その日から、いつ僕が部屋を尋ねても、彼女はヘッドホンを使って音楽を聴いていた。
 眠っているときも、僕が部屋にやってきたことに気が付いた時も、装着したヘッドホンを離さなかった。
 耳に悪いからと、無理やり外そうとしたときは、思い切り腹を殴られた。スマホの充電が切れそうだったから、こっそりとモバイルバッテリーに繋ごうとしたときも腹を殴られた。
 僕が痛がっている様子を見て、萩上は何も言わず、また、仰向けになって音楽を聴いた。
 「ご飯だぞ」と言うと目を開けたので、そこまで音量は大きくしていないらしい。そのことを指摘すると、不機嫌そうに顔を顰めて、外に洩れるくらい音量を上げた。ちなみに、聴いていたのは、ヨハン・パッヘルベルのカノンだった。
 度々無視されたが、苛立ちは覚えなかった。むしろ、僕の金で買ったヘッドホンをここまで愛用してくれることが嬉しかった。
 ちなみに、一週間ほど経った頃、兵頭から連絡があって、「あの電子ピアノどうだった?」と聞かれた。さすがに「壊した」とは言えず、「僕にくれ」と言って、小売価格の二倍の値段をあいつに支払った。懐が寒くなったが、萩上の部屋に毎日通うだけで、何者かわからない依頼者から明日香を介して金がもらえるので、すぐに元に戻った。
 少しだけ羽振りがよくなった僕を見て、兵頭は「お前も転売を始めたのか?」と聞いた。肩を掴まれて、「オレにも紹介しろよ」と、守銭奴の目で言った。
 この仕事は、兵頭には無理だ。
 僕は萩上の部屋に行き、彼女に料理を振舞う。彼女が切り裂いた新聞紙を捨てて、シャンプーやボディーソープを買い足す。脱いだ衣類は洗濯し、ベランダに干す。日当たりが悪いので、時々コインランドリーで乾燥しないと、黴の臭いが目立った。
 後は、音楽を聴きながら転寝をする萩上の隣で、参考書を開いて勉強をするだけだ。クーラーが効いて快適な空間だった。時々、身体が冷えて、たまらず設定温度を上げようとすると、萩上に無言で足を蹴り飛ばされた。
 この仕事は、彼女にどれだけ殴られ、蹴られても冷静でいられる人間じゃないと務まらない。兵頭なんかがやってみろ、一瞬で警察沙汰だ。
 萩上を相手にするときは、細心の注意を払った。
 あの部屋には、何も無いように見えて、様々な地雷が埋まっていた。それをうっかり踏みぬくと、彼女は怒り、物を壊し、僕を殴ったり蹴ったりした。
 地雷を踏みぬかなければ、萩上はただの綺麗な女だ。
 眠たげに閉じた目の奥に、深みのある黒の瞳。日焼けしていない白い肌。ヘッドホンをして横になるとき、そこにだけ新月の夜が舞い降りたかのように、髪の毛がばさりと広がった。中学生の時のまま成長していない薄い胸は、彼女が生きている証拠である呼吸を僕に誇示した。
 参考書を読みながら彼女の姿を見た時、僕は胃の奥を突き上げられるような変な気分に襲われた。
 中学生の頃、萩上は高嶺の花。雲の上の存在だった。
 そんな彼女が、今、僕の目の前にいる。触れようと思えば、触れることができる。もちろん、実際に触れたら殴られるのは目に見えているが。
 テレビの中の人間が、実際に自分の目の前にいる時と同じ。いや、アニメの中のヒロインと対峙していると言っても過言では無いくらいだった。
 萩上は、今日も僕が作った料理を不味そうに完食した。その後、すぐに横になって眠ってしまった。こんな生活をずっと続けているが、彼女の病人のような身体に変化は無かった。
 時が止まっているかのように、ずっと、白く、細いまま。彼女が怒ると、すうっと血管が浮かぶので、機嫌を把握するのには最適だった。