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 ここで一つ、昔の話をしようと思う。
 文化祭が終わって、二か月が経った頃。
 冬休みも近づき、クラスの皆が浮足立っている頃、僕は先生に呼び出された。
 呼び出されることは今までにも何度もあったので、僕は気おくれすることなく職員室に入り、先生の席につかつかと歩いていった。
 堂々と来た僕を見て、先生は頭を抱えて嘆いた。
「お前はどうしてそこまで誇らしげなんだろうな?」
「何事も慣れですから」
「あのなあ、もう少し頑張ろうや」
 先生の椅子のすぐ近くに、薄汚れた石油ストーブが置いてあり、ぼんやりとした赤い光から、ごつごつとした熱を放出している。上に、湯が入ったやかんが置かれていて、白い湯気が立ち上っていた。
 美術の先生が「おっす! 桜井!」と元気に言ってやってくると、ストーブの上のやかんを手に取り、持っていたカップラーメンに注いだ。熱々の湯が注がれたカップは、くつくつと、まるで生きているかのような音を立てた。
 なんか、ポットで沸かすよりも美味しそうだな。
 横目で美術の先生の手元を見てぼんやりとしていると、担任が机をぱしっと叩き、僕を現実に引き戻した。
 もう一度言う。
「もう少し、頑張ろうや」 
 机の上に置かれていたのは、先日の期末テストの答案だった。
「何点ですか?」
「国語と社会が赤点だ」
「へえ」
「何が『へえ』だよ」
「いや、赤点くらいは回避できていると思っていました」
「あのなあ」
 先生は怒っている。というよりも、呆れて、机を指でトントンと叩いた。
「学年が上がって、勉強は難しくなっているんだよ。今まで通りのやりかたじゃ、ついていけないぞ?」そして、痛いところを突いてくる。「このままだと、高校、怪しいぞ? 私立には行けないことも無いけど、お前のとこ、母子家庭だろ?」
「……」
「二者面談の時にも言われたんだ。『金が無いから、絶対に県立に行かせてください』って」
「そうですね、家でも、口が酸っぱくなるほど言われています。そして、僕の耳にはたこです」
「こんなことを言うのも教育者としてどうかと思うけど、お前のことは見捨てられないんだよ」
 教育者がそんなことを言うとは思わなかった。
 僕は意地悪な質問をした。
「じゃあ、見捨てた生徒はいるんですか?」
「いるさ。名前は言わないけど、想像できるだろ?」
 確かに、想像がついた。
 中学二年と、多感なこの頃は、学年全体が揺れている時期だった。一人、高校生と性交渉をして妊娠した。五人、他校の生徒と殴り合って警察沙汰になった。クラスのニ、三人は授業に出てこなくなった。
 授業中もざわざわとうるさく、先生も手をこまねいて、質ががくっと落ちた。
 まともに授業が受けられない中、萩上のように相変わらず満点近い点数をとってくる者もいたし、僕のように、知らず知らずと影響を受ける者もいる。そして、最初から勉強を諦めて、答案に名前すら書かない者も。
 ちなみに、兵頭は「おれ! 答案に名前書かずに出してやったわ!」と、何がかっこいいのか、晴れ晴れと語っていた。
 先生は後者のことを言っているのだ。
「お前はまだ救いようがある。勉強すれば、十分に頑張れるさ」
「………」
「な? それに、お母さんだって、お前に勉強してほしいと思っている。だから、県立の高校に行けるくらいは頑張ってくれや。オレも、協力するから」
「……はい」
 僕はなぞるようにして頷いた。
 追試の日程と範囲が書かれたプリントをもらった僕は、ほかほかとしていた職員室を惜しみながら廊下に出た。
 教室に戻ろうと廊下を歩き始めると、前方から萩上が歩いてくることに気が付いた。
 しなやかな脚をつかつかと踏み出し、肩までの黒髪が柔らかく揺れる。脇に、生徒名簿を抱えていた。
 僕に気が付いた萩上は、にこっと笑って手を振った。
「桜井君、職員室に用事があったの?」
「あ、ああ」
 やっぱり、不意に話しかけられると、心臓がびくついた。
「テストで、赤点とったから」
「ええ、またあ?」冗談ぽく笑う萩上。「ダメだよ。ちゃんと勉強しなきゃ」
「したつもりだったんだけどね…」
「結果がでなければ、したうちに入らないんだよ?」 
 努力が足りないだけ。
 萩上は当たり前のことを言った。それなのに、妙に胸のあたりがちくっとした。
 なんだろう、萩上がそんなことを言うとは思わなかった。前のように、「頑張ったことは大事だよ!」とか、「次はもっと頑張ろうね」とか、前向きなことを言うのだと思った。
 萩上も、言った後ではっとする。すぐに言い直した。
「だけど、頑張ったっていう気持ちは大事だからね。次はもっと頑張ろうよ」
「ああ、うん」
「なんなら、私が教えてあげようか?」
「いや、いいよ」
 何度も萩上の世話になるわけには行かなかった。
 先生にもらったプリントをひらひらと振る。
「こんな馬鹿な人間の相手をしてないで、お前は自分のことをしていてくれ」
 自虐のつもりだったが、彼女に対して、少し失礼なことをいってしまったかもしれない。
 僕は慌てて口を噤み、くるりと彼女に背を向ける。
 萩上が何かを言ったような気がしたが、聞こえないふりをした。
 鼻の奥に、爽やかな石鹸の香りが残っていた。