結局、一睡もできないまま朝を迎えた。眠ろうと努力したが、空が白み始めた頃に諦めた。冷静に考えて、眠れるわけがない。脳は完全に興奮しており、不眠だというのに疲れはなかった。
いつものようにやる気も何もなくソファに蹲っていた、その時だった。
「越生さん! 昨日、何かあったんですか!?」
脳内に、天の声が響き渡った。耳じゃなく、脳が直接じーんと痛んだ。
くらくらする頭を抑えながら、僕は天井を睨み付ける。
「それはこっちの台詞だよ。いったいなんなんだ。昨日のあれは」
天の声が教えてくれた「いいこと」というのは、僕が安達来夏と再会するという事なのだろう。
「その口振りからすると、やはり貴方は昨夜、来夏さんを傷つけたんですね?」
そう言われ、昨夜の出来事がフラッシュバックした。なんで天の声がそのことを知っているのか、疑問を持つことすら忘れてしまった。
「傷付けたって、なんだよそれ」
あの時、来夏は泣いていた。彼女のすすり泣く声が、今も耳にこびり付いて離れてくれない。
「やっぱり、傷付けたんですね?」
「そうだよ。確かに、僕はあの女を泣かせたさ」
言っていて、自分が想像した以上に動揺している事に気付いた。冷静になれ。あれは来夏じゃないんだ。
「どうして来夏さんを傷付けるような事をしたんです?」
「死んだ人間が生き返るなんてあり得ないだろ。あいつは絶対に偽物だ」
「つまり貴方は、あの来夏さんを偽物だと思っているんですか?」
「そうだよ。それ以外に何があるっていうんだよ」
「偽物な訳ないじゃないですか……彼女は、今まで――」
そこまで言って、天の声は慌てたように言葉を止めた。天の声は今、何と言おうとしたのだろう。
「彼女は、今まで?」
「い、いや……何でもないですよ」
この瞬間に、確信した。天の声は確実に事情を知っている。
それと同時に、新たな疑問が生まれた。彼女はこの世界に実在する人物なのだろうか。僕の頭が生み出した謎の存在、というわけではないのだろう。だとしたら、どうやってこの超常現象を起こしているというのだろうか。
少し、探りを入れてみようか。こいつが僕の味方なのかどうか確かめる必要がある。
「なあ、君はなんでそこまで焦ってるんだよ。僕が来夏を傷付けたら、何か都合が悪いのか?」
「悪いも何も、来夏さんの気持ちを考えたら……」
「気持ちを考える必要なんかないだろ。あの女は来夏な訳がない。紛い物だ」
「だから、言ってるじゃないですか。あの来夏さんは本物なんです。信じてくださいよ」
天の声は、珍しく怒気を孕んだ声を出していた。
「じゃあ、あいつはなぜ生き返ったんだよ」
来夏は僕の前で確実に死んだ。あの時の事を、僕は今でもはっきりと覚えている。この質問に対し、天の声は何と答えるのだろう。
「それは……言えません……」
言えない……か。思い返せば、昨夜の来夏も同じような事を言っていた。やはり、天の声と来夏には何かしらの繋がりがあるのだろう。
「じゃあ、君はいったい何者なんだ。あの来夏が本物だと、なぜ言い切れる?」
「それも……言えません」
「どうしてだよ」
「越生さん。これは、貴方のためなんですよ。知らない方が良いことだって、世の中にはあるんです。私の口からは、これ以上は言えません」
そう言い残して、天の声は消えてしまった。いくら待っても、いくら声をかけても、天の声は現れてくれなかった。
後に残ったのは、濃霧に包まれたような不快感だけだった。何が答えなのか分からない。手を伸ばしても、何も掴めない。まるで、実態のない何かをがむしゃらに探しているかのようだった。
深いため息をついてから、ソファに沈み込む。目を瞑ると、浮かんでくるのは来夏の事だけだ。
★☆★☆★☆
「よーし! 今日は沢山歌うぞー!」
マイクを握り締めて、来夏は楽しそうに笑っていた。
これは確か、高校に入学してから一ヶ月が経った頃の出来事だ。初めてバイト代が入り、浮かれながらカラオケにやって来ていた。
「私、カラオケなんて初めてだよ。ワクワクしちゃうな!」
言いながら、彼女は曲を入れる。
「何を歌うの?」
「えーっとね。アイネクライネ!」
立ち上がってゆらゆらとリズムを取っている来夏には申し訳ないが、僕はその歌を知らない。
「いい歌だね」
ちょっと長めの間奏の間に、声をかけた。
「でしょー」
来夏は、にへーっとだらし無く頬を緩めている。歌い終わってから、彼女はこちらに視線を向けた。
「私、この歌を優太くんの前で歌いたかったんだよ」
「どうして?」
「私にとって、この歌は優太くんの歌だから」
そう言われ、胸が高鳴ったのを覚えている。
「私はね、優太くんと出会う為に生まれてきたんだ。それはきっと来世でも、前世でだって同じ。私は優太くんのことを、ずーっと探してた」
その時僕は、来夏と初めて出会った時の事を思い出していた。あの時、彼女は泣いていた。公園のブランコの上で、ゆらゆら揺れながら、すすり泣いていた。
「私、暴力を振るわれるのは凄い嫌だけど、一つだけ感謝してる事があるんだよね」
右腕をさすりながら、彼女は続ける。
「暴力を振るわれてなかったら、私は優太くんと仲良くなれてなかった。だから、どんなに辛い事をされても、それでよかったって思えるの」
だって、優太くんと出会えたからね。それで全部チャラだよと、来夏は笑顔で言っていた。
「そっか。そうなんだ。今ので僕、この歌大好きになっちゃったかもしれないな」
音楽というのは、とてつもない力を持っていると思う。この日、この時から、僕の中でこの曲は来夏の曲となった。町中でふとした瞬間にこの曲が流れると、僕は必ずこの時の事を思い出してしまう。匂いも、色も、仕草の一つ一つだって、何もかも、リアルに思い出せる。
その時、脳内にノイズが走った。
――やっとだ。やっと、会えたね。
同時に、右手に添えられた暖かな感触が蘇る。
思わず、僕は飛び起きてしまった。全身から、冷たい汗が吹き出している。気が付けば、両手を握り締めていた。
カラオケでの来夏の言葉と、昨夜の来夏の表情が、対になって僕の脳内を埋め尽くす。来夏の悲しみに暮れる声が、来夏の少し音痴な歌声が、怯えたように僕を見つめる瞳が、来夏のにへーっとした表情が、全部、蘇る。
急に胃の中のものがせり上がって来て、急いでトイレに向かった。喉が焼けるような感覚と共に、昨日食べたものが全て出てくる。全て吐ききって、おぼつかない足取りで洗面所へ向かった。口元をすすいでから、鏡を見た。
鏡の中の男の表情は恐ろしいくらいに歪んでいた。
その時、気付いてしまった。僕は昨夜の出来事に恐怖している。来夏に会うことが、何よりも怖かった。来夏に遭遇して、彼女の悲しむ姿を見るのが、何よりも嫌だった。
もし、僕が全てを盲目的に信じたとしたら。僕はもう一度、幸せになれるのかもしれない。偽来夏を来夏だと信じてしまえば、彼女を傷付ける事もなくなる。
そこまで考えて、僕はその思考を振り払った。
あいつが偽物なのは間違いない。奴は何らかの理由で来夏を騙っている悪人なのだと、自分に言い聞かせる。死んだ人間は、絶対に生き返らない。それは間違いないのだから。
いつものようにやる気も何もなくソファに蹲っていた、その時だった。
「越生さん! 昨日、何かあったんですか!?」
脳内に、天の声が響き渡った。耳じゃなく、脳が直接じーんと痛んだ。
くらくらする頭を抑えながら、僕は天井を睨み付ける。
「それはこっちの台詞だよ。いったいなんなんだ。昨日のあれは」
天の声が教えてくれた「いいこと」というのは、僕が安達来夏と再会するという事なのだろう。
「その口振りからすると、やはり貴方は昨夜、来夏さんを傷つけたんですね?」
そう言われ、昨夜の出来事がフラッシュバックした。なんで天の声がそのことを知っているのか、疑問を持つことすら忘れてしまった。
「傷付けたって、なんだよそれ」
あの時、来夏は泣いていた。彼女のすすり泣く声が、今も耳にこびり付いて離れてくれない。
「やっぱり、傷付けたんですね?」
「そうだよ。確かに、僕はあの女を泣かせたさ」
言っていて、自分が想像した以上に動揺している事に気付いた。冷静になれ。あれは来夏じゃないんだ。
「どうして来夏さんを傷付けるような事をしたんです?」
「死んだ人間が生き返るなんてあり得ないだろ。あいつは絶対に偽物だ」
「つまり貴方は、あの来夏さんを偽物だと思っているんですか?」
「そうだよ。それ以外に何があるっていうんだよ」
「偽物な訳ないじゃないですか……彼女は、今まで――」
そこまで言って、天の声は慌てたように言葉を止めた。天の声は今、何と言おうとしたのだろう。
「彼女は、今まで?」
「い、いや……何でもないですよ」
この瞬間に、確信した。天の声は確実に事情を知っている。
それと同時に、新たな疑問が生まれた。彼女はこの世界に実在する人物なのだろうか。僕の頭が生み出した謎の存在、というわけではないのだろう。だとしたら、どうやってこの超常現象を起こしているというのだろうか。
少し、探りを入れてみようか。こいつが僕の味方なのかどうか確かめる必要がある。
「なあ、君はなんでそこまで焦ってるんだよ。僕が来夏を傷付けたら、何か都合が悪いのか?」
「悪いも何も、来夏さんの気持ちを考えたら……」
「気持ちを考える必要なんかないだろ。あの女は来夏な訳がない。紛い物だ」
「だから、言ってるじゃないですか。あの来夏さんは本物なんです。信じてくださいよ」
天の声は、珍しく怒気を孕んだ声を出していた。
「じゃあ、あいつはなぜ生き返ったんだよ」
来夏は僕の前で確実に死んだ。あの時の事を、僕は今でもはっきりと覚えている。この質問に対し、天の声は何と答えるのだろう。
「それは……言えません……」
言えない……か。思い返せば、昨夜の来夏も同じような事を言っていた。やはり、天の声と来夏には何かしらの繋がりがあるのだろう。
「じゃあ、君はいったい何者なんだ。あの来夏が本物だと、なぜ言い切れる?」
「それも……言えません」
「どうしてだよ」
「越生さん。これは、貴方のためなんですよ。知らない方が良いことだって、世の中にはあるんです。私の口からは、これ以上は言えません」
そう言い残して、天の声は消えてしまった。いくら待っても、いくら声をかけても、天の声は現れてくれなかった。
後に残ったのは、濃霧に包まれたような不快感だけだった。何が答えなのか分からない。手を伸ばしても、何も掴めない。まるで、実態のない何かをがむしゃらに探しているかのようだった。
深いため息をついてから、ソファに沈み込む。目を瞑ると、浮かんでくるのは来夏の事だけだ。
★☆★☆★☆
「よーし! 今日は沢山歌うぞー!」
マイクを握り締めて、来夏は楽しそうに笑っていた。
これは確か、高校に入学してから一ヶ月が経った頃の出来事だ。初めてバイト代が入り、浮かれながらカラオケにやって来ていた。
「私、カラオケなんて初めてだよ。ワクワクしちゃうな!」
言いながら、彼女は曲を入れる。
「何を歌うの?」
「えーっとね。アイネクライネ!」
立ち上がってゆらゆらとリズムを取っている来夏には申し訳ないが、僕はその歌を知らない。
「いい歌だね」
ちょっと長めの間奏の間に、声をかけた。
「でしょー」
来夏は、にへーっとだらし無く頬を緩めている。歌い終わってから、彼女はこちらに視線を向けた。
「私、この歌を優太くんの前で歌いたかったんだよ」
「どうして?」
「私にとって、この歌は優太くんの歌だから」
そう言われ、胸が高鳴ったのを覚えている。
「私はね、優太くんと出会う為に生まれてきたんだ。それはきっと来世でも、前世でだって同じ。私は優太くんのことを、ずーっと探してた」
その時僕は、来夏と初めて出会った時の事を思い出していた。あの時、彼女は泣いていた。公園のブランコの上で、ゆらゆら揺れながら、すすり泣いていた。
「私、暴力を振るわれるのは凄い嫌だけど、一つだけ感謝してる事があるんだよね」
右腕をさすりながら、彼女は続ける。
「暴力を振るわれてなかったら、私は優太くんと仲良くなれてなかった。だから、どんなに辛い事をされても、それでよかったって思えるの」
だって、優太くんと出会えたからね。それで全部チャラだよと、来夏は笑顔で言っていた。
「そっか。そうなんだ。今ので僕、この歌大好きになっちゃったかもしれないな」
音楽というのは、とてつもない力を持っていると思う。この日、この時から、僕の中でこの曲は来夏の曲となった。町中でふとした瞬間にこの曲が流れると、僕は必ずこの時の事を思い出してしまう。匂いも、色も、仕草の一つ一つだって、何もかも、リアルに思い出せる。
その時、脳内にノイズが走った。
――やっとだ。やっと、会えたね。
同時に、右手に添えられた暖かな感触が蘇る。
思わず、僕は飛び起きてしまった。全身から、冷たい汗が吹き出している。気が付けば、両手を握り締めていた。
カラオケでの来夏の言葉と、昨夜の来夏の表情が、対になって僕の脳内を埋め尽くす。来夏の悲しみに暮れる声が、来夏の少し音痴な歌声が、怯えたように僕を見つめる瞳が、来夏のにへーっとした表情が、全部、蘇る。
急に胃の中のものがせり上がって来て、急いでトイレに向かった。喉が焼けるような感覚と共に、昨日食べたものが全て出てくる。全て吐ききって、おぼつかない足取りで洗面所へ向かった。口元をすすいでから、鏡を見た。
鏡の中の男の表情は恐ろしいくらいに歪んでいた。
その時、気付いてしまった。僕は昨夜の出来事に恐怖している。来夏に会うことが、何よりも怖かった。来夏に遭遇して、彼女の悲しむ姿を見るのが、何よりも嫌だった。
もし、僕が全てを盲目的に信じたとしたら。僕はもう一度、幸せになれるのかもしれない。偽来夏を来夏だと信じてしまえば、彼女を傷付ける事もなくなる。
そこまで考えて、僕はその思考を振り払った。
あいつが偽物なのは間違いない。奴は何らかの理由で来夏を騙っている悪人なのだと、自分に言い聞かせる。死んだ人間は、絶対に生き返らない。それは間違いないのだから。