自暴自棄になった蓮田は、それから度数の高い酒を立て続けに飲んだ。瞬く間に潰れてしまった彼を無理やりタクシーに押し込み、ドライバーに嫌そうな顔をされながら送り出した。飲み始めたのが遅かったからか、既に深夜の0時を回っている。

「水槽の脳、か」

 夜風が火照った体にしみる。確かに、世界がそうなっていたら幸せかもしれない。揃いも揃ってみんな不幸だというのは、ある意味では最高の幸せだと思うからだ。

 天の声が言っていた「いいこと」とは、この事だったのだろうか。蓮田と会って、水槽の脳についての話を聞く。そうであって欲しいと思う。隣に来夏がいない状態で、僕が幸せになるとは思えない。

 アパートへと向かう道の途中で、用水路を見つけた。こういう場所に来ると、いつも来夏を思い出す。僕は一生、来夏の幻に囚われ続けるのかもしれない。

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「ねえ! 優太くん見てよ! コイがいるよ!」

 あれは確か、中学校に入って初めての夏休みの事だと思う。その日、僕達はいつもより遠いところに行こうと話して、自転車で二時間近く走っていたはずだ。

 キィッと甲高いブレーキ音を立てて、来夏が止まった。彼女は、道の端に流れている用水路を指差している。

「どれどれ?」

 彼女に追いついて用水路を覗き込むと、そこには赤や白、オレンジ色の美しいコイ達が群れを作って泳いでいた。コイが体をくねらせ、水面が揺れる。照り返しで、来夏の顔が輝いた。

「ねえ、この子達って、飼われてるのかな」

 来夏は用水路の前にしゃがみ込んで、コイを眺めている。来夏の影が、水の上に浮かび上がった。

「分からない。でも見たところ用水路の中に柵も何もないから、飼われてないのかもしれないね」

 来夏の影に反応したのか、コイ達は集まってきて口をパクパクさせ始めた。コイ達は我れ先にとエサを求めて争いあっている。飛び跳ねた水しぶきが、来夏にかかった。

「うわっ、冷たい!」

 来夏は顔にかかった水を拭ってから、口を開く。

「飼われてない方が良いな。やっぱり、自由が一番だもんね」

 エサを与え慣れているから、もしかしたら飼われているのかもしれない。そう言おうかと思ったが、思い留まった。世の中、知らない方が良いこともある。

「このコイ達は、どこまでいくんだろうね」

 来夏は立ち上がって前を見る。用水路は、どこまでも続いていた。その隣にある僕達が走ってきた道も、どこまでも伸びている。

「何もかも忘れて、このコイ達みたいに、このままどこかに行きたいね」

 そう語る来夏の顔は、とても儚かった。本当に彼女を守っていきたいと、守らなくちゃいけないと、そう思った。

 でも結局、僕と来夏はどこにも行けなかった。用水路に飼われていたコイ達みたいに、どこにも行けなかった。

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 転落防止用の欄干に肘を置きながら、用水路を眺めていた。オンボロの街灯が、小さな光で水面を照らしている。そこを、小さな魚が泳いでいた。東京の用水路には、コイなんて泳いでいない。

 あの時、来夏は震えていた。彼女の震える手を掴んで「どこまでも行けるよ」と言えば良かった。彼女の手を引いて、どこまでも進んで行けば良かった。そうすれば、もしかしたら違う未来があったのかもしれない。

 その時、ふわりと、懐かしいシャンプーの香りがした。欄干に置いた僕の手に、柔らかくて暖かな手のひらが重なる。

「優太くん」

 声が、聞こえた気がした。懐かしい、決して忘れるはずのない声が。

 一瞬、幻聴かと思った。しかし、その声は幻聴などではない。脳に直接響くような音ではなく、しっとりと空気を震わせている。

 恐る恐る、右手を見る。そこには、誰かの手が重なっていた。

 心臓が壊れたみたいに、どくどくと脈打っている。一度深呼吸をしてから、意を決して顔を向けた。そこに立っている人物を見て、僕は息を呑んだ。

 肩辺りまで伸びた髪も、綺麗な二重まぶたも、細い体も、何もかもが、僕の死んだ幼馴染と同じだった。来夏が、そこにいた。

 彼女はあの頃と変わらない笑顔で僕を見ている。

「やっとだ。やっと、会えたね」

 動悸が激しくなる。呼吸が、荒れる。

 なんで? どうして? 

 来夏はもういない。来夏は死んだ。来夏がここにいるわけないんだ。

 こいつはいったい、誰なんだ?

 僕は咄嗟に手を振り払ってしまった。

「きゃっ」

 来夏は小さな叫び声をあげて手をすぼめる。

「あ、だい」

 喉元まで出かかった「大丈夫?」という言葉を、必死に飲み込んだ。こいつは来夏じゃない。絶対、来夏じゃない。だって、死んだ人間が生き返ることなんて、あり得ない。僕はこの目で、来夏の最後を見た。

 来夏は怯えたような、悲しそうな瞳で僕を見ている。

「やめろ」

 来夏の姿で、僕をそんな目で見るな。

「優太くん……」

「やめてくれ……」

 その声で、僕の名前を呼ぶな。

 これ以上ここにいたら、頭がおかしくなってしまいそうだった。

 来夏は僕に向かって手を伸ばした。その手を振り払って、走って逃げた。ひたすら、走り続けた。