小腹が空いた僕達は、川沿いの店に入って昼食を摂った。それから、温泉街に立ち並んでいた旅館の一つに入る。

「じゃ、お風呂から上がったらここに集合ね」

 来夏は旅館のロビーに置いてあるソファを指差して言った。

「了解。あんまり時間もないから、長湯しすぎちゃダメだよ」
「分かってますー」

 ベーっと舌を出してから、彼女はのれんをくぐった。僕も男湯へと向かう。

 体を流してから、露天風呂へと向かう。岩場に囲まれた露天風呂の後ろには、山が広がっていた。ここは標高が高いのか、前方には広大な海が広がっている。大自然に囲まれた露天風呂。数メートル先では、来夏も僕と同じ景色を見ているのだろうか。あの、蓮田が自殺した、海を。

 お湯に浸かると、とろんとした水が全身を包み込んだ。

「ああ……死にたくないな……」

 目の前に広がる海を眺めながら、ポツリと呟いてしまった。

 死にたくない。本当に、そう思う。今日の出来事を思い出せば思い出すほど、生きていたいと思う。僕は後、どれだけの間この世界にいられるのだろう。後どれだけの時間、来夏と共に過ごす事ができるのだろう。この時間が終わってしまうのが、本当に怖かった。心の底から、怖かった。

 気が付けば、僕は泣いていた。

 僕達が歩むはずの未来を想像する。それはきっと美しくて輝かしくて、とっても綺麗な世界なんだろう。

 そう思うだけで、涙は全く、止まってくれなかった。

☆★☆★☆★

 それから、涙が止まるまで僕は露天風呂にいた。その後、更衣室で念入りに目をチェックしてから、風呂場から出た。もう完璧に、泣いた形跡は残っていない。

 その時だった。ズキンッと、脳に鋭い痛みが走った。右側頭部が、締め上げられるように痛む。ここに来て、あの頭痛が始まってしまった。

 僕は痛む頭を抑えながら、ふらふらとロビーまで向かい、ソファに座り込んだ。

「ああ……」

 今回の頭痛は、今までの物とは比べ物にならないほど痛かった。例えるなら、脳みそをすり鉢でゴリゴリと捻り潰されているような、そんな痛み。

 この痛みが引くのは一体、いつになるのだろうか。

 既に来夏がこちら側の世界に来てから五時間半が経過している。余裕を持って帰る為に、後一時間程で帰りたい。

 その前に神社にも行きたいんだ。彼女が行きたいと言っていた、あの神社にも行かないといけない。可能なら、あいつの死んだ福寿岬にも。

 だから、こんなところで頭痛に襲われている暇なんてないんだ。

 そう、考えている時だった。

「今どこにいるんですか!?」

 脳内に、千代田の声が響き渡った。脳に響くから、あまり大きな声は出さないで欲しい。

「どこって、福寿温泉ですけど……」
「えぇ!?」
「どうしたんですか?」

 彼女は、かなり焦っていた。

「福寿温泉って、特急を使っても二時間はかかるじゃないですか……」

 その時、気が付いた。何故だか、旅館の外が騒がしくなっている。

「来夏さんは? 来夏さんは今どこにいるんですか?」
「来夏は今、風呂ですけど……」

 来夏が仮想世界に入って、まだ五時間半しか経っていない。リミットまで、まだかなり時間に余裕がある。なのになぜ、千代田はなぜ、こんなにも焦っているのだろうか。

 痛む頭を抑えながら、口を開く。

「来夏がこっちに来てから、まだ五時間半しか経っていませんよ。まだ、時間には余裕があります」
「ないんですよ! もう!」

 彼女のその絶叫のような声に、耳を疑った。

「時間が、ない?」

 そんなはずはない。だって来夏は僕に十時間は大丈夫だと言っていた。

「来夏さんのタイムリミットは、五時間なんですよ。もう既に三十分が過ぎています。心配だったから、見に来たんです。だけど、少し遅かった……」

「嘘だ。だって、来夏は僕に十時間だって……」
「彼女がついた嘘ですよ。ああ……」

 千代田が、何かに気が付いたとでも言いたげに声を出した。

「どうしたんですか?」
「分かりました。きっと、来夏さんはこの世界に留まろうとしているんです」
「留まる?」
「だから、来夏さんは永遠にこの世界に留まる為に、時間超過をして脳にダメージを与えようとしているんですよ」

 千代田の説明によると、こういうことらしい。

 この世界に入ると、脳に負担がかかる。その負担を、脳が壊れるまでかけ続ける。そうすれば、いつか寝たきりの状態になれるはずだ。そうなれば、僕とずっと一緒に暮らせるに違いない。来夏は、考えたのだ。

「そんなの……ダメだろ。千代田さん! そっちから無理やり外す事は出来ないんですか!?」
「出来ません! そんな事をしたら、脳にとんでもない負担がかかってしまう……」

 冷静に考えれば、そんな真似はできるはずがない。それが可能だったら今までの時間超過だってなかった筈だ。

「じゃあ、僕が連れ帰るしかないんですね」

 痛む脳に鞭を打って、僕は立ち上がった。

「来夏には、生きていて貰いたい。ずっと、僕の分まで、生きていて欲しい」

 恐らく、来夏はもうこの場所にはいないのだろう。千代田から僕に連絡が行く事を察知して、先に逃げているに違いない。そう考え、旅館の下駄箱に向かった。僕の隣の下駄箱に靴を入れていた筈の彼女の靴が、無くなっていた。

「千代田さん。やっぱり靴がないです」

 先程から気になっているのだが、外がやけに騒がしい。旅館の入り口の先では、多くの人が走っていた。

「何か彼女が行きそうな場所に、心当たりがありますか?」

 千代田にそう言われて、思い当たる場所が一つだけあった。

 ――死ぬなら神社が良いって思ってるからかな。

 だから来夏は、こんな事を口走ったのだろうか。僕の世界に入る為に、脳を破壊しようとしていたから、無意識のうちに、あんな事を言ってしまったのだろうか。

「神社……福寿温泉の上にある神社に……彼女はいるかもしれません」
「神社? 分かりました。今、場所を調べます」

 カタカタと、キーボードを叩く音がした。恐らく、詳しい場所を調べてくれているのだろう。

 そんなのを待っている暇はない。とにかく、今は一歩でも多く、一分一秒でも早く神社に近づくことが全てだ。山の方へ走れば、神社に近づくだろう。

 僕は靴を履いて、旅館から出た。そうして、気が付いた。

 僕の世界に起こり始めている異変に、人々が、戸惑い逃げ惑っている理由に、僕の世界が、終わり始めていた。