※
昔は仲間と集まって馬鹿騒ぎして、先生を呼ばれるはめになった公園も、この五、六年の内にすっかり廃れてしまった。
ジャングルジムは、子供の落下事故をきっかけに撤去。鉄網も、子供の逆上がりの失敗を理由に撤去。サッカーゴールもあったのだが、一度蹴り損ねたボールが民家の窓を割ったために撤去された。
残ったのは、錆の目立つブランコと、カメムシが寄ってたかる自販機のみ。
萩上は、ブランコに腰を掛けて、ぼーっとしていた。俯き加減のために、黒髪がだらんと垂れて、ブランコの振動と連動してゆらゆらと揺れる。遠目から見たらただのホラーだった。
「萩上!」
声を掛けると、萩上はむすっとした顔を僕に向けた。
「おそい、早く迎えに来てよ」
「いや、『夕方には戻る』って」
「私が、あんな親戚だらけの空間に入れると思ったの?」
「思っていない。配慮が足りなかったな。ごめん」
僕は萩上に駆け寄り、彼女の細い手首をとった。外にいたのに、冷たい腕だった。
「帰ろう。うるさい親戚は酔いつぶれた」
「……」
萩上は僕と目を合わさずにブランコから立ち上がった。
「どこに行っていたんだ?」
「別に、ただふらふら歩いてただけ」
「暑かっただろう。昼は食べたの?」
「自販機でスポットドリンク買っただけ」
「そうか、じゃあ、夕飯は食べるな? 母さんが作ってくれる」
「……」
なんか嫌そうな顔をした。
「もしかして、他人が作る料理、嫌いなタイプ?」
「別に、ただ、桜井君の料理に慣れただけ」
「母さんの料理は美味いよ。僕みたいに、材料を適当に放り込んで炒めるのとは違う。長年の経験だろうな」
「桜井君は、何で料理が作れるの?」
「そりゃあ、大学生になったんだから、自炊はしないとな」
言った後で、萩上の地雷を踏みぬいたことに気が付く。
身構えたが、何もしてこなかった。
なんだ、大丈夫か。と思った瞬間、脇腹を殴られた。
「あのね、フェイントはやめてくれ」
「うるさい」
「ああ、そうだ」
僕はポケットに入れていたチーズとミニカルパスを取り出して、萩上に渡した。
「食べなよ。小腹満たし」
「…ありがと」
萩上はそれを受け取り、封を切ってちびちびと食べた。
「美味しい?」
「まずい」
つまり、美味しいということだ。
萩上の手を引いて実家に戻ると、親戚は既に帰っていた。母さんと兄貴が、食べ散らかした長机の上を掃除している。萩上は充満する煙草の臭いを嫌って、僕の後ろに隠れてしまった。
僕が帰ってきたことに気が付いた母さんと兄貴が一斉に振り返った。
「お、帰ってきたか」
「彼女さんも一緒?」
「だから、彼女じゃないって」
僕は背中に隠れた萩上を二人に見せて、彼女の頭をポンポンと撫でた。
「友達の萩上。とりあえず、今晩だけ泊めさせてよ。明日の朝には帰るから」
少しだけ期待していた。
萩上の容姿を見て、母さんと兄貴がどんな反応を見せるのか。
兄貴は予想通り、「おお!」と声を声を上げた。
「お前、こんな可愛い彼女がおるんか! オレの弟ながら憎いのお」
「だから、彼女じゃないって」
まんざらでも無いように頷く。
しかし、母さんだけは違った。
萩上の容姿を見るや否や、喉の奥で、引きつるような声を上げた。だが、すぐに微笑み、「あら、可愛らしいこと。よろしくね」と言った。
微笑むまでの微妙な間に、僕は違和感を感じながら、萩上と一緒に頭を下げた。
萩上は蚊の鳴くような声で「よろしくお願いします」と言った。
夕飯は、母さんが作ったカレーを四人で食べた。
兄貴は美人の萩上に鼻の下を伸ばし、「どこ出身だ?」とか「正樹とは何処で知り合った?」とか、遠慮なしに質問した。その中に、萩上の地雷となるものが多々混じっていて、僕は身体中に冷や汗をかきながら代わりに答えていった。
母さんはと言うと、ずっと気が気でないような顔で、萩上のことを見ていた。時々、優しく微笑むも、それが作り笑いであることくらい見抜くことができた。
十時を過ぎると、萩上はシャワーを浴びて、高校まで使っていた僕の部屋に布団を敷き、さっさと眠ってしまった。持参したヘッドホンを装着して、周りの音を完全にシャットダウンしていた。
僕も、昼間に酒臭い親戚たちを相手にして、疲労が出たので、萩上が眠ってから三十分後くらいに、彼女の横に布団を敷いて眠った。兄貴は、「さすがに、実家でヤルのはやめとけよ?」と冗談交じりで言われた。ほんと、そういう冗談は嫌いだよ。
萩上千鶴取扱説明書にもある通り、僕は彼女を襲うことはせず、ただただ、疲労を軽減させるために眠った。
そのまま夜が明けるまで熟睡かと思いきや、深夜の二時頃、僕は隣の萩上が苦しそうな声を上げていることに気が付き、目を覚ました。
部屋の中は真っ暗で何も見えない。しかし、横を見れば、萩上が荒い息を立てて唸っている。
「萩上?」
そっと聞いてみたが、彼女から返事は無かった。
「萩上…?」
もう一度聞く。
しかし、相変わらず、喉の奥から、寒風が吹き抜けるような息を吐く。
体調でも悪いのかと思った僕は、枕元で充電していたスマホを手に取り、液晶の明かりで彼女を照らした。
案の定、萩上は額に玉のような汗を浮かべて、頬を紅潮させて唸っていた。ヘッドホンは無意識の内に外していて、久石譲のSummerが洩れている。
「萩上」
彼女の肩に触れる。
その瞬間、萩上は目をカッと見開いて、跳ね飛ばされたように上体を起こした。
汗を吸収したTシャツが、彼女の身体にべったりと張り付いている。
萩上は息を切らしながら僕を見た。
「桜井、くん?」
「ああ、ごめん、凄く苦しそうにしてたから」
「うん…、凄く苦しかった」
「変な夢でも見たか?」
「そうね…」いつにも増して素直に頷いた萩上は、頬をつたう汗の雫を手の甲で拭った。「それに、この部屋、暑いのよ」
「ごめん、お前のアパートみたいにエアコンが無いから」
夏は暑く、冬は寒い。それが僕の部屋だ。いつもエアコンが効いた部屋で眠っている萩上には、この熱帯夜は地獄だろう。
「どうする? 水を持ってこようか?」
「うん、お願い」
僕は部屋を出て、キッチンに向かい。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して萩上の元に戻った。
「ほら」
「ありがとう」
萩上はミネラルウォーターをがぶがぶと飲んだ。
ボトルを枕元に置く。
彼女は唐突に、こんなことを言い始めた。
「昔の夢を見た」
「昔の夢?」
「うん、中学二年生の頃の夢」
「どんなだった?」
「凄いの。私。勉強もできて、運動も、ピアノも、絵も描けた。書道も…、多分、顔も良いんでしょうね」
当たり前のことを、彼女は物珍しそうに語った。
「不思議ね、今の私は、勉強もできないし、料理も作れない。何もできないの」
「………」
「それと、桜井君の夢を見たわ」
「僕の夢を?」
「うん、あなたはいつも、教室の隅っこで寝ぼけたような顔をして、何をするにしても、楽しそうじゃなかった…。怒られたって意に介さないし…、なんて言えば良いんだろう…、人形みたいで、気持ち悪かった」
「…うん、まあ、そうかもしれないな」
母さんにも言われたことだ。
今の僕と、中学の僕とでは、印象がまるっきり変わったこと。
勉強を全くせず、親に心配を掛けていたクソガキが、今じゃ、国立大学に進学して、成功への道まっしぐらの親孝行息子というわけだ。
「不思議ね、ひとは、良くも悪くも変わるものね」
萩上のぼんやりとした目が僕を見る。
僕は喉に刺さった小骨を抜くようにして、口を開いた。
「それは、多分…」
だが、言葉が出てこなかった。
舌先まで出かかったのに、僕は急に恥ずかしくなって、首を横に振った。
「何でもない」
明かり代わりにしていたスマホの電源を落とす。
「もう寝よう。明日は日が昇る頃には家を出たい」
「うん」
萩上は、Tシャツの胸元を掴んでパタパタとして、空気を取り込んだ。それから、もう一口だけ水を飲み横になった。
ぼそりと言う。
「料理、やっぱりあなたが作る方が美味しかったわ」
初めて褒められたような気がした。
僕は「うん」とだけ頷いて、横になった。
昔は仲間と集まって馬鹿騒ぎして、先生を呼ばれるはめになった公園も、この五、六年の内にすっかり廃れてしまった。
ジャングルジムは、子供の落下事故をきっかけに撤去。鉄網も、子供の逆上がりの失敗を理由に撤去。サッカーゴールもあったのだが、一度蹴り損ねたボールが民家の窓を割ったために撤去された。
残ったのは、錆の目立つブランコと、カメムシが寄ってたかる自販機のみ。
萩上は、ブランコに腰を掛けて、ぼーっとしていた。俯き加減のために、黒髪がだらんと垂れて、ブランコの振動と連動してゆらゆらと揺れる。遠目から見たらただのホラーだった。
「萩上!」
声を掛けると、萩上はむすっとした顔を僕に向けた。
「おそい、早く迎えに来てよ」
「いや、『夕方には戻る』って」
「私が、あんな親戚だらけの空間に入れると思ったの?」
「思っていない。配慮が足りなかったな。ごめん」
僕は萩上に駆け寄り、彼女の細い手首をとった。外にいたのに、冷たい腕だった。
「帰ろう。うるさい親戚は酔いつぶれた」
「……」
萩上は僕と目を合わさずにブランコから立ち上がった。
「どこに行っていたんだ?」
「別に、ただふらふら歩いてただけ」
「暑かっただろう。昼は食べたの?」
「自販機でスポットドリンク買っただけ」
「そうか、じゃあ、夕飯は食べるな? 母さんが作ってくれる」
「……」
なんか嫌そうな顔をした。
「もしかして、他人が作る料理、嫌いなタイプ?」
「別に、ただ、桜井君の料理に慣れただけ」
「母さんの料理は美味いよ。僕みたいに、材料を適当に放り込んで炒めるのとは違う。長年の経験だろうな」
「桜井君は、何で料理が作れるの?」
「そりゃあ、大学生になったんだから、自炊はしないとな」
言った後で、萩上の地雷を踏みぬいたことに気が付く。
身構えたが、何もしてこなかった。
なんだ、大丈夫か。と思った瞬間、脇腹を殴られた。
「あのね、フェイントはやめてくれ」
「うるさい」
「ああ、そうだ」
僕はポケットに入れていたチーズとミニカルパスを取り出して、萩上に渡した。
「食べなよ。小腹満たし」
「…ありがと」
萩上はそれを受け取り、封を切ってちびちびと食べた。
「美味しい?」
「まずい」
つまり、美味しいということだ。
萩上の手を引いて実家に戻ると、親戚は既に帰っていた。母さんと兄貴が、食べ散らかした長机の上を掃除している。萩上は充満する煙草の臭いを嫌って、僕の後ろに隠れてしまった。
僕が帰ってきたことに気が付いた母さんと兄貴が一斉に振り返った。
「お、帰ってきたか」
「彼女さんも一緒?」
「だから、彼女じゃないって」
僕は背中に隠れた萩上を二人に見せて、彼女の頭をポンポンと撫でた。
「友達の萩上。とりあえず、今晩だけ泊めさせてよ。明日の朝には帰るから」
少しだけ期待していた。
萩上の容姿を見て、母さんと兄貴がどんな反応を見せるのか。
兄貴は予想通り、「おお!」と声を声を上げた。
「お前、こんな可愛い彼女がおるんか! オレの弟ながら憎いのお」
「だから、彼女じゃないって」
まんざらでも無いように頷く。
しかし、母さんだけは違った。
萩上の容姿を見るや否や、喉の奥で、引きつるような声を上げた。だが、すぐに微笑み、「あら、可愛らしいこと。よろしくね」と言った。
微笑むまでの微妙な間に、僕は違和感を感じながら、萩上と一緒に頭を下げた。
萩上は蚊の鳴くような声で「よろしくお願いします」と言った。
夕飯は、母さんが作ったカレーを四人で食べた。
兄貴は美人の萩上に鼻の下を伸ばし、「どこ出身だ?」とか「正樹とは何処で知り合った?」とか、遠慮なしに質問した。その中に、萩上の地雷となるものが多々混じっていて、僕は身体中に冷や汗をかきながら代わりに答えていった。
母さんはと言うと、ずっと気が気でないような顔で、萩上のことを見ていた。時々、優しく微笑むも、それが作り笑いであることくらい見抜くことができた。
十時を過ぎると、萩上はシャワーを浴びて、高校まで使っていた僕の部屋に布団を敷き、さっさと眠ってしまった。持参したヘッドホンを装着して、周りの音を完全にシャットダウンしていた。
僕も、昼間に酒臭い親戚たちを相手にして、疲労が出たので、萩上が眠ってから三十分後くらいに、彼女の横に布団を敷いて眠った。兄貴は、「さすがに、実家でヤルのはやめとけよ?」と冗談交じりで言われた。ほんと、そういう冗談は嫌いだよ。
萩上千鶴取扱説明書にもある通り、僕は彼女を襲うことはせず、ただただ、疲労を軽減させるために眠った。
そのまま夜が明けるまで熟睡かと思いきや、深夜の二時頃、僕は隣の萩上が苦しそうな声を上げていることに気が付き、目を覚ました。
部屋の中は真っ暗で何も見えない。しかし、横を見れば、萩上が荒い息を立てて唸っている。
「萩上?」
そっと聞いてみたが、彼女から返事は無かった。
「萩上…?」
もう一度聞く。
しかし、相変わらず、喉の奥から、寒風が吹き抜けるような息を吐く。
体調でも悪いのかと思った僕は、枕元で充電していたスマホを手に取り、液晶の明かりで彼女を照らした。
案の定、萩上は額に玉のような汗を浮かべて、頬を紅潮させて唸っていた。ヘッドホンは無意識の内に外していて、久石譲のSummerが洩れている。
「萩上」
彼女の肩に触れる。
その瞬間、萩上は目をカッと見開いて、跳ね飛ばされたように上体を起こした。
汗を吸収したTシャツが、彼女の身体にべったりと張り付いている。
萩上は息を切らしながら僕を見た。
「桜井、くん?」
「ああ、ごめん、凄く苦しそうにしてたから」
「うん…、凄く苦しかった」
「変な夢でも見たか?」
「そうね…」いつにも増して素直に頷いた萩上は、頬をつたう汗の雫を手の甲で拭った。「それに、この部屋、暑いのよ」
「ごめん、お前のアパートみたいにエアコンが無いから」
夏は暑く、冬は寒い。それが僕の部屋だ。いつもエアコンが効いた部屋で眠っている萩上には、この熱帯夜は地獄だろう。
「どうする? 水を持ってこようか?」
「うん、お願い」
僕は部屋を出て、キッチンに向かい。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して萩上の元に戻った。
「ほら」
「ありがとう」
萩上はミネラルウォーターをがぶがぶと飲んだ。
ボトルを枕元に置く。
彼女は唐突に、こんなことを言い始めた。
「昔の夢を見た」
「昔の夢?」
「うん、中学二年生の頃の夢」
「どんなだった?」
「凄いの。私。勉強もできて、運動も、ピアノも、絵も描けた。書道も…、多分、顔も良いんでしょうね」
当たり前のことを、彼女は物珍しそうに語った。
「不思議ね、今の私は、勉強もできないし、料理も作れない。何もできないの」
「………」
「それと、桜井君の夢を見たわ」
「僕の夢を?」
「うん、あなたはいつも、教室の隅っこで寝ぼけたような顔をして、何をするにしても、楽しそうじゃなかった…。怒られたって意に介さないし…、なんて言えば良いんだろう…、人形みたいで、気持ち悪かった」
「…うん、まあ、そうかもしれないな」
母さんにも言われたことだ。
今の僕と、中学の僕とでは、印象がまるっきり変わったこと。
勉強を全くせず、親に心配を掛けていたクソガキが、今じゃ、国立大学に進学して、成功への道まっしぐらの親孝行息子というわけだ。
「不思議ね、ひとは、良くも悪くも変わるものね」
萩上のぼんやりとした目が僕を見る。
僕は喉に刺さった小骨を抜くようにして、口を開いた。
「それは、多分…」
だが、言葉が出てこなかった。
舌先まで出かかったのに、僕は急に恥ずかしくなって、首を横に振った。
「何でもない」
明かり代わりにしていたスマホの電源を落とす。
「もう寝よう。明日は日が昇る頃には家を出たい」
「うん」
萩上は、Tシャツの胸元を掴んでパタパタとして、空気を取り込んだ。それから、もう一口だけ水を飲み横になった。
ぼそりと言う。
「料理、やっぱりあなたが作る方が美味しかったわ」
初めて褒められたような気がした。
僕は「うん」とだけ頷いて、横になった。