※
萩上の母親は、あの頃と変わらず、美しいままだった。
「あ、ああ、萩上の、お母さん…」
偶然ですね。食べに来ていたんですか? と言おうとして、口を噤んだ。
そんな偶然、あっていいのか。
偶然、高級レストランで、母親と八合わせるなんて、あっていいのか?
ふと、萩上の顔を見た。
今までに見たことが無いくらい幸せそうに料理を食べていた彼女の顔は、今までに見たことが無いくらい青くなっていた。
「お母さん、なんで、ここに…」
萩上の母親はにこっと笑うと、強張る僕の肩に触れた。
「ありがとね。正樹君。娘を連れてきてくれて」
「え?」
萩上をこのレストランに連れてきたら、五万円の日給が入る。
そう、明日香は言っていた。その明日香にそう指示したのは、まさか。
「依頼人って…、萩上のお母さん、だったんですか?」
「うん。ごめんね、今まで黙ってて」
萩上の母親は、脇に抱えていたブランド物の財布から一万円札を五枚を取り出すと、僕の手に握らせた。
「これ、お給料ね。好きに使ってちょうだい」
それから。と言って、二万円をテーブルの上に置く。
「これは、ここのレストランの料金ね。美味しかったでしょ? 私も、この近くに来たらよく寄るのよ」
「いや、そんなことより」
僕は萩上の母親に聞いた。
「どうして、ここに?」
「どうしてって」萩上の母親は、実の娘を見た。「千鶴ちゃんと話をしたいからに決まっているじゃない」
慈愛に満ちた微笑みの中に、僕は悪意を見た気がした。
母親に見られた萩上は、口を開け、空になったステーキの皿に視線を落としている。
どうしようもなく肩が震えていた。
「萩上…」
「桜井君、これはどういうことなの?」
「いや、僕も、何がなんだか…」
「桜井君は何も知らないから、責めちゃだめよ? 私が全部仕組んだんだから」
母親はそう言って、萩上に歩み寄った。
震える萩上の髪の毛をさらりと撫でる。
「ずっと心配してたの。お母さんのところから出ていったきり、音沙汰無しなんだから」
「……そ、それは…」
「でも、よかったわ。全部、明日香ちゃんを通して聞いたの。一人じゃ何もできなくなったあなたが、少しずつ、回復しているって」
「………」
「一緒に、実家に帰ったんでしょう? 凄い行動力よ? せめて、私の家に寄ってくれたらよかったんだけどね。前は顔色も悪かったけど、マシになったわね。桜井君に料理を教えてもらっているのね。うん、ちゃんと食べないとダメよ。洗濯はできるようになった? 次はアイロンのかけかたも勉強しようか、服に皺がついてる」
そう言いながら、母親は、萩上の髪、頬、服、胸元、と、順に指でなぞっていった。
萩上は幽霊と対峙した時のように、顔面蒼白で震える。
母親が僕の方を振り返って微笑んだ。
「説明不足でごめんね。世話役を頼んだのは、実は、千鶴ちゃんを社会復帰させるためなの」
「社会復帰?」
「うん、千鶴ちゃん、高校の時に、ちょっと心に傷を負っちゃってね。それから、外に出られなくなって、私のいうことも聞かないで出ていっちゃったの」
「………」
「私はどうかして、この子を、人前に出ても恥ずかしくないようにしたかったんだけど、私のいうことを聞かなくなっちゃったからね。だから、他の人に頼むことにしたわ」
指を指される。
「最初は、中学時代に、仲がいいイメージがあった明日香ちゃんにお願いしたんだけど、彼女じゃちょっと荷が重かったからね。彼女を介して、正樹君に頼んだわけ」
簡潔的に言えば、こうだった。
萩上は高校の時から引きこもるようになった。それを憂いた母親は、明日香や僕と言った他人を使って、娘を社会復帰させようとしたわけだ。
思惑通り、この二か月で、彼女は人前に出られるまでに精神を回復させた。
「そろそろ、丁度いいタイミングかなって、今回は、君に千鶴ちゃんを連れて来てもらったの」
本当にありがとね。と、母親は僕に感謝を述べた。
「五万円は自由に使ってもいいからね。あと、明日香ちゃんに聞いたけど、今までの日給もほとんど使っていないんでしょう? 学生なんだから、ぱっと使っちゃってもいいのに」
「………」
ああ、そうか、そう言うことか。
萩上の母親は、終始笑顔を崩さずに、友好的に言った。その微笑みの向こうに、どろどろとした何かを見た。
萩上と母親の関係が良好でないことは、彼女の怯えた態度でわかった。
萩上は、母親から逃げている。
僕はその母親に、逃げる萩上を呼び出す出汁に使われたわけだ。
母親は、萩上の頬をこれでもかと撫でた。
「すごいわねえ。半年前と見違えるみたい。よっぽど桜井君に優しくされたみたいねえ」
萩上は震えている。
「もう、十分、心は休まったでしょう? 苦あれば楽あり。楽あれば苦あり。もうそろそろ、頑張ってやろうか?」
「や、やだ!」
次の瞬間、萩上は声にならない悲鳴を上げた。
ステーキの皿を掴み、僕に向かって投げつける。
咄嗟に身構えたが、皿は僕の額に当たって砕けた。
生え際あたりに熱いものが走る。眼球に細かく砕けた破片が入り込み、視界が真っ暗になった。
がくっとテーブルの上に手を着いた瞬間、強い力で押されて、硬い床に叩きつけられた。
「騙したのね! 私を! 騙したのね!」
萩上が僕の上に馬乗りになった。
そして、破片で目が見えなくなっている僕の頬を、何度も殴った。
「なんで! お母さんとグルなのよ!」
「萩上! 落ち着け!」
殴られながらそう訴えたが、萩上は止まらない。
「ふざけるな! 嘘だったのね! 全部、嘘だったのね!」
母親が、「千鶴ちゃん!」と叫んだ。
ぴたっと、殴られなくなる。
僕はその隙に、瞼を擦って、何とか目を開けた。
母親が、萩上の振り上げた拳を掴んでいた。
「もうやめなさい。千鶴ちゃん。やつあたりをしちゃだめ。桜井君は、あなたの社旗復帰に協力してくれただけなんだから」
「やめて…、離して…、お願い…」
「ダメよ」
母親はここぞとばかりに、目元に力を入れて、萩上の懇願を無視した。
騒ぎを察知して、厨房から数名のウェイトレスとウェイターが出てきた。
「お客様?」
「あら、ごめんなさい。ちょっと娘が暴れちゃって。お皿は弁償しますから」
萩上の耳元に唇を寄せる。
「癇癪はダメよ? 散々注意したじゃない」
「やめて!」
萩上が金切り声を上げた。
掴まれていない左腕を振って、母親の顔を引っ掻いた。
不意の攻撃に、母親は怯んで萩上から手を離すと、その場から二、三歩後ずさる。
「だめじゃない、母親に逆らったら」
「やめて、もう辞めて!」
萩上は人間から逃げる猫のように、跳び上がって後ずさる。
髪の毛は乱れ、顔も真っ赤に紅潮していた。
「騙してたのね! 全部! ああ、もう! 信じられない!」
すぐ傍にあったテーブルの上に置かれた、スプーンやナイフが入ったバスケットを掴むと、それを母親に向かって投げつけた。
ガシャンッ!
と、激しい金属音と共に、空中にスプーンとナイフが散らばる。
母親は怯んで、その場にしりもちを着いた。
その隙に、萩上は身を翻して走り出す。
「千鶴ちゃん!」
「来ないで!」
店員の制止も振り切って、店の外に飛び出していった。
「萩上…」
脳震盪を起こしかけていて、立ち上がるのに一苦労だった。
何とか立ち上がったとしても、皿の破片で切った額から、尋常ではない量の血が滴っている。
「お客様、大丈夫ですか? 血が…」
「このくらいは、大丈夫です」
店員が差し出したタオルを受け取り、傷口に押し当てようとした瞬間、萩上の母親が僕に食って掛かった。
「正樹くん、ちょっと、どういうこと? 千鶴ちゃんの癇癪、全然治っていないじゃない!」
「そりゃそうでしょ」
僕は母親を睨んだ。だが、次の言葉が出てこない。
「とにかく、僕は萩上を追いますから…、後のことは、頼みましたよ」
「え、ちょっと!」
頭から血を垂れ流しながら走り出した。
店員の制止を振り切って、店の外に出る。
エレベーターを待っているのももったいなくて、階段を勢いよく駆け下りた。
しかし、頭から血を長し、平常な判断ができなくなっていた僕は、何度も踏み外して転んだ。
その度に、身体中を強く打ち付け、筋肉や内臓に強い痛みを走らせた。
「萩上…」
ポケットからスマホを取り出し、彼女のスマホに電話を掛ける。当然、出なかった。
階段から転げ落ち、何も無い廊下で脚を引っ掻けて転び、身体中青たんだらけにしながら、萩上を追った。
ビルを飛び出す。
歩道を、帰宅するサラリーマンたちが闊歩し、突如出てきた血まみれの男を不審な目で見て通り過ぎていく。数名「大丈夫?」と声をかけてくれる者もいたが、「大丈夫です」と答える余裕すら無く、僕は走った。
ごめん。萩上。そんなつもりじゃなかったんだ。
萩上の母親は、あの頃と変わらず、美しいままだった。
「あ、ああ、萩上の、お母さん…」
偶然ですね。食べに来ていたんですか? と言おうとして、口を噤んだ。
そんな偶然、あっていいのか。
偶然、高級レストランで、母親と八合わせるなんて、あっていいのか?
ふと、萩上の顔を見た。
今までに見たことが無いくらい幸せそうに料理を食べていた彼女の顔は、今までに見たことが無いくらい青くなっていた。
「お母さん、なんで、ここに…」
萩上の母親はにこっと笑うと、強張る僕の肩に触れた。
「ありがとね。正樹君。娘を連れてきてくれて」
「え?」
萩上をこのレストランに連れてきたら、五万円の日給が入る。
そう、明日香は言っていた。その明日香にそう指示したのは、まさか。
「依頼人って…、萩上のお母さん、だったんですか?」
「うん。ごめんね、今まで黙ってて」
萩上の母親は、脇に抱えていたブランド物の財布から一万円札を五枚を取り出すと、僕の手に握らせた。
「これ、お給料ね。好きに使ってちょうだい」
それから。と言って、二万円をテーブルの上に置く。
「これは、ここのレストランの料金ね。美味しかったでしょ? 私も、この近くに来たらよく寄るのよ」
「いや、そんなことより」
僕は萩上の母親に聞いた。
「どうして、ここに?」
「どうしてって」萩上の母親は、実の娘を見た。「千鶴ちゃんと話をしたいからに決まっているじゃない」
慈愛に満ちた微笑みの中に、僕は悪意を見た気がした。
母親に見られた萩上は、口を開け、空になったステーキの皿に視線を落としている。
どうしようもなく肩が震えていた。
「萩上…」
「桜井君、これはどういうことなの?」
「いや、僕も、何がなんだか…」
「桜井君は何も知らないから、責めちゃだめよ? 私が全部仕組んだんだから」
母親はそう言って、萩上に歩み寄った。
震える萩上の髪の毛をさらりと撫でる。
「ずっと心配してたの。お母さんのところから出ていったきり、音沙汰無しなんだから」
「……そ、それは…」
「でも、よかったわ。全部、明日香ちゃんを通して聞いたの。一人じゃ何もできなくなったあなたが、少しずつ、回復しているって」
「………」
「一緒に、実家に帰ったんでしょう? 凄い行動力よ? せめて、私の家に寄ってくれたらよかったんだけどね。前は顔色も悪かったけど、マシになったわね。桜井君に料理を教えてもらっているのね。うん、ちゃんと食べないとダメよ。洗濯はできるようになった? 次はアイロンのかけかたも勉強しようか、服に皺がついてる」
そう言いながら、母親は、萩上の髪、頬、服、胸元、と、順に指でなぞっていった。
萩上は幽霊と対峙した時のように、顔面蒼白で震える。
母親が僕の方を振り返って微笑んだ。
「説明不足でごめんね。世話役を頼んだのは、実は、千鶴ちゃんを社会復帰させるためなの」
「社会復帰?」
「うん、千鶴ちゃん、高校の時に、ちょっと心に傷を負っちゃってね。それから、外に出られなくなって、私のいうことも聞かないで出ていっちゃったの」
「………」
「私はどうかして、この子を、人前に出ても恥ずかしくないようにしたかったんだけど、私のいうことを聞かなくなっちゃったからね。だから、他の人に頼むことにしたわ」
指を指される。
「最初は、中学時代に、仲がいいイメージがあった明日香ちゃんにお願いしたんだけど、彼女じゃちょっと荷が重かったからね。彼女を介して、正樹君に頼んだわけ」
簡潔的に言えば、こうだった。
萩上は高校の時から引きこもるようになった。それを憂いた母親は、明日香や僕と言った他人を使って、娘を社会復帰させようとしたわけだ。
思惑通り、この二か月で、彼女は人前に出られるまでに精神を回復させた。
「そろそろ、丁度いいタイミングかなって、今回は、君に千鶴ちゃんを連れて来てもらったの」
本当にありがとね。と、母親は僕に感謝を述べた。
「五万円は自由に使ってもいいからね。あと、明日香ちゃんに聞いたけど、今までの日給もほとんど使っていないんでしょう? 学生なんだから、ぱっと使っちゃってもいいのに」
「………」
ああ、そうか、そう言うことか。
萩上の母親は、終始笑顔を崩さずに、友好的に言った。その微笑みの向こうに、どろどろとした何かを見た。
萩上と母親の関係が良好でないことは、彼女の怯えた態度でわかった。
萩上は、母親から逃げている。
僕はその母親に、逃げる萩上を呼び出す出汁に使われたわけだ。
母親は、萩上の頬をこれでもかと撫でた。
「すごいわねえ。半年前と見違えるみたい。よっぽど桜井君に優しくされたみたいねえ」
萩上は震えている。
「もう、十分、心は休まったでしょう? 苦あれば楽あり。楽あれば苦あり。もうそろそろ、頑張ってやろうか?」
「や、やだ!」
次の瞬間、萩上は声にならない悲鳴を上げた。
ステーキの皿を掴み、僕に向かって投げつける。
咄嗟に身構えたが、皿は僕の額に当たって砕けた。
生え際あたりに熱いものが走る。眼球に細かく砕けた破片が入り込み、視界が真っ暗になった。
がくっとテーブルの上に手を着いた瞬間、強い力で押されて、硬い床に叩きつけられた。
「騙したのね! 私を! 騙したのね!」
萩上が僕の上に馬乗りになった。
そして、破片で目が見えなくなっている僕の頬を、何度も殴った。
「なんで! お母さんとグルなのよ!」
「萩上! 落ち着け!」
殴られながらそう訴えたが、萩上は止まらない。
「ふざけるな! 嘘だったのね! 全部、嘘だったのね!」
母親が、「千鶴ちゃん!」と叫んだ。
ぴたっと、殴られなくなる。
僕はその隙に、瞼を擦って、何とか目を開けた。
母親が、萩上の振り上げた拳を掴んでいた。
「もうやめなさい。千鶴ちゃん。やつあたりをしちゃだめ。桜井君は、あなたの社旗復帰に協力してくれただけなんだから」
「やめて…、離して…、お願い…」
「ダメよ」
母親はここぞとばかりに、目元に力を入れて、萩上の懇願を無視した。
騒ぎを察知して、厨房から数名のウェイトレスとウェイターが出てきた。
「お客様?」
「あら、ごめんなさい。ちょっと娘が暴れちゃって。お皿は弁償しますから」
萩上の耳元に唇を寄せる。
「癇癪はダメよ? 散々注意したじゃない」
「やめて!」
萩上が金切り声を上げた。
掴まれていない左腕を振って、母親の顔を引っ掻いた。
不意の攻撃に、母親は怯んで萩上から手を離すと、その場から二、三歩後ずさる。
「だめじゃない、母親に逆らったら」
「やめて、もう辞めて!」
萩上は人間から逃げる猫のように、跳び上がって後ずさる。
髪の毛は乱れ、顔も真っ赤に紅潮していた。
「騙してたのね! 全部! ああ、もう! 信じられない!」
すぐ傍にあったテーブルの上に置かれた、スプーンやナイフが入ったバスケットを掴むと、それを母親に向かって投げつけた。
ガシャンッ!
と、激しい金属音と共に、空中にスプーンとナイフが散らばる。
母親は怯んで、その場にしりもちを着いた。
その隙に、萩上は身を翻して走り出す。
「千鶴ちゃん!」
「来ないで!」
店員の制止も振り切って、店の外に飛び出していった。
「萩上…」
脳震盪を起こしかけていて、立ち上がるのに一苦労だった。
何とか立ち上がったとしても、皿の破片で切った額から、尋常ではない量の血が滴っている。
「お客様、大丈夫ですか? 血が…」
「このくらいは、大丈夫です」
店員が差し出したタオルを受け取り、傷口に押し当てようとした瞬間、萩上の母親が僕に食って掛かった。
「正樹くん、ちょっと、どういうこと? 千鶴ちゃんの癇癪、全然治っていないじゃない!」
「そりゃそうでしょ」
僕は母親を睨んだ。だが、次の言葉が出てこない。
「とにかく、僕は萩上を追いますから…、後のことは、頼みましたよ」
「え、ちょっと!」
頭から血を垂れ流しながら走り出した。
店員の制止を振り切って、店の外に出る。
エレベーターを待っているのももったいなくて、階段を勢いよく駆け下りた。
しかし、頭から血を長し、平常な判断ができなくなっていた僕は、何度も踏み外して転んだ。
その度に、身体中を強く打ち付け、筋肉や内臓に強い痛みを走らせた。
「萩上…」
ポケットからスマホを取り出し、彼女のスマホに電話を掛ける。当然、出なかった。
階段から転げ落ち、何も無い廊下で脚を引っ掻けて転び、身体中青たんだらけにしながら、萩上を追った。
ビルを飛び出す。
歩道を、帰宅するサラリーマンたちが闊歩し、突如出てきた血まみれの男を不審な目で見て通り過ぎていく。数名「大丈夫?」と声をかけてくれる者もいたが、「大丈夫です」と答える余裕すら無く、僕は走った。
ごめん。萩上。そんなつもりじゃなかったんだ。