※
それから、二十日ほど経った。
九月に入り、昨日までの猛暑が嘘のように、からっとした涼しさが訪れた。
ジャージに半袖というラフすぎる格好でアパートを出た僕は、吹き付ける風の肌寒さに後悔しながら、大学に向かった。
講義室に入るとさっそく、灰色の長袖を着た明日香が僕のところに駆け寄ってきた。
「おっす! 正樹! おひさしゅう!」
「ああ、久しぶり」
久しぶりと言っても、一週間ほど会っていないだけだ。もちろん、その間も、メールや電話を使って、明日香に萩上のことは報告していた。
僕の活動内容によって、その日に渡される給料が変動した。ちなみに、実家に帰省した二日間は、最高額を上回る三万円をもらった。普段の日は、大体一万五千円ほどだ。
毎日一万円以上の金をもらい、僕の懐は潤っていた。だからと言って僕の胸が踏ん反り返るようなことはなく、むしろ「こんなにもらっていいのかな?」と、使うことに気が引けた。もらった金は萩上に食べ物を買ったり、服を買ったりするのに利用した。後は貯金だ。
「最近、どうなの?」昨日も電話越しにしたような質問を、明日香はしてきた。「ちーちゃんとの関係」
「悪くないと思う」
「そうなんだ。最初の頃に比べたら、結構打ち解けたよね?」
「いや、今でも地雷を踏みぬいたら殴られるし、蹴られるし…、一昨日は皿を投げられて死にかけた」
「最初の頃と比べて、変化とかあった?」
「………」
明日香は時々、こういう質問をする。「食べ物はどうだ?」とか、「癇癪は和らいだか?」とか、後は「このまま行くと、人前に出られると思う?」などと、萩上の変化をしつこく聞いてくるのだ。
こっちが、「給料を出しているのは誰だ?」と聞いても、「あんたは心配しなくて良いんだよ」とはぐらかすくせして。
まあ、別に聞かれてまずい質問ではなかったので、僕は素直に答えた。
「最初に出会った頃に比べたら、まあ、心は開いてくれたと思うよ。料理作っても、文句言わずに食べてくれるようになったし、この前なんて、『カレーの作り方を教えてくれ』って言ってきてさ」
「へえ」
明日香の目がきらっと光ったような気がした。
「他には?」
「前に、実家に帰省しただろ? あれを期に、外に出るようになった。まあ、人気の無い夜に、僕と一緒に散歩する程度だけど」
「うんうん」
頷く明日香。
「他には?」
「苛立ったら物を壊す癖があったけど、あれも、最近は結構減ったと思う。僕を殴ったり蹴ったりするくらいかな? そこまで痛く無いし、本気でやってはいないと思うが」
「うんうん」
「さっきからなに?」
そのわざとらしい頷きが鬱陶しくなって、僕は食い気味に聞いていた。
「ってか、いい加減教えてもいいだろ? お前が僕に渡す金は、何処から出ているんだ?」
なんだかんだ、萩上との日々が楽しくて考えないようにしていたが、毎日、萩上の世話をすることでもらえる日給の出所は未だによくわからないままだった。
すると、明日香は「ごめんごめん」と、手を上げて降参のポーズをとった。
「本当に、言えないんだよ」
「言えない? お前、後から『金返せ』って変な輩が押し掛けてくるのは御免だぞ?」
「そういう変な人じゃないから安心して」
「安心できないんだよな」
「私だって、詳しくは知らないよ? その人がどうして、人を雇ってまで、ちーちゃんの世話をしようとするのか」
だってそうでしょ? と明日香は言った。
「最初は、私がちーちゃんの世話をしてくれって任されたんだけど…、もう、ちーちゃんの地雷を踏みまくっちゃって…、嫌われちゃって…」
明日香は照れ臭そうに頭を掻いた。
「それで、僕に頼んだのか?」
「うーん、まあ、そうかな?」
なんだ? その歯切れの悪い答え方は。
「その人も承諾してくれたよ? ちゃんと、私と正樹の二人分のお金を出してくれてるし」
「そう言えば、お前も給料もらっていたな。何もしてないくせして」
嫌味っぽく言うと、明日香は頬を膨らませた。
「失礼な、逐一、ちーちゃんの様子をその人に報告しているから! 電話代とか、手間賃だから、半額しかもらってませんよーだ!」
半額かよ。ってことは、三万もらった日はこいつ、一万五千円もせしめたのか。
「なんか納得いかない…」
「世の中稼いだ者勝ちよ!」
明日香はボリュームのある胸をぐっと張って、そう宣言した。
「それで、ちーちゃんの相手をしている正樹に質問」
「なんだ?」
「給料出してくれている人、つまり、依頼人が聞いているんだけど、今の状態でちーちゃんを外に出せると思う?」
「は?」
なんだ、その質問は?
「その依頼人が、萩上に会いたいって言っているのか」
「うん」
「いや、どうなんだろうな?」僕は顎に手をやって考えた。「確かに、会った頃に比べたら、他人とも会話できるようになった気もするけど…」
この前、一緒にコンビニに行った時、店員に、「お弁当温めて」と一人で言うことができた。また別の日は、「ちゃんとおしぼりつけてよね」と、言っていた。確実に、他人と会話ができるようになっているが、「他人と会う」とは少し違うような気もする。
悩んでいると、明日香が指を五本立てて、こんなことを言った。
「ちーちゃんを、駅前のレストランに連れていってくれたら、五万円くれるって言っているの」
「五万?」
胸の奥で、僕の心が「ゴトッ」と音を立てて動いた。
「五万か?」
「うん、お金を出してくれている人がそう言ってたんだ。ちなみに、私は二万もらえるらしい」
「五万かあ…」
五万ね。
その時、僕も明日香も、安易に物事を考えていた。
あまり「金! 金!」と言いたくないが、萩上を、その、駅前のとあるレストランに連れていくだけで五万円もらえるのだ。もしそれが本当なら、萩上に何か買ってやれるかもしれない。
明日香も、金に目が眩んでこう言った。
「とにかく、ちーちゃん、外に出られるようになったんでしょ? レストランに連れていくだけなんだから、さっさと連れていって、お金もらっちゃおうよ!」
「うーん…」
今まで、僕は萩上を優先して行動してきた。給料は二の次だった。
だが、その時初めて、萩上よりも金を優先してしまったのだ。
「じゃあ、そうするか。それっぽく言って外に連れ出してみる」
「うん、そうして。多分、ちーちゃんも正樹のこと信用しているから、出てくれると思う」
明日香はさっそく、ピンクのカバーのスマホを取り出すと、メッセージアプリを使って、その「依頼人」とやらに連絡をつけていた。
返信はすぐに返ってきたようだ。
「ちーちゃんの都合がいい時間でいいらしいよ」
「萩上の都合がいい時間? それなら、夜だろうな。あいつ、昼間はあまり出かけたがらない」
「じゃあ、日曜の八時頃でいいかな?」
「とりあえず、それで」
「無理なら、変更可能らしい」
「寛容な人だな」
まあ、萩上の性格を理解して言っているのかもしれないが。
一か月後の日曜日、午後八時に、駅前のレストランに萩上を連れていく。
それだけで、五万円が手に入るのだ。
連れていくだけならすぐに終わる。それに、彼女とデートをしているような気になって、少しだけ楽しみになった。
全て、浅はかな考えだった。
それから、二十日ほど経った。
九月に入り、昨日までの猛暑が嘘のように、からっとした涼しさが訪れた。
ジャージに半袖というラフすぎる格好でアパートを出た僕は、吹き付ける風の肌寒さに後悔しながら、大学に向かった。
講義室に入るとさっそく、灰色の長袖を着た明日香が僕のところに駆け寄ってきた。
「おっす! 正樹! おひさしゅう!」
「ああ、久しぶり」
久しぶりと言っても、一週間ほど会っていないだけだ。もちろん、その間も、メールや電話を使って、明日香に萩上のことは報告していた。
僕の活動内容によって、その日に渡される給料が変動した。ちなみに、実家に帰省した二日間は、最高額を上回る三万円をもらった。普段の日は、大体一万五千円ほどだ。
毎日一万円以上の金をもらい、僕の懐は潤っていた。だからと言って僕の胸が踏ん反り返るようなことはなく、むしろ「こんなにもらっていいのかな?」と、使うことに気が引けた。もらった金は萩上に食べ物を買ったり、服を買ったりするのに利用した。後は貯金だ。
「最近、どうなの?」昨日も電話越しにしたような質問を、明日香はしてきた。「ちーちゃんとの関係」
「悪くないと思う」
「そうなんだ。最初の頃に比べたら、結構打ち解けたよね?」
「いや、今でも地雷を踏みぬいたら殴られるし、蹴られるし…、一昨日は皿を投げられて死にかけた」
「最初の頃と比べて、変化とかあった?」
「………」
明日香は時々、こういう質問をする。「食べ物はどうだ?」とか、「癇癪は和らいだか?」とか、後は「このまま行くと、人前に出られると思う?」などと、萩上の変化をしつこく聞いてくるのだ。
こっちが、「給料を出しているのは誰だ?」と聞いても、「あんたは心配しなくて良いんだよ」とはぐらかすくせして。
まあ、別に聞かれてまずい質問ではなかったので、僕は素直に答えた。
「最初に出会った頃に比べたら、まあ、心は開いてくれたと思うよ。料理作っても、文句言わずに食べてくれるようになったし、この前なんて、『カレーの作り方を教えてくれ』って言ってきてさ」
「へえ」
明日香の目がきらっと光ったような気がした。
「他には?」
「前に、実家に帰省しただろ? あれを期に、外に出るようになった。まあ、人気の無い夜に、僕と一緒に散歩する程度だけど」
「うんうん」
頷く明日香。
「他には?」
「苛立ったら物を壊す癖があったけど、あれも、最近は結構減ったと思う。僕を殴ったり蹴ったりするくらいかな? そこまで痛く無いし、本気でやってはいないと思うが」
「うんうん」
「さっきからなに?」
そのわざとらしい頷きが鬱陶しくなって、僕は食い気味に聞いていた。
「ってか、いい加減教えてもいいだろ? お前が僕に渡す金は、何処から出ているんだ?」
なんだかんだ、萩上との日々が楽しくて考えないようにしていたが、毎日、萩上の世話をすることでもらえる日給の出所は未だによくわからないままだった。
すると、明日香は「ごめんごめん」と、手を上げて降参のポーズをとった。
「本当に、言えないんだよ」
「言えない? お前、後から『金返せ』って変な輩が押し掛けてくるのは御免だぞ?」
「そういう変な人じゃないから安心して」
「安心できないんだよな」
「私だって、詳しくは知らないよ? その人がどうして、人を雇ってまで、ちーちゃんの世話をしようとするのか」
だってそうでしょ? と明日香は言った。
「最初は、私がちーちゃんの世話をしてくれって任されたんだけど…、もう、ちーちゃんの地雷を踏みまくっちゃって…、嫌われちゃって…」
明日香は照れ臭そうに頭を掻いた。
「それで、僕に頼んだのか?」
「うーん、まあ、そうかな?」
なんだ? その歯切れの悪い答え方は。
「その人も承諾してくれたよ? ちゃんと、私と正樹の二人分のお金を出してくれてるし」
「そう言えば、お前も給料もらっていたな。何もしてないくせして」
嫌味っぽく言うと、明日香は頬を膨らませた。
「失礼な、逐一、ちーちゃんの様子をその人に報告しているから! 電話代とか、手間賃だから、半額しかもらってませんよーだ!」
半額かよ。ってことは、三万もらった日はこいつ、一万五千円もせしめたのか。
「なんか納得いかない…」
「世の中稼いだ者勝ちよ!」
明日香はボリュームのある胸をぐっと張って、そう宣言した。
「それで、ちーちゃんの相手をしている正樹に質問」
「なんだ?」
「給料出してくれている人、つまり、依頼人が聞いているんだけど、今の状態でちーちゃんを外に出せると思う?」
「は?」
なんだ、その質問は?
「その依頼人が、萩上に会いたいって言っているのか」
「うん」
「いや、どうなんだろうな?」僕は顎に手をやって考えた。「確かに、会った頃に比べたら、他人とも会話できるようになった気もするけど…」
この前、一緒にコンビニに行った時、店員に、「お弁当温めて」と一人で言うことができた。また別の日は、「ちゃんとおしぼりつけてよね」と、言っていた。確実に、他人と会話ができるようになっているが、「他人と会う」とは少し違うような気もする。
悩んでいると、明日香が指を五本立てて、こんなことを言った。
「ちーちゃんを、駅前のレストランに連れていってくれたら、五万円くれるって言っているの」
「五万?」
胸の奥で、僕の心が「ゴトッ」と音を立てて動いた。
「五万か?」
「うん、お金を出してくれている人がそう言ってたんだ。ちなみに、私は二万もらえるらしい」
「五万かあ…」
五万ね。
その時、僕も明日香も、安易に物事を考えていた。
あまり「金! 金!」と言いたくないが、萩上を、その、駅前のとあるレストランに連れていくだけで五万円もらえるのだ。もしそれが本当なら、萩上に何か買ってやれるかもしれない。
明日香も、金に目が眩んでこう言った。
「とにかく、ちーちゃん、外に出られるようになったんでしょ? レストランに連れていくだけなんだから、さっさと連れていって、お金もらっちゃおうよ!」
「うーん…」
今まで、僕は萩上を優先して行動してきた。給料は二の次だった。
だが、その時初めて、萩上よりも金を優先してしまったのだ。
「じゃあ、そうするか。それっぽく言って外に連れ出してみる」
「うん、そうして。多分、ちーちゃんも正樹のこと信用しているから、出てくれると思う」
明日香はさっそく、ピンクのカバーのスマホを取り出すと、メッセージアプリを使って、その「依頼人」とやらに連絡をつけていた。
返信はすぐに返ってきたようだ。
「ちーちゃんの都合がいい時間でいいらしいよ」
「萩上の都合がいい時間? それなら、夜だろうな。あいつ、昼間はあまり出かけたがらない」
「じゃあ、日曜の八時頃でいいかな?」
「とりあえず、それで」
「無理なら、変更可能らしい」
「寛容な人だな」
まあ、萩上の性格を理解して言っているのかもしれないが。
一か月後の日曜日、午後八時に、駅前のレストランに萩上を連れていく。
それだけで、五万円が手に入るのだ。
連れていくだけならすぐに終わる。それに、彼女とデートをしているような気になって、少しだけ楽しみになった。
全て、浅はかな考えだった。