持たない。
 怒られない程度に物事をこなして、毎日、植物のように生きてきた。
 そんな、道端に生えて、誰も目に止めないような雑草に、お前は話しかけてくれた。 
 お前にとっちゃ、老人の介護のような気分だったのかもしれない。
 だけど、あの時、お前が僕に言ってくれた言葉が、今でも、何かをするたびに、走馬灯のように蘇るんだ。
「お前に…、見てほしかったんだ…、今の自分を、何かに対して、頑張れるようになった自分を、見てほしかったんだ…」
 僕の目から、透明の液体が零れ落ちた。
 たった一滴。
 萩上の頬の上に落ちて、光の玉となってはじけた。
 誉めてほしかった。「よく頑張ったね!」って。社交辞令でもかまわないから、本心じゃなくてもいいから、その言葉をかけてほしかった。僕の「小さな目標」は、それだった。
「桜井、くん?」
 萩上は面食らったような顔をした。
 無意識かどうかはわからない、僕の手を握り返した。
 彼女の、控えめな握力が、僕に力を与えた。
 一気に、萩上の身体を引き上げる。
 よし、このままいけば…。
 その瞬間、バキンッ! と夜の闇に、乾いた音が響き渡った。
「あ…」
「あ…」
 腕の力ががくっと抜けた。
 しまったと思った時にはもう遅く、僕と萩上は、破損したアルミの手すりと共に、空中に投げだされていた。
 次の瞬間、視界が真っ暗になった。