萩上千鶴。
「………」
 中学二年生の時の記憶が一気に蘇る。
 僕の反応を見て、明日香は「もしかして、知ってた?」と聞いてきた。
 僕は首を横に振った。
「あまり接点は無いけど…、中学二年の時に同じクラスだったし…。あいつ、生徒会にも入ってただろ…」
「ああ、そっか、そう言えばそうよね」
「萩上千鶴か…」
 鍬を握って畑を耕す王族を見ているような、複雑な気分に襲われた。
「なんで、萩上の世話を? しっかりしているんだから、一人でなんでもこなせるだろ」
 心無い一言だっただろうか。明日香は「うん、まあ、そうなんだけどね」と、いつもの彼女には似合わない歯切れの悪い返事をした。
「とにかく、夏休みの間だけでいいから、あの子の世話をしてほしいの。基本的に、食事とか、洗濯ものとか、暇があれば、おしゃべりとか、一緒に遊んであげて?」
「………」
 小学生でも相手にしているような言い方に、僕は喉の小骨が詰まるような気分だった。
 まあ、料理は自分でも作れるし、洗濯だって不自由はしていない。コミュニケーション能力には若干欠けている自覚はあったが、高校時代、生徒会長だった経験を活かせば何とかなるだろうと割り切った。それだけ、日給一万円は魅力的だったのだ。
「とりあえず、引き受けよう。辞めるかどうかは、その時になって」
 と言いながらも僕は既に辞めるときに言い訳を考えていた。
 僕はその場で明日香の頼みごとを聞くことにした。 
 明日香は「よかった」と胸を撫でおろした。
「じゃあ、ちーちゃんの方には私から連絡しておくから。基本的には毎日行って欲しいの」
        ※
 バイトの内容はこうだった。
 僕は萩上のアパートに行き、そこに住んでいる彼女の身の回りの世話をする。
 日給最低一万円。僕の働きに応じて、最高二万円まで金額は増える。
 萩上のアパートで何をしたのか、どんなことを手伝ったのかは、一日の終わり、もしくは次の日の午後までに明日香に報告しなければならない。その内容で、明日香が日給の額を決めるのだ。金を払うのは、明日香ではなくてまた別の人物。どうやら、バイトの依頼人はその金を払う人間で、明日香はいわゆる「仲介」だった。
 依頼人は誰なのか、心配性の僕はしつこく聞いたが、明日香は答えてくれなかった。「ちゃんと金は入るから安心して!」と言われた。
 腑に落ちないまま、僕は明日香に一週間だけ猶予をもらい、その間を使って大学の課題を全て終わらせた。これで、後は萩上の世話に集中できる。
 いざ、バイト始めの日。
 日給一万円と言わず、最高の二万円を叩きだすつもりで、僕は自宅のアパートの扉を開けた。
 途端に、電柱に群れた蝉たちが一斉に鳴きだす。空は、子供が絵の具でめちゃくちゃに塗ったように青く、白い太陽から放たれる熱視線は、薄暗い部屋にいた僕の目に堪えた。
 さっそく首筋に汗が浮かぶのを感じながら、僕はナップサックの中に入れていた「萩上千鶴取扱説明書」を取り出し、歩きながら読んだ。
        ※
 萩上千鶴取扱説明書
第一条…彼女を怒らせてはいけない。
第二条…彼女の身の回りに、ガラス製のものを置いてはいけない。
第三条…彼女には毎日、新聞や広告を差し入れること。
第四条…彼女の身の回りの片づけは毎日行うこと。
第五条…彼女の機嫌が悪いときには傍に近づかないこと。
第六条…彼女にはカッターナイフを持たせてはいけない。ただし、彼女自身が望んだ場合は渡してもよい。その時に、新聞や広告の準備を怠らないこと。
第七条…彼女が就寝するときは、出来るだけ楽しい話をすること。
第八条…彼女に、極力外の話はしないこと。
第九条…彼女が望んだものはすぐに買ってくること。それが、高価なものの場合、私に相談すること……。