「部屋に入ると萩上が汗まみれで倒れていた」「萩上はミネラルウォーターを飲んだ」「萩上はイチゴミルクを飲んだ」「萩上はシャワーを浴びた」…、と、その日にあったことを事細かく書いて、寝る前に明日香に送信した。

 すると、すぐに返信が来た。  
『明日、公園に集合』と。
 次の日の月曜日。
 今度は、僕が明日香に呼び出される番だった。
 七時を少し過ぎた頃に公園に入ると、明日香がブランコに腰をかけて、スマホを弄っていた。
「おはよう、明日香」 
 汗ばんだ頬をハンカチで拭きながら近づくと、明日香は「おはよ!」と元気に言った。
 世間話も何もせず、彼女はバックに手を入れて、銀行の封筒を渡してきた。
「はい、これ、お給料」
 バイトのことをすっかり忘れていた僕は、彼女が差し出した封筒の意味がわからず、目を数回ぱちくりとさせた。
「え、これって」
「お給料だよ。昨日、ちーちゃんの部屋に行ってくれたんでしょ?」
「本当にくれるのか?」
 何度も確認する。
「本当にくれるんだろうな?」
「しつこいな。ちゃんと契約したじゃない」
「まさか、開けたら新聞紙を札の形に切っただけの悪質な詐欺じゃないだろうな」
「しつこいって」
 明日香はうんざりしたように顔を顰めると、封筒を開け、中から一万円札を引っ張り出した。
「ほら、お金でしょ?」
「いや、まだわからないぞ。透かしはあるのか?」
「いや、偽札じゃないんだから」
 確認すると、ちゃんと透かしが入っていた。
「ちゃんと世話をしてくれてありがとうね」
「世話なのか?」
 世話だな。
 僕は一万円を財布に仕舞った。引きこもりの世話をするだけで一日一万円だなんて、安い仕事だった。
「それで相談なんだけど」
「なに?」
「夏休みが終わっても、暇があれば。ちーちゃんの世話をしてほしいの」
「そんなに?」
 金がもらえることは嬉しいが、少し罪悪感が湧いた。
「お前…、夏休みだけでも、三十万近く僕に払うことになるんだぞ?」
「だから、給料を出すのは私じゃ無いから」
「誰だよ」
「それはちょっと教えられないな」
 またはぐらかされた。
「まあでも、確実に日給は出るってことだよな?」
「うん。その点は安心して」
「わかった」
 僕は承諾した。
 明日香は「朝ごはん食べた?」と、コンビニのナイロン袋からサンドイッチを取り出してオレに放り投げた。お茶漬けを食べたが、物足りなかったので丁度いい。
 僕はタマゴサンドを食んだ。
「にしても…、萩上の奴、どうしてあんなに変わったんだろうな」雑談の感覚で明日香に言った。「あいつ、中学の頃って、もうちょっと明るかっただろ」
「まあ、そうだね」
 明日香は瑞瑞しいレタスがたっぷりと挟まったサンドイッチを齧りながら頷く。
「お前、なんか知ってるだろ?」
「うーん、私もよくわからないんだよね」
「知らないのか?」
「うん。なんだかんだ、中学の頃は仲が良かったからね。いつの間にか、あんなふうになっちゃってた。幼馴染のよしみなのか、一応親し気には話してくれるんだけど…、何処か遠慮しているというか…、社交儀礼にしたがっているって言うか…」
「納得いかないなあ…」
 サンドイッチを口に押し込み、ざらついた指を舐める。
「ちょっとショックだよ。あいつはもっとすごい奴になると思ってた。有名大学に進学したり…、有名企業に就職したり…、結婚も難なくやるんだろうな。あの顔があれば、どんな男でも簡単に落とせるだろうし…」
「あんまり、そういうの、ちーちゃんの前で言っちゃだめだよ」
「まさか…、言うわけないだろ。この前、それ紛いのこと言って、あいつに殺されかけたんだから…」
 口の中に、パンとタマゴの風味が残った。
 それをミネラルウォーターで流し、口の中をさっぱりとさせる。
 まだサンドイッチを食べている明日香の口元をぼんやりと眺めながら、ぼんやりと言った。
「別に…、大学に進学したり、有名企業に進学することを『社会の格付け』とは言わないけど…、それでもやっぱり、あいつが大学にも進学せずに、引きこもりに成り果てているのは衝撃的だよ。あの頃、クラス適当に生きていた僕と、立場が逆転しているからな…」
 明日香が鼻で笑うのが聞こえた。
「なんだよ」
「いや、何でもない」
「失礼な奴だな」
 それから、僕は財布の中に入れた一万円の使い道を考えた。
 アパートの家賃や光熱費に使ってもいいが…、今月はなぜか余裕があった。かといって、好んでやるような娯楽もない。
 貯金。というのが一番妥当か…。
 そう思い立った僕は、大学の帰りに、ショッピングセンターに寄っていた。
        ※
 その日は、午後三時ごろに萩上のアパートを訪ねていた。
「萩上。入るよ」
 一声かけてから扉を開ける。
 相変わらず、部屋の中はキンキンにクーラーが駆動していて、寒いくらいの空気で満たされていた。
 萩上は、部屋の隅で、猫みたいに丸くなって眠っていた。かなり深い眠りのようで、すうすうと胸が上下している。
 これ、起こさない方がいいのかな。
 とりあえず、道中で買ってきたものをエコバックから出していると、そのかすかな物音で目を覚ました萩上が僕に気が付いた。
「また来たの?」
「うーん、まあ、来たよ」
「お腹空いた」
「昨日、置いて帰ったゼリーは食べなかったのか?」
 いや、食べていないか…。キッチンに置きっぱなしになっているから。
 僕はゼリー飲料を取ると、萩上に放り投げた。
「今から支度するから、それでしのぐといいよ」
「支度?」
 怪訝そうに首を傾げる萩上。
 僕は得意げに、エコバックからフライパンに油、材料を取り出して、萩上に見せた。
「毎日コンビニじゃ味気が無い。作ろうと思ってな」
「ああ」
 萩上は受け取ったゼリー飲料を傍らに置いて、四つん這いで僕の方に寄ってきた。
「何作るの?」
「とりあえず、野菜炒めかな。レタスとシーチキン、ベーコンは買ってきた。あまり自信は無いけど…」
「そう…」
 微妙な反応。
 そう言えば、こいつ…、料理もできたんだよな。
 俯き加減な彼女の、長いまつ毛を眺めながら、僕は少し昔のことを思い出していた。