大学が夏休みにはいってから、一週間が経過した。
 当たり前のことだが、毎日毎日三十度を越える猛暑。外では蝉が子孫繁栄のために狂ったように鳴き、蚊は手のひらを恐れずに日陰を飛び回る。公園の土は日射に焼けて香ばしい匂いを漂わせ、対してアスファルトの上はゴムを溶かしたような香りが充満して噎せる。
 少し歩いただけで、身体の中の水分を奪い去る夏。
 地獄の苦行ともいえる猛暑の中、一か月以上の長い休みを手に入れた大学生たちは何をするのか。陽気な仲間を集めて海や山に出かける者。学費を稼ぐためにバイトに勤しむ者。家に引きこもり、ゲームばかりをして、秋以降から大学に来なくなる者。
 僕こと桜井正樹は、勉強をする者だった。
「よ! 桜井!」
 大学の図書館で一人勉強をしていると、白いワンピースを来た女が、声高々に歩いてきた。同じ大学で、同じ学科を専攻している、幼馴染の「東堂明日香」だ。
 小学校、中学校、高校は別々だったが、大学では偶然一緒になった腐れ縁。
 ノートに向かってカリカリとシャーペンを動かしている僕を見て、明日香は顔を顰めた。
「うわあ、またやってるよ、勉強。よくもまあ飽きないねえ」
 僕はノートと教科書を交互に見やりながら明日香に聞いた。
「どしたの? 僕は課題で忙しいんだけど」
「そんなの、夏休み終わってからにすればいいじゃん!」
「本気で言ってる?」
「私は君と違って優秀なんで、やろうと思えばすぐにできるんですよーだ」
 明日香の声がいちいち大きかったが、図書館には僕しかいないので黙認した。
 明日香は本棚に並べてある書物には目もくれず、椅子を引いて僕の前に腰を掛けた。
「私が、この前に言っていたこと、憶えている?」
「憶えていない」
「やだな、前に言ったでしょ? 『頼みたいことがある』って」
「知らないな」
 本当に知らないな。
 勉強に関係の無いことはすぐに記憶から除外する僕にとっては日常茶飯事だった。特に、いつもくだらないことしか言わない明日香の言動なんて、真っ先に記憶の消去の対象だった。
「それで、できればもう一回言ってほしいんだけど」
「だから、頼みたいことがあるって!」
「うん、断る」
 僕はバッサリと明日香の言葉を遮ると、ノートに視線を戻した。
 すかさず、明日香が手を伸ばしてきて、僕からノートを奪い取った。書いている途中だったので、ノートの白い紙にペンの黒い線が走る。
「薄情な男よね! 話くらい聞いてくれればいいのに」
「生憎、僕は人の頼みを無償で引き受けるほどお人よしじゃないんだよ」
「誰が『無償』って言ったのよ」
「あ?」再び明日香の方を向く。「なんだ、有償か。それを早く言えよ」
「言おうと思ってたのに」
 明日香の願い事なんて、いい予感はしないが、有償なら、話だけでも聞いてみるか。
「有償だろ? 何くれるの?」
「ハンバーガー奢ってあげる」
「交渉決裂だな」
 僕は再び参考書を開いて、ペンを握る。
「くだらない冗談は嫌いだよ」
「ちょっと! 冗談だって! 何本気にしてんのよ!」
「え、その冗談が嫌いなんだけど?」
「ちゃんとお金は払うわよ! 日給一万円!」
「ん?」
 何だその高賃金は? いや、頼みごとの内容にもよるか。
 金に釣られて顔を上げたが、すぐに怪しくなって聞いた。
「それ、誰が払うんだ? お前がそんな大金を僕に払えるほど金を持っていると思わないんだが」
「ああ、払うのはまた別の人」
「誰だ?」
「ちょっと言えないけど、まあ、確実にお金は入ってくるから」
「なんか怪しい…」 
「全然怪しくないから!」
 明日香は拝むように、両手を胸の前に合わせた。そして、改めて言った。
「お願い。夏休みの間だけでいいから、私の幼馴染の世話を引き受けてよ!」
        ※
 日給一万円。これが最低賃金。僕の働きに応じて金額は増え、最高で二万円になると明日香は言った。
 最低一万円、最高二万円が一日で僕の手元に入るのか。
 僕は明日香の話を聞きながら、頭の中で電卓を叩いた。夏休みを一か月として、毎日通えば最低でも三十万。最高でも六十万。これは美味しい仕事かもしれない。
 僕が守銭奴の目をしていることに気が付いた明日香は、釘を刺すように言った。
「頼まれたことはちゃんとしてよね。もし、態度が悪かったり、相手に失礼なことをしたら、お金は払わないから!」
「まあ、仕事の内容にもよるな。割に合わない仕事なら、即刻で辞めてやる」
「うーん、多分大丈夫だとは思うんだけど…」
 その曖昧な言い方がやけに僕の不安を煽った。
 もしかして、「幼馴染の世話」って、寝たきりの介護者のこととかじゃないだろうな? 介護士に支払う金がもったいないからって、オレをこき使おうとしているんじゃないだろうな?
 僕の不安は、すぐに払拭された。
「身体的な障害は抱えていないわ」
「ああ、そう」
「だけど、ちょっとね」そう言って、明日香ははぐらかすように自身の胸を叩いた。「ちょっと、ここが、ダメになっているって言うか…」
「ここって…」
 僕も吊られて自分の胸を叩く。左胸。心臓。
「心臓か? 急に倒れられても、AED使えないんだけど」
「違う違う心臓じゃない。心よ」
「心?」
 つまり、精神的な欠陥を抱えているということか。うーん、精神的な疾患って…、うーん、引きこもりとかか? 薄情だと思われるかもしれないけど、あまり相手にしたくない。だが、頭の中に金がちらついた。
「まあ、やってみないとわからないからな。とりあえず引き受けることにするよ」
 軽い気持ちで頷く。
「そう、よかった!」
 明日香は手を叩くと、ショルダーバッグから分厚い紙の束を取り出し、僕に渡した。
 受け取ると、ずしっとした、手に吸い付くような重みがある。
「これ、お前が作ったの?」
「そうよ? 私がワード使えないと思った?」
「うん、意外」
 そんなことを言い合いながら、僕は明日香が渡してきた書類の表紙に目を通した。
 表紙には、丸いフォントで「萩上千鶴取扱説明書」と印刷されていた。
 萩上千鶴。