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 その後、約束の日までは適当に過ごした。
 大学の授業が終わると、萩上のアパートに出向いて、料理を作ったり、洗濯をしたり、彼女のお願いを聞いたり、暇つぶしにトランプに付き合ってやったり。
 夏休みと比べて、かまっていられる時間が少なくなったことに、萩上は不平不満を言った。「大学より、私の世話をしなさいよ」と、どこぞの暴君のようなセリフをよく吐いた。それだけ信頼されていると思うと、無償に嬉しかった。
 萩上も、自分自身で何かをするようになった。僕が忙しくて来れない日は、僕の真似をして野菜炒めを作った。まあ、彼女から送られてきた写真をみたら黒焦げになっていたけど。やはり羞恥心があるのか、下着類の洗濯ものは自分で洗っていた。まあ、皺だらけになっていたけど。
 新聞をびりびりに破る癖は治っていないが、その後、自分でゴミ箱に捨てるようになった。さすがに、ゴミの日は把握できていないらしく、燃えないゴミの日に燃えるゴミを出してしまって、清掃員のおじさんに怒られたと、絨毯にカッターナイフを突き立てながら憤慨していた。
 九月はそんなふうに過ごした。
 そして、十月に入り、約束の日曜日がやってきた。
 その日、大学の授業が終わって萩上のアパートに向かうと、彼女はえらく上機嫌に僕を出迎えた。
「ねえ、見てよ」
 萩上が見せてきたのは、僕が二か月前にプレゼントしたヘッドホンだった。
 外観は黒く、無地で味気の無いデザインだったが、彼女はそれにビーズやらスパンコールやらを貼りつけて、如何にも「女子!」って感じにデコレーションしていた。
「へえ、すごいな」
 僕は素直に誉めていた。
 この前「百均に連れていって」と言って、ビーズやら接着剤やら、大量に僕に買わせたが、これをするためだったのか。ファンシーな装飾は、萩上のクールなイメージに似合っていなかったが、統一感のあるいいデザインだ。これで売り出しても遜色が無いくらいに。
「すごいでしょ」萩上は妙に自信満々に言った。「桜井君がいない間に、作ってみたの」
「うん、凄い」
 お世辞抜きで凄い。
 そう言えば、萩上はこういった美術面の方にも長けていたな。三年生の時の文化祭で、校門前に置く看板のフォントを考えたのも彼女だった。
「着けていい?」
「いいわよ」
 着ける。
「似合っている?」
「似合ってない」
 まあそうだな。
 僕はヘッドホンを返してから、言った。
「今日は、気分を変えて、駅前のレストランで食べないか?」
「え…」
 嫌そうな顔をする萩上。
「嫌よ。あなたが作ってよ」
「それが、もう予約しているんだよ。どういうわけか、今日はプロのハンバーグが食べたい気分なんだ。萩上もどうだ? 最近、ベーコンばっかりでタンパク質足りてないだろ」
「ベーコンで十分なのに」
 萩上は気乗りせずに頷いた。
「もちろん、桜井君が払うんでしょ?」
「もちろん」
 僕は、萩上をアパートから出すことに成功した。
 萩上が扉に鍵をかけているときに、スマホを確認すると、七時四十五分だった。このまま歩いていけば予定の八時には着くか。
 明日香に連絡する必要は無いと思い、スマホをポケットにしまった。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
 歩きながら、僕は捕らぬ狸の皮算用をした。
 萩上をレストランに連れていくだけで五万円。学費に使いたいところだが、萩上を使って手に入れた金なので、なるべく彼女のために使いたい。萩上の部屋、何も無いから、冷蔵庫とか、トーストとか買おうかな。
「なに考えているの?」
「え…」
「前向いて無いと、転ぶよ」
「ああ、そうだな」
 萩上も、僕といる時間が長いせいか、一つ一つの挙動から何かを察することが多くなった。特に、考え事をしていると、俯き加減になるのでよくばれた。
「欲しいものがあったんだ」
「そう…何が欲しいの?」
「実用的なもの。お前の部屋に、冷蔵庫とか欲しいなって」
「白がいい」
「ああそう」
 十五分ほど歩いて、僕と萩上は予約していたレストランに辿り着いた。
 駅前にある雑居ビルの十階にある、こじんまりとした高級レストラン。ネットで評判は、「悪いところがないけど、これと言っていいところも無い普通のレストラン」らしい。こういう方が、サクラの臭いが皆無で信用できた。
 エレベーターを使って十階まで上がり、店の前に待機していた店員さんに「予約していた桜井です」と伝えると、中に案内された。
 内装は、イメージ通りって感じ。床は透明感のあるタイル張りで、天井から暖色の照明がぶら下がっている。木目の美しいテーブルと椅子が窓ガラスにそって整列している。僕と萩上の他にも何人か客が来ていて、皆、ドレスやスーツと、格好は良かった。私服できた僕たちが場違いのように思えた。
 窓際に案内されて、テーブルに向かい合って座る。
 おだやかな顔つきのウェイトレスがやってきて「予約されていた、桜井様ですね?」と確認をしてきた。
 桜井様。に違和感を覚え、僕は気圧されながら「はい」と言った。
「Bコースでよろしいですか?」
「あ、あ、はい」
 自炊したり、コンビニで買うことが多かったので、こうやってコース料理を予約をするのは初めてで緊張した。領収書さえとっておけば、後で金を払ってくれるというので、怖がること無く一万円のコースを注文したつもりだったが、もうすでに、部屋に戻ってカップ麺を啜りたい気持ちに駆られた。
「前菜から順にお持ちしますので、少々お待ちください」
 ウェイトレスは僕と萩上に一礼すると、店の奥に引っ込んで行った。
「緊張しすぎ」
「ああ、いや、そうだろうよ」
「もう少しはきはきしゃべればいいのに」
「無理無理。人見知りだから」緊張で火照った顔を手で扇いで冷ました。「身分不相応だ」
「だったら、なんで予約したの?」
「え、ああ」お前をこのレストランに連れてきたら、五万円もらえる。とは言えない。「いや、萩上と、食べてみたかったんだよ」
 目的は金だったが、萩上と食べてみたい気持ちもあった。
「ずっと、僕の作った料理とか、コンビニ弁当じゃ、味気がないと思ってさ…」
「別に、いいのに。私は、あなたが用意する料理で満足しているのに」
「そう言われると、光栄だな」
「調子に乗らないで」
「ごめん」
 そうこうしていると、先ほどのウェイトレスが前菜のサラダを運んできた。
「新鮮な野菜を使っています」
 レタスやらキャベツやら、タマネギやら、刻んだ野菜をたっぷりと盛り、そこにシーザードレッシングと、粉チーズがまぶされている。
 小皿に分けて一口食べてみて、驚愕した。
「うわ、美味しい」
「そうね」
 スーパーで買う半額の葉物とは月と鼈だ。
「いやあ、前菜でここまでとは、一万円払った価値があるかもしれない」
 よく、農業番組などで野菜を生のまま食べて「うわ! 甘いですね!」と驚いたリアクションを取る芸能人を見るが、彼らの気持ちがわかるようだった。
 歯ごたえ抜群。噛めば噛むほど、甘みが染みだす。控えめに掛けられたドレッシングと粉チーズがいいアクセントになっていた。
 前菜ごときで感嘆の声を洩らしている僕たちを見て、隣に立っていたウェイトレスは満足そうに頷いた。
「もっと美味しいものが出てきますから」
 彼女の言った通り、今まで食べたことが無い、素晴らしい料理が次々と運び込まれてきた。
 コンソメスープ、ビーフシチュー、ハッシュドポテトにミニグラタン。
 一品一品の量も丁度よく、メインディッシュの牛ステーキが運ばれて来ても、まだ胃袋に余裕があった。
「デザートはアイスなので、食べるときにお申し付けください」
 ウェイトレスは、柔らかいステーキを一口一口噛み締めて食べる僕たちにそう言うと、店の奥に引っ込んだ。
「来てよかったな」
「うん」
 親切にも小さく切り分けられたステーキを一口。
 うま味をこれでもかと詰め込んだ肉汁が、じゅわっと口の中に広がり、スパイスの香ばしい臭いが鼻を突き抜けた。「肉が溶ける」とはこのことか。何度噛んでもゴムのようなスーパーの肉とは違い、このステーキは口の中に入れているだけで、舌と一体化するようだった。
 萩上も、頬を緩めて、ステーキを食べる。
「おいしい」
 そう、油でてかった彼女の唇から零れ落ちた。
 僕は、すっかりあのことを忘れていた。
 運ばれてくる料理を、僕の目の前で、今までに見たことが無い顔で食べてくれる萩上を見ていることが何より楽しかった。
「今日は来てよかったな」
「うん、こんなに美味しいものを食べたのは久しぶり」
「僕のより美味しいだろう?」
「確かにそうね」そう言った後で、「でも」と首を横に振った。「こんなに脂っこいもの、毎日は食べられないわ。毎日食べるのだとしたら、桜井君が作ってくれるような、あっさりとしたものがいい」
 僕が作るのはタダの手抜き料理だ。まあ、慣れってものがあるだろうけど。
 二人ともメインディッシュを食べ終えた頃。
「じゃあ、そろそろ、デザートにするか」
 僕はすぐ近くを歩いてたウェイトレスに話しかけた。
「すみませーん、デザートお願いします」
「かしこまりました」
 一礼して、厨房に入っていく。
「アイスか、どんなやつだろうな」
 今までに出てきた料理が期待以上だったために、僕と萩上は、これからやってくるデザートに胸を躍らせた。
「もう、牛乳をありったけ使った、濃厚なやつだと思う」
「果物のソースもかかってそうね」
「果物か、イチゴか、グレープを予想する」
「オレンジも悪くないわ」
 まだどんなデザートがやってくるのかもわからないのに、そんなことを話し合った。
 その時、僕の背後に誰かが立つ気配がした。
「ああ、来たか…」
 デザートがやってきたのだと思い、おもむろに振り返る。
 そこには、黒いスーツを着た、背の高い女性が立っていた。
「え…」
 萩上に似た濡れ羽色の髪を後ろで括り、萩上にも似た、吸い込まれるような透き通った目。萩上にも似て華奢な体つきだが、胸や腰周りは萩上に似ず、大人の威厳を滲みだしている。
 女性は、萩上が不意に見せる微笑みに似た顔を僕に向ける。
「こんばんわ」
「あ、こんばんわ」
 思わず挨拶を交わした。
 なんだ? この人。
 女性は、萩上に似た鈴を鳴らすような声でさらに続けた。
「君が、桜井正樹くんで、合っているわね?」
「ああ、はい」
 あれ、この女性、どこかで見たことが…。
 僕が記憶を探っていると、女性は僕から目を逸らし、前に座っている萩上に話しかけた。
「久しぶりね。千鶴ちゃん」
「え…、お母さん?」
 お母さん?
 その瞬間、中学二年生の授業参観の時に、教室の後ろに立っていた女性の姿を思い出した。