次の日、朝の七時。

 僕がアパートの近くの公園に向かうと、ラジオ体操を終えた小学生たちが賑やかに出ていくところだった。
 もう少し遅くしたらよかったかな?
 そんなことを思いながら、ブランコに腰を掛けて、適当にゆらゆらとする。
 日はまだ高くなく、路地を抜けて公園までやってくる風が爽やかだった。青々と葉を生い茂らせる桜の木で鳴く蝉も、どこか寝ぼけているように思えた。
「おーい! 正樹!」
 相変わらず、ノースリーブのワンピースと、露出の多い格好をした明日香が、手を振りながら公園に入ってきた。僕が呼び出した。
「どしたのよ、こんな朝早くに」
「いや、、わかるだろ」
「ああ、ちーちゃんのこと?」
「わかっているじゃん」
「どうだった?」
 昨日のことを聞いてくる明日香の目は、心なしかにやにやと笑っている。
 僕は、明日香に文句を言ってやろうと思って、鞄の中に入れていた参考書を取り出して見せた。ズタズタに裂かれたそれを見た瞬間、明日香は何が起こったのか察したようだ。ため息交じりに「ちゃんと取り扱い説明書読んだの?」と聞いてくる。
「読んだけど…」僕は言葉を濁した。「あそこまで凶暴だとは思わないじゃないか」
「凶暴かな?」
「あれは凶暴だよ。猛獣だ」
 今年二十歳になる大学生が、公園の遊具に腰を掛けて話している姿はシュールだった。
「ちーちゃん、怒ると乱暴になるからなあ」
「明日香。その言葉足らずなところを治した方がいい」
 そうは言っても一番悪いのはあの女だ。
「ああくそ、あの女…」
 ブランコの背後にあった自販機の横のゴミ箱に、僕はズタズタの参考書を投げ入れた。
「人の参考書を何だと思ってんだよ。自分は引きこもっているから勉強なんか目にも留めない日々を送っているんだろうが…、こっちは単位と就職で切羽詰まっているんだよ」
 ぶつぶつと文句を垂れる僕のこめかみと頬には、大きめの絆創膏が貼ってあった。
 その絆創膏を、明日香が指で突いて聞いた。
「その傷、やられたの?」
「やられた」
 今更、腹の底からふつふつと熱いものが込み上げてきた。
 それが溢れないように、何とか抑え込んで、僕は明日香に手を差し出した。
「おら」
「ん? なに?」
「金だよ。金」
「え、何のこと?」
「とぼけるなよ。日給一万って言ってたじゃないか」
「ああ、そのことね」
 そのことね。って…。しっかりしてくれよ。僕はあの女に参考書を切り刻まれて、頭に傷を負わされたんだ。もらえるものはもらっておかないと、僕のやられ損になってしまう。
 明日香は、僕の手をぱしっと払いのけた。
「あげられないよお。だって、ちーちゃんを怒らせちゃったんだもん」
「あ?」
 なんだそれ。話が違うぞ?
 僕は明日香を睨みつけると、彼女は「おお怖い」と大げさに肩を竦めた。それから、足元に置いていた僕のナップサックを奪い取ると、中を漁る。
「何やってんだ?」
「あ、あった」
 取り出したのは、明日香が僕にくれた「萩上千鶴取扱説明書」だった。
「ほら、ここ見て」
 六ページ目の、第二十六条を見る。

 第二十六条…萩上千鶴を不快にさせた場合、賃金は入らない。

「ちゃんと書いてるでしょ? 読まなかったの?」
「もういい」
 僕は明日香から説明書をひったくり、それも、背後のゴミ箱に放り投げた。
「あ、何やってるの!」
「もういらん」
 ナップサックの肩紐を掴み、ブランコから立ち上がる。
「正直、納得いかない部分が数多だが…、取扱説明書をよく読んでいなかった僕も悪い。この話は無かったことで頼むよ」
「えー。もうやめちゃうの?」
 明日香はゴミ箱を漁って、取扱説明書だけを取り出した。
「もうちょっと粘ってみようよ。まともにやればお金になるのよ? ってか、私も仲介料であんたの半額入るんだから、一緒にぼろもうけしてやろうぜ!」
「それが本心かあ…」
 僕は明日香をつっぱねた。
「信用できない」
 それは本当のことだった。
「どれだけ日給がよかろうが、これは割に合わないよ。あの凶暴娘のアパートに行くたびに、ご機嫌取りをして気を煩わせることはしたくない」
 それに、行くたびに参考書をズタズタに裂かれるのも、額を引っ掻かれるのも御免だ。
「じゃあ、お金はどうするのよ。学費、支払うの大変なんでしょ?」
「他のバイトを探せばいい」
 これ以上は話したくないとばかりに、僕はつかつかと歩き始めた。
「朝早くに悪かったな。規則正しい生活を送れよな」
 そのまま、足早に公園を去る。明日香が何か言っていたような気がしたが、聞こえていないふりをした。
「…萩上千鶴か…」
 寝ぼけた蝉の鳴き声を聞きながら、僕はぼんやりと考えた。
 人間は一度忘れても、脳に少し刺激を与えてやれば、それを糸口にして一気に思い出す。という事がある。原理はよくわからないが、それが、今、僕の頭の中で起こっているので事実なのだろう。
 何かのタイミングで、僕は中学生二年のころを思い出していた。