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 期末テストで赤点をとってしまった僕は、追試を受けることになった。本来なら、テスト終了一週間以内にするものだったが、先生の都合が合わず、終業式を終えて冬休みに入っても、明確な予定が立たなかった。
「いつ呼び出されてもいいように、勉強はしておけ」
 そう言われていたので、僕は暇々で勉強をした。少し時間を掛けてやるだけで、問題文の意味くらいはわかるようになった。
 それでも、なかなか呼び出されないので、てっきり、もうやらないのだと高を括っていた。
 完全に安心して、家でモンハンを始めようとした時、学校から電話が掛かってきた。
「二十三日、できるか?」
 できます。というしかなかった。
 クリーニングに出して帰ってきたばかりの学ランを着て、その上にウインドブレーカーを羽織った僕は、筆記用具だけを持って学校に向かった。
 冬休みでも、運動部は練習をしているし、職員室にはほとんどの先生がいた。ただ、多感で反抗期の生徒を相手にしなくてもいいので、いつもピリピリとしている先生の気も緩み、どこか喉やかな雰囲気が漂っていた。
 職員室に入って来た僕を見て、担任は「おう」と気だるげに手を振った。
「来たか」
「もう、忘れられたと思っていましたよ」
「忘れるわけないだろ。それともなんだ? 油断して勉強していないのか?」
「連絡があと二日遅かったら、勉強した内容を忘れていたかもしれません」
「勉強は定着しないとダメなんだよなあ」
 夏休みと同様に、先生は僕に追試のプリントを渡した。
「これ、教室で解いてきな。終わった声かけろ」
「鍵は?」
「開いている。萩上が勉強しているんだ」
「萩上が?」
 デジャブな気がして、僕は思わず聞き返していた。
「なんで?」
「優秀な生徒はな、ああやって勉強しているんだ」
「凄いや、僕にはできません」
「お前は、せめて県立の高校に進学してくれたらそれでいい」
 ほらいけ。そう言って先生は、僕の胸をどんっと押した。
「本当にわからないなら、萩上にでも教えてもらえ。まあ、自分で解く努力はしろよ?」
「……はい」
 職員室を出ると、廊下に漂う冷気が僕の身体を縮み上がらせた。
 先生たちはずるいや。自分たちだけ、暖房の効いた部屋にいるんだから。
 と、先日誰かが言っていた文句を心の中でなぞりながら、教室に向かった。
 半開きになった窓から中を覗き込むと、萩上が机に向かって、勉強をしていた。よっぽど集中しているのか、普段の授業の時よりも少し前のめりになって、結っていない黒髪が紙の上に垂れていた。
 普通に開けたはずなのに、扉はいつもよりも重く、そして大きな音を立てた。
 食い入るようにノートに向かっていた萩上が、はっとして顔を上げる。
 僕を見るや否や、いつもの女神のような微笑みを浮かべた。
「どうしたの? 桜井君」
「前に言ってた、追試」
「ああ、今日だったんだ!」
「急に呼び出されてな。勉強したことなんてほとんど忘れてるよ」
 萩上に対して、好意なんて抱いているつもりは無かったが、その綺麗な顔で、鈴を鳴らすような声で話しかけられたら、心臓は勝手に暴れ始めていた。
 少しでも気を抜けば、口から飛び出してしまいそうなくらいに。
「ああ、めんどくさい」
 お前に話しかけられたって平気ですよ。
 お前のことなんて何とも思っていませんよ。
 くだらない意地を張って、萩上が視界に入らない席に腰を掛ける。
「お前は凄いよ」
 そんな言葉が、口をついて出ていた。
 萩上がどんな顔をしていたのかはわからない。でも、少し驚いた声で「凄い?」と聞いた。
 そんなに驚くことだろうか? あいつには聞きなれた言葉だろう?
「なんで、そう思うのかな?」
「だって、そうだろう? 冬休みなのに、わざわざ学校に来て勉強するか? 家で十分だろう? それか、暖房の効いた図書館とか…」
「ううん、ここじゃないとダメなの」
「だめ?」
 なにかルーティンのようなものがあるのだろうか?
 萩上の声が、震えた。
「ここじゃないと、ダメなの」
「だから…、どういう」
 振り返ると、萩上は前髪をだらんと垂らして俯いていた。
 顔は見えないが、彼女が今、どんな顔をしているのかが、わかるような気がした。
 僕が茫然としていると、萩上は顔を勢いよく上げた。彼女の黒髪が、翼を広げた鴉のようになる。
 彼女は、笑っていた。
「ここじゃないと、落ち着かないからね!」
「そうか、そんな理由か」僕は適当に頷いた。「わかるよ。僕だって、家で勉強ができない。ちょっとやってたら、すぐに漫画とかゲームに手を出す。教室でやるほうが、一番効率が良いのかもしれないな」
「うん、そうだね。ここだと、頭に入りやすいんだよ」
 萩上は一呼吸置いて、続けた。
「なんなら、桜井君もここで勉強してみない? 一緒に勉強しようよ」
「ああ、いや、いいよ」
 学年のマドンナからの誘いを、僕は即決で断っていた。
 言ったあとで、すぐに後悔が襲ってきて、僕は頭を抱えた。嫌では無い。彼女からお誘いが来るなんて光栄なことだった。自信が無かっただけだ。彼女は、僕の成績を心配して言ってくれている。彼女の手を借りて勉強する以上、僕はその期待に応えなければならなかった。
 聖女の期待を浴び続けていたら、僕のような汚れた人間は、消し墨になってしまうような気がしたのだ。
「ごめんな」
 すぐに謝る。格好悪いことをした。
 萩上は意に介さず首を横に振った。
「いいの、気にしないで。桜井君は桜井君の用事があるもんね」
「本当に、ごめん」
 その後、僕は追試のプリントを解いた。わからないところがあれば、萩上に聞いた。彼女は先生よりもわかりやすく教えてくれた。
 その日の追試は、満点だった。